最悪は誰だ?ローマの歴史における暴君ランキングワースト10!

「絶対的権力は腐敗する」 という言葉の通り、強すぎる権力は確実に腐敗を生む。

名君を多数輩出したローマであるが、同じくらい暴君も輩出している。

今回はローマ1000年の歴史における暴君10人を紹介しよう。

第10位:ドミティアヌス

記録抹消刑を受けた数少ない皇帝で、それゆえ記録が残っていない。

同時代を生きたローマ最大の歴史家タキトゥスの同時代史において、ドミティアヌス帝の部分は散逸しており、実際にどれくらい酷かったのかはわからない。

五賢帝と言われているハドリアヌスも記録抹消刑をうけそうになったぐらいなので、この刑は主に元老院と敵対した人物に与えられる刑な訳だが、 彼が暴君と言われるのは以下のことをしたからだという。

・兄を暗殺した
・男色家であった
・ローマ市民を度々処刑した
・浪費をして国家財政を破綻させた

このうち兄の暗殺は恐らくない。

ローマ市民を度々処刑したのは本当であったようだ。

浪費に関しても確かだが、それでもライン川とドナウ川を結ぶ防衛線「リメス」を建設したのも確かで、このリメスのおかげで続く五賢帝時代に平和が享受できたのも確かなので、この部分を暴君とするのは難しいところである。

問題だったのはデラトールと呼ばれる密告者を利用し恐怖政治を行ったことと終身財務官という役職を作って独裁を試みたことであろう。

ローマの皇帝はオリエント的な専制君主ではなくあくまでローマ第一の市民であるプリンケプスなのである。

同じく独裁を目指したカエサルは暗殺された。ドミティアヌス帝も同じく暗殺された。下手人はステファノという解放奴隷だが、背後には元老院がおり、次の皇帝であるネルヴァが犯行に関わっていたとする説が古来より根強い。

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第9位:ルキウス・タルクィニウス

多分知っている人はほとんどいないであろう。

最後のローマ王の名前はルキウス・タルクィニウスであり、彼が暴君過ぎたためローマは王政を廃止し、共和政に移行したのである。

ローマは王政とは言っても世襲制ではなかった。優れた者が元老院などの承認を受けて王になるという不思議な国家だったのだが、タルクィニウスは唯一野心をもってローマ王となった人物で、義理の父である先王セルヴィスを妻と共謀して殺害し無理矢理王になると、自分の意に沿わない元老院議員を次々と処刑していった。

先王の葬式さえも禁止することで人気はなかったが、息子がルクレティア事件を引き起こしてさらにローマ市民の失望を買う。

この事件をきっかけにローマは反タルクィニウスに傾き、彼は国外逃亡、亡命先で暗殺されたという。

ただこの王の場合、奥さんや息子の方が暴君の名にふさわしい気もする・・・

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第8位:ネロ

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ローマ皇帝と言えばネロ、ネロと言えば暴君、ローマ皇帝と言えば暴君、そんなイメージさえあるある意味最も有名なローマ皇帝がネロだ。

ネロは最初の5年間は比較的まともな政治をしていた。セネカやブルス、コルブロといった優秀な配下たちはいたし、先帝であるクラウディウス帝が摂生に努めていたおかげで財政的にも当初は健全だった。

よく言われている通り、ネロの家庭教師でもあり政策の要でもあったセネカが去ってからおかしくなった。

ネロは義理の弟であるブリタニクスを暗殺し(証拠はない)。母親であるアグリッピナを暗殺するとその暴走を加速させた。

64年にローマで大火が起こるとその原因をキリスト教徒による放火だと断定し、裁判もなしに虐殺してしまう。この際初代ローマ法王とされるイエスの弟子ペテロも亡くなったという。

無罪のキリスト教徒の処刑をネロは笑ってみていたと伝えられている。無罪であることを誰よりも知っている張本人が、である。

そしてネロは大火で燃えた場所に黄金宮殿と訳されるドムス・アウレリアの建設を開始、元老院の顰蹙をかった。

 やがてネロ帝暗殺未遂事件であるピソの陰謀事件やベネベントの陰謀事件などが起こり、陰謀に加担したとして多数の元老院議員やネロの身の回りの人物も次々と処刑された。この中には恩師であるセネカも含まれていたという。

この事件の影響で名将コルブロも処刑されることになり、このことで元老院や各地の属州に総督たちの怒りと恐れが最高潮に達した。

属州総督オトーはローマに進軍し、元老院もこれを支持、ネロを差し置いて皇帝と認めてしまう。

追い詰められたネロは逃亡し、自死を選んだ。

 ネロはギリシャのオリンピア競技をローマにもたらしたり劇場で歌うなど憎めない面もあり、死後ネロのために花を捧げるローマ市民は多かったという。

またペルシャのパルティアとの関係も良好で、アルメニア王などはネロが暗殺された後でもネロの誕生日を祝わさて欲しいとローマに頼んだほどであったという。

ネロの時代から数えて50年ほどはローマとペルシャの間で戦争はなく、外交面で言えば、まぁ大体コルブロの功績なのだが、功績があると言える。

ネロに関しては近年再評価の流れもあり、暴君であったのは間違いがないが、なぜか個人的には憎めない人物なんだよなぁ。

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第7位:コンモドゥス

映画「グラディエイター」での悪役であり、世界的に有名な暴君コンモドゥスが7位というのは順位が低すぎると思う人も多いかも知れない。

それはコンモドゥスが良い皇帝なのではなくてもっと酷い皇帝がまだたくさんいるからである。

コンモドゥスは典型的な暴君で、佞臣の讒言を信じローマ市民を処刑し、官職の売買に手を染めた。

意に沿わない者はすぐに処刑し、近衛長官の中には就任してから6時間で処刑された者もいたという。

自らはヘラクレスのコスプレをしてコロッセオでよく剣闘士として戦っていたようで、必ずしもローマ市民からは嫌われてはいなかったようだ。

この辺りはネロと共通することかも知れない。

ネロと違うのはキリスト教徒を迫害しなかったことであろう。

ローマ帝国とは不思議なもので、統治に熱心な皇帝ほどキリスト教を弾圧し、そうでない者ほど寛容である。

コンモドゥスに唯一擁護できる点があるとしたらキリスト教徒を弾圧しなかったことぐらいかもしれない。

コンモドゥスの最期はローマの暴君にお約束の暗殺で、実行犯は使用人だったというが、背後に元老院や近衛兵がいたのは確かであろう。

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第6位:カリギュラ

カリギュラが就任した時、ローマは歓喜した。

カリギュラの皇帝就任を祝うお祭りは数か月にも及び、ローマ市民は幸福に包まれたという。

その理由の1つは先帝であるティベリウスが人気のない皇帝であったこと、もう1つはカリギュラが英雄ゲルマニクスの実子であり神君アウグストゥスの血を引いていたことにあった。

カリギュラもその期待に応えようと必死であったようで、人気取りのためにローマ市民に金をばらまいたりした。アウグストゥスを祀る神殿を建てたり、水道を作ったり、劇場を造ったり。

一見すると良いことのように思えるが、明らかにそれは浪費であった。

カリギュラは生まれつき脳の障害があったという者は多い。

カリギュラが実際に行ったと言われる行為は以下のようなものがある。

・自分を神だとして全人類にあがめるように言った
・各地に自らの像を作り信仰するように言った
・エルサレムにあったユダヤの大神殿に自らの像を祀らせるように言った(シリア総督ペトロニウスの策により像の建造は遅れ実際には建造されなかった)
・カリグラの病気の回復のためなら命もいらないと言っていた者を「約束を守ってもらおうか」と言って回復したのちに崖から突き落とした
・妻を追放し義父のシラヌスと従弟であり養子であるゲメッルスに自殺を強要した
・自分の実の妹をも神格化させた
・元老院議員を次々に処刑した
・財政難になると無実の人間の罪をでっちあげその財産を没収した
・自分の暗殺を謀っているとする人物を次々と処刑した

これらは信ぴょう性の高い情報で、より信憑性が低い情報となるともっと酷い者が多く、自らの馬を神として崇拝させたとか妹たちとの情事を楽しんだとかすさまじい話が多い。

カリギュラは親衛隊長官であるカシウス・ケレアによって殺された。

ケレアはカリギュラ殺害後大人しく死罪を受け入れたという。

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 第5位:ガイウス・マリウス

 ガイウス・マリウスはローマ第3の建国者ともいわれ、10万人規模で侵入してきたゲルマン人とのキンブリ・テウトニ戦争などを勝利に導いた英雄という側面もある。

軍人としてのマリウスはローマでも指折りの名将である。

しかし政治家としてのマリウスは最低であろう。

平民派の代表としてマリウスは敵対する閥族派の元老院議員やローマ市民たちを虐殺してまわり、ローマに血の海を降らせた。

虐殺の犠牲者の中にはカエサルの叔父やポンペイウスの父、クラッススの父などがおり、ローマを内戦の渦に巻き込んだ張本人とするべきであろう。

軍制改革など功績もある反面、暴政も行った暴君なのである。

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第4位:ヘリオガバルス

セプティミウス帝の妃であるユリア・ドムナの妹ユリア・メサの孫であり、彼女の陰謀で14歳で皇帝になった。

ヘリオガバルスは生まれつき気がくるっていたのか、ここには書けないほどのとんでもない所業を行い、18歳で暗殺された。

暗殺したのは近衛隊長官だった人物で、背後にはユリア・メサがいたという。コントロール不能になったヘリオガバルスを廃止その弟のアレクサンデルを帝位につけた訳である。

ヘリオガバルスが暗殺されると兵士たちは嘲笑の許その遺体を蹴り上げ、市中を引き回し、最後は罪人のように河に投げ込まれたという。

ちょっとかわいそうな気もするが、以下の画はヘリオガバルスが薔薇の花びらで人々を窒息死させようとする様子を描いた絵であり、ヘリオガバルスの異常性と残虐性を表した作品だと言える。

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イギリスの歴史家エドワード・ギボンは「醜い欲望と感情に身を委ねた最悪の暴君」「ヘリオガバルスは全ての点においてローマ史上最悪の皇帝であった」という評価をしている。

個人的にその意見には賛成だが、ローマにはもっと酷い皇帝があと3人いると思っている。

第3位:ホノリウス

暗君度合いでは1位かも知れない。

ホノリウスに関してはわずか10歳で皇帝に就任してしまったという理由はあるものの、政治のことなどは全く分からず、忠臣であるスティリコを佞臣であるオリンピウスの讒言を信じて処刑してしまったり、そのオリンピウスのことも処刑してしまったり、ラヴェンナにひたすら引きこもり、ローマが略奪されても軍を派遣せずにそれを黙ってみていたりかなり酷い。

本当か嘘かはわからないが、ホノリウス帝が「ローマが奪われた」という知らせを聞いた時、飼っていた鳩のローマが奪われたと思い鳩のローマがまだ生きているのを不思議に思ったが、都市のローマだと聞いて全く関心をもたなくなったという話が遺っている。

さすがに創作だろうが、実際にホノリウスはかなりの暗愚であり、その30年に及ぶ治世の間に本当に何もしなかった。

 どれだけ国が荒らされても、どれだけ領民が殺されても、ローマ皇帝は何もしなかった。

そのことに失望したローマ市民はその精神的な支柱をローマ法王に求めるようになる。

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第2位:カラカラ

カラカラ帝の暴君ぶりもすごい。

皇帝に就任するや弟であるゲタを処刑し、父がローマ帝国中に配布した家族の肖像から弟の部分だけを削り取らせることから開始し、ローマ衰退の直接原因ともなった「アントニヌス勅令」を発布した。

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「アントニス勅令」はローマ市民権を領内全国民に与えるという一見その効果が分かりにくい悪法だが、それによってローマ帝国の財源である「属州税」が大幅に減ってしまい、ローマの財政は急速に悪化した。

それだけではなく元々ローマの正規兵はローマ市民権をもつもの、属州明は補助兵とするというシステムであったのが補助兵はなくなり、正規兵となるものも激減し、ローマの動員兵力が激減するという事態を招いてしまった。

さらには無理な遠征や公共事業を多発させ、その財源を確保するためにローマに流通していた貨幣の銀の含有量を減らし、大幅なインフレを引き起こした上に、癇癪もちだったらしくほとんど意味もなくアレクサンドリアの住民を数千人規模で虐殺し、財政がひっ迫すると罪もない人間を裁判にかけその財産を没収していたという。

ネロやコンモドゥスは一代限りで暴君であったが、カラカラ帝に関しては長きにわたって克服しようもない悪政を行い、ローマの国力を大幅に衰退させたことから、暴君度では遥かに上とすべきであろう。

18世紀を生きたイギリスの歴史家エドワード・ギボンは、カラカラをして「人類共通の敵」という評価さえしている。

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第1位:テオドシウス

暴君のイメージはないどころか「大帝」の名前さえついているテオドシウス帝であるが、個人的には断トツの暴君であると思う。

ローマと言えば伝統的に多神教国家で、かつ信教の自由を認めていた。

例えばローマはユダヤとの間に戦争を行っているが、これはユダヤ教を弾圧した訳ではなくユダヤ教徒がローマに対して反乱を起こしたのを鎮圧した訳であって、宗教的な戦争ではない。

しばしばローマ皇帝がキリスト教徒を弾圧したことは確かである。

それはローマ帝国の負の歴史であるというべきであろう。

だがテオドシウス帝がキリスト教を国教にするやローマの主神であるユピテルを裁判において有罪とし、ローマの神々の像を徹底的に破壊しつくした。

ローマには30万人の神々がいるとされ、歴代ローマ皇帝も神格化され像が建てられていたため、この時代に徹底的に破壊しつくされてしまった。

テオドシウス帝が行ったことは文化的なジェノサイドであるというべきであろう。

現代社会の民主的な憲法であれば当然認めてしかるべきの「信教の自由」を否定し、逆らうものは容赦なく処刑したその行動は、まぎれもなく暴君そのものである。

さらに自分の死後幼い子供に帝国を分裂して継がせたことで国力の大幅な衰退を招き、ローマ帝国の滅亡の契機を作ったのも確かだ。

伝統的なローマというものを破壊しつくし、各種の自由権を否定し、人類の文明を大きく衰退させたテオドシウス帝は、ローマ最大の暴君であると言ってもよいだろう。

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