最強は誰だ?戦に強かったローマの名将ランキングベスト15!

 王政から帝政までローマは実に多様な人物を輩出した。

政治、文学、歴史、地理、自然科学、ありとあらゆる分野で人材を輩出したのがローマであったと言えるだろう。

それらの功績は、ある意味ローマの安全保障の賜物と言える。

ローマ軍はいつの時代も強かった。

対外的に言えば常勝とも言えるローマ軍の強さの秘密は、その苛烈な訓練と優秀な指揮官にあると言えるだろう。

当たり前だが本来戦闘とは数が多い方が有利である。

どんな達人でも1人で5人の敵を相手には勝てない。

のだが、ローマの英雄たちはしばしばその何倍もの兵力をもった敵に完全勝利している。

もちろんそれは常日頃から本番さながらの訓練を行っており、ローマ市民権を持つもののみがなれるローマ兵の強さと士気の高さがなせる業ではあったのだが、それでも優秀な指揮官がいなければその強さを十分に発揮することはできなかったであろう。

時には巨大な象に勝った、そんなとんでもなく強いローマの名将たちを、今回はランキング形式で紹介したいと思う!

第15位:アグリッパ

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アグリッパはオクタヴィアヌスことローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの右腕として活躍した人物で、軍事が苦手なオクタヴィアヌスを補佐する目的でカエサルがその傍らに置かせた人物でもある。

当初は若さのせいかフィリッピの戦いにおいてはカエサル暗殺犯ブルータスに敗れてしまうがやがて本格化し、ポンペイウスの子供たちとの闘いや三頭政治の1柱であったレピドゥスを破り、その後は最大の宿敵アントニウスを撃破することに成功する。

軍事の才はアントニウスと同格と見られていたが、徐々にその才能が開花し、スペインで行われたカンタブリア戦争では見事な采配でローマ軍を勝利に導き、その生涯においてオクタヴィアヌスに忠誠を誓い続けた。

まだ17歳だったオクタヴィアヌスの政治的才能、同い年であったアグリッパの軍事的な才能を見抜いていたカエサルは、やはり一流の目を持った人物であっただろう。

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第14位:ゲルマニクス

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ローマ最大の歴史家タキトゥスに「アレクサンダーにも匹敵する才能」と評されたのがゲルマニクスである。

初代皇帝アウグストゥスはゲルマニクスを次期皇帝として期待し、義理の息子であるティベリウスに対しゲルマニクスを養子とすることを条件に次期皇帝に任命する。

初めからティベリウスは中継ぎ皇帝だった訳だが、ゲルマニクスはティベリウスよりも早くに亡くなってしまいそれは実現しなかった。

「ゲルマニクス」の名前が表す通りゲルマン人相手に大勝した人物で、トイトブルク森の戦いで惨敗したローマ人に誇りを取り戻させた存在である。

早死にしたこともあいまってローマでは「ゲルマニクス神話」なるものまで出てくる始末で、その嫌いはゲルマニクスの息子カリギュラが皇帝になった時の熱狂をもって最高潮になる。

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第13位:マクシミヌス・トラクス帝

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この人はローマの人間というよりも三国志とかの中国史に出てきそうな逸話を持った人物だ。

貧しい農民の出であったが怪力を誇るマクシミヌスは、ある日軍団内で開かれた武術大会で16連勝し、それが当時皇帝であったセプティミウス帝の目に留まった。

セプティミウス帝はこの立派な体格の青年を見てニヤリと笑い、馬に乗ると一言「ついてこられるかな?」と言って馬を駆けさせ、はじめは駆け足程度だったが、次第に全速力でかけさせる。マクシミヌスは息も切らさずそれについていったという。

馬を止めると今度は「格闘はできるかね?」と言ってそのままレスリングのようなことをやらせた。マクシミヌスはその後に難なく7人抜きをしたというから人間離れしている。

軍を率いさせてもやはり強く、宿敵ゲルマン人相手に連勝、戦だけで言えば無敵に近かったが、ローマの最高意思決定機関である元老院と対立し、元老院は別の人物を皇帝として承認してしまう。

別の人物はマクシミヌス派の将兵に暗殺され、その後別の皇帝がたてられるもそちらも暗殺、マクシミヌス自体も部下に暗殺され、この年ローマでは合計5人の皇帝が暗殺されるという異常事態になった。

裏切りこそしていないが、武力のみの頼っていたという点では三国志の呂布に近いかも知れない。

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第12位:カルス帝

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長い間ローマはササン朝に勝てずにいた。

それどころかヴァレリアヌス帝などはササン朝に捕えられてしまう始末。

ようやくササン朝に勝利したのがローマ皇帝カルスであった。

戦闘は連勝につぐ連勝で、このままササン朝を滅亡にまで追い込む勢いであったが、落雷にうたれて死ぬという歴史上でも稀有な死に方をしてそれは実現できなかった。
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第11位:ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス帝

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日本人でこの皇帝について知っている人はほぼいないだろう。

日本では知られていないがローマ帝国は3分されたことがある。その3分割された帝国を再び1つに統合したのがこのアウレリアヌス帝なのである。

皇帝になるやすぐにゲルマン人を打ち破ったアウレリアヌスはゼノビアという女王が支配するパルミラ帝国とガリア地方で独立したガリア帝国を滅ぼし、そして片腕ともいえる秘書に暗殺された。

皇帝位にいたのはたった5年だったが、その間に強敵を次々と撃破し、ローマを1つにしたその軍才は軍人皇帝と言われる実力主義皇帝の中でも随一のものであっただろう。

なお、アウレリアヌスは軍事一辺倒の人物ではなく、アウレリアヌス城壁と言われるローマを囲む城壁をも作っている。

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第10位:トラヤヌス帝

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ローマの最大版図を実現した人物であり、ローマと言う括りがなくても世界史最高クラスの名君である。

ダキアにいたゲルマン人に勝利し属州にするなど戦闘面では無敵で、アルメニアやメソポタミアもその領内とすることに成功した。

そんなトラヤヌス帝でやっと10位ってどういうことやねん!と思うかもしれないが、ここから上はもはやバトルモンスターしかいないのである。

トラヤヌス帝がもう少し長生きして、打倒パルティアを実現できていたらもっと上になっていたであろうが、寡兵でもって多勢を倒したとか、敵が化け物クラスだったとかの逸話がない分順位が低くなってしまうのはしょうがないのである。

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第9位:マクシミアヌス帝

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誰やねん状態かも知れないがディオクレティアヌス帝とともに正帝として活躍した人物である。

ディオクレティアヌスほどの男がそのパートナーとして選んだほどの人物で、その軍事的な才能はすさまじく、主な戦歴は以下のようになる。

5回の征ゲルマン将軍(Germanicus Maximus V;287年に2回、288年、293年、301年)
3回の征サルマタイ将軍(Sarmaticus Maximus III;289年、294年、300年)
征アルメニア将軍(Armeniacus Maximus、298年)
征メディア将軍(Medicus Maximus、298年)
征アディアバネ将軍(Adiabenicus Maximus、298年)
2回の征ペルシア将軍(Persicus Maximus II、295年、298年)
征カルピ将軍(Carpicus Maximus、297年)
征ブリタンニア将軍(Britannicus Maximus、297年)

 これだけの戦歴を以てもトップ10に入るのがやっとなんだからローマは層が厚い。

 ちなみにマクシミアヌス帝の娘はミラノ勅令で有名なコンスタンティヌス帝の妃となっているが、マクシミアヌス帝自体はコンスタンティヌス帝によって暗殺され、最後を迎えることになる。

ローマの歴史ではしばしばあるが、強敵には勝ち続けてきた男が最後は味方であるはずの人物に殺されるのである。

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第8位:マルクス・フリウス・カミルス

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カミルスがいなければローマは滅んでいただろう。

そうなれば後代のローマはなかったし、現代の政治システムも変わっていたかも知れない。

ローマは独裁嫌いで有名だが、その共和政ローマにおいて5度も独裁官であるディクタトルに任命され、ローマの宿敵であるエトルリア人との闘いに勝利するも国を追われ、そのことにしめしめと思ったガリア人がローマに来襲しローマの半分を占領すると戻ってきてガリア人を散々に打ち負かすという快挙を成し遂げる。

カミルス以降のローマは敵の侵入をゆるさず、次にローマに敵がやってくるのは800年後のホノリウス帝の時代のこととなる。

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第7位:ガイウス・マリウス

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完全なる戦闘狂である。

内乱の一世紀と言われた当初、ローマの軍隊は弱体化しており、しばしば敗戦を味わっていた。

そこで軍制改革に乗り出したのがガイウス・マリウスである。

マリウスはヌミディアの王が起こしたユグルタ戦争やキンブリ・テウトニ戦争を終結させローマ第三の建国者という綽名で呼ばれたが、老齢になると狂ったようにローマ市民を虐殺して自身はさっさと病気で死ぬというどうしようもない最後を迎えた。

戦闘の才で言えばずば抜けており、特にゲルマン人との闘いであるキンブリ・テウトニ戦争では10万を超えるゲルマン人相手に3万ほどの兵力で勝利しており、大規模な戦闘での敗戦はついぞ経験しなかった。

戦闘はすごいが政治的には無能の典型例と言えるが、それでもローマの歴史でも例のない7回のコンスル経験者である。

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第6位:グナエス・ポンペイウス

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シェークスピアのおかげで散々なことになっているが、ローマの領土をもっとも拡大させたのがグナエス・ポンペイウスだと言える。

純粋に戦闘だけなら長いローマの歴史の中でも最強クラスで、20代の時からスペイン、ギリシャ、シリアと転戦し、その全てに勝利をしてきた男である。

ミトリダテス戦争を終結させ、セレウコス朝シリアを滅亡させ、大王を表すマグヌスの綽名で呼ばれ、そして燃え尽きてしまった。

ポンペイウスは強すぎて敵がいなくなってしまったのである。

しかしその間で世界史上最大の傑物であるユリウス・カエサルが力をつけ、かつての妻の父親でもあったカエサルとの決戦に臨む。

当初カエサルに圧勝していたポンペイウスだったが、歴史を決める一戦であったファルサロスの戦いにおいてユリウス・カエサルに敗れ、亡命先のエジプトで暗殺されてしまう。

敗戦は生涯においてただの1度だけだったが、その1度の敗北が彼の全てを決めてしまった。

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第5位:ガイウス・ユリウス・カエサル

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ローマは実に層が厚い。

カエサルですら5位なのだから。

ローマ以外の歴史であれば、ユリウス・カエサルはまず1位に輝くほどの能力の持ち主であろう。

カエサルはしばしば負けている。

ガリアでも敗北は経験しているし、ポンペイウスにも負けたことがある。若いころは国を追われたこともあった。

カエサルの強さは負けないことにあるのではない。負けて強くなることにある!

本当に強い奴というのは負けてもなお強いのである。

カエサルは負けた相手には次の戦いできっちりと勝利をおさめている。

さらにいうとカエサルの才は戦闘にだけある訳ではなく、政治家としても文筆家としてもたぐいまれなる才能を発揮しており、総合力なら間違いなくローマの歴史、いや、世界の歴史でナンバー1であろう。

「ローマの産んだ唯一の創造的天才」

19世紀ドイツの歴史家テオドール・モムゼンがカエサルを評した言葉に、その全てが表れているだろう。

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第4位:スティリコ

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スティリコの名を知っている人はほとんどいないかもしれない。

彼は皇帝直々に記録抹消刑に処されており、ローマの公式な記録から削除されてしまっているのだ。

スティリコはテオドシウス帝からその息子ホノリウス帝の時代に活躍した将軍で、テオドシウス帝の姪を妻とし、自らはゲルマン民族の父親を持つヴァンダル族の出身であった。

それでも誰よりもローマンスピリットに溢れた将軍で、同じゲルマン民族の東ゴート王アラリックを3度にわたり打ち破り、フィエゾレの戦いではラダガイソ率いるおよそ10万から40万人と言われるゲルマン人を相手にわずか3万人の兵力でもって大勝している。

スティリコはローマの最大の敵であるゲルマン人相手に一度も負けたことがなく、かつ東のササン朝との交渉も成功させている万能の将軍だった。

戦をすれば無敵であったスティリコに死を与えたのは、味方であったホノリウス帝である。

愚鈍なる西ローマ皇帝は宦官であるオリンピウスの讒言を受けてスティリコに皇位簒奪の意思ありとして処刑を命じる。

スティリコはこれを承服し、その生涯に幕を閉じた。

もしスティリコに本当に帝位簒奪の意思があれば、それは可能であったし、そうなればもう少しローマの寿命は長かったかも知れない。皇帝の姪で養女となった妻がいたスティリコには、正当な継承権さえあったというべきなのにしなかったのは、ひとえにテオドシウス帝への、ローマという国家への忠誠の結果であったのかも知れない。中国の歴史であればだれよりも評価を受けた人物であっただろう。

スティリコの死を受けて、ゲルマン民族は勢力を増し、ローマは略奪を受けても抵抗すらできないという状態に陥ってしまう。

ナポレオンが言ったように、本当に怖いのは敵の有能な指揮官ではなくて無能な味方なのである。

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第三位:リキニウス・コルネウス・スッラ

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世界史の教科書だと閥族派を率いていたぐらいの情報しか載っていないが、内実はバトルモンスターである。

スッラを見出したのはのちのライバルとなるマリウスで、ヌミディアの王ユグルタが起こした戦争をともに鎮圧し、続くゲルマン人とのキンブリ・テウトニ戦争や同盟市戦争などでともに勝利をおさめるも、マリウス率いる平民派と対立し、互いに粛正をしあうことになる。

スッラの才能が何よりも輝いたのが東方のポントス王ミトリダデスとの戦闘で、相手側は約8万の兵力、スッラは3万の兵力、かつローマの敵と元老院に認定されていたため補給は受けられず、さらにマリウスが派遣したローマ兵との争いもしているという条件で散々に破ったのである。

ミトリダデスが万単位で損害を出したのに対しスッラ側の犠牲はたったの12人であったというウソのような本当の話が記録されている。

ミトリダデスを破るとスッラはイタリアに上陸し、後の名将となるポンペイウスやクラッススらと共に平民派との戦闘に勝利、ローマの覇権を握ったのであった。

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第二位:コンスタンティヌス帝

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ミラノ勅令でローマ帝国内の信教の自由を保障したコンスタンティヌス帝であるが、政治面以上に軍事面での才能が光る。

コンスタンティヌス帝の時代、皇帝は6人いた。

ディオクレティアヌス帝時代に帝国は4分割され、父であるコンスタンティウスは帝国西方の正帝の地位にあったものの突然死、コンスタンティヌス帝は勝手に後を継ぐことを宣言した。

それに触発されるようにローマでは先帝が復帰するなどローマ帝国内は完全な内戦状態となった。

コンスタンティヌス帝は常に敵方よりも少ない兵力で戦いに臨んだが、その全てを撃破。

スッラやマリウスはローマ以外には大勝し、同じラテン民族内においては苦戦していたが、コンスタンティヌス帝は同じ戦術レベルと装備を持つローマ兵同士の戦いに勝利したという点も大きい。

兵士の質が同質なら、指揮官の能力がものをいうからだ。

戦績は調べられる限りだと無敗、新都コンスタンティノープルを建設するなど世界の歴史においても第一級の人物だと言えるだろう。

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第一位:スキピオ・アフリカヌス

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ローマ最強の、いや、世界史レベルで見ても最強はプブリウス・コルネリウス・スキピオことスキピオ・アフリカヌスで間違いないだろう。

無敗の将軍はローマだけではなく世界史にしばしば現れるが、スキピオに関しては無敗であることに加え敵も非常に強かった。

父と叔父がその足止めで精いっぱいだったハシュドゥル・バルカを早々に打ち破るとアフリカに行き10年以上もイタリア半島に釘付けだったハンニバル・バルカをアフリカの地におびき寄せることに成功。歴史を決めた一戦として名高いザマの戦いにてそれまで無敗であった未だをもって世界史最強と名高いハンニバルに始めての敗北を味合わせることに成功、そのまま第二次ポエニ戦争を終結へと導いたまさに英雄と呼ぶにふさわしい活躍だった。

ザマの戦いでの戦法は現在の指揮官学校でも題材にされるレベルで、大国カルタゴ以外にもアレクサンダー大王由来の東方の大国セレウコス朝シリアとの闘いにも勝利し、まさに「戦神」と言われるに相応しい活躍を見せた。

 その生涯において無敗。

ほぼ同時代の、中国史上最強と言われる項羽と戦っても、きっとスキピオが率いた軍が勝つであろう。

スキピオこそ最強なのだ。

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