「武川鎮軍閥」という言葉は中国史を理解する上では欠かせない用語と言えるが、世界史の教科書で見た記憶はない。
北周の宇文氏、隋の煬氏、唐の李氏。
これらの一族に共通するのは元々「武川鎮軍閥」の出身者であったということだ。
今回は中国史の要ともいえる「武川鎮軍閥」について見て行こう。
北魏の極端な文治主義とその反動
鮮卑族は拓跋氏族が立てた北魏は、孝文帝のもとで極端な漢化政策をとった。
多数派をしめる漢民族を少数民族が治めるには漢民族の風習を真似る必要があった訳だが、北魏で行われたのは漢人官僚を優遇する文治主義であった。
一方で元々の鮮卑族たちは辺境の守りにつくことになり、6つの地域に別れてその防衛を担っていた。これらの地域を統括するのが「鎮」であり、これらの鎮を総称して「六鎮」と呼ぶようになっていた。
北魏のもとでこれらの鎮の将軍達が中央で出世をすることは皆無であった。どれだけ軍功を立てても出世が出来ない。このことに鎮の長達は憤り、そして孝文帝が死ぬとそれは一気に形になった。
六鎮の乱
523年、六鎮の乱が発生した。
- 懐朔鎮
- 武川鎮
- 撫冥鎮
- 柔玄鎮
- 沃野鎮
- 懐荒鎮
これらの鎮が一気に反乱を起こした訳だが、530年には六鎮の乱はあらかた鎮圧されてしまう。
しかしその隙をついて南朝の梁が進軍を開始し、北魏の内部崩壊も手伝って北魏は東西に分裂してしまう。
この時に西魏で力を持ったのが武川鎮軍閥の有力者宇文泰であり、東魏で力を持ったのが懐朔鎮の高歓であった。
北周と北斉の建国
宇文泰と高歓はそれぞれ北魏の王族である拓跋氏の末裔を皇帝として擁立し、やがて禅譲させてそれぞれの国を作った。
宇文泰の子孫は北周を、高歓の子孫は北斉を作るり、この頃から武川鎮軍閥は関隴集団と名を変える。
その後北周では激しい内部闘争が続き、最終的には楊堅が主導権を握り隋を建国、北斉と南朝の陳を滅ぼして再び中華を統一するのであった。
武川鎮軍閥の有力者
武川鎮軍閥には八柱国と呼ばれる有力な8つの氏族と12大将軍と呼ばれる有力な12人の将軍がいた。
全てを紹介するのは難しいが、この中で有力だったのが八柱国のうちの独孤信、李弼、李虎、宇文泰の四人であった。
この中で宇文泰が一つ抜きんでて北周を作ったが、最も力を握っていたのは独孤信であったと言える。
独孤信は長女は皇后に、四女は李虎の息子である李昞に娶らせた。李昞の息子が後に唐を建国した李淵である。
李弼の末裔は唐の李淵と共に隋亡き後の覇権を争った李密である。
李密については以下の記事をご参照ください。
しかし北周で覇権を握ったのは楊堅であった。
楊堅は12大将軍楊忠の息子で、妻は独孤信の七女独孤伽羅である。
義父である独孤信の力を背景に楊堅は出世していき、独孤伽羅との間に生まれた長女楊麗華が北周の宣帝の皇后になると外戚として力を奮い、これまた独孤伽羅の提言で隋を建国する。
隋・唐
このように武川鎮軍閥は有力者同士が姻戚関係にあり、隋の要職は武川鎮軍閥の出身者で占められるようになり、隋の滅亡後には武川鎮軍閥同士で争いが起るようになる訳である。
これらの争いを征したのは李淵の建国した唐であった。
唐はこの先300年も続く。
その繁栄の源流をたどれば武川鎮にたどり着く訳である。