世界の偉大なサッカー選手歴代ランキングトップ100~サッカーを知らない、興味のない人にこそ見てほしい~

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やぁ、よく来てくれた。

まずはこの記事に来てくれたことを感謝したいと思う。

このブログが始まって約5か月、この記事で300記事目の節目を迎えることが出来たので、毎月恒例となった「ベスト100シリーズ」と一緒にやりたいなぁと思いこの記事を書いた。

過去2つの記事は自分の予想をはるかに超えて拡散されたし、「ベスト100シリーズ」はこのブログの看板のようなものだから、下手なものは書けないし、一体今回は何をテーマにしようかなぁと考えたところ、小学校の時にやっていたサッカーがいいなと思った。すぐに喘息でできなくなってしまってけれど。

ちょうどJリーグが始まった頃にサッカー部に入って、ドーハの悲劇もリアルタイムで見ていたし、毎回ワールドカップも見ている。そんな感じで始めた企画だったけど、やってみたら予想よりもずっと大変だった。

少な目にしようと思っていた文字数は38000字を越えてしまったし、シェアした動画も100を越えた。

でもやってみたら今迄で一番楽しい企画だったかもしれない。結局作るのに40時間以上はかかって、アドセンスも貼れないので相変わらず1円にもならないのだけれど。。

まぁ、もはやその分読んだ人が楽しんでもらえれば本望だみたいになってしまっている。だからという訳じゃないが、今回も読んでみて気に入ったら何らかの形でシェアしてくれると嬉しい。

このブログをお読みの方の大半はサッカーなんて知らない、興味ない人だと思うので、今回は別記事でサッカーの超基礎用語解説とこの記事のランキングの決め方や表記、ルールみたいなのを別記事にまとめたので、気になる方はまずそちらから読んで欲しい。

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あと、前回の記事で「なんで目次がないんだよ!!」というコメントが圧倒的支持を集めていたので、今回は目次にワープできるようにしたいと思う。

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手っ取り早くランキングを知りたいという人はこちら。

この記事を通してサッカーを知らない人にサッカーの魅力が伝われば幸いだし、サッカー好きの人が楽しんでくれればそれもまた幸いです。

という訳でグダグダと言わずにさっさとランキングに行ってみよう。

*もしよかったら過去記事も読んでみてね。長いけど。。

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第100位:三浦知良 日本 FW

 「カズ」をここに入れることをどうか許してほしい。

この記事はいわばサッカーのレジェンドのみがノミノートされていて、日本人だけに限ってもカズよりうまい選手は沢山いるだろう。そして世界のレベルを見れば、この100人に日本人が一人も入らないのはしかたがないことだ。

それは重々承知の上で、100位は日本人にすると決めていた。やはり日本人が作るランキングだからな。

「中田英寿」「本田圭佑」

世界で活躍した日本人はカズ以外にもいた。

でも、やっぱりカズをここに入れたかった。

カズは小学生だった俺のヒーローだったんだ。

俺が小学校低学年の時、Jリーグが発足した。そのころ日本にとってはワールドカップに「出ること」が夢だった。残念ながら「ドーハの悲劇」によってその当時の日本はワールドカップに出られなかったけれど、そこから考えると今は強くなった。1998年にゴン中山がワールドカップ初得点を上げた時には国が沸き立ち、2002年に初勝利をあげた時には国中がわいた。

カズがいたからこそ、日本はワールドカップの舞台で勝つことが出来るようになったと言ってもよいだろう。2018年の大会などは、あの完成度の高いベルギー相手に3-2といい勝負をすることが出来た。サムライジャパンは確実に強くなっている。

全てはカズから始まった。そう思っている。

カズは偉大なサッカー選手だ。それは技術的な面ではなく、存在そのものが偉大なのだ。

50を越え、未だに現役を続けるカズにエールを送りたいと思う。

日本はまだまだ強くなる。

第99位:アレサンドロ・デル・ピエロ イタリア FW

「ファンタジスタ」という響きが最も似合う選手がデル・ピエロであろう。

サッカーにおいて最も重要なことは、当たり前だが 相手よりも一点でも多くとることだ。その点の取り方が美しければなお良い。

777試合に出場し316得点を獲得したデル・ピエロは、ただ点を取るだけではなく観衆を魅了するような得点を量産した選手だった。

2002年のワールドカップの際、イタリア代表は仙台をキャンプ地とした縁もあり、3.11大震災の際にはチャリティマッチや自身の作成したTシャツの売上を復興資金として寄付してくれるなど親日家で、「ルパン3世」や「キャプテン翼」の大ファンでもあるという。

第98位:エデン・アザール ベルギー FW

 2018年のベルギーは強かった。

準決勝では惜しくもフランスに敗れてしまったが、3位決定戦ではイングランドに対し完封勝利。準々決勝では優勝候補ブラジルを破り、日本もベルギーに敗れてしまった。

結果は3-2。

ドーハの悲劇からずっと日本代表を見ている身としては、日本は本当に強くなったと思う。あのベルギー相手に勝ってもおかしくないぐらいの戦いができたのだから。

それにしても、アザールの動きは素晴らしかった。あれこそが世界最高レベルの動きなのだなぁと思う。

アザールはチェルシーの10番としてリーグ優勝に貢献し、2015年にはプレミアリーグ年間最優秀選手賞、PFA年間最優秀選手賞、FWA年間最優秀選手賞の3冠を達成していて、ベルギー史上最高の順位となるワールドカップ3位という成績にも貢献している。

 2019年現在ではまだ28歳なので、より一層の活躍も期待できるだろう。

アザールについて、かのジネディーヌ・ジダンはこう述べている。

「彼がフィールドで披露する全てのことが好きだ。彼の振る舞い、試合を決める力、そして毎年のように成長していく様を見ているのが本当に好き」

第97位:ロベルト・カルロス ブラジル DF

 ブラジル人らしい超攻撃的なサイドバック。

1996年から2007年までレアルマドリードに在籍し、ジダンやベッカム、フィーゴらとともに「銀河系軍団」と呼ばれた選手の1人。

とにかく脚力が強く、サイドを高速で駆け上がり、弾丸のようなキックを打つ。

 168cmと身長は低かったが、フィジカルは強く、ディフェンダーでありながら100を越えるゴールを記録している。

第96位:マイケル・オーウェン イングランド FW

 1998年に19歳でイングランド代表デビューすると史上最年少ゴールを達成し「ワンダーボーイ」と呼ばれるようになる。

1996年から2004年までリヴァプールに所属し、216試合出場118得点の好成績をマークし、2度の得点王に輝く。2001年にはバロンドールを受賞していて、クラブチーム全体では470試合に出場し220得点を記録。

170cmと比較的小柄で、フィジカルが強いという訳ではなかったが、卓越したスピードと思い切りの良さで着実に得点を重ねて行った名選手である。

第95位:ピーター・シュマイケル デンマーク GK

デンマーク史上最多キャプテン試合出場記録保持者。

身長193cmの巨体を活かしたセービングが武器で、欧州最優秀GK賞3回、デンマーク年間最優秀選手賞3回、1991年からの8年間マンチェスターユナイテッドに在籍し、リーグ優勝5回、キャプテンであった1999年にはチャンピオンズリーグ優勝を果たしている。

元々はハンドボールの選手であったといい、1998年のワールドカップフランス大会ではキャプテンとしてデンマークをベスト8にまで導いた。

第94位:ドゥンガ ブラジル MF

 1990年から1998年まで合計3回のワールドカップに出場し、うち1回はキャプテンとしてブラジルを優勝に導いている…のだがブラジル国民からはあまり好かれていない。

理由としては超攻撃的サッカーを好むブラジル人にとって、勝ち方が非常に重要であるからであろう。優勝できなくてもジーコのような攻める姿勢は称賛される。

その辺りは横綱に品格や勝ち方を求める日本人と共通するかも知れない。

ドゥンガのプレーは堅実に守りを固めるようなやり方で、ブラジル国民からは「つまらない」と言われてしまった。

それは選手時代もそうだし、監督になってからもそうだった。

ブラジルではただ勝つだけじゃだめで、ガリンシャやロナウジーニョみたいに観客が見ていて楽しい勝ち方をしなければならないのだ。

ちなみにドゥンガというのはあだ名で、「しらゆき姫」に出てくる小人の名前なのだそうで、本名はカルロス・カエターノ・ブレドルン・ヴェーリ。晩年、ブラジルを出て行った彼は日本のJリーグのジュビロ磐田でプレイをし、1997年にはJリーグMVPにも輝いている。そのため日本人にも比較的なじみの深いブラジル人である。

第93位:クリスティアン・ヴィエリ イタリア FW

1973年に生まれ、ユヴェントスやインテル、ACミランなどセリエAを代表するチームでプレーしたイタリアを代表するストライカー。

生涯成績は364試合出場191得点。

ファンサービスが悪く恨みを買い、自身の経営する店舗をファンに爆破されたという飛んでもないエピソードを持つ。

第92位:クロード・マケレレ・シンダ フランス MF

 サッカーというのは11人でやるものである。

優秀なストライカーだけでも優秀なディフェンダーだけでも成り立たない。

実際に多くボールを持っているのはハーフである。特にボランチと言われるDHの役割は重要で、この部分が弱いと敵がボールを持つ時間が自然と長くなってしまい、常に攻められている感覚に襲われる。

良いチームには良いボランチがいる。

銀河系軍団とも言われたレアルマドリードにおいてマケレレのプレーは献身的で、チームメイトからは「マケレレこそ我らのバロンドールである」と最大限の賛辞を受けていた。実際にスター選手たちは噛み合い2003年にはチャンピオンズリーグ優勝を果たすのだが、経営陣はマケレレに十分な評価を与えなかった。

そのせいでマケレレはレアルマドリードを去り、チームの成績は低迷してしまう。それはサポーターたちの目にも明らかで、当時の会長だったペレスを始めとした経営陣には批判が殺到、逆にマケレレを獲得したチェルシーは大いに成績を伸ばし、2005年プレミアリーグで優勝してしまう。これはチェルシーにとって実に50年ぶりの快挙であったという。

フランス代表としては2006年の準優勝に大きく貢献し「フランス代表のユニフォームを着られたことが私にとってのトロフィーだ」という言葉を残しフランス国民を熱くさせた。

 直接点に絡むこともなく、スーパーセーブをするわけでもなかったが、マケレレのプレーは誰よりもチームに献身的で勝利を呼び寄せるものであった。

第91位:キリアン・エムパベ(ムバッペ) フランス FW

 19歳でワールドカップデビューをし、そのまま優勝してしまった天才サッカープレイヤー。

2019年現在はまだ20歳で、まだまだ順位を上げるだろうことは想像に難くない。

生まれはパリだが、父はカメルーン出身であるため、現地の言葉ではムバッペ、フランス語読みではエムパベと読むため表記が一致しない。

 10代でワールドカップの決勝点を決めたのはペレ以来のことで、あるいはペレを越える可能性を持った逸材でもある。

現時点でももう少し上の順位でも良さそうだが、これからの活躍に期待がかかるということでこの順位にした。5年後には随分順位の変わっていそうな選手である。

第90位:ヴェスレイ・スナイデル オランダ MF

 アヤックス、レアルマドリード、インテルミラノ、ガルタサライなど各国を代表するビッグチームにおいて歴戦し、数多の優勝を経験しており、特にインテルミラノに所属していた2010年にはリーグ優勝、チャンピオンズリーグ優勝など3冠を達成、オランダ代表においても得点王となる5得点をあげ、チームを準優勝へと導いた。

生涯成績は682試合出場170得点。

身長170cmとオランダ人にしては背の低い部類に入るが、卓越した戦術眼とテクニックでそれをある余るほどカヴァーしている選手でもあり、自身でも得点できる上にOMFとして視野を広く持ち、正確なパスなどでゴールをアシストすることに本領を発揮する選手でもあった。

なお、オランダ代表として最多試合出場記録保持者でもある。

第89位:ラダメル・ファルカオ コロンビア FW

 コロンビア代表のフットボール選手としては歴代最多得点記録保持者。

 ミドルネームのファルカオの名で呼ばれることを好み、この名前はブラジルの偉大な選手であるファルカンにちなんでつけられたという。

 レスポンスの速さとポジショニングに優れる選手で、両の足から自在に繰り出されるシュートはDFやGKを大いに困らせ、スペインリーグ在籍時はメッシ、クリロナに続く得点を記録しており、2019年現在「世界で最高の偉大な典型的センターフォワード」との評価を受けている。

第88位:ライアン・ギグス ウェールズ MF

 1985年のユース時代から2014年の引退まで一貫してマンチェスターユナイテッドでプレーした選手。

残念ながらワールドカップでの活躍はないが、マンチェスターユナイテッドにおいて13度のプレミアリーグ優勝を経験し、クラブ出場試合数は963試合と歴代最多、2005年にはサッカーの殿堂入りし、2007年には大英帝国勲章を授与されている。

卓越したドリブルスピードとテクニックで相手を翻弄し、時にエースストライカーをアシストし、時に自ら点を決めるなど非常に貢献度の高いプレーを数多く見せた。

 ちなみにウェールズというのはイギリスの西部に位置する地域のことで、13世紀にイギリスの一部となった。次期イングランド王が王子時代にプリンス・オブ・ウェールズとなるのが慣例で、サッカーの代表もイングランドとは別になっている。

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第87位:ダヴォル・シュケル クロアチア FW

 1998年フランスワールドカップにおける得点王。日本代表とも対戦し、3位入賞への原動力となった。

1998年当時はレアルマドリードに在籍し、チーム30年ぶりのチャンピオンズリーグ優勝への原動力ともなった。

 生涯成績は517試合出場251得点。

第86位:ネイマール ブラジル FW

2019年現在におけるブラジルの10番。

2018年のロシアワールドカップではやたらと転がっていたためイメージが悪くなってしまったが、ブラジル人好みの華麗なプレーでサポーターを魅了し、2011年には南米最優秀選手に選ばれている。

 2013年にバルセロナに移籍するとメッシやスアレスとともに3トップとしてゴールを量産。2014年から2015年のシーズンにおいては39得点をマークし、スペインリーグ、コパ・デルレイ、チャンピオンズリーグ優勝の3冠を達成。世界最高ランクのプレイヤーであることを示した。

第85位:トマス・ミュラー ドイツ FW/MF

 2014年ワールドカップブラジル大会でのドイツは強かった。

決勝でのアルゼンチン戦はもちろん、特に印象に残ったのが準決勝でのブラジル戦で、母国開催でかつ優勝候補だったブラジルを7-1で破った試合は後に「ミネイロンの悲劇」として世界サッカー史に刻まれることになる。

 2010年の南アフリカ大会では得点王になるとともにアシスト数にも優れ、大会のゴールデンブーツ賞を獲得。ドイツの3位獲得に大いに貢献した。

 2008年よりドイツトップチームであるバイエルン・ミュンヘンでプレイをし、まだまだ活躍が期待できる選手であろう。

第84位:カルロス・アウベルト ブラジル DF

1970年ワールドカップメキシコ大会にてキャプテンとして参加したカルロス・アウベルトは、後に伝説となるゴールを決める。 

決勝でイタリアからもぎとったそのゴールは、後にブラジル史上最も美しいゴールと言われ、ブラジルの優勝を決定づける1点となった。

DFでありながら積極的に攻撃に参加する姿勢は実にブラジル的であり、彼以降のブラジルのサイドバックが攻撃的であるのもカルロス・アウベルトの影響であると言われている。

第83位:イバン・サモラーノ チリ FW

 「ヘリコプター」の異名を持つチリ人のエースストライカー。

1994年、伝統の一戦と言われるレアル・マドリードとFCバルセロナにおいて、イバンはハットトリックを決め、レアルマドリードに勝利をもたらした。1994年から1995年シーズンにおいてスペインリーグの得点王、シドニーオリンピックでも得点王となり、引退後はユニセフの親善大使になるなど人格者としても知られる。

第82位:ロメル・ルカク ベルギー FW

190cm、93kgという巨体を活かしたヘディングやフィジカルの強さ及びそのスピードを活かした強行突破でとにかく点数を決めてしまうベルギーのストライカー。しかもドリブルの精度も高くてシュートテクニックもある。こんなんどうやって止めろっていうんだろうか?

日本はこのルカクに散々にやられてしまったな…

2019年現在まだ25歳なのでこれから益々の活躍が期待でき、数年後にはランクを上げていることだろう。 

第81位:マティアス・ザマー ドイツ MF/DF

東ドイツ出身の選手。

名門チームであるシュトゥッドガルドやインテルミラノなどを経て、ドルトムントに移籍。守備の要としてチームに貢献し、1996年にリーグ優勝、1997年にはチャンピオンズリーグ優勝を経験している。

1996年には怪物ロナウドを抑えてバロンドールを受賞しており、後に東ドイツ出身としては初めてドイツ代表の試合に出場、DFでありながら積極的に攻撃に参加し、大事なところでゴールを決めるなど大活躍。欧州最優秀選手に選ばれるなどの活躍も見せる。

第80位:ファルカン ブラジル MF

1982年のワールドカップスペイン大会において、「黄金のカルテット」と呼ばれる4人のブラジル代表がいた。

 ファルカンもその一人で、当初は攻撃的MFだったが、ディフェンシブMFとなるボランチになるや才能が開花。ブラジルサッカー史上最高のボランチとの呼び声も高い。

ASローマ時代にはその戦略眼の鋭さ、ゲームメイクの巧さなどから「第8代ローマ王」という綽名で呼ばれたほどである。

*実際の歴史においてはローマには7人の王しかいない。

↓実はこのブログは歴史ブログなので歴史記事も読んでもらえると嬉しい。。

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 ちなみにこのファルカン、1994年には日本代表の監督も務めている。

第79位:レヴァンドフスキ ポーランド FW

ポーランド代表のフットボーラーとしては歴代最多得点記録の保持者である。

ブンデスリーガにおいて4度の優勝を経験、うち2度は得点王に輝いており、2019年現在において620試合に出場し384点もの得点をあげている。 

未だに現役続行中であり、まだまだ記録を伸ばし、このランキングのさらに上位に上がることと思われる。。

ポーランド史上最高のストライカーであり、ポーランド歴代最高の選手だと言って良いだろう。

第78位:ライカールト オランダ MF/DF

 現在では指導者として有名だが、現役時は「トータルフットボール」の体現者のようなプレーで観衆を魅了した。

身長は190cmあり、非常に判断力に優れたフットボール選手で、ACミラン時代にはルート・フリットやマルコ・ファンバステンと共に「オランダトリオ」として活躍。チームとしては20年ぶり2度目のチャンピオンズカップ優勝に成功。翌年にもミランはチャンピオンズカップ優勝を果たす。

ライカールトのプレーは攻守の要となっており、彼の持つ的確な判断はチームを勝利へと導いた。惜しくもバロンドールには選ばれなかったものの、1988年、1989年のバロンドール投票においてはともに3位と高い評価を得ている。

第77位:パオロ・ロッシ イタリア FW

 1982年ワールドカップスペイン大会において6得点をあげて得点王となり、イタリアを優勝へと導いたイタリアを代表するフットボール選手。

174cm66kgと決して恵まれた体格とは言えなかったが、持ち前のポジショニングとテクニックでゴールを量産した。

生涯成績は388試合出場154得点。

第76位:アンドレイ・イニエスタ スペイン MF

「手品師」の異名をとるスペインのフットボールプレイヤー。

2019年現在では日本のヴィッセル神戸でプレイをしている。

ドリブル、パス、シュート、どれをとっても一流のプレイヤーで、見るものを確実に魅了する。「蒼い騎士」「ドン・アンドレイ」など異名も多く、2002年から2018年までトップクラスのチームであるバルセロナで活躍し、9度のスペインリーグ優勝、4度のチャンピオンリーグ優勝を経験している。

 2010年のワールドカップ南アフリカ大会ではスペイン初の優勝を達成し、大会最優秀選手にノミネートされており、21世紀を代表するフットボールプレイヤーの1人と言えるだろう。

第75位:リオ・ファーディナンド イングランド DF

 188cmの巨体を活かしたディフェンディングには定評があり、2010年にはイングランド代表のキャプテンも務めた名ディフェンダー。

元々はマンチェスターユナイテッド嫌いを公言していたが、2002年から2014年までマンUでプレイし、2008年にはチャンピオンズリーグ優勝を果たしている。

日本に訪れた際には、大教大付属池田小学校の事件に心を痛め事件現場に献花をしたことも知られている。

第74位:ルイス・アルベルト・スアレス ウルグアイ FW

歴代ウルグアイ代表の中でも最高得点記録保持者であり、オランダ、イギリス、スペイン3つのリーグで得点王に輝いた冗談みたいなストライカーである。

2019年現在クラブにおける個人成績は510試合出場341得点、ウルグアイ代表としては106試合55点と驚異の得点率を誇る。

 2014年から始まったバルセロナでのキャリアにおいては、メッシやネイマールと共に3トップとしてただひたすらに点を取りまくった。

 これだけの点取り屋でありながら味方へのアシスト数も多く、まさに万能のFWと言えるだろう。

第73位:ダビド・ビジャ・サンチェス スペイン FW

 「ビジャ」の名前で親しまれるFWで、スペイン代表のサッカー選手としては史上最多得点記録保持者である。この記事を書いている現在、日本のヴィッセル神戸に在籍している。

バレンシアやバルセロナと言ったスペインリーグの名門チームでプレイし、チャンピオンズリーグ優勝を経験。2010年ワールドカップ南アフリカ大会では5得点を記録し得点王に、スペインのワールドカップ初優勝に大いに貢献した。

スペイン歴代最高のストライカーと言って良いであろう。

第72位:ソクラテス ブラジル MF

 1982年ワールドカップスペイン大会における黄金のカルテットの1人。

身長が193cmと高く、スピードもテクニックも兼ね備えた選手で、1983年には南米最優秀選手に選ばれている。

名前の由来は父親がギリシャの哲学者ソクラテスに昏倒していたからであり、教育レベルが非常に高く、サッカー選手でありながら医師免許も持っている。そのため医師を表す「ドトール」の愛称で親しまれており、生涯成績は403試合出場152得点。

両方の足を利き足として使え、文武両道にしてオールランダーなフットボール選手でもあった。

第71位:ファン・ニステル・ローイ  オランダ FW

1976年生まれのオランダ人サッカー選手。

オランダ、イギリス、スペインの3つのリーグで得点王を獲得した生粋のストライカーで、生涯成績は449試合出場298得点。

パトリック・クライファートとは同年同日生まれで身長も体重もほぼ同じな上オランダ人選手というところまで共通していたが、2人の仲は悪く、連携がうまくとれなかったこともまた有名であった。

両雄並び立たずはサッカーの世界にも言えることなのかも知れない。

第70位:ジュスト・フォンティーヌ フランス FW

通常、ワールドカップの得点王は5ゴールから7ゴールほどである。例えば2014年ブラジル大会の得点王は6点でハメスロドリゲスであったし、2018年ロシア大会でも得点王は6点でハリー・ケインであった。

しかし、1958年のスウェーデン大会において1大会で13得点をあげた驚異的なフットボールプレイヤーがいた。

ジュスト・フォンテーヌその人である。

 実はレギュラーですらなかったフォンテーヌがわずか6試合で13得点もあげたのだから世界が驚いた。その勢いで優勝までひた走りそうなフランスだったが、準決勝でペレ率いるブラジルに5-2で敗退してしまい、チームは優勝することはできなかった。

しかし3位決定戦ではフォンテーヌは4点をあげ、宿敵であった西ドイツ相手に見事勝利する。

 残念ながら1962年のチリ大会には怪我のため出場することが出来ず、28歳という若さで現役を引退することになり、ワールドカップ最多得点記録には至らなかった。

第69位:マヌエル・ノイアー ドイツ GK

 2019年現在バイエルン・ミュンヘンとドイツ代表でキャプテンを務めるGK。

カーンやゼップ・マイヤーの系譜に連なるドイツ&バイエルン・ミュンヘンのGKで、2人のレジェンドを越える可能性を秘めた存在。

 2014年のブラジルワールドカップではその存在感を世界に示し、積極的に前に出ることでシュートの機会さえ奪うプレイングで大会通算86%というセーブ率を誇った。7試合で4失点、4試合での完封を果たし、チームを優勝へと導くとともに大会最優秀GKに選ばれる。

 すでに2021年までバイエルン・ミュンヘンでプレーすることが決まっており、歴代最高のGKになれるかどうかは今後数年の活躍にかかっている。

第68位:パベル・ネドヴェド チェコ MF

 チェコ人として唯一バロンドールを受賞した選手。

非常にまじめな性格で、少年時代には一日12時間以上もサッカーの練習をしていることもあり、趣味は練習と答えていたそうだ。そのまじめな性格からか当初は医者を目指しており、プロになってからも会計士としての勉強をしていたようである。

夜の10時には寝て朝の7時には起きる規則正しい生活をしており、そのおかげか無尽蔵のスタミナをもってピッチ上を駆けまわり、持ち前の運動量でチームに貢献するスタイルを貫いた。そのためか「鋼鉄のロボット」という綽名で呼ばれることもある。

ユヴェントス時代には2年連続でチャンピオンズリーグに出場し、優勝こそ逃すもののネドヴェド個人としては2003年にバロンドールを受賞する。

第67位:ボビー・ムーア イングランド DF

 イングランド歴代最高のデイフェンダーとの呼び声も高く、1962年から3大会連続でワールドカップに出場し、1966年の母国開催においてはイングランドを初の優勝へと導いた。

第66位:ロナウジーニョ ブラジル FW

本名はロナウド・デ・アシス・モレイラ。

2004年と2005年に二年連続でFIFA最優秀選手に選ばれ、2005年にはバロンドールを受賞。2002年にワールドカップ優勝、 2006年にチャンピオンズカップ優勝を経験している。

生涯成績は829試合出場312得点。点取り屋というよりはサポートにすぐれていて、クラブチームにおけるアシスト数は168となっている。

ロナウジーニョのプレーは見ていてとにかく面白い。南米的というか、ブラジル的と言うか、サポーターが見たいサッカーを見せてくれる存在で、天衣無縫な動きに敵のDFはついていけない。彼こそ天性のフットボール選手だと言えるだろう。

第65位:カルレス・プジョル スペイン DF

 スペインサッカー史上最高のDFは?

その問いに対して大半の人が「プジョル」と答えることだろう。

まるで獅子のようなどう猛さで敵のストライカーに噛みつき、その強固なディフェンス性から「THE WALL」という綽名を持つ。

スペインリーグ最強チームであるFCバルセロナに所属し、2004年にキャプテン就任。チームオブザイヤー、最優秀DFなどに選ばれ、3度のチャンピオンズリーグ優勝を経験している。

スペイン代表としては守備の要としてカシージャスと共にゴールを守り、2010年にはワールドカップ優勝の栄冠を勝ち取っている。特に準決勝の対ドイツ戦においては決勝点をヘディングで決めており、その1点が優勝に大きく貢献した。

第64位:バティストゥータ アルゼンチン FW

185cmの長身を活かしたプレーでクラブチームにおいて516試合に出場し300得点をあげる。

コパ・アメリカ大会では92年93年のアルゼンチン優勝に貢献し、94年のワールドカップアメリカ大会ではハットトリックを決めるなど大活躍。1998年のフランスワールドカップにおいては日本相手に得点をあげ、ジャマイカ戦では二大会連続のハットトリックを達成した。

イタリアリーグであるセリエAの外国人最多得点記録を持ち、生粋のストライカーという言葉がよく似合う選手であろう。

第63位:ルイス・スアレス・ミラモンテス スペイン MF

 スペイン人で初めてバロンドールを受賞し、スペイン人史上最高のサッカープレイヤーと言われるレジェンドの1人。

バルセロナ在籍時に臨んだチャンピオンズカップでは、大会5連覇中だったディ・スティファノやプスケシュ擁する黄金期のレアルマドリードを一回戦で破る活躍を見せ、決勝ではエウゼビオ擁するSLベンフィカに敗れるもののその存在感を示した。

1964年には競合ひしめく欧州ネイションズカップにてスペインを初優勝に導き、現役引退後はスペイン代表監督になるなど指導者としても活躍した。

生涯成績は491試合出場129得点。

ストライカータイプではなくオフェンシブMFとしてこの成績は立派の一言。

第62位:デビッド・ベッカム イングランド MF

 正確無比なフリーキックの名手。フィーゴやジダンと共にレアルマドリードで「銀河系軍団」を形成。2000年から2006年までイングランド代表のキャプテンを務めた。

スピードに勝ったタイプではなかったが、サイドからの正確なクロスやセットプレーなどで得点に絡むことが多く、マンチェスターユナイテッド時代には6度の優勝、1度のチャンピオンズリーグ優勝を経験し、2008年にはイングランドサッカーの殿堂入りを果たした。

第61位:ファビオ・カンナバーロ イタリア DF

 身長176cmとサッカー選手としては決して大柄ではないが、持ち前の闘争心で敵の攻撃の機会を奪い、イタリア代表のキャプテンとして2006年のドイツワールドカップではチームを優勝に導いた。

2006年のバロンドールにも輝いており、DF大国イタリアの中でも歴代最高のディフェンダーの1人と言って良いだろう。

第60位:ケニー・ダルグリッシュ スコットランド FW

 スコットランド代表としては最多得点及び最多キャプテン出場記録保持者。

リヴァプール在籍時には7度のリーグ優勝と3度のチャンピオンズリーグ優勝を経験し、自身は2度の得点王に輝く。サポーターからは「キング・ケニー」の愛称で親しまれ、セルティック時代と合わせてスコットランドとイングランドの両方合わせて100得点をあげた最初の選手となった。

第59位:クローゼ ドイツ FW

 2019年現在、ワールドカップにおける最多得点記録保持者。

 2006年ドイツ大会では5得点を上げ大会の得点王になる。

 生涯成績は304試合出場135得点。

実は生まれはポーランドで、両国の出場権を持っていたが、クローゼ自身がドイツを選択。ドイツ代表としては136試合に出場し、これは歴代最多。得点は71で、クラブチームでの得点よりも代表としての得点の方が多い稀有な選手である。

第58位:フランチェスコ・トッティ イタリア MF

 1981年のユース時代から2017年に引退するまで一貫してASローマでプレーしたイタリアの天才司令官トッティ。

セリエAにおいては歴代3位となる619試合出場、歴代2位となる250得点を記録。16歳でプロデビューした後は22歳の若さで名門ASローマのキャプテンとなり、2000年にはセリエAの最優秀選手に選ばれ、2001年にはリーグ優勝、2004年にも再びセリエAの最優秀選手賞に選ばれている。

2006年のワールドカップドイツ大会では全試合に出場し、大会最高となる4アシストを記録、見事イタリアをワールドカップ優勝へと導いた。

 ゲームメイクの巧さはまさに司令塔と呼ぶにふさわしく、ドリブル、パスの技術に優れているうえに自身でも点が取れる万能な選手で、イタリア史上最も優れた選手の1人であると言って良いだろう。

第57位:ディディエ・デシャン フランス MF/DF

 1998年にフランスが地元開催にてワールドカップ優勝を勝ち取った際のキャプテンがデシャンである。ワールドカップ優勝から2年後のEURO2000においてもフランスは優勝し、マルセイユ在籍時にはリーグ優勝2回とチャンピオンズカップの制覇、ユベントス移籍後にも再びチャンプオンズカップ制覇と2度のリーグ優勝を経験。監督としてもワールドカップ、欧州選手権、チャンピオンズリーグ制覇を達成しているなど実に恵まれたサッカー人生を送っている選手だと言える。

 フランス代表のキャプテンとしては56回の試合を経験しており、これはフランス代表のサッカー選手としては史上最多である。

 選手時代は運動量の多さで知られ、174cmとサッカー選手としては小柄ながらも戦略眼に優れ、マラソンマンの異名をとり、確実にチームを勝利へと導いていた。

派手さはないが、確実にサッカー史に残る名選手だと言えるだろう。

第56位:ゲイリー・リネカー イングランド FW

 1986年のワールドカップメキシコ大会における得点王。1990年のイタリア大会でも4点を決め、イングランド代表通算80試合をキャプテンとして過ごし、48得点を記録する。得点に関してはルーニー、ボビー・チャールトンに続く第3位の記録で、晩年は名古屋のグランパスエイトで過ごし、1994年に現役を引退した。

 イギリスリーグであるプレミアリーグでは3度の得点王に輝き、それぞれレスターシティ、エヴァートン、トッタナムと3回とも違うチームでの記録となる。

 20年間の現役生活において一度もレッドカードもイエローカードももらったことがなく、1990年にはフェアプレイ賞を受賞している紳士でもある。

生涯成績は537試合288得点。

2003年にはイングランドサッカーの殿堂入りをした。

第55位:イケル・カシージャス スペイン GK

スペインおよびレアルマドリードの伝説的守護神。

ワールドカップ優勝、チャンピオンズカップ優勝、欧州選手権優勝などをキャプテンとして経験し、2010年ワールドカップゴールデングローブ賞(レフ・ヤシン賞から名称変更)、2008年と2012年において欧州選手権最優秀選手、2007年より6年連続でチームオブザイヤーに選ばれるなど、数多くの栄光に輝いた最高のサッカープレイヤーの1人である。

銀河系軍団と呼ばれたレアルマドリードは超攻撃的で守備面がおろそかになりがちであったが、その分カシージャスのスーパープレイが光っていた。2010年にスペインが初のワールカップ優勝した際にも、ロッペンとのタイマンになる場面が多かったが、これをよくセーブし、大いにチームに貢献していた。

第54位:ストイチコフ ブルガリア FW

最強のクラブチームの一つであるFCバルセロナにおいて、歴代最強メンバーともいわれる1993年から1994年のシーズンを戦ったブルガリア人ストライカー。

FCバルサをスペインリーグ4連覇に導いたことはもとより、強豪とは言えないブルガリアをワールドカップベスト4まで押し上げた圧倒的な実力者で、ブルガリア史上最高のサッカー選手であることに意義を唱える者はいないであろう。

生涯成績は出場457試合219得点。

敵のDFが苦手な動きをすることで相手を翻弄して点を取ることができ、所謂「キラーインスティンクト」の持ち主であると言われている。

ドリブルでの突破はもちろんポジショニングの巧さが光り、決定的な場面で点が取れる選手で、日本代表に一人このような選手がいれば一気にチームは強くなるんだろうなぁと思わせる選手である。

第53位:ジョージ・ウェア リベリア FW

 リベリア出身のフットボールプレイヤーにして、なんと2019年現在のリベリアの大統領である。

1995年にはバロンドールも受賞しており、バロンドールの歴史の中でも国家元首になったのは現在まででこのジョージ・ウェアだけである。ある種別な意味で偉大になる人物かも知れない。

 ワールドカップでの活躍はないが、ACミランにおける伝説的なFWで、1996年ヴェローナ戦において、自陣ペナルティエリアからの80mを単独ドリブルで駆け上がりそのまま決めたゴールはサッカー史に残る一発で、地元紙が「サン・シーロにUFO出現!」との見出しをつけたことでも有名。

第52位:ズラダン・イブラヒモビッチ スウェーデン FW

2019年現在スウェーデンの最多得点記録保持者で、4つのリーグで優勝を経験し、 5度の得点王を獲得したフォワード。最盛期の年収は約41億円だったという。

アヤックス、ユヴェントス、インテル、バルセロナ、ACミラン、パリサンジェルマン、マンチェスターユナイテッドと各国のトップチームを歴戦し、最終的に残した記録が出場759試合、総得点446点と言う空前絶後の数字。

195cmの得体に加え洗練されたテクニックと得点への優れた嗅覚持ったズラダンは、スウェーデン史上、いや、北欧サッカー史上最強のストライカーと言っても過言ではないだろう。

フィジカルはもちろんメンタルも強く、その獰猛な気性で勝負根性にも優れていた。まさにストライカーに必要な素養を全て持っていた選手だと言える。

第51位:ハビエル・サネッティ アルゼンチン MF/DF

 1995年からイタリアのインテルに在籍し、1999年からはキャプテンを務めた。2009年から2010年のシーズンにかけてはリーグ優勝、コパ・イタリア、チャンピオンズリーグ優勝と3冠を達成。守備・攻撃ともに参加する積極的な姿勢でチームに貢献した。

 特に2005年から2010年にかけてインテルはセリエA5連覇を成し遂げ、「イルカピターノ(キャプテンの中のキャプテン)」という称号で呼ばれることになる。

第50位:エリック・カントナ フランス FW

フットボール選手には、ワールドカップで活躍する選手とクラブチームで活躍する選手がいるというのは他の選手の項でも述べたが、カントナほど後者に偏った人物はいないだろう。

カントナはクラブチームでの活躍がウソのようにフランス代表の選手としては活躍しなかったが、彼の本領はプレミアリーグ、マンチェスターユナイテッドでのプレーにより発揮された。

彼が入る前のマンUは低迷をしていた。しかしカントナが入ってからの同チームは4度のリーグ優勝を経験することになる。その功績でもってカントナはフランス人でありながらイギリスサッカーの殿堂入りし、2001年にはマンチェスターユナイテッド歴代最高選手に選ばれている。

後に同チームでプレイをしたデイビッド・ベッカムは「エリックは特別だった」と語っており、ファンの間では「キング・エリック」の名で親しまれた。

生涯成績は432試合に出場し161得点。

イギリスを代表するフランス人選手である。

第49位:ジャンルイジ・ブッフォン イタリア GK

 20年という長期間にわたってイタリアのゴールを守り続けた守護神。

 2001年から2018年までユヴェントスで活躍し、史上唯一GKとしてチャンピオンズリーグのMVPに選ばれている。

 2006年のドイツワールドカップにおいては7試合4失点という好成績を残し、イタリアの優勝に大いに貢献した。

192cmの長身、レスポンスの速さなどから史上最高のゴールキーパーの呼び声も高い。

第48位:ケヴィン・キーガン イングランド FW/MF

バロンドールを2度受賞したイングランドのフットボールプレイヤー。

172cmと比較的小柄であったが運動量に優れ、フィールドを縦横無尽に駆け回る様子から「マイティマウス」の名で親しまれた名選手。

怪我などの影響からワールドカップでの活躍とは無縁であったが、リヴァプール時代には324試合に出場し100得点をあげ、チームに3度のリーグ優勝とチャンピオンズリーグ優勝をもたらした。

第47位:アレッサンドロ・ネスタ

 イタリアが誇る最高のディフェンダーの1人。

1985年のユース時代から2002年までをラッツォで、2002年から2012年までをACミランで過ごし、セリエAのディフェンダーオブザイヤーに5回、UEFAチームオブザイヤーに4回輝いた。

2006年のワールカップには代表として出場しイタリアの優勝に貢献。ミラン在籍時に2度のチャンピオンズリーグ優勝を経験し、ワールドカップ、クラブチーム双方での活躍をした選手である。

人格者としても知られ、チームメイトからの信頼も厚く、学生時代から学業が優秀で、サッカー選手になるか弁護士になるか迷っていたほどであるという。

2006年のワールカップに優勝した際にはイタリア大統領から直々にイタリア共和国功労賞が贈られた。

第46位:ウーヴェ・ゼーラー ドイツ FW

1960年代のドイツサッカーを語る上で外せない存在。

1962年から1970年までの8年間西ドイツ代表のキャプテンを務めあげ、4度のワールカップに出場。19年もの長きに渡りハンブルガーSVに所属し、現役引退後も「Uns Uwe」(私達のウーヴェ)の愛称で親しまれた。ハンバーガー発祥の地でもあるハンブルグの街には、今でもゼーラーの銅像が立っている。

ドイツリーグであるブンデスリーガ時代には通算239試合に出場し137得点をあげ、ドイツ年間最優秀選手賞を3回受賞。引退後はドイツ代表名誉キャプテンにも選ばれている。

 身長は170cmと平均身長が180cmを越えるドイツ人としてはかなり小柄だが、持ち前の運動能力とポジショニング、天性の嗅覚から得点を量産した。

今日のドイツサッカーの基礎を作り上げた偉大なフットボーラーだと言えるだろう。

第45位:デニス・ロー スコットランド FW

 「金髪の悪魔」「ザ・キング」「ジャックナイフ」など多くの異名のあるスコットランドのレジェンド。

ボビー・チャールトンやジョージベストと共にマンチェスターユナイテッド黄金時代を創出し、彼の名前である「デニス」にちなんで子供の名前につける事象が多発、デニス・ベルカンプも彼の名前にあやかってつけられたものである。

1964年にはスコットランド人として初のバロンドールを受賞、2002年にはイングランドの殿堂入りを果たしている。

第44位:ルカ・モドリッチ クロアチア MF

 モドリッチは最も偉大なクロアチアの選手と言って良いであろう。クロアチア年間最優秀選手に7度も選出されており、クロアチア人選手として初めてバロンドールを受賞した。

2018年のワールドカップモスクワ大会ではキャプテンとして母国クロアチアを初の準優勝まで導き、大会MVPのゴールデンボール賞を受賞。

身長は172cm体重は65kgとサッカー選手としては小柄な部類に入るが、卓越したテクニックで相手をかき乱し、正確なパスやドリブル能力に優れる。

 2012年以降レアル・マドリードでプレーしており、3度のチャンプオンズリーグ優勝を経験している。

21世紀を代表するサッカー選手だと言えるだろう。

第43位:ルート・フリット オランダ FW

 ファンバステンやライカールトと共にオランダトリオを形成した一人。

186cmの長身でありながら繊細なボールさばきを得意とし、卓越したドリブル技術とシュート技術を持ち合わせていた。

1987年にはバロンドールを受賞しており、ライカールトたちと共にACミラン黄金期を創出、1979年のフェイエノールト時代にはヨハン・クライフと共に優勝に貢献、一方ワールドカップにおいてはチーム内不和や監督との不和もあり全く結果が出せずに終わってしまった。

1984年と1986年の2回オランダ年間最優秀選手に選ばれており、1987年と1989年の2回世界最優秀選手に選ばれている。

第42位:パトリック・ヴィエラ フランス MF

 

良いボランチ(DH)がいなければチームは機能しない。

では良いボランチとはどのような選手か?

まず最初に頭に浮かぶのが元フランス代表のヴィエラである。

生まれはセネガルの首都ダカールで、幼少の頃にフランスに渡り、ASカンヌでデビュー後はミランに移籍するも振るわず、イギリスリーグのアーセナルに移籍してからその才能を開花させた。

2003年から2004年のシーズンにおいてアーセナルは無敗での優勝を達成しており、1998年には母国開催のワールドカップにおいて優勝を経験している。

どちらの偉業もヴィエラの貢献度は高く、192cmの巨体を生かしたプレーで中盤において敵のボールを積極的に奪うことで敵の攻撃の芽をつぶし、味方のチャンスを増やすことに長けた選手であった。しかも得点能力も高く、歴代フットボール選手の中でもトップクラスのボランチだと言えるだろう。

第41位:ゼップ・マイヤー ドイツ GK

 1959年のユース時代から1980年の引退までバイエルン・ミュンヘンでプレーしたドイツの守護神。

1970年のワールドカップメキシコ大会では3位、1974年の母国開催では見事優勝を決めた時のGKでもあり、1972年には欧州選手権に優勝、クラブチームとしてはドイツリーグで4回、チャンピオンズリーグで3回の優勝を経験している。

 後のカーンやノイアーに連なるドイツ代表+バイエルン・ミュンヘンの系譜の元祖であり、若き日のカーンをコーチングして世界的なGKに育て上げたのもマイヤーであった。

第40位:アンドレイ・シェフチェンコ ウクライナ FW

ウクライナの伝説的なFW。

2004年にバロンドールを受賞した名フットボール選手で、そのプレイスタイルから「ウクライナの矢」と呼ばれた。

ACミラン在籍時には2度セリエAの得点王に輝いており、ウクライナのディナモ・キエフ時代には世界最強クラスのクラブチームバルセロナに2連勝し、二試合合計で7-0と圧勝している。

183cmの長身を活かしたヘディングやドリブル突破からのシュートなどあらゆる形から点を決めることが出来、2006年ドイツ大会ではウクライナ史上初のワールドカップ本選出場を果たし、チームを史上初のベスト8まで導いた。

生涯成績は759試合出場369得点。

第39位:ルイス・フィーゴ ポルトガル MF

 ベッカムやロベルト・カルロスと共にレアルマドリードで「銀河系軍団」を形成した1人。

スピードに勝つタイプではないが、緩急をつけたドリブルテクニックと正確なパステクニックに優れ、スペインリーグにおいて100を越えるアシストを記録するなど1990年代最高の選手との呼び声も高い。

2000年にはバロンドールも受賞しており、2001年には欧州最優秀選手に選ばれる。

余談だが、大学時代の俺と身長・体重が同じだったせいか、かなりのシンパシーを感じていて、最も好きなサッカー選手の1人である。

第38位:ユルゲン・コーラー ドイツ DF

 「鋼のストッパー」の異名を持つドイツの伝説的なディフェンダー。

1990年のワールドカップイタリア大会でドイツを優勝に導いたメンバーの1人であり、世界最高のストッパーと呼ばれた。

特に決勝トーナメント第一試合として行われたドイツ対オランダの試合はワールドカップ史上最高の試合の1つと言われており、当時ACミランにて世界最高のプレイヤーとして称賛されていたファンバステン、ライカールト、フリットのオランダスリー擁するオランダに激しい戦いの末勝利したことは、ワールドカップの歴史に永遠に残ることであろう。

決勝においてもあのマラドーナ相手に完封を実現しており、名実ともに歴代最高のディフェンダーの1人と言えるだろう。

第37位:ジャン・ピエール・パパン フランス FW

フランス史上最高と言われるストライカーの1人。

1991年にバロンドールを受賞し、フランスリーグでは合計5度の得点王に輝いている。

1986年にマルセイユに入団するとリーグを4連覇、自身は5年連続の得点王に、その後はACミランに入り、チャンピオンズリーグ決勝まで駒を進めるも決勝では古巣マルセイユに敗北し惜しくも準優勝にとどまってしまう。

 ミランへの在籍は1992年から1994年までであったが、その期間に2年連続のリーグ優勝を経験している。

一方でワールドカップへの出場は1試合にとどまっている。

第36位:スタンリー・マシューズ イングランド FW

1915年生まれ。

サッカー黎明期を支えたスター選手の一人で、「マシューズフェイント」の開発者。

「ドリブルの魔術師」の異名を取り、サッカーにおけるヨーロッパ最優秀賞である「バロンドール」の第一回目の受賞者である。

イギリス王室からナイトの称号を与えられた最初のサッカー選手であり、33年に渡る現役においてただの一度も警告を受けておらず、サッカーの神様ペレをして「全てのフットボール選手の模範となるべき選手」と言わしめた。

第35位:カフー ブラジル MF/DF

カフーはあだ名で、本名はマルコス・エバンジェリスタ・デ・モラエスという。

イタリアの名門クラブチームであるASローマやACミランで活躍し、1994年、1998年、2002年、2006年とワールドカップに4度出場しており、ブラジル代表のキャプテンを務めていたこともある。ブラジルのキャプテンとしては142回の試合経験があり、これはサッカー王国ブラジルの中でも歴代トップの長さである。ワールドカップ4回出場のうち優勝が2回準優勝が1回と、ブラジルを代表する選手の1人であると言って良いだろう。

DFでありながら、ロベルト・カルロスと共に両サイドから切り込みながら得点を狙っていく超攻撃的なサッカーを得意としており、ブラジルサッカーを体現しているかのような選手であった。

第34位:アリエン・ロッベン オランダ FW/MF

2010年の南アフリカワールドカップにおいて大活躍したオランダのFW。

超高速ドリブルで一気に敵陣を駆けあがるプレイスタイルで敵を翻弄し、相手チームを大いにかき乱す存在。チームプレイが主体の現代サッカーにおいて、エゴイスティックなプレーをすることで賛否両論を巻き起こしたが、その予測不能なプレーは見ている者を楽しませた。

CF(センターフォワード)というよりはサイドから切り込むWG(ウイング)やSH(サイドハーフ)が彼を活かすポジションと言え、ドリブルスピードや精度はもちろんシュートテクニックやパステクニックにも優れている。

「オランダ代表は彼のワンプレーで決まる」という言葉も、あながち言い過ぎではないだろう。

第33位:ディノ・ゾフ イタリア GK

史上最高のGKの1人と言われるイタリア人フットボーラー。

「氷のゴールキーパー」の異名を持ち、常に冷静沈着なプレーで選手たちの精神的な支柱となった。

1143分連続無失点という記録を残しており、ユヴェントス在籍時にはリーグ優勝、コパイタリア大会優勝などを経験、1968年の欧州選手権ではベストイレブンに選ばれる。 

1982年のワールドカップスペイン大会では40歳にしてイタリア代表のキャプテンとなり、チームを優勝に導く活躍を見せた。

その際にインタビューを求められたゾフは、以下の言葉を残している。

「ゴールキーパーはワインと同じ、年を経るごとに深みを増す」

第32位:ティエリ・アンリ フランス FW

 フランス代表のフットボール選手の中で最多得点記録保持者。さらにはイギリスのプレミアリーグでは歴代最多となる4回の得点王、チームオブザイヤーをこれまた歴代最多の5度、FWA年間最優秀選手賞を3度受賞、PFA年間最優秀選手賞を2度受賞している。

ワールドカップ優勝も経験しており、間違いなくフランスが生んだ最も偉大なサッカー選手の1人。

生涯成績は915試合に出場し411得点。

 2008年にはフランス国民が選ぶ偉大なスポーツ選手で1位になるほど人気があり、スピードとテクニックを兼ね備え、188cmの長身を活かしたプレーもできるなどFWに必要な素質を全て兼ね備えた選手だと言って良いであろう。

ちなみに「Henry」表記は英語ではヘンリーだがフランス語では「H」を発音しないのでアンリと読む。

第31位:リバウド ブラジル FW/MF

 1998年にバロンドールと世界最優秀選手を受賞したブラジルのフットボールプレイヤー。

あまりにも貧しい家庭に生まれ、バスに乗るお金もなかったため19km離れた練習場まで歩いて通ったという逸話や、プロになって初めてステーキを食べた際に栄養失調だったため歯が抜けてしまったなどのエピソードを持つ。

それでも遺伝の為なのか身長は185cmまで伸び、驚異的な身体能力を発揮した。2002年の日韓ワールドカップの際にはロナウドやロナウジーニョと共に3Rとして活躍、ブラジル5度目のワールドカップ制覇に貢献した。

第30位:ジョージ・ベスト 北アイルランド FW/MF

 1968年、22歳の若さで史上最年少バロンドールに輝き、そのアイドル的な人気から5人目のビートルズ(エル・ビートルズ)の愛称で親しまれた。

 現役を引退した後にはアルコール依存症になってしまい、後に破産。飲酒運転や警官への暴行などで逮捕、2005年に亡くなるまで依存症は治らなかった。

若くして成功し、その後に身を持ち崩してしまった代表のような選手であったが、フットボールの才能は歴代でも最高クラスで、サッカーの神と言われるペレは「世界最高の選手」とジョージ・ベストを褒めたたえている。

第29位:レフ・ヤシン ソヴィエト連邦 GK

 史上最高のゴールキーパーは誰か?

しばしば議論になるその問いに、必ずと言って良いほど出てくるのがまだソヴィエト連邦という国があった頃に活躍したレフ・イワノヴィッチ・ヤシンと言う選手だ。

1963年にバロンドールを受賞したゴールキーパーであり、それ以来2019年現在までバロンドールを獲得したゴールキーパーは存在していない。

ワールドカップにおいて最優秀GKに与えられる賞は「レフ・ヤシン賞」となっており、モスクワにあるディナモスタジアムには彼の銅像が建てられているぐらいだ。

*現在ではゴールデンブローブ賞になってしまった。

ヤシンはデビューから一貫してディナモ・モスクワでプレイしており、リーグ優勝5回、カップ優勝3回を経験し、オリンピックや欧州選手権でも優勝を経験している。 

もはやその存在は伝説の域に達していると言っても良いであろう。

第28位:カール=ハインツ・ルンメニゲ ドイツ FW

 「ミスターヨーロッパ」と呼ばれたドイツのフットボールプレイヤー。

スピード、テクニック、高さ(182cm)を兼ね備えたオールラウンドプレイヤーで、1978年から1986年まで3度のワールドカップに出場し優勝一回準優勝一回を経験している。

1980年と1981年にはバロンドール、同年にドイツ年間最優秀選手を受賞しており、3回のドイツリーグ得点王に輝いた。

名実ともに80年代ドイツにおける最高の選手と言えるだろう。

第27位:オリバー・カーン ドイツ GK

カーンのインパクトは凄かった。

そのセービング技術はいわずもがな、その圧倒的な迫力は見ていて気持ちよくさえある。

特に2002年の日韓ワールドカップの際には大暴れをし、決勝ではブラジル選手の放ったシュートを悉く跳ね返し、そのたびに吠える様は人間のようには思えなかったほどだ。

1999年から2002年までの欧州最優秀GKに選ばれており、2002年のワールドカップでも当然のように最優秀ゴールキーパーおよび最優秀選手に選ばれた。

ドイツ国内においても1994年から2008年までバイエルン・ミュンヘンでプレイしており、6度ドイツ最優秀ゴールキーパーに選ばれている。

ワールドカップ優勝は果たせなかったが、十分すぎるほどの活躍をしたと言えるだろう。

第26位:パサレラ アルゼンチン DF

 「エル カイセル(皇帝)」と呼ばれたアルゼンチンのサッカー選手。

DFなのに積極的に得点に絡み、451試合出場134得点という驚異的な記録を持つ。アルゼンチン歴代最強DFとの声も強い名選手で、1978年にアルゼンチンが地元開催したワールドカップの際、見事優勝を果たしたキャプテンでもあり、「エル グラン キャプテン(偉大なるキャプテン)」の尊称で呼ばれた

 PKやフリーキックの精度も高く、基本となるDFの技能も当然高い。まさにオールラウンダーな選手であった。

第25位:ボビー・チャールトン イングランド FW

 

イングランドサッカー界におけるレジェンド。

2015年までのイングランド代表歴代最高得点記録保持者であり、2019年現在マンチェスターユナイテッドにおける歴代2位の得点記録保持者である(ともにルーニーに抜かれている)。

1966年にバロンドールを受賞し、同年には母国開催でのワールドカップ優勝を果たしている。

ボビー・チャールトンは1958年、ミュンヘンの悲劇と呼ばれた飛行機事故に遭って多くの仲間を失い、自身もショックから一時期はフットボールをプレイすることができなくなってしまっていた。そこから復活できたのは偏に彼の精神力によるものであり、事故から10年後の1968年には見事チャンピオンズカップの優勝を果たす。

1994年には大英帝国からナイトの称号である「サー」の位を授与され、2012年には日本より旭日小綬章を送られている。

ボビーは晩年、あるサッカーコンテストにゲスト出演していた。その際に一人の少年に目をかける。その少年はやがて成長し、歴史に残るサッカー選手へと成長した。

少年の名はデビット・ベッカム。

第24位:マリオ・ケンペス アルゼンチン FW

アルゼンチンにおけるレジェンドの1人。

1974年から1982年まで3度のワールドカップに出場し、1978年アルゼンチンで行われたワールドカップでは見事に優勝を果たしている。 

生涯成績は595試合に出場し320得点。

その得点の大半はクラブチームであげたもので、特にスペインリーグバレンシア在籍中には2度の得点王に輝いており、1978年にはマラドーナをおさえ南米年間最優秀選手にも選ばれている。

78年にアルゼンチン代表監督だったメノッティは「違いを生み出せる選手」としてケンペスのサッカーを評価した。

歴史に残る名選手だと言えるだろう。

第23位:ウェイン・ルーニー イングランド FW

 歴代イングランド代表における最多得点記録保持者であり、16歳と360日というプレミアリーグ最年少記録(現在は破られている)で得点を決め、次々にイングランドのサッカー記録を塗り替えて行った天才フットボールプレイヤー。

卓越したテクニックとフィジカルの強さでゴールを量産し、マンチェスターユナイテッドにおいては250得点をマークしてボビーチャールトンを抜いて歴代第1位を記録、チームを5度の優勝に導き、2007年度から2008年度のシーズンにおいてはチャンピオンズリーグの優勝も果たす。

非常にスピードに優れ、最高時速は驚きの35km!

カールルイスがかつて時速36kmで走って世界記録を出したことを考えればこれがどれだけ速いかが分かるだろう。

同年代の選手からも「イングランド史上最高の選手(ジェラード)」「完璧な選手(イブラヒモビッチ)」などの賛辞が寄せられており、リオネル・メッシからは「他に比べようがない選手」との評価を受けている。

第22位:フランコ・バレージ イタリア DF

イタリアの伝説的リベロ。

ACミラン最盛期のDFで、ライカールト、フリット、ファンバステンらオランダトリオとともにミランをチャンピオンズカップ2連覇へと導いた。

余談だが、この時期ミランが強かった理由は実業家であるベルルスコーニがミランのオーナーになったことで豊富な資金源を得ることが出来、当時世界最高のサッカー選手を次々と獲得していったことによる。バレージはそのキャプテンとしてチームを率い、そして結果を出した訳である。

なお、その実業家のベルルスコーニは後にイタリアの首相となる。

ワールドカップにおいては1982年のスペイン大会にも参加しているが出場経験はなく、1994年のアメリカ大会においては怪我からの復帰後すぐの戦いであったがキャプテンとしてチームを引っ張り、リマーリオやベベットのいるブラジルを完封。試合はPK戦まで持ち込まれたものの、勝利の女神はブラジルに微笑んでしまい優勝を取り逃してしまった。

バレージは優れたDFであるが、自身も得点するなどポジションに捕らわれない活躍をしており、そのプレイスタイルは自由を表す「リベロ」と評され、フランツ・ベッケンバウアーの後継者ともいわれた。

非常に激しいプレイをすることで有名だが、ピッチを降りると紳士的であることもまた知られ、94年にジェノアに所属していた三浦知良の鼻の骨を折ってしまった際には、後日何度も謝罪の意を示している。

バレージもまた俺の小学生の時のヒーローであり、そのあまりにもレベルの高いプレーは当時の俺の度肝を抜いた。

世界ってすげぇんだなぁと思ったよ。

第21位:ロマーリオ ブラジル FW

 983試合に出場し768の得点を積み重ねたブラジルを代表するストライカー。

通算ゴール数は1000を越えるといい、そのゴールは全て対戦相手やゴール記録なども確認できるという。

俺が最初に見たワールドカップの試合は、1994年アメリカ大会での決勝だった。当時はまだ小学生で、学校に行かなければならないので全部は見られなかったのだが、ドーハの悲劇後のサッカーの試合で、世界はこんなにもレベルが高いのかと思った記憶がある。そしてその時のワールドカップの勝者こそがロマーリオのいるブラジルであった。

その大会においてロマーリオは5得点をあげ、大会MVPに選ばれており、その存在感を世界に示した。

キャリアの大半をブラジル国内のクラブチームで過ごしたが、1993年から1995年までの間スペインのFCバルセロナでプレーしたことがあり、93年から94年シーズンにおいては、33試合30ゴールという驚異的な活躍をし、見事チームをリーグ優勝に導いている。93年から94年シーズンにおいて、チャンピオンズリーグ準優勝時のFWとしても出場しており、その時は残念ながらイタリアのチームであるACミランに決勝で敗れる結果となった。

ワールドカップの際にも決勝はイタリアで、どちらの試合でもイタリアの伝説的DFであるマルディーニとの間に激しい攻防を繰り広げた。

両者の激しい戦いは、サッカーの歴史における伝説と言っても良く、まさに最強の矛と盾の勝負であった。

結果としては、ロマーリオは結局どちらの戦いでも点を取ることが出来なかったため、チームとしては1勝1敗であったが、勝負はマルディーニの勝利とするのが妥当であろう。

第20位:フィリップ・ラーム ドイツ DF/MF

 2010年と2014年のワールカップドイツ代表におけるキャプテンだったフットボーラー。

2014年のブラジル大会では、ブラジルを1-7で破ったミネイロンの悲劇を創出した選手の一人で、母国の不甲斐なさに憤怒したブラジルサポーターがドイツを応援して始め、バスを焼き討ちし、各地で暴動がおこるという騒ぎになったが、見ていてどうしようもないほどの実力差を感じた。

2014年のドイツ代表は、恐らく過去最強のチームで、負ける姿すら想像が出来なかった。準決勝ではネイマールのいるブラジルを、決勝ではメッシのいるアルゼンチンを破り堂々の優勝を果たした訳だが、守備も中盤も攻撃もGKも全てが完璧だった。

その完璧なチームのキャプテンであるフィリップ・ラームは、やはり史上最高の選手の1人だと言えるだろう。

第19位:ガリンシャ ブラジル FW

 史上最高のWG(ウイング)は誰だろう?と考えた時に、やはりガリンシャであろうと思う。

本名はマノエウ・フランシスコ・ドス・サントス。

ガリンシャの生まれは非常に貧しく、父はインディオ、母はアフリカ系ブラジル人で、幼い時に小児ポリオにかかった際、その手術費用が捻出できず、命は助かったものの足が曲がってしまった。さらには軽度の知的障害も残ってしまったという。

彼の足はだが、相手DFに動きを予測させないという長所をもたらした。

転生の勘の良さと予測不能な動きは相手ディフェンダーを大いに惑わせ、1958年から1966年まで3度のワールドカップに出場し、そのうちの2度チームを優勝に導いている。

「たった1人の力で母国をワールドカップに導いたのはガリンシャとマラドーナだけだ」という言葉さえ残っており、サッカー大国ブラジルを築いたブラジルの国民的英雄であったが、引退後はアルコール依存症に陥ってしまい、肝硬変でこの世を去ってしまう。

引退後の生活は非常に乱れていたというが、それでもブラジル国民は彼を愛し、葬儀には8000人のファンが参加したという。

第18位:エウゼビオ ポルトガル FW

 ポルトガル出身のレジェンダリーフットボールプレイヤー。

かつてポルトガルの植民地だったモザンビーク出身のアフリカ系ポルトガル人で、短距離走選手であっても通用すると言われたほどのスピードと加速力で相手のディフェンダーを置き去りにし、あっという間に得点を取ってしまうプレイスタイルでピッチを席巻した。

伝説的なクラブチームSLベンフィカにおいて15シーズン在籍中10回のリーグ優勝、カップ優勝5回、得点王7回、ゴールデンブーツを2度獲得とウソのような数字をたたき出している。1961年にはバルセロナ、1962年にはレアルマドリードを下してチャンピオンズカップで優勝しており、カップ通算48得点はディ・ステファノに次ぐ歴代第2位の記録で、1965年にはバロンドールにも選ばれている。

1966年のワールドカップイングランド大会においては9得点で大会得点王となり、ポルトガル最高位となる3位に輝いた。

試合終了後には必ず敵のプレイヤーを褒めたたえることを忘れない人格者でもあったという。

第17位:ロナウド ブラジル FW

 「戦術ロナウド」

冗談のようだが、ロナウドさえいればどんなチームでもどうにかなる感じが出ていて、ロナウドという選手を最も表した言葉かも知れない。

ロナウドの加速力は異常で、2歩目には既にトップスピードに乗っており、そうなったら引っ張っても止められないと言われていた。

武道には「縮地」と言われる初速から最高速度に達するという半ば伝説じみた奥義が存在するが、ロナウドはその縮地を身に着けていたのかも知れないと思うほど常人離れしたうごきであった。もっとも、その分身体にかかる負担が大きかったのか、怪我に悩まされる場面も多かったのも事実だ。

ブラジル代表として4度のワールドカップを経験し、1998年のフランス大会では得点王に輝くも準優勝、2002年の日韓大会では見事優勝を果たし、大会通算第2位の15得点をあげる(この時は1位の記録だった)。

ブラジル代表通算62得点はペレに続く歴代第2位で、バロンドールにも2度選ばれている。

通算456試合出場320得点。

まさに「怪物」に相応しい記録である。

第16位:ローター・マテウス ドイツ MF/DF

5度のワールドカップに出場し、1990年のイタリア大会ではキャプテンとしてチームを優勝に導いた。代表として150試合、ワールドカップには25試合出場し、これはドイツ歴代最多記録である。

ボランチとして守備にも参加する一方で攻撃にも積極的に参加する姿勢は「ドイツの闘将」「鉄人」と呼ばれ、ドイツ国民を熱くさせた。

クラブチームとしてはバイエルン・ミュンヘン在籍中にリーグ優勝3回、チャンピオンズリーグ準優勝を経験、続くインテルミラノではUEFAカップ優勝、その後再びバイエルン・ミュンヘンに復帰するとリーグ優勝3回、UEFAカップ優勝を経験する。

マテウスの名をあげたのは1986年におけるメキシコワールドカップでのことで、決勝のアルゼンチン戦において伝説のフットボールプレイヤーマラドーナを完封、試合には負けたがこの一戦で世界的に有名になった。

1990年イタリア大会で優勝した際にはドイツ年間最優秀選手賞、世界最優秀選手賞、バロンドールを受賞、名実ともにドイツのレジェンドとなった。

第15位:ロベルド・バッジョ イタリア FW

 ロベルド・バッジョもまた、幼い俺にとってヒーローだった。

 別の項でも述べたように、1994年のワールドカップアメリカ大会は俺が初めて見たワールドカップの試合だった。

当時はyoutubeもないし、レンタルビデオ屋のカードさえ持っていない。そんな中で見た世界のプレーは少年の俺に大きな衝撃を与えた。

1994年、ロベルド・バッジョはワールドカップのピッチに立ち、そして活躍していた。

イタリアチームは当初不調。なんとかグループリーグを抜け、決勝リーグに駒を進めたものの一回戦のナイジェリア戦で1点を追いかける試合となっていた。後半89分、誰もがイタリアの敗北を確信していたフィールドで、ロベルド・バッジョだけは勝ちを信じていた。

チームを救う一点。土壇場で決めたその一点はワールドカップの歴史に残る一点だ。

その後PK戦までもつれ込んだ試合に見事勝利。続くスペイン戦、ブルガリア戦でも決勝点を決め、チームはついに決勝戦へと進出した。

相手は怪物ロマーリオ擁するブラジル。

決勝戦は歴史に残る戦いではあったが、両エースストライカーは点を決めることが出来なかった。結果はPK戦の末にブラジルが勝利。イタリアは準優勝にとどまった。

1994年当時ロベルド・バッジョは怪我に苦しめられていた。そんな中での活躍劇は、世界を熱狂させた。

本当のスーパースターとはロベルド・バッジョのことを言うんだと、幼き日の俺は思った。

1993年にはバロンドールを受賞しており、まさに「イタリアの至宝」と呼ぶにふさわしいフットボールプレヤーであった。

第14位:マルコ・ファン・バステン

3度のバロンドールを受賞したオランダのストライカー。

プロ初出場は17歳の時で、ヨハン・クライフ直々の指名による交代だった。若き日のファン・バステンはその試合でハットトリックを決め、鮮烈なデビューを飾る。

1982年から1987年までオランダのトップチームであるアヤックスでプレーした後、イタリアきっての実業家ベルルスコーニの所有となったACミランへ移籍。ライカールトやルート・フリットなどと共にオランダトリオとしてミランの黄金期を創出した。

チームは二度もチャンピオンズリーグに優勝するも、ファン・バステンは1995年には怪我で引退。まだ28歳のことで、30になる前の引退はファンからもチームからも、そして敵からも非常に惜しまれた。

イタリアでのクラブ通算成績は280試合218得点と驚異的なもので、オランダ代表としても58試合出場24得点をあげている。

生涯成績は431試合出場300得点。

ワールドカップのトロフィーなどには無縁であったが、欧州選手権では優勝、そのプレーは多くのフットボールプレイヤーに影響を与え、多くのサポーターを魅了した。

188cmの長身を活かしたヘディングを始め多くのシュートパターンを持ち、いかなる状況、いかなる角度からでも点が取れるプレイヤーで、シュートテクニックに関して言えば歴代サッカー選手の中でもベストであると言って過言ではないだろう。

第13位:ゲルト・ミュラー ドイツ FW

 デア・ボンバー(爆撃機)の異名を持つドイツサッカー界のレジェンド。

ストライカーとしての能力を見れば歴代サッカー選手の中でもトップであろう。

1964年から1979年までの長きに渡りドイツトップクラブのバイエルンミュンヘンに所属し、4度のリーグ優勝、3度のチャンピオンリーグ優勝を経験し、自身は7度の得点王に輝いている。

1972年の欧州選手権では4得点をあげチームは優勝。

クラブリーグや欧州選手権での活躍はもちろん、ワールドカップでも大活躍しており、1970年と1974年の2度の出場で14得点をあげており、1970年には大会得点王、歴代記録としては2006年にロナウドに抜かれるまで32年間トップの座を守っていた。現在ではクローゼが1位となったため歴代第3位の記録保持者となる。

1974年の母国開催においては決勝のオランダ選において決勝点となるゴールを決め、見事ドイツを優勝へと導くと絶頂期の28歳でドイツ代表を引退した。

 生涯成績は660試合出場589得点。

驚異の得点率である。

第12位:パオロ・マルディーニ イタリア DF

 サッカー史上の最も優れたディフェンダーを考えた時、真っ先に頭に浮かぶのがマルディーニの名だ。

 史上最高の左バックと呼ばれ、1978年のユース時代から2009年の引退まで一貫してACミランでプレーをし、「グランデ・ミラン」と言われたイタリアのレジェンドである。

 マルディーニ在籍中のミランはセリエAで7回、チャンピオンズリーグに5回優勝しており、ブラジルの怪物ロナウドは過去対戦した相手の中で最強はマルディーニだったという旨の発言をしており、ロマーリオやストイチコフと言った歴史に残るストライカーたちを完封するなど史上最強のディフェンダーの名にふさわしい活躍を見せた。

 1994年のアメリカワールドカップにおいては決勝まで駒を進めており、世界最強の攻撃力を誇るブラジルを相手に無失点で試合を終えることに成功。最後はPK戦にて敗北してしまうが、そのことはマルディーニの評価を落とすものではなかった。

ワールドカップには90年から2002年までの計4回出場し、準優勝一回3位一回、ついに優勝を経験することはできなかった。

イタリア代表やミランにおいて、チームをまとめるキャプテンとしても活躍し、126試合という長期間イタリア代表のキャプテンとして活躍。セリエAにおける最多試合出場記録(647試合)、ワールドカップにおける最多時間出場記録(2217分)など数多くの記録保持者でもある。

第11位:ジネディーヌ・ジダン フランス MF

ジズーの名で親しまれた史上最高のMFの1人。

フランス代表としては母国開催のワールドカップにてチームを優勝に導き、ユヴェントス時代の1998年にはバロンドールを受賞、移籍後のレアル・マドリード時代にはロナウドやベッカムと共に「銀河系軍団」の1人としてサポーターを大いに沸かせた。

ジダンの両親はアルジェリア独立戦争の前に戦禍を逃れてフランスに移り住んだ移民であり、ベルベル人の血を引くジダンは移民にとって希望の星であった。そのためか非常に人気が高く、フランス移民からは英雄視されている。

ジダンの家は貧しく、近くの広場のようなところで少年ジダンはひたすらボールを蹴っていたのだという。

9歳の頃に地元のクラブチームにスカウトされると次第に頭角を現し、11歳の時には親元を離れてサッカーに打ち込み、16歳からプロデビュー。以降の活躍は先述の通りである。

「マルセイユルーレット」など歴史に残る技術も開発し、その功績が忘れ去られることはないであろう。

フランス史上最高のフットボールプレイヤーの1人である。

第10位:ミシェル・プラティニ フランス MF

フランス史上最高の選手はジダンがプラティニか?

この問いはフランスサッカー史の最大の命題であり、常に議論の絶えない部分である。

当のジダンもそのあたりは意識しているようで、どこかの雑誌でインタヴューに答えていたのを見た記憶がある。ジダン曰く、時代が進むにつれて技術的には進んでいくけれど、その分ずば抜けたスターは出にくくなるとのことだった。それはサッカーにだけ限定したことではなく、あらゆるスポーツでそうなる宿命なのだと。例えばマイケルジョーダンを越えるスーパースターが中々でないように。

そういった意味でジダンは、プラティニのスター性に自身は及ばないと言っていた。技術に関しては言及していなかったということは、技術にはやはり自信があったんだと思う。

で、今回ジダンとプラティニ、どちらの順位を上にするか非常に迷った。

ワールドカップでの活躍を重視すればジダンだろうが、プラティニは合計3度のバロンドールを受賞している。3年連続、しかも圧倒的な得票数での受賞である。そのことを考慮してプラティニをより上位とした。

両者ともユヴェントスで活躍しており、プラティニは自らPKを決め、1985年にチャンピオンズカップ優勝を果たしている。

 しかしこの際に「ヘイゼルの悲劇」と呼ばれるサポーターの暴動が起きてしまい、死者39名を出す大惨事となってしまう。このことでプラティニは罪悪感に悩まされてしまい、以降も大いに苦しむことになり、1987年には現役を引退してしまう。

「Le Roi」の愛称で親しまれ、コート上のナポレオンの異名をとったプラティニだったが、実は心肺機能が弱く、10代の頃はそれが理由でプロ契約ができないほどであった。

しかしそのプレイは数多くのフットボールプレイヤーから賛辞され、サッカーの神様と呼ばれるペレは、プラティニに対して以下のような評価をしている。

「いかなる時代のブラジル代表においても、いかなるポジションを務めることが出来ただろう、唯一のフランス人選手」

第9位:プスカシュ ハンガリー FW

 1927年に生まれ、709試合出場746得点というウソみたいな記録を持つハンガリーのフットボール選手。

ハンガリー代表としては85試合出場84得点というハンガリー歴代サッカー選手の最多得点記録をもっており、彼が代表の間ハンガリー代表は31連勝というとんでもない連勝記録を樹立している。ちなみに32戦目は1954年のワールドカップ決勝のことで、プスカシュのシュートがオフサイド判定となってしまい、この大会は西ドイツの優勝で幕を閉じることになる。

1956年のハンガリー動乱に巻き込まれ西側に亡命するなどそのキャリアの多くを犠牲にしてしまったが、30を過ぎて入団したレアルマドリードではデ・スティファノと共に活躍し、リーグ得点王4回、チャンピオンズカップ3回、スペインリーグ優勝5回など華々しい記録を残す。

サッカー界におけるレジェンドの1人と言えるだろう。

その功績をたたえ、FIFAはその年の最も美しいゴールに対し「プスカシュ賞」という名の賞を与えるようにしている。

第8位:ジーコ ブラジル MF

 ペレをして自分に最も近づいた選手と評され、サッカーの神と呼ばれた男ジーコ。

キャリアの晩年を鹿島アントラーズで過ごし、日本代表の監督を務めたことで日本にも非常に馴染みの深い人物であるが、プレイヤーとして1978年から1986年までの合計3回のワールドカップに出場し、優勝こそできなかったもののブラジル内での評判は非常に高かった。

優勝しても非難されたドゥンガとは大きな違いである。

特に1982年において、先に紹介したファルカンやソクラテスなどと共に「黄金のカルテット」と言われたメンバーの揃ったチームは、歴代最高のセレソンであるとも言われ、その超攻撃的な姿勢は優勝できずともブラジル国民から称賛された。

日本で言えば白鳳や朝青龍よりも貴乃花が称賛されるようなものかも知れない。

ジーコ自身は歴代でも最高のドリブラーであると同時に卓越したフリーキッカーで、かつパスの精度もシュートの精度も高いというトランプで言うところのオールマイティーのような存在であり、「マナラカンの英雄」「白いペレ」などの異名も持つ。

ちなみに「ジーコ」も綽名で、本名はアルトゥール・アントゥネス・コインブラと言う。ジーコはポルトガル語で「小僧」という意味らしく、小さいころサッカーの試合を見ては大騒ぎをしていて、そのころについたあだ名であったという。

キャリアのほとんどを南米のチームフラメンゴで過ごしており、2年間だけイタリアのウディゼーネで過ごした。

生涯において、1180試合に出場し826のゴールを記録した。

サッカーの神と呼ばれるに相応しい数字である。

第7位:ヨハンクライフ オランダ FW

 バロンドールを3度受賞したオランダフットボールの歴史におけるレジェンド。

身長は176cmとオランダ人としては小柄の方だが、身体が弱く、体重も70kgとフィジカルが強いタイプのプレイヤーではなかった。しかしそれを補って余るテクニックの持ち主で、彼の名前を冠した「クライフターン」なる技もあるほどで、繊細なボールタッチやDFのプレスやスライディングを見事に回避していく様子から「空飛ぶオランダ人(フライングダッチ)」の異名をとった。

ユース時代の1957年から1973年までをオランダのトップチームアヤックスで過ごし、その後は1973年から1978年までをスペイントップチームのバルセロナで過ごす。

 アヤックス時代はリーグ優勝6回、チャンピオンズカップ優勝3回を経験し、自身は2度の得点王に輝いている。

 チャンピオンズカップにおいてはベッケンバウアーやゲルト・ミュラー、ゼップ・マイヤーなどを擁するドイツのバイエルン・ミュンヘンとの激しい戦いにおいては1勝1敗になるも得失点差で駒を進め、決勝ではユヴェントスを抑えて優勝。ヨハンクライフの名は世界に広まった。

バルセロナ移籍後も大活躍をし、地元紙は連日クライフの活躍を「エル・サルバドール(救世主)」として称賛していたほどである。

ワールドカップにおいては1974年の西ドイツ大会に出場し、全員攻撃全員守備の「トータルフットボール」で勝利を重ねていく。ついには決勝まで駒を進めるも、「カイザーフランツ」ことフランツ・ベッケンバウアー擁するドイツに敗退。それでもオランダ代表の最高位である準優勝を獲得、オランダ国民の歓待によって国内に迎え入れられるのであった。

 引退後はアヤックスやバルセロナなどの監督を歴任、一方で基金を設立しヨハン・クライフ財団やヨハン・クライフ大学を創設するなど社会的な活動もするようになる。

生涯成績は752試合出場422得点。

ヨハン・クライフの哲学は「相手が何点取ろうが、それより多くの得点を取れば問題はない」という生前残した言葉によって表されている。

第6位:クリスチャーノ・ロナウド ポルトガル FW

1日500回の腹筋を欠かさない生ける伝説。

イングランドリーグで3回、スペインリーグで1回、セリエAでも1回のリーグ優勝を経験し、チャンピオンズリーグでは7度の得点王、レアル・マドリードにおける最多得点記録保持者、プレミアリーグシーズン最多得点記録保持者、チャンピオンズリーグにおける最多得点記録保持者、5度のバロンドール受賞など世界史上例がないほどの活躍ぶりである。

189cmの長身を活かし、ヘディングでも点がとれ、華麗なシュートテクニックはもちろん、ドリブルスピード、精密なボールタッチなどで敵をかく乱することもでき、どうやっても止められないフットボールプレイヤーで、2019年現在も様々な記録を更新中である。

2019年現在で909試合出場658得点。この記録もまだまだ伸びるであろう。

第5位:アルフレッド・ディ・スティファノ アルゼンチン FW

アルデンチンのレジェンド、というよりもレアルマドリードのレジェンドと言った方が良いかも知れない。

ディスティファノは史上最高のサッカー選手の1人で、マラドーナをして「私がペレよりも優れた選手かどうかはわからない、しかしディ・スティファノがペレよりも優れた選手であることは疑いようのない事実だ」と言わしめ、当のペレにおいても「史上最高の選手はペレかマラドーナだと皆さんはおっしゃるが、私にとって最高の選手はディ・スティファノだ」と語っている。

これほどの選手が日本での知名度0なのは、ディ・スティファノがワールドカップに出場していないからであろう。

 1950年、1954年のワールドカップはともにアルゼンチンがワールドカップに出場していない年であったため、ディ・スティファノはワールドカップのピッチに立つことさえできなかった。

彼の本領はスペインリーグにおいて発揮された。

いまでこそレアル・マドリードはサッカーに興味のない人でさえ聞いたことのあるビッグネームだが、ディ・スティファノが入団するまではリーグ優勝を二回経験しただけのチームであった。

しかしディ・スティファノが入団した1953年から1964年の間にリーグ優勝を8回、チャンピオンズカップ5連覇、自身も得点王5回、バロンドール2回受賞とウソのような大記録をマークしている。

生涯成績は1126試合893得点。

2008年に行われたレアル・マドリードにおける最優秀選手を決める投票において、ジダンを抑えて1位に選ばれており、同世代の選手、後世の選手、あらゆるサッカーファンから最大の賛辞と評価を受けており、間違いなく史上最高のサッカー選手の1人であると言えるだろう。

第4位:リオネル・メッシ アルゼンチン FW

 本当にすごいサッカー選手というのは、サッカーにまるで興味のない人でさえその名を知っている選手のことであろう。

メッシは現代社会における最高のスターである。身長は170cmとサッカー選手としては小柄だが、その創造性豊かなプレーは確実に人をひきつけ、魅了する。

 真に偉大な選手はただ巧いだけではダメで、そこに何らかの価値が必要だと思う。そしてメッシはその「価値」を持っている。

メッシは13歳で名門バルセロナに加入して以来ずっとバルセロナでプレイをしてきた。その間に10度のリーグ優勝、6度のコパ・デル・レイ、4度のチャンピオンズリーグ優勝を経験。個人としては5度のチャンピオンズリーグ得点王、5度の欧州得点王、5度のバロンドールに輝いている。

2010年からはアルゼンチン代表のキャプテンも務めており、2014年のブラジル大会では堂々の準優勝、決勝で得点を決められなかったせいか授賞式の表情は暗かったが、大会MVPであるゴールデンボール賞も受賞した。

2012年には公式戦69試合に出場し91得点をあげ、これは40年前にゲルト・ミュラーの作った年間85得点を大幅に更新しての記録であり、数々の記録を現在も更新中である。

間違いなく現在世界最高のフットボールプレイヤーであり、歴史上もっとも偉大なサッカー選手の1人であろう。

第3位:ベッケンバウアー ドイツ MF/DF

 「カイザーフランツ」の異名をとるドイツの偉大なフットボールプレイヤー。

1974年母国ドイツで行われたワールドカップにおいては「空飛ぶオランダ人」と呼ばれたヨハン・クライフ擁するオランダを決勝で征し、皇帝の名に恥じぬ活躍を見せた。

クラブチームでは1959年のユース時代から1977年まで名門バイエルン・ミュンヘンでプレーし、ドイツリーグ3連覇、チャンピオンズリーグ3連覇などの偉業を成し遂げる。

個人記録で言えば、4度のドイツ年間最優秀選手、2度のバロンドール、そして「ジルバーネス・ロールベアブラット」を始めとした沢山の勲章を授与されている。

 ベッケンバウアーの偉大なところは、チームをチャンピオンズリーグ優勝に導いた上に母国にワールドカップ優勝の栄冠をもたらしたことであろう。それはメッシにもクリロナにもディ・スティファノにさえできなかったことだ。

 ポジションは基本的にはDFだが、元々はFWとしてプレーしていたこともあり、攻めにも守りにも適応でき、実際に100得点以上をマークしている。どのポジションでもプレーできることから「リベロ」システムの確立者と言われることもあり、史上最高のサッカープレイヤーとしても名高い。

ベッケンバウアー以降、どのポジションでもプレーできるようなオールラウンダーなプレイヤーは出ていない。その唯一無二性が、ベッケンバウアーを最も偉大なサッカー選手として際立たせている面もあるだろう。

ベッケンバウアーの前に人はなく、ベッケンバウアーの後にも人はいない。

俺が個人的に最も好きな選手である。

第2位:ディエゴ・マラドーナ アルゼンチン FW 

もはや説明不要のスーパースター。

史上最高のサッカープレイヤーの1人であり、マラドーナの存在はサッカーという枠組みを超えている。

特に1986年のメキシコ大会でのマラドーナの活躍は神話じみており、宿敵イングランド戦で見せた5人抜きはサッカーを知らない人でも知っているほどのプレーであった。

さらに同試合では「神の手」と言われる伝説的なゴールが誕生する。

どう見たってハンドなのだが・・・

決勝のドイツ戦ではローター・マテウスの厳しいマークにより点を決めることはできなかったが、決勝点をアシストする活躍を見せ、チームを見事に優勝に導いた。

アルゼンチンが決めた14得点のうちマラドーナ自身によるものが5、アシストも5と半数以上がマラドーナに直接関係しており、彼の活躍がなければ優勝は不可能であり、1986年のメキシコ大会そのものが「マラドーナのための大会」と言われたほどであった。

マラドーナの存在はもはや「サッカーの歴史」を飛び越えて、「世界史」に記録されるべきであり、そこまでの存在を示したのは、長いフットボールの歴史の中でもマラドーナとペレだけである。

第1位:ペレ ブラジル FW

 1位2位は恐らくどこからも反論が出ないのではないかと思う。

ある日ディ・スティファノに対してある記者が質問した。

「メッシとクリスチャーノ・ロナウドのどちらが最高の選手なのか?」

ディ・スティファノは迷うそぶりすら見せずに即座に答えた。

「どちらでもない。最高の選手はペレだ」

ペレはおそらく人ではなく神なのだと思う。そうでなければ説明がつかない。

ペレの持つブラジル代表通算77得点は、怪物ロナウドでさえ超えられなかった。2位のロナウドが62得点であったことを考えるとそれがいかにとんでもない記録かわかるだろう。

ペレの偉大さのまず何から語ろうか?

ペレがデビューしたのは15歳。日本で言えば中学生か高校生の年齢だ。

彼は9歳の時、ブラジル代表がワールドカップ決勝でウルグアイに敗北した通称「マラカナンの悲劇」を目撃していた。ペレの父は大変に落胆し、幼きペレは父親を励ますためにこう言った。

「悲しまないで父さん、僕が必ずブラジルを優勝させてあげるよ」

その言葉の通り1958年に行われたスウェーデンワールドカップに出場すると準々決勝ウェールズ戦において初得点を決める。ペレはまだ17歳で、その時に記録した17歳239日でのワールドカップ初得点は史上最年少記録であり、2019年現在でも破られていないほど偉大な記録である。

 続く準決勝のフランス戦ではハットトリックを決め、決勝のスェーデン戦でもゴールを決めてチームは優勝。母国に初のワールドカップ優勝をもたらした。

その後も3度、合計4度ワールドカップに出場し、いずれも激しいマークにあうものの合計3度のワールドカップ優勝を母国にもたらした。

ワールドカップ史上最も優勝回数の多い国はブラジルで5回であるが、そのうち3回はペレ在籍時のことである。

クラブチームとしてはブラジルにあるサントスに在籍し、のちにアメリカでキャリアを終える。

通算成績は1375試合出場1284得点。

あまりにも圧倒的な数字である。

ペレに対するラフプレーを防ぐためにイエローカード・レッドカード制度が導入され、ペレのナンバーであった10番はエースを表す数字になり、相手選手が怪我した際に試合をとめるためにボールを外に出すプレイもペレが始めたという。

起源にして頂点という言葉もよく似合う。

世界中でこれほどまでにサッカーが人気スポーツになったのもペレの功績であるとさえ言って良いだろう。

まさに最も偉大なサッカー選手に相応しい実績である。

サッカーの王様と称され、様々なフットボールプレイヤーがペレに賛辞を贈っている。

「ペレは論理の限界を超えた唯一の選手だ」 ヨハンクライフ

「時々、サッカーという競技は彼の為に創造されたのではと考えることがある」 ボビー・チャールトン

「私は様々な国を訪れた経験があるが、その中にはペレをブラジルという国と同義語として認識している国もあった」 ジーコ

「自己紹介の必要はありません。あなたのことを知らない者などいませんから」 ロナルド・レーガン(アメリカ大統領)

ランキングを終えて

 結局前回、前々回よりも大変だった。

過去2回とも自分の好みで済んだけど、今回は中々そうもいかないところもあって、自分の中でもここはどうなんだろうと言うところは結構ある。

そして100じゃ足りなかった!

思いつくままにフットボールプレイヤーを並べていたらいつの間にか200を越えていて、100まで頑張って削っても次から次へと色々な選手を思い出し、思い出しては誰かを削除し、あぁでもないこうでもないと考えていたらこんな感じになっていた。

でも、順位はともかくこれがベストな100人かなと思う。

本音を言えば結構ランクインさせたい選手は結構いた。ラウールとかピルロとかクライファートとかバラックとかトニーニョ・セレーゾとか色々。

 自分で儲けた縛りだけど100人に絞るのが一番きつかったような気がする。

こういうのは100人いたら100通りの順位があると思うし、中には「自分の好きな○○が入ってないじゃないか!」「〇〇が〇〇位なのはおかしい」という意見もあると思うけど、そういうのを含めて楽しんでいただけたならうれしく思う。

今回は文字数は少な目にするつもりだったけど、気が付いたら38000字を越えていた。動画も含めて全部見たらかなりの時間泥棒になってしまうだろうなぁと思う。でもきっと悪い時間じゃないはず。

今回は過去2回よりもさらに時間がかかってしまった。最大の理由は動画を見まくってしまったことだ。

どの選手も当然のように魅力的で、そのプレーに見入ってしまって、記事が遅々として進まなかった。

「ベスト100シリーズ」はかなりしんどいんだけど、やっていて結構楽しいのでこれからも続けて行こうかと思っているけど、実際に続けられるかどうかは今回の記事次第だな(><)

はかってはいないけれど、今回の記事には40時間以上作成時間がかかったと思う。

良くも悪くも過去2回が予想よりも反響が大きかったおかげで今回は結構プレッシャーだった。下手なものは作れないし。

てな訳で今回の記事はここまで。ここまで読んでくれて本当にありがとう。

よかったら過去2回の「ベスト100シリーズ」も見てくれよな!

www.myworldhistoryblog.com

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