宦官というのは、宮刑を処された男性であるが、その存在は中国史特有のものではなく、トルコの宮中においても重用された記録がある。
その役目は皇后などの皇帝の妃の世話であり、生まれてきた皇子の世話や教育であったりする。
皇帝の後宮は基本的に男子禁制、そのため男性であって男性でない宦官は非常に重要な存在であった。
今回は数いる宦官の中でも特に有名な高力士について見て行こう。
王族の末裔
高力士の本名は馮元一と言い、五胡十六時代において短期間だけ存在した北燕の王族馮氏の血を引いているという。
馮一族は唐の時代に入ってその勢力を強めており、祖父である馮盎の時代には潘州(現在の広東省)の長官を務めるまでになっていたが、父である馮君衡が罪を犯し一族は財産没収、戸籍はく奪という厳しい処分に下され、一族は離散、高力士は幼くして家を失い、奴隷商人に捕まって去勢されて売り飛ばされたようである。
高力士が15歳になったころ、広東省で小さな反乱があり、これを李千里という将軍が鎮圧する。その際に則天武后に対しての手土産として高力士を選び長安に送ったという。
則天武后に仕えた高力士は宦官である高延福という人物の養子になったらしく、馮元一から高力士へと名を変えた。
この間どのような経緯があったかは不明であったが、高力士は則天武后の孫である李隆基に仕えるようになり、彼はやがて皇太子になり、そして玄宗皇帝として即位するようになった。
玄宗皇帝唯一の忠臣
玄宗は若いころは聡明で英雄と呼ぶに相応しい活躍をした。太平公主を追い出して権力を握り、開元の治と呼ばれる唐の全盛期を創出する名君であったと言っても良いであろう。
その傍らには常に高力士の存在があった。
叔母である太平公主を排除した際にも高力士が宦官を掌握していたために宮中の動きが分かるようになっており、自ら兵を率いて公主に味方する人物を次々に殺害していったという。
高力士は6尺5寸(約197cm)あったと言われ、かなり戦闘力が高い宦官であったようだ。
高力士はその後も玄宗に仕え続け、影からその活躍を支え続けた。
「高力士が当直する時のみ私はゆっくり眠れる」
玄宗は常々重臣にそう漏らしていたという。
高力士は玄宗からの絶対的な信任を利用して私腹を肥やすということもなく、気に入らない人物を排除したり権力を握るということもなかった。
玄宗への報告は全て高力士が受けてから伝えられたと言い、その権力は絶大なものであったはずだが、高力士が専横を行ったという記録はない。
とはいえ李林甫などの佞臣は高力士が引き上げたという事実もあり、間接的に唐の衰退を速めたというの確かであろう。
しかし李林甫がある時自分の息のかかった子を太子に立てようとした時には断固反対、李林甫のたくらみを見事に粉砕するなどそこに加担した訳ではなかったようだ。
李林甫、楊国忠、安禄山などが対立しているのを見ると高力士は間に立ってこれらの仲介を行っていたという。
高力士を見るに、彼の行動理念は常に玄宗皇帝の為に何ができるかという点に集約されるように思う。
やがて安禄山の乱が起こると玄宗と共に長安を脱出、兵士たちが楊貴妃を殺そうとすると、玄宗に楊貴妃殺害を進言、自らの手で楊貴妃を絞め殺した。
その後玄宗が長安に戻ってからもそれに付き従い、そのそばを離れなかったが、跡を継いだ粛宗の宦官李輔国の差し金で流刑に処され、玄宗と離れ離れになってしまう。
そうこうしているうちに玄宗は死亡、それを聞いた高力士は長安の方角を向き大泣きし、血を吐いてそのまま死んでしまったという。
高力士の生きざまについて思うこと
唐の歴史を見るに、安史の乱の後には宮中で宦官偏重が続き、ついには皇帝の廃嫡さえも宦官が決めてしまうようになる。
そのような宦官重視の風潮は玄宗皇帝時代の高力士から始まったと言われる。
その意味で非常に弊害が大きかったとも言えるが、明の魏忠賢や秦の趙弘などと違い国を我が物としてその滅亡を速めた訳ではなく、玄宗の手足となって最後まで皇帝に忠義を尽くした。
宦官と言っても悪辣な人物だったと言う訳ではないだろう。
明の最期の皇帝崇禎帝が死ぬ際には中心は誰一人おらずただ一人の宦官だけがそばにいたというが、唐という巨大な帝国のトップ玄宗においても、彼個人に忠義を誓っていたのはただ一人高力士だけであったと言えるだろう。
玄宗のもとにはその権力を狙った佞臣ばかりが控えていた。李林甫、楊国忠、安禄山。
誰も玄宗という一人の人物など見ていなかった。
皇帝とは最も孤独な者の名である。
中国の歴代皇帝が宦官を重用するのは無理もない話なのかも知れない。
人は孤独には決して打ち勝つことが出来ないのだ。