再びローマに光を取り戻した第9代目皇帝ウェスパシアヌスの評価はもう少し高くても良いと思う

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ネロやテオドシウス帝の載っていない世界史の教科書は少ないが、ウェスパシアヌスの名前が載っている世界の教科書は俺の知っている限りない。

それはウェスパシアヌス帝の時代には目立ったことがなかったからであろう。

だが、目立ったことがなかったということはどういうことであろう?

今回はウェスパシアヌス帝の治世について見て行きたいと思う。

 

居眠りをして嫌われる

ウェスパシアヌスのキャリアは順調そのものであったと言える。

ホノルス・クルノムと言われるローマの出世コースに乗り、若き日よりクワエストル、プラエトルに当選し、ゲルマニアやブリタニアへ赴任、紀元52年にはコンスルに就任している。

そこから先はプロコンスルとしてアフリカ属州総督になり、ローマにもどるとネロ帝に気に入られたようでともにギリシャ旅行に行っている。

ただ、ネロの演奏の間に居眠りをしてしまったらしく、一度は冷遇される。

それでもユダヤの地で反乱が起きると最高司令官として派遣されているのでその能力は認められていたのだろう、シリア総督のムキアヌスや息子であるティトゥスと共にユダヤ戦役を戦いぬいた。

ネロ帝死去、3皇帝時代始まる

ウェスパシアヌスがユダヤ戦役に身を投じている途中、ネロ帝が自殺した。

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ネロが亡くなった後はガルバ、オトー、ヴィテリウスというどうしようもない連中が皇帝位を相争う所謂3皇帝時代に突入していたが、そこに終止符を打ったのがウェスパシアヌスであった。

元々皇帝に推挙されたのはシリア総督のムキアヌスだったのだが、彼は自分は器ではないとしてウェスパシアヌスを皇帝へと推挙する。

するとシリア属州や、ユダヤ戦役の際ローマ側についたフラヴィウス・ヨセフス率いるユダヤ属州および皇帝の直轄領であったエジプト属州もウェスパシアヌスを支持、ヴィテリウスによって屈辱的な扱いを受けて憤慨しているドナウ軍団もこれに加わる。

ユダヤ戦役の事後処理などもある関係で、ウェスパシアヌスは自ら軍を率いるのではなく、シリア総督のムキアヌスと部下のプリムスをローマに派遣。

プリムスは見事ヴィテリウスを破る活躍を見せる。

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この最中にローマにいたヴィテリウス派によって兄のサビヌスは殺害され、残っていた次男のドミティアヌスは命からがら逃げだすことに成功する。ヴィテリウス派はローマに火を放ち、これによってユピテル神殿が炎上することになり、ローマは再び戦場となった。

ローマが戦場となるのはマリウスとスッラの争い以来100年ぶりのことで、もはや止める者はいなかったが、歴史家のタキトゥスによれば軍団は戦闘している横でローマ市民は無関心に日常を送っていたという。もはや誰が皇帝になるのかについて、ローマ市民は関心がなくなっていたのだろう。

誰が首相になっても同じとたかをくくっていた日本人のようである。

それどころか積極的に見世物として楽しんだとさえ言われている。

この戦闘でヴィテリウスは豚のように殺され、罪人のようにその遺体はティベレ川に投げ込まれた。

その後ムキアヌスがローマに到着し、内戦は終了の時を迎えたのであった。

皇帝ウェスパシアヌス

ウェスパシアヌスがローマ入りするのにはさらに時間を要した。

なにせユダヤ戦役はまだ終わっていなかったからだ。ムキアヌスがローマを平定するとユダヤ戦役は息子のティトゥスに任せ、紀元70年ついに皇帝ウェスパシアヌスはローマ入りする。

ローマ入りするとすぐに「皇帝法」なるアウグストゥスやティベリウス、クラウディスの路線を引き継ぐとする宣言をだす。

この際興味深いのは、カリギュラとネロの名前がないことである。ティベリウスやクラウディウスはやはりこの頃には一定の評価を受けていたようだ。

この皇帝法を刻んだ皇帝法碑文は現在でのカピトリーノ美術館に所蔵されているようで、ウェシパシアヌスは伝統的なプリンケプス路線を引き継ぐとともに元老院議員に対して粛正を行わない旨を宣言する。

すでに60歳になっていたウェスパシアヌスは息子2人にカエサルの名を与え後継者指名しており、正帝をアウグストゥス、副帝をカエサルとする伝統はこの時に生まれたと言われる。

ネロ帝以来続いた混乱によって疲弊していたローマを再建すべく、ウェスパシアヌスは増税を決める。

そのために自ら国勢調査を行い、ローマ市民の数や財産などを把握し、軍団の再編やインフラの整備などを行った。

ローマと聞いて誰もが最初に思い浮かべる「コロッセオ」は正式名称をフラウィウス円形闘技場と言い、建設したウェスパシアヌスの名前から来ている。

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ウェスパシアヌスの治世は8年と長期政権とは言えなかったものの、その治世中には特段の事件もなく、最後には「あぁ、なんて可哀そうな私、きっと神になるんだろうなぁ」と言って亡くなったと言われている。

紀元9年に生まれたウェスパシアヌスは紀元79年に亡くなった。

69歳というのは、ローマ歴代でも上から数えた方が早いぐらいの年であったと言える。

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個人的なウェスパシアヌスの評価

ウェスパシアヌスの評価は必ずしも高くない。

ディオクレティアヌス帝のように断固たる意思で改革をした訳でも、コンスタンティヌス帝のように連戦連勝した訳でも、カエサルのように後世の基盤を作った訳でもアウグストゥスのように1000年も続くような政体を作った訳でもない。

増税はいつの世も嫌われる。

だが、増税をして贅沢をしたわけでもない。コロッセウムの建設も、公共事業としておこなったことではあるし、緊縮財政を行ったおかげで後の5賢帝時代においてそれを支える財政の基盤ができたのは確かであろう。

確かに派手さはない。

しかし、本当に守備の巧い選手はファインプレーが少ないように、本当に政治力のある君主もまた派手なファインプレーは少ないのかも知れない。

なにより、ネロ帝亡きあとの3皇帝時代と言われる混乱と危機を乗り越え、再びローマに光を取り戻させた実績は大いに評価されるべきであろう。

ウェスパシアヌスはローマの再建を行っただけではなく、ケリアレスを派遣して北方の秩序維持にも成功しており、ゲルマン人によって建てられた通称ガリア帝国の解体にも成功している。

 歴代の英雄たちに比べればその業績は確かに見劣りするだろうし、個人の才覚も大きく及ばないだろうとは思う。

だが、世界の歴史はこのウェスパシアヌスの功績をもう少し評価しても良いのではないかと思う。

彼がいなければエドワード・ギボンをして人類がもっとも幸福だった時代といわしめた五賢帝時代は存在しなかっただろうし、この時期にローマ帝国自体滅んでいてもおかしくはなかった。

危機を克服し平和な時代への橋渡しをしたという功績は、名君と呼ぶにふさわしいものであろうだろう。