ハミルカル・バルカ、その雷光のような生涯について

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ハミルカル・バルカの名前を聞いてピンとくる日本人は何人いるだろうか?

日本での知名度はほぼ0であろう。

彼は一体何者なのか?

それはおいおい話すとしよう。

ハミルカル登場

ハミルカル・バルカは紀元前275年、現在のチュニジアにあたる古代カルタゴに生まれた。

カルタゴは紀元前264年からローマとの戦争を始めた。かの有名なポエニ戦争である。

ポエニ戦争は全部で3回あり、第1回目は紀元前264年から紀元前241年の間の実に20年以上の長きに渡って戦い続けた人類史の中でもかなり長い期間で行われた戦争であると言える。

第二次世界大戦が1939年から1945年の間の6年間だった訳だからその長さがわかるというものであろう。

戦闘は当初はカルタゴ側が有利だった。特に海戦においてはローマはほとんど経験がなく、カルタゴ側との戦力差は圧倒的。まるで相手にならない状態だったがローマも独自技術で船を改良すると海戦に勝利するようになる。

ただしローマは海戦には強くても航海技術が未熟で戦闘からの帰還の際に大打撃をこうむってしまう訳であるが、戦況は次第にローマの側に傾いてきた。

第一回目のポエニ戦争はアフリカではなく地中海に浮かぶシチリア(現イタリア領)が舞台となっていた訳だが、戦争前は西半分以上をカルタゴが領有していた。

つまりこんな感じ。

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 カルタゴはアルファベットを作り出したフェニキア人の国で、ギリシャ没落後の地中海の覇者であった。

ちょっとややこしいんだけど、シチリアには未だにギリシャ人のポリス(都市国家)が残っていて、その代表的な都市シラクサは事実上ローマの勢力であった。つまり当初はギリシャ人対フェニキア人の戦いだったのがギリシャ人&ローマ対フェニキア人になったわけだ。

それがローマ側の攻勢によりマルサラとトラバニという西部の都市を残してシチリアの勢力は後退していったのである。

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今回の主役ハミルカルが参戦したのはそのような時だ。

 彼がポエニ戦争に参戦した年は紀元前247年、もうすぐ戦争が終ろうという時であった。

カルタゴに起きた権力闘争

ポエニ戦争が起きた当初の国力を考えれば、圧倒的にカルタゴの方が有利だった。技術の面でも兵力の面でも圧倒的だったと言えるだろう。

それでもカルタゴ側が劣勢になってしまったのにはいくつか理由があるが、その1つ最も大きかったのがカルタゴ内の政治紛争に遭ったと言える。

ローマは執政官コンスルが軍事権をも握るいわば軍事国家であるのに対しカルタゴは農業に重きを置く農政国家である。そのため兵力はローマ側が自国民であるのに対しカルタゴ側は傭兵に頼っている。

実際にハミルカルが率いていたのも傭兵であったし、初期においてカルタゴ側を率いていたのは軍事国家スパルタの傭兵クサンティッポスであった。

カルタゴ内においては軍事を重視する一派と内政を重視する一派に分かれてしまい、お互いの足を引っ張るようになってしまっていた。

のちの三国志でも袁紹軍がこのような内部分裂で滅んでしまったが、時代や場所が変わってもやっていることは変わらない。漫画「「進撃の巨人」なんかもこの部分をうまく描いている。

 ハミルカル率いるバルカ一派は軍事に重きを置く勢力であったが、当時内政重視派を率いていたハンノン一派とは非常に仲が悪かった。

ハミルカルが実際に率いることができたのは二個師団レベルの兵力で、当時の劣勢を挽回することは不可能な兵力であったという。

ハミルカルはローマの駆逐をあきらめ持久戦で和議を狙う戦略をとることにした。

彼は残っていたマルサラとトラバニには陣を張らず近くの山の上に張った。山頂布陣である。

ローマ軍がどちらかの都市を攻撃すればハミルカルが背後をつくというような形にすることで膠着状態を狙った訳である。

 事実ハミルカルは無敗であった。精強なローマ兵相手に一度も負けなかった。

だが、ローマ軍はこれに対抗するために海からマルサラを攻めることにした。あえてハミルカルと戦わない戦略をとったのである。そのためローマは初の戦時国債の発行をおこなったぐらいだ。

ローマの艦隊によってマルサラは落ちた。カルタゴからの艦隊は来なかったという。恐らくは内部闘争の結果艦隊を派遣できなかったのであろう。社内の一大事になっても何も決断できないお金だけは持っている大企業のようなものである。社内政治に疲弊した結果業績不振に陥った日本企業は腐るほどある。

カルタゴはマルサラが落ちた後に艦隊を派遣した。結果的に言えばカルタゴの艦隊はローマの艦隊に敗北した。ローマ側の損傷も激しかったようだが、カルタゴ側はほぼ全滅に近かったようである。

ハミルカルはそれを見ていることしかできなった。

カルタゴは、負けたのだ。

ポエニ戦争後

 カルタゴはポエニ戦争の講和をローマに申し込んだ。代表はハミルカル。

ロ―マ側の代表は当時執政官だったカトゥルスで、ロ―マのシステムとして戦時中の決定権は執政官がその権限を持っていた。

両者の間で結ばれた講和の内容は以下の通り。

・カルタゴはシチリア内の領有権は永久放棄
・カルタゴはシラクサを含めたローマ友好国には攻め入らない
・両国とも捕虜は無条件解放
・カルタゴはローマに賠償金を支払う
・カルタゴの自治と独立をローマは保証する

 

この時のハミルカルはきっとただただみじめな気持ちであっただろう。ローマ側からの条件を一方的に飲むしかなかった訳だから。

更にこの後カルタゴ側はポエニ戦争に参戦した傭兵たちへの報酬の支払いを渋るということをしてしまう。

これはカルタゴ内の反ハミルカル派の嫌がらせであると言われていて、当然の如く傭兵たちは激怒した。

傭兵たちは兵団を組織しカルタゴへの反乱を試みた。その反乱にはカルタゴに不満を持つ諸都市の兵力も加わり、数万の規模にまで膨れ上がることになる。

その反乱を鎮圧したのは他でもないハミルカルである。

彼は1万にも満たない兵力で反乱を鎮圧してしまった。しかも反乱兵側は全滅である。ハミルカルがいかに優れた将軍であるかが良くわかる話だ。

その後ハミルカルはカルタゴの本拠であるアフリカを去りスペインの開発に乗り出すようになる。

ハミルカルの胸の内にはローマへの復讐の炎が燃えていた。彼は幼き息子を従えてバール神殿に赴き、息子にローマ打倒を誓わせた。

彼はスペインで兵団を組織し、瞬く間にスペインを制圧してしまった。制圧した土地には農園を作り、鉱山を開発し、カルタゴ、いやバルカ一族に富をもたらした。

全てはローマを打倒するためである。

ハミルカルは息子に己の持つすべてを教えた。

ハミルカルは紀元前228年に息を引き取った。

跡を継いだのは娘婿のハシュルゥドバル。

彼はローマとの交渉をうまくやった。ローマに攻め込まない代わりにスペインの領有権をみとめさせたのである。

彼は国を富ませ、静かに時を待った。

ハミルカルの息子がいつか父の無念を、カルタゴの無念を晴らしてくれることを信じて。

ハミルカルの息子の名はハンニバル・バルカ。

後に史上最高の戦術家と言わしめた世界史を代表する武人である。

 彼がローマを震撼させるのはまた別の話。