紀元前241年、アルファベットを開発したフェニキア人国家カルタゴと共和政ローマが戦った第一次ポエニ戦争が終わった。
結果は雷光の如くハミルカルの善戦もむなしくカルタゴ側の敗北に終わった。
戦うことさえ許されなかったハミルカルは息子を神殿に連れていきローマ打倒を神々に誓わせた。
それから20年の時が過ぎた。
20年間、ハミルカルと息子は打倒ローマの為の準備を粛々と行っていた。彼は未開の地であったスペインに農場を建設し、鉱山を開発した。全ては来る日のためだった。
ハミルカル・バルカは死んだ。跡を継いだ娘婿のハシュゥドゥルバルも死んだ。
だが、準備は整っていた。
ハミルカルもその義理の息子も、ただ1人の男がローマを滅ぼしてくれると信じ、ただひたすらに待っていた。
男の名前はハンニバル・バルカ。
これは後に世界史上最高の戦略家と言われる男の物語である。
常識破りのアルプス越え
天才とは誰も気が付かなかったことを平然とやってのける人間のことである。
紀元前218年、ハンニバルはアルプスに向かって進軍した。
当初は誰もその狙いが分からなかった。
時は紀元前3世紀、まさか軍隊がアルプスを越えるとは誰も思わなかったのである。
いや、現代だって誰も思わない。
想像してみよう、甲冑を着た騎士や馬に乗った男たちが富士山に登山する様を。
滑稽としか言えないはずだ。
第二次世界大戦において、日本軍はビルマの山を越えてインドに侵入しようとした。
史上最低の作戦と言われるインパール作戦である。
結果はご存知の通りインドに行く前に壊滅した。
しかしハンニバルはアルプスを越えた。
40000人はいたと言われる兵は26000人まで減ったと言われている。
どのようにハンニバルがアルプスを越えてきたかは現代でもわかっていない。
ただわかっているのは彼は強靭な意思と明確な作戦の元にそれを行い、成功させたということだ。
ティキヌスの戦い
後世の人々から理想形とまで言われる共和政ローマはそこいらの国家とはわけが違う。
ハンニバルがアルプスを越えるのをただ黙ってみていた訳ではなかった。
ローマはアルプスを越えてきたハンニバルの元へコンスル(ローマ執政官)であるフブリウス・コルネリウスを派遣した。
両軍はティキヌス川付近で戦い、ローマは敗北した。
それも圧倒的な敗北だった。
司令官であるコルネリウスは負傷し、16歳になる息子に抱えられ命からがら戦場から逃れたが、ほとんどの兵はカルタゴ軍の槍の餌食になった。
カルタゴ側は兵が減るどころか、ローマ側についていたガリア人を吸収しむしろ兵力が増大する始末。
ローマ側もすぐに兵力を整えハンニバルの侵攻に備えることにした。
戦いは、まだ始まったばかりだった。
トレビアの戦い
ティキヌス川での敗北から1月後、再びカルタゴとローマはトレビア川付近での戦いを開始した。
執政官コルネリウスは負傷していたためもう1人の執政官センプロニウス・ロングスが指揮を執り、汚名を返上すべく戦場を駆けて行った。
兵力はともに40000ほど。数の上では互角であった。
だが、ローマは負けた。完全に負けた。
ローマ側の損害は20000を超え、一方のカルタゴ側はほとんどなく、その少ない被害も傭兵であったという。
ローマは自分たちがなぜ敗北したのかもわからなかったに違いない。
実際にローマ側がこの敗戦を分析し、それを活かすまでには10年以上の時が必要となる。
ハンニバル率いるカルタゴはその兵力をさらに増やし、ローマに向かうかと思われたがそれはしなかった。
ハンニバルはアペニン山脈を越えて南下した。
そしてローマはそのハンニバルを追撃した。
トラシメヌス河畔の戦い
ローマは新たにグエナウス・セリヴィウスとガイウス・フラミニウスの2人をコンスルに任命しハンニバルへの攻撃を開始した。
両軍はトラシメヌス河畔で激突し、そしてローマは3度敗北した。
ハンニバルはただ勇猛なだけでなく、情報を重視するタイプの将軍だった。彼はローマ軍が追ってくるのを予期してトラシメヌス湖の近くに陣を張った。
この辺りを行軍すれば隊列が伸びてしまうのを知っていたからだ。
会戦の日には濃霧が出ていたという。そのためローマ軍は襲撃されたことにも気づかなかったという。
ハンニバルの待ち伏せを受けてローマ軍は壊滅、執政官のガイウス・フラミニウスは死に、ローマ側で生き残れたものはわずかでカルタゴ側の損傷はやはりほとんどなったという。
ノロマと言われた将軍
ローマは非常事態となった。
約30年ぶりにディクタトル(独裁官)を任命することになった。
ディクタトルに任命されたのは名門ファビウス家のファビウス・マクシムス。
彼のとった戦法はハンニバルと戦わないことであった。
彼はローマ人からバカにされた。ノロマと言われグズと言われ、結局人気を終えることなくローマに呼び戻されることになった。
この時、マクシムスだけが事態を冷静に見ていたと、ローマの人々が分かるのはもう少し先の話である。
ローマ人が求めていたのはハンニバルに対する完全勝利だったのだ。
ローマ史上最大の敗戦カンネの戦い
カルタゴ側の兵力は50000、大してローマは70000もの大軍を用意した。
数の上ではローマが圧倒的に有利だった。
だが、ローマは負けた。これ以下はないというほどの惨敗だった。
ローマの兵士70000人のうちローマに戻れたのは10000人ほどであったという。あとは戦死したか捕虜になり奴隷として売られた。
ハンニバルは徹底的にローマの戦法を研究し、その弱点を突いた。
ローマ式レギオンの敗北であった。
カンネの戦いに関して詳しくは以下の記事を読んで欲しい。
ハンニバルがなぜ世界史上最高の戦略家と言われるかがわかる。
ローマは、多大なる犠牲を出し、ようやく悟った。
ハンニバルには勝てないのだと。
そして考えた。
ハンニバルに負けたからと言って、ローマがカルタゴに負けたのだろうか?
否。
ローマは負けない。
ローマにはローマの戦いがある。
ローマ人はハンニバルという天才を前にしてもあきらめなかった。誰一人、勝利を信じない者はいなかった。
そしてハンニバルは知らない。
自身がこの戦いにおいて1人の天才をとり逃していたことを。
そしてローマという国をより一層強くしてしまったことを。
イタリアの剣・イタリアの盾
ハンニバルはカンネの戦いに勝ってもローマを攻めなかった。
ハンニバルは冷静な将軍だ。
仮にローマを攻めても同盟国を切り崩さない限り包囲されるのは自分だと知っていたのだ。
カンネの戦いの勝利によってハンニバルに寝返る同盟国はほとんどなかった。
ハンニバルはしかたがないのでそれらの同盟国やローマの拠点を攻めることにした。
しかしこれがうまくいかなかった。
1つはイタリアの剣と呼ばれるマルケルスがゲリラ戦を挑んできたからだ。
マルケルスの攻めは執拗だった。
大規模な会戦は絶対にせず攻撃をしては撤退をし、引いては攻撃をしを繰り返し、ついにノラの戦いで小規模ながら勝利を手にすることができた。
マルケルスはやがてハンニバルによってこの世の人ではなくなるが、その雄姿はローマ人を勇気づけた。
もう1人はローマの盾と言われたファビウス・マクシムスだ。
もはや彼をマヌケと蔑む者はいなかった。
今日では持久戦をファビアン戦法と呼ぶが、それはこのファビウスの名前から来ている。
マクシムスは知っていた。ハンニバルがアルプスを越えてからほとんど補給を受けていないことを。
スペインは先にも出てきたフブリウス・コルネリウスとその弟がバルカ一族を足止めしてたし、地中海の制海権を持つローマ海軍がカルタゴの補給線を追い返していた。
ハンニバルは攻めるに攻められず戦線は膠着状態となった。
コルネリウス兄弟の死と新たな希望
紀元前210年、スペインでプブリウス・コルネリウスとその弟が戦死した。
スペイン戦線異状アリである。
ローマの元老院は代わりに誰を派遣するかで頭を悩ますことになった。有力な人材はハンニバル戦線に投入したい上に人材を悉く失っていたのだ。
そんな元老院の議場に1人の若者が名乗りを上げた。
若者の名はプブリウス・コルネリウス・スキピオ。
戦死したプブリウス・コルネリウスの息子である。
元老院は当初反対した。スキピオはまだこの時25歳だったからである。
ローマではコンスルの地位は40歳以上と決まっていた。
が、最終的にはこのスキピオをスペインに送ることになる。国が亡くなっては伝統も何もなくなる。ローマが強いのはこのような判断ができる点にあるだろう。何が一体優先されるべきなのかをよく知っている。
スキピオはスペインに向かうとすぐにスペインの原住民の信頼を得、当時スペインの首都であったカルタゴ・ノヴァを強襲、制圧してしまう。
続き紀元前208年にはバエクラの戦いでハンニバルの弟ハシュドゥルバルを撃破、紀元前207年にメタウルスの戦いにも勝利し、スペインのバルカ一門を駆逐することに成功する。
ただし、ハンニバルのもう1人の弟であるマゴ・バルカはスペインを出立しイタリアへと向かうことになる。
これはスキピオの唯一の失策と言え、ファビウス・マキシムスなどはこのことに怒りを露わにしたという。
マゴ・バルカはアルプスを越え、ハンニバルと合流する予定であったが、ハンニバルの正確な居場所を特定することができず、逆にローマに待ち伏せをされて壊滅してしまう。
スキピオの知るハンニバルの強さ
紀元前206年イリパの戦いでカルタゴの残存勢力を壊滅させるとスキピオはローマへと戻っていった。
スキピオの次なる作戦はカルタゴへの強襲だったが、これにはマクシムスと大カトーが反対をしたため実現はできなかった。
とはいえ元老院はスキピオをシチリアに派遣している。やるなら勝手にやってくれという暗黙の了解だった。
スキピオはシチリアで軍を組織し、ヌミディアの王子マシニッサとの間に同盟を結ぶ。
このことは非常に大きな意味を持った。
スキピオは知っていた。ハンニバルがなぜこんなにも強く、ローマ軍はいつもハンニバルに勝てないのかを。
理由は騎兵である。
イタリアで行われた戦いにおいてはいつも、ローマとカルタゴの兵力は同じか、ローマの方が多かった。が、騎兵だけに限れば常にカルタゴ側が多かった。
特にカンネの戦いでは騎兵による包囲戦にローマが対抗できずに敗北した。
スキピオはそれを身をもって知っていた。だからヌミディアを味方につけた。当時地中海最強と言われたヌミディア騎兵を味方につける作戦だったのだ。
しかしヌミディアは当時2つに分かれていた。1人はシュファク、もう1人はマシニッサ。ローマはスキピオを通じてマシニッサを味方につけたが、シュファクはカルタゴと手を結んだ。
両者はアフリカのウティカで激突したが、所詮はスキピオの敵ではなかった。勢いそのままでバグラデス川の戦い、キルタの戦いにも勝利しシュファクを捕えることに成功。同時にマシニッサをヌミディアの王とすることに成功した。
恐怖に駆られたカルタゴはハンニバルを呼び戻すことにした。
史上最高の天才同士の戦いの火ぶたが切って落とされるのだった。
ザマの戦い~最強同士の戦い~
世界史全体で考えて、ハンニバルもスキピオもトップ10には確実に入る軍略家だと言えるだろう。
評価はハンニバルの方が高いが、それはさておき天才同士が同時代に実際に戦いをするのは稀である。
孔明と司馬懿とかリチャード1世とサラディンとかないではないが、史上最強クラスの2人が会戦したのはこのザマの戦いぐらいだろう。
ザマの戦いの詳細については以下の記事を見てもらいたい。
純粋な兵力ではカルタゴ側が上回っていた。常に敵国で補給無しで戦っていたハンニバルが有利な条件で戦うのだから勝利は間違いない。カルタゴはそう思っていたようだが、ハンニバルは自らの不利をしっかり悟っていた。
ハンニバルはスキピオに講和を申し出ている。
結果はNO。戦場で決着をつけましょうというスキピオと黙って去るハンニバル。
結果はスキピオの勝ちだった。圧勝だった。
兵力は多くても騎兵の数ではローマが圧倒的だったのだ。
ハンニバルの作戦は悉く見透かされていた。
かつてハンニバルがローマの戦術を研究したように、スキピオもまたハンニバルの戦術を研究していたのだ。
歴史を決める一戦はあっけなく終わった。
カルタゴ側はローマの以下のような要求を呑むしかなかった。
- ローマはカルタゴの独立を承認し、同盟を締結する。ただし従属ではなく対等の関係とし、ローマは自治権を奪わず、駐留軍も残さない。
- カルタゴはシチリア、サルディーニャ、ヒスパニア等の海外領土を放棄する。ただし、開戦以前のアフリカのカルタゴ領は保持を認める。
- カルタゴは支配下のヌミディア領を全てマシニッサに引き渡し、ヌミディアの独立を承認する。
- カルタゴは10,000タレントの賠償金を50年賦でローマに支払う。
- カルタゴが捕虜としているローマ人を全てローマに引き渡す。
- 以後、カルタゴはローマの許可なくいっさいの戦争を行わない。
- カルタゴは10隻をのぞいて全ての軍船、および戦象をローマに引き渡す。また、以後は軍船の建造、戦象の育成を行わない。
- カルタゴは14歳以上30歳以下の子弟100名を人質としてローマに差し出す。人選はスキピオが行う。
- 以上の仮条約が元老院に承認されるまで、カルタゴ領にとどまるローマ軍の経費はカルタゴが負担する。
カルタゴは負けた。そしてローマは勝ったのだ。
勝者となったスキピオはローマで凱旋式をするようになるが、やがてローマに居場所がなくなっていくことをこの時の彼はまだ知らなかった。
第二次ポエニ戦争について思うこと
「いかなる強国と言えども、長期にわたって安泰でありつづけることはできない。国外には敵を持たなくなっても、国内に敵を持つようになる。
外からの敵は寄せ付けない頑健そのものの肉体でも、身体の内部の疾患に肉体の成長についていけなかったがゆえの内臓疾患に、苦しまされることがあるのと似ている。」
これは敗戦の将となったハンニバルの言葉である。
ポエニ戦争後のローマは無敵となった。
マケドニアやセレウコス朝シリアと言った東方の帝国相手に連戦連勝をするようになる。
これは偏にローマがハンニバルの戦術を吸収したからである。
ギリシャのファランクス戦法はローマには通じなくなっていた。
だが、ポエニ戦争後のローマは狂って行った。
スキピオは追放され、カルタゴやコリントを地図から消し去り、スキピオの血を引くグラックス兄弟の改革は潰され、ローマは内乱の1世紀と呼ばれる時代に突入していく。
敵がいなくなったローマは、自ら相争うようになるのだった。
敗戦の将として、ハンニバルはそのことを予見していたのだろうか?
人間は、誰かと敵対していないと生きられない生き物なのかも知れない。