日本で最も有名なローマ皇帝は誰だろう?
海外では今回の主役ネロであるらしい。
今回はそんなネロについてのお話。
最高の環境で育ったプリンス
シンデレラコンプレックスという言葉がある。
簡単に言えば女性は白馬に乗った王子様が好きだという話だ。
ネロはある意味最強に王子であった。
ローマに王はいないからもちろん王子ではないのだが、ネロは初代皇帝アウグストゥスの血を引き、ローマの有力家庭に生まれ、母アグリッピーナの尽力もあり時期皇帝が約束された存在であった。
アグリッピーナはネロに最高の家庭教師をつけた。
1人は軍の指揮に定評のあるブルス。
もう1人はローマの長い歴史の中でもトップ3には入る哲学者セネカ。
事実かどうかはわからないがローマ第4代皇帝クラウディウスはアグリッピーナによって毒殺されたという。すべてはネロを皇帝にするため。
クラウディウスの死とネロの皇帝就任は同時に発表された。
ネロの傍らには近衛団長官となったブルスがいた。
ネロもクラウディウス同様軍部によって皇帝になった存在だと言える。
元老院もネロを皇帝として認め、ローマ市民もネロの皇帝就任を喜んだという。
ネロはこの時まだ16歳。
クラウディウスが皇帝に就任したのが50歳の頃であったので、ローマ市民も若き皇帝を望んでいたという。
しかしこの時はまだ誰も知らなかったであろう。後にネロがカリギュラをも上回る暴君となるであろうことを。
ネロの善政
ネロと呼ばれた男の生まれた時の名はルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスと言った。それがクラウディウスの養子になり皇帝となることで名前がネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスに変わることになる。
ローマ皇帝というのは後に呼ばれるなで、実際に「皇帝」を名乗ったローマ皇帝は4世紀まで出てこない。その代わりローマ第一市民を意味する「プリンケプス」の名称を名乗っており、また名前にカエサルとアウグストゥスを入れるのが慣例となった。
ローマ皇帝が持つ権力は大きい。中でも軍の最高司令官(インペラトル)も兼ねているため、後に皇帝を表す言葉は英語ではインペラトールの英語読みでもあるエンペラーとなり、ドイツではカエサルからカイザー、ロシアでもカエサルからツァーリと呼ぶようになる。
フランスでは中世のフィリップ2世などがアウグストゥスの名前をフランス語読みしたオーギュストを使った例などがあるが、いずれにしても古代ローマ帝国が由来ではある。
ネロは当初まともな政治をした。
ところどころ穴はあったようだが、クラウディウスが財政を立て直した結果資金が豊富にあり、特に問題がないような政治を行っていたというのが一般的だ。
特に家庭教師だったセネカやブルスがそのまま補佐についたのが大きい。
ネロの時代に皇帝国庫と元老院国庫に分かれていた国庫を一元化したり通貨の重さを再統一したり税制を改めたり結構色々やっていて、近年ではネロの再評価を行う動きさえあるほどだ。
でもネロが優秀だったかと言うとそうでもなくて、多分セネカとかシリア総督になったコルブロとかアグリッピーナとかが優秀だっただけなんだろうなぁ。
弟殺しと母殺し
ネロが世界史上最も忌まわしい皇帝と呼ばれる理由はこの母殺しにある。
世界史にはとんでもない暴君が沢山いるんだけど、それでも母親を殺したのはネロぐらいのもんで、どんな悪党だって普通は母親を大事にする。
ただ、アグリッピーナにも問題はあって、政治は自分が決めた通りに行うし、本当か嘘かは知らないが無理矢理ネロと近親相姦をしたという話さえ残っている。
後者はアグリッピーナコンプレックスという心理用語にまでなってしまったぐらいだ。
ネロは言っても10代後半の若者だったので反抗期の最中ではあった。
問題は母であるアグリッピーナがそれを受け入れなかったことで、2人の関係はどんどん悪化していった。
アグリッピーナは言うことを聞かないネロよりもクラウディウスの実子で義理の息子であるブリタニクスを擁立しようと画策し始めた節がある。
そんな状態の中でブリタニクスは死んでしまう。
死因は現代をもっても不明だが、当時からネロが殺したという噂はあった。ローマの有名な歴史家たちはネロがやったと断定しているほどだ。
ネロからすればブリタニクスが生きていたら母親に殺されるかも知れないという恐怖があったのかも知れない。クラウディウスを毒殺したのがアグリッピーナだと言われているし、ネロのその恐怖もあながち間違いではないかも知れないな…
2人の仲が決定的に決裂したのはネロが妻であるオクタヴィアと離婚してポッペアという女性と結婚した時であろう。
オクタヴィアはその名の通り初代皇帝オクタヴィアヌスの血を引いていて、クラウディウスとメッサリーナの子供でもある。
ちなみにポッペアの母親はメッサリーナによって死罪となっているというややこしい関係ではあるが、ネロはこの離婚を強行し、結婚をしようとする。
アグリッピーナは当然のように反発するが、ネロは逆に母であるアグリッピーナを殺してしまう。
古来より父を殺す話は数あれど母を殺す話はこれぐらいではなかろうか。
ネロは元々おかしかったのか、この辺りからすさまじいほどの暴走を始めてしまう。
セネカの退場と止められない暴走
母親がいなくなって好き勝手にできると思ったネロは、まず「ローマンオリンピック」を始める。ギリシャで行われているオリンピックをローマに持ち込んだ訳である。これはまぁまぁ盛り上がったようで、ネロはローマ人に運動を推奨すべくギナジウムと呼ばれる体育館を建てるが、結局は閑古鳥が鳴いていたらしい。
なお体育館を建てたネロだったが、実は一番運動不足だったのはネロだったらしいが・・・
この頃ブリタニア(現在のイギリス)で反乱がおきているがすぐに鎮圧されている。アルメニア・パルティア問題では一時期ローマ軍が降伏するなど少々てこずるが、コルブロという優秀な将軍のおかげで友好的な関係を築くことに成功した。
問題はやはりセネカの退場かも知れない。
セネカ退場のきっかけは近衛隊長ブルスの死だった。
ブルスの死も現代まで続く謎の1つで、ネロによる暗殺説が根強い。
ブルスの死を見て次は自分だと思ったのか、セネカもネロのもとを去った。
一説にはセネカはブリタニアで高利貸しを営んでおり、そのことで弾劾されたとも言われているが、本当のところはわからない。
ネロとセネカの分かれは穏やかなものであったようだ。
そしてネロもセネカがいなくなってさらに好きにできると思ったのかここから暴走が止まらなくなっていく。
セネカの引退とポッペアとの結婚はほぼ同時期で、かつローマの大火もほぼ同時期に起こってしまった。
64年ローマの大火
ネロが暴君として有名になるのはこのローマの大火が原因だ。
もう少し言うと、ネロがローマの大火をキリスト教徒のせいだとして多数のキリスト教徒を処刑したことによる。
後世、世界はキリスト教国家によって牛耳られることになる。大英帝国は7つの海を制し、ヨーロッパは世界中を植民地にした。
世界の道徳はキリスト教的道徳となり、ネロは歴史上最悪の暴君となった。
ローマの大火自体は自然発生的なものであったようだ。
起きたのがもう少し前であったら優秀な人材がどうにかできたのかも知れない。
だがネロの周りに優秀な人材はいなくなっていた。
こともあろうにネロは大火で失われた地域に黄金宮殿を意味するドムス・アウレリアの建設を開始してしまう。
多分純粋にネロはアホだったのだと思う。
だがローマ市民はネロが宮殿を建てたいがためにローマに火を放ったのだと噂する。
ちょうどこの時期を題材にポーランド人シェンケーヴィチが描いた文学作品がハリウッドでも映画化されたクオ・ヴァディスだ。
ちなみにシェンケーヴィチは第5回目のノーベル文学賞を受賞していて、第2回はローマの歴史研究に功績のあったドイツのテオドール・モムゼンとなっており、いずれも古代ローマを取り扱っているのが個人的には印象的だ。
それはさておきネロはパニックになると逃避行動をとる癖がある。
ネロは悪いのは自分ではなくキリスト教徒なんだと言って言い逃れをしようとする。
ネロはもう大人なのだが甘やかされまくって育ったためか子供じみた行動をとる。
ただ厄介なのがネロがローマ皇帝であり世界の最高権力者であるという点だ。
完全な濡れ衣を着せられたキリスト教徒は片っ端から捕えられ、闘技場に連れていかれた。ある人は猛獣に食われ、ある人は磔に、ある人は生きたまま火をつけられた。初代ローマ教皇と呼ばれるイエスの一番弟子ペテロもこの時に殉教したという。
このあまりに残酷な刑を見て、多くの者がネロに恐怖し、そして見放した。
当のネロはそれには気づかず処刑の様を戦車の上に乗って笑顔で眺めていたという。
ネロはキリスト教徒が無実であることを知っていたはずなのだが・・・
ギリシャ文化への昏倒
ネロは歌う皇帝としても有名である。
ただし歌が上手いという評判が一切残っていないことでも有名である。
彼はナポリにある劇場で歌った。歌自体は上手くなかったが、見世物としては面白かったようで盛況だったようだ。
ネロに限った話ではないが、ローマの中にはギリシャ文化に昏倒するものも多く、またそれに反発する者も多い。
古くはスキピオ・アフリカヌスなんかもギリシャ文化に昏倒し、大カトーとの対立を深めた。
ネロは面倒くさくも自分の歌唱力に自信を持っていたようで、2回目のローマン・オリンピックの際、歌唱コンテストに出た時には「自分を皇帝と思わないで審査して欲しい」という言葉を残している。
本当に実力があったのなら格好いい言葉なのであるが・・・
ピソの陰謀とベネヴェントの陰謀
ローマの歴史に負の面を落とすのが元老院によるローマ皇帝暗殺だ。
ローマ皇帝になりかけたカエサルに始まりカリギュラもそうだったが、元老院はしばしば皇帝の暗殺を行っている。
ただ、ネロの時代にはそれが事前に発覚した。
陰謀の首謀者はガイウス・カルプルニウス・ピソというコンスル経験者の元老院議員で、陰謀にはネロとともに育ったセネカの甥のルカヌスをはじめ近衛隊長のフラウス、多くの元老院議員、そしてセネカの名前も挙がっていた。
実際にセネカがこの陰謀に加わっていたのかは現代でも論争のある部分であるが、実際にこのような陰謀があることを知っていたのは事実であろう。
ネロはセネカに死を賜った。
陰謀は解放奴隷ミリクスによってネロに伝えられ、合計で19人が処刑、13人が追放刑となった。
その後疑心暗鬼になったネロは優秀な人材を次々と処刑し始める。
ピソの次は軍部の青年将校たちがベネヴェントの陰謀事件を起こす。
首謀者はヴィニチアスというコルブロの娘婿で、このことによって疑心暗鬼になったネロはコルブロを含む軍団の最高司令官3人を証拠もなく誅殺してしまうのであった。
ネロの死
直接のきっかけはガリア総督であるガイウス・ユリウス・ウィンデクスの反乱であった。反乱自体はガルバ、オトーという2人の将軍によって鎮圧される訳であるが、今度はこの2人がローマに向けて進軍を始めたのである。
ほぼ同時期にローマに船が届いた。船には市民が食べるための小麦が到着しているはずだったが、中には闘技場用の砂が入っていたという。
これにはローマ市民も激怒した。
元老院はネロを「国家の敵」とする決議を行った。
相次ぐ事態に対応する人物はもうネロの周りにはいなかった。
ネロを守る近衛兵団ももういない。
ネロは逃亡し、最後には自ら命を絶った。
その時わずか31歳であった。
ネロは死に際して、「あぁ、これで偉大な芸術家が1人失われる」と言ったそうだ。
ネロは、皇帝になどならない方がきっと幸せだったことだろう。
一生芸術を愛でて暮らしていけたら、きっと彼は満足であったろうに。
個人的なネロの評価
共和政ローマは優秀な人材に溢れていた。ハンニバルを破ったスキピオ、アッピア街道を作ったアッピウス・クラウディウス、ユリウス・カエサル。
ローマは帝政になってかなりおかしな人物ばかりが目立つようになる。
それはやはり帝政が世襲制に近い形になったからだろう。
よほどのことがない限り世襲制は暗君や暴君を生み出す。
それは皇帝として国を的確に導くことのできる人材ではない人間が皇帝になってしまうからだろう。
中国の宋の時代の徽宗皇帝などもその最たる例である。
風流天子などと呼ばれた皇帝だが、数多くの乱に見舞われついに異民族である女真族に都をとられるという失態を犯し、中国歴代最低皇帝のレッテルを貼られてしまう。
徽宗皇帝は芸術の才能に恵まれたようだが、ネロはそうではなかったこともまた悲しい。
ローマ皇帝という最高の地位にいながら、ネロの生涯はただただ悲しかったと言えるだろう。
母を殺し、義理の弟を殺し、師を殺し、無実のキリスト教徒を殺し、彼は最後は孤独になって死んだ。
それでもどこか憎めないところがあったのか、ネロの墓前には花束が絶えなかったという。
アルメニアの王ティリダテスもネロを愛していた人間の1人で、ネロの援助で再建できた都にネロニアという名前を付け、パルティア王ヴォロゲセスからはネロ暗殺後もネロ感謝祭を毎年開きたい旨の要請が元老院に届けられたという。
やってることはどうしようもないんだけど、歌をこよなく愛したり、どこか憎めない人物なんだと、俺自身もネロには感じてしまうんだよなぁ。