安史の乱の首謀者!安禄山

良しにつけ悪しきにつけ、唐の全盛期を現出した玄宗皇帝の時代は世界史においても特に興味深い時代である。

この時代における唐の盛衰ぶりはあらゆる映画の展開を越えていて、実に劇的である。

もし玄宗皇帝の人生を映画化したら、クライマックスはやはり安史の乱になるのだろうか。

今回は安史の乱の首謀者である安禄山について見て行きたいと思う。

 6か国語をマスターした英才

安禄山の出自は明らかにされていない。中央アジアの中心地サマルカンドの生まれとする説もあり、父はソグド系ではないという説が有力である。

安禄山はどうやら私生児であったようで、突厥族の巫女であった母のもとで生まれる。彼生まれがサマルカンドではないかと言われる根拠の一つに、彼が6つもの言語を操ったというものがある。

サマルカンドはシルクロードの中継地点で、様々な民族が交易のために訪れる国際都市であった。

幼き安禄山はそこで通訳として働いていたと見られる。

多言語を操れるというとドイツの考古学者シュリーマンを思い出すが、安禄山の運命はそのように理想に燃えた人生とは大きく異なってしまった。

安禄山はある時羊泥棒の容疑で捕まってしまう。この時幽州都督の地位にあった張守珪という人物の前に引き出された安禄山は「私は鮮卑や契丹に通じています。もしあなたがそれらを滅ぼしたいと思うなら私を重用なさるのが良いでしょう」と言った。張守珪が契丹族の討伐に手を焼いていることを知っていたのだろう。

張守珪はその言葉を聞いて安禄山を幕僚に加え、そこで生涯の友となる史思明と知り合う。安史の乱は安禄山と史思明の頭文字をとった名称である。

張守珪のもとで軍功を上げ、これの養子となった安禄山はさらなる飛躍のために長安から視察に来た漢人官僚張利貞という人物を贈り物攻めにして篭絡、順調に出世を重ねていった。

節度使安禄山誕生

玄宗皇帝の時代、もはや北魏由来の府兵制は限界であった。辺境での労役を内陸部や沿岸部の民に負わせることはもはや不可能であるため、北魏由来の「鎮」の制度を発展させ、各地に「節度使」と呼ばれる人物を任命し、その人物たちに徴税や防衛などを任せるようになった。

742年、39歳になっていた安禄山はついに平盧節度使に任命、翌年には軍事上の要職である車騎将軍に任命されるに至った。

さらに翌年には河東節度使、范陽節度使も兼任、その力は皇帝に匹敵するほどとなった。

なぜここまで安禄山は権力を握ることが出来たのか?

それには裏があった。

当時の唐は宰相李林甫が専横を極めていた時期である。

この時期の出世コースは、節度使を経験したものが中央に戻り宰相に任じられるというもので、李林甫は新たに台頭してくる有能な人物が自分の地位を奪うのを極度に恐れていた。

それゆえに中央政府では出世の見込めない寒門(身分が低い)や異民族を積極的に節度使に採用し、自己の保身を考えていた訳である。

それゆえに安禄山は李林甫に対しては生涯敬意をもって接していたという。

楊貴妃誕生

玄宗皇帝は息子の妃であった楊貴妃を自らの妃とした。楊貴妃である。

安禄山はこの時期に玄宗皇帝との距離を大幅に縮めた。

自分が異民族であることを自覚していた安禄山は、玄宗皇帝の喜ぶ言葉を並べ、自分が無知であることをとにかく強調した。

「賤しい身であった私に陛下の殊遇を賜り誠に感謝しておりません。私には大した才もありませんがせめてこの身を陛下に捧げることが出来れば幸いです」

このような感じで、玄宗に気に入られ、安禄山はいつしか楊貴妃の養子となった。

安禄山は楊貴妃よりも14歳も年上な訳だが、安禄山は玄宗と楊貴妃が並ぶと楊貴妃に先に挨拶をするようになる。玄宗が理由を聞くと「我々の風習では母を優先し父を後回しとします」と言っていたく喜んでいたという。これでなぜ玄宗が喜ぶかは謎だが、安禄山が玄宗の心をつかんでいたことは確かであろう。

一方で「太子とはどのような地位のことでしょう?朝廷に詳しくないの存じ上げません」などと言って無知と無欲を装うのだから安禄山は抜け目がない。

ある時玄宗が非常に太っていた安禄山に対し「そちの腹には何が入っておるのかな?」と尋ねた。すると安禄山は「この中に入っているのは陛下への忠誠心のみです」と答えた逸話も残っている。

安禄山に関してはこのようなエピソードが山のように残っており、玄宗や楊貴妃からの寵愛を受けていた。

特に有名なのが「洗児」に関する逸話で、これは子供が生まれて3日以内に客を招いて祝宴を催すという行事であるが、楊貴妃は養子である安禄山を新生児に見立てセレモニーを行ったのだ。安禄山はおむつをはき、輿にのせられ、宮女たちがこれを担ぐと玄宗皇帝以下宮中の者たちは大笑いしたという。

この時の安禄山の内心は如何様なものであっただろうか?

まさに道化である。

しかしこのセレモニーの後に安禄山は3つの節度使を兼任し、多数の金銀財宝が賜れたという。

このような道化を演じる陰で、安禄山は虎視眈々と唐の乗っ取りを計画していた。

大勢力の形成

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大唐帝国は強力な中央主権体制の国家である。全てのものごとを皇帝が決められる権利がある。

安禄山は中央に赴く際には玄宗皇帝のご機嫌取りに腐心したが、自らの領土に入ると積極的に軍備を拡張させていた。その中には異民族である契丹族なども含まれておりこれらの兵士に訓練を施し、皇帝より賜った金銀で軍馬や装備を買いそろえた。一説には10万を超える兵士を既に擁しており、安禄山がその気になればすぐにでも唐王朝を乗っ取れる立場にあったという。

それでもそうしなかったのはあるいは玄宗に対しては本当に忠義を誓っていたのかも知れない。

そんな安禄山が反乱を起こすきっかけがあった。

楊貴妃の親戚である楊国忠の存在であった。

楊国忠と安禄山の反乱

どれだけ玄宗皇帝に気に入られていても、安禄山は節度使として各地を回らなければならなかった。

楊国忠と安禄山は非常に仲が悪かった。

安禄山はコネ以外に何のとりえもない楊国忠のことを常に見下しており、楊国忠はそれが気に入らなかった。

楊国忠は玄宗に対し常に安禄山に謀反の疑いありと吹聴し続けた。さらには安禄山の息のかかった人物を左遷するなど安禄山に対し圧力を強めていく。

これに対し安禄山は「打倒楊国忠」を掲げて唐の都長安に向けて進軍を開始した。

安禄山はあっさりと唐の副都洛陽を陥落させる。

あるいはここで安禄山がすぐに長安に向かっていたなら唐はここで滅びていたかも知れない。

しかし洛陽は後漢が都をおいた大都市。辺境暮らし長かった安禄山はその魅力に抗えなかった。洛陽を陥落させた安禄山は国号を燕とし、自ら皇帝を名乗るようになる。

これに対し各地で反安禄山の兵が上がる。

中でも顔真卿の組織した義勇軍は手ごわく、更に長安への道を守る童関の守りはかたく、タラス河畔の戦いなどにも赴いた高仙芝、封常清などの将軍が安禄山の進軍を阻んでいた。

しかし玄宗はこれを監察するために宦官を派遣し、これに賄賂を渡さなかったことを恨みに思われ玄宗から更迭、最終的には死刑を賜ることとなった。一体開元の治を行った名君ぶりはどこに行ってしまったのだろう…

二人の代わりに童関の守りについた哥舒翰はあっさり安禄山に降伏。玄宗は楊貴妃とその一族を連れて長安を見捨てて逃亡、その逃亡中に楊貴妃や楊国忠などの一族は誅殺。

楊一族はその歴史から姿を消すのであった。

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安禄山の死

安禄山は長安を占拠する前後に病気のため失明したという。

それが原因なのか、安禄山は長安において皇族の虐殺を行い、100万都市と言われた都で暴虐の限りを尽くした。

安禄山自体は洛陽にいたようだが、長安で略奪させた金銀財宝などは洛陽に送らせ、このことに憤慨した各地の豪族が蜂起、中華全体が反安禄山に傾くことになった。

この頃の安禄山はまるで手が付けられないほど凶暴になっていたようで、身の回りの人物に対し当たり散らし、最終的には息子の安慶緒の部下である李猪児という人物に殺された。

反乱軍はその後盟友であった史思明と息子達の争いで自己崩壊し、唐は一応の平和を取り戻す。

玄宗は退位し、息子の粛宗が即位するも唐は緩やかに滅亡への道筋を辿るのであった。

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個人的に安禄山に対して思うこと

権力に憑りつかれてしまった人物という評価がしっくりくる。

人は器以上の金を持つと狂うと言われるが、安禄山がまさにそれであった。

彼は洛陽に入るまでは忍耐強く、また有能な人物だったと言える。しかしそれまで色々なことに耐えてきた反動か、洛陽に入った瞬間におかしくなった。おそらくは糖尿病であると言われ、自分の死期が近いことを知っていたのかも知れない。そしてその恐怖から逃れられなかったのかも知れない。

いずれにしても最後は息子によって殺された。

哀れという言葉以外見当たらない。

それにしても、この時代、欲深い人間達に振り回された長安に住まう人々が哀れでしょうがない。

「国破れて山河あり」

杜甫の残した詩にこの全てが詰まっているような気がする。