賢帝と呼ばれたアウレリウス帝がコンモドゥスを次期皇帝とした理由には、親愛の情以外にも内乱を避けたかったからだという説がある。
当時のローマは広すぎた。
北はブリタニカから東はメソポタニア、西はスペイン南はアフリカまでの広汎な地域を治めるためにローマは属州に総督府をおいて対応していた。
各総督府には優秀な将軍を配置せねばならなかったし、兵力も常駐させておく必要がある。
逆にローマ本国には兵力を置く必要がないため、近衛隊10000人だけがその兵力となる。
アウレリウス帝は各属州の総督たちがローマに攻めてくるのを恐れたという。
結局はアウレリウスの危惧した通りになった。
今回紹介するのはそんな内乱がはじまる少し前、コンモドゥスの次に皇帝になったプブリウス・ヘルヴィウス・ペルティナクスという男の話。
成り上がって皇帝になった男
西洋における身分制社会は東洋のそれよりも遥かに厳しく、ゆえに平民から皇帝や王になったものは少ない。ナポレオンでさえも貴族の出身だ。
ペラティナクスは一兵卒から皇帝にまでなった珍しい例と言える。
ペラティナクスは現在のジェノヴァの生まれで、父は解放奴隷であったという。
ユリウス・カエサルの改革により医師か教師はローマ市民権を得られるようになっていたので、ペラティナクスは教師の道を選ぶことにした。
ローマ市民権を得ると軍隊に志願し、着々と出世を重ねて行った。アントニヌス・ピウスの平和な時代においてもそこそこ出世をしていたというのだからやはり能力はたかかったのであろう。
彼にとっての転機はアウレリウス帝時代のパルティア戦役にあった。
ペラティナクスはシリア属州において「財務長官」にまで昇り詰めると各地を歴任、その活躍によってプエラトル(法務官)に就任することに成功する。その後は補欠執政官の制度を使って短いけれども執政官を経験し、モエシア属州の総督に就任、ダキア属州、シリア属州と帝国の最重要拠点の総督を歴任するようになる。
アウレリウス帝亡き後はコンモドゥスに仕え、ブリタニアの平定などで功をあげ、首都長官の地位に就く。
そのままコンモドゥスが暗殺されたためにペラティナクスは近衛隊長官レトーの後押しもあり第18代ローマ皇帝に就任したのであった。
名君になるはずだったが・・・
ペラティナクスは皇帝になると元老院重視の政治を行うことを宣誓した。コモドゥスによって没収された財産は返還し、コモドゥスの被害にあった人々の名誉回復や免罪などを行い市民への祝い金も欠かさなかった。
彼は五賢帝のように元老院議員に裁判なしでの刑の執行を行わないことを約束し、帝位の世襲を行わないことも宣言する。
元老院やローマ市民はペラティナクスを歓迎した。属州の長官達もこれを歓迎した。
だが近衛隊長官レトーだけはこれを歓迎しなかった。
近衛長官レトー。コンモドゥス治世下のもとで国政を乱したクレアンドロスととも近衛長官に就任していた男で、クレアンドロス亡き後は単独でその地位にいた。コンモドゥス暗殺の主犯であるとも言われ、この時期ではキングメーカーであった。
レトーはペラティナクスを殺害した。
新皇帝が就任してわずか3か月後のことだった。
紀元193年3月、近衛隊は皇帝の住まいを強襲した。
ペラティナクス66歳。
あまりにもあっけない最後であった。
近衛隊は次の皇帝になる権利を競売にかけた。
レトーは思いあがっていた。全てが自分の思い通りになると。
しかしそうはいかなかった。
数年後、近衛隊の誰も、ローマにはいなかった。