イギリス「ノルマン朝」の歴史まとめ

日本に鎌倉時代、室町時代という区分があるように、イギリスの歴史にもいくつかの時代区分がある。

今回は1066年から1154年まで続いたイギリスノルマン朝の歴史をまとめてみたいと思う。

 ノルマンコンクエスト

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ノルマン朝の始まりは、ノルマンディ公ギョームがイングランド王になったことに始まる。

それ以前のイギリスはデーン人という今のデンマーク人が建てたデーン朝が支配していたが、そのデーン朝は創始者のクヌートが亡くなってわずか7年で滅び、その後はそれ以前の王家であったウェセックス王家の末裔であるエドワード証聖王がウェセックス伯の傀儡として君臨していた。

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まぁ、実にややこしい訳である。

沿革だけ言うと、イングランドの歴史は以下のようになる。

ローマ帝国の支配⇒ローマ撤退後のケルト人とゲルマン人の戦国時代⇒ゲルマン人の部族であるアングロ=サクソン族が7つの王国を建てた7王国時代⇒7王国をウェセックス王が統一した時代⇒デーン朝⇒エドワード証聖王⇒今

エドワード証聖王が母エマの実家であるフランスのノルマンディ公国で生まれ育ったこともあり、王の死後、ノルマンディ公であったギョームが王位継承権を主張してイングランドに上陸、ヘースティングスの戦いにおいて勝利しその後ロンドンを占拠、ギョームはウィリアム一世と名を変えてイングランド王に即位した。

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このことに諸侯は反抗するも、全て鎮圧。イングランド諸侯の土地は没収され、ウィリアム一世の取り巻きであったフランス人貴族たちに分配された。

中央も地方もフランス人によって支配されてしまったイングランドであったが、助けは意外な方向からやってきた。

フランス王フィリップ一世がウィリアム一世の勢力を警戒し、息子であったロベールを焚きつけて父に反抗させ、ウィリアム一世は息子との一連の戦いの中で命を落としていく。

ウィリアム2世(赤顔王)の即位と死

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ウィリアム一世の跡は三男であったギョームが継ぎ、ウィリアム2世となった。これには長男のロベール(ノルマンディ公を継いだ)は大変不満で、両者は対立することになる。

しかし対立する二人を融解させる大事件が起こる。

1095年、教皇ウルバヌス二世が第一回十字軍を組織したのである。

ノルマンディ公となったロベールはこれに参加、留守中は弟のウィリアム二世がノルマンディ公の代理となった。

そしてロベールが帰ってきた後、不思議な事件が起こる。ウィリアム二世が狩りに行って臣下の放った矢にあって死んでしまったのである。

古来より暗殺説があるが、真相は分からない。

実はウィリアム一世にはもう一人子供がいた。名をアンリという。

アンリは兄が死んだと聞くやただちにウェストミンスター寺院で戴冠式を行い、ヘンリー一世として即位したのである。ウィリアム二世が死去した際、アンリも狩りに同行していたと言われており、アンリによる暗殺説は今も消えないが、証拠もまたない。

いずれにせよアンリはヘンリー一世として即位した。

ヘンリー一世時代

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ノルマンディ公ロベールはこれを不服とし、1101年にポーツマスに上陸した。

両者は軍事的には激突せず、ヘンリー一世は兄に対し毎年3000マルクを支払うことでイングランドの領有を認められることになったのだが、今度はイングランド各勢力がヘンリー一世に対し反乱を仕掛ける。

これらの反乱を鎮圧するとヘンリー一世はノルマンディ公国の貴族たちを買収し、1106年にはタンシュブレーの戦いで兄ロベールを撃破、ノルマンディ公も兼ねることになった。

敗れたロベールはこの後28年間にわたって囚われの身となり、1134年まで生き延びる。

父を殺した男が、弟に敗れてその生涯を囚われとして過ごすというのは、因果応報とでもいうべきことであろうか。

ノルマンディ公も兼ねたイングランド王ヘンリー一世は宮廷財務室(チェインバー)を整備し、尚書部(チャンセリ)を形成し重要文書の起草などにあたらせた。イングランドの歴史はこの辺りから詳細な記録が残されるようになったのはこのヘンリー一世の政策によるものと言ってよいであろう。

一連の政策によりヘンリー一世の収入は飛躍的に増え、その額は年に25000ポンドほどであったという。ウィリアム一世の収入が年に11000ポンドほどであったと言われているので、その倍以上という計算になる。

大きく勢力を伸ばしたヘンリー一世であったが、これまた後継者問題に頭を悩ませることになる。

歴史を取り扱っていると、とにかく後継者争いにぶつかる。

ヘンリー一世はスコットランド王女イーディスと結婚しており、その間には四人の子供が生まれたが生き延びたのは男の子が一人、女の子が一人。これだけならよいのだが、ヘンリー一世には8人の庶子がいた。

さらにヘンリー一世自体、フランス国王にノルマンディ公就任を認められていなかった。それどころかフランス王はロベールの息子ギョームをノルマンディ公に擁立したのである。

フランス王ルイ6世とヘンリー一世の間で戦争が始まり、1119年にプレミュールの戦いでヘンリー一世が勝利するとヘンリー一世の嫡男であるウィリアムのノルマンディ公就任を認められたのである。

 めでたしめでたしと行きそうであるが、ここで大きな事件が起こる。

嫡男であったウィリアムが海難事故にあってしまったのだ。

ここで後継者はヘンリーと妃イーディスの間に生まれたマティルダとなった。

イングランド初の女王の誕生である。

エンプレスマティルダ

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イギリスの国家は「GOD save the Queen」である。

大英帝国の全盛期はヴィクトリア女王であるし、イギリスが海の覇者となったアルマダ海戦の時もエリザベス女王で、栄光は常に女王がもたらしてくれそうであるが、最初の女王マティルダはそうではなかった。

もっとも、マティルダはかつて神聖ローマ皇帝ハインリヒ五世の妃であったので、女王とは呼ばれず皇妃(エンプレス)と呼ばれた。

彼女は即位と同時に十四歳も年下のフランス貴族アンジュー伯ジョフロワと再婚し、二人の間にはアンリという名の子供が生まれる。

しかしこの頃父であるヘンリー一世は死去し、その隙をついて継承権を主張するフランス貴族がイングランドに押し寄せることになる。

ブローニュ伯エティエンヌの母はヘンリー一世の姉にあたる人物であったため、彼は訃報を聞いて即座にイングランドに上陸し、実弟であったウィンチェスター大司教の後押しなどもありイングランド中の教会がエティエンヌの王位継承を主張した。

マティルダ自体も気が強くあまり諸侯から良く思われていないという事情はあったが、イングランド諸侯もエティエンヌを受け入れ、イングランド王スティーブンとして即位したのであった。

内乱時代

マティルダもこれで簡単に引き下がるような人物ではなかった。

両者は激しく対立し、マティルダの叔父にあたるスコットランド王デイヴィッド一世も参戦しイギリスは内乱状態へと突入することになる。

マティルダの側はスコットランド王およびアンジュー伯である夫のジョフロワであったが、このジョフロワがノルマンディ公としてフランス王に認められ、更にマティルダ率いる軍団がリンカンの戦いにおいてスティーブンを捕虜にすることに成功、しかし彼女は教会から戴冠式を拒否されてしまう。

さらにスティーブンの妃もマティルダと言い、しかもかなりの女傑であった。妃マティルダに率いられたスティーブン軍は強く、エンプレスマティルダの弟であるロバートを捕縛、両軍は捕虜交換をすることになる。

両軍の一進一退の攻防はとどまることを知らず、戦争の開始から16年が経とうとしていた。1147年、エンプレス派の有力者であったロバートが死ぬとエンプレスマティルダは急速にやる気をなくし、フランスへと向かった。もはやイングランドの地には未練もなかったのか、これ以来彼女がイギリスの地に足を踏み入れることはなかった。

エンプレスマティルダの跡を継いだのは息子のアンリであった。アンリは1151年に父からノルマンディ公の地位を引き継ぎ、フランス王ルイ7世もこれを認めた。

その後すぐにジョフロワは亡くなり、アンリはアンジュー伯の地位も継ぐ。

翌年、ルイ7世は妃アリエノールと離婚、彼女はなんとアンリと結婚をすることになった。彼女はフランスに大土地を持つ貴族の相続権も持っており、アンリはわずか19歳にしてヨーロッパ大陸最大の土地の領主となった。

これに反発したのがルイ七世である。

アンリは大陸においてはフランス王、イギリスにおいてはイングランド王を同時に相手にしなければならない事態に陥った。

しかし、イングランド王スティーブンの息子ユスタスが突然なくなってしまうとスティーブンは悲嘆にくれ、アンリとの間にウェストミンスター条約が締結されることになる。この内容は、スティーブンは終生イングランド王だが、次期イングランド王はアンリで、スティーブンのもう一人の息子ウィリアムが次のノルマンディ公になるというものであった。

1154年、スティーブンは亡くなった。

条約の通りアンリが国王となった。

プランタジネット朝ヘンリー二世の誕生である。