連合国を勝利に導いた第34代アメリカ大統領ドワイト・D・アイゼンハワー

アメリカでは大きな戦争の後にその戦争の英雄が大統領となることが多い。独立戦争の後はジョージ・ワシントンであったし、南北戦争後はユリシーズ・グラント、そして第二次世界大戦後はドワイト・アイゼンハワーである。

www.myworldhistoryblog.com

www.myworldhistoryblog.com

 大統領になる前のアイゼンハワー

f:id:myworldhistoryblog:20190902221757j:plain

ドワイト・アイゼンハワーは1890年にテキサス州で生まれた。

一族は宗教改革を巡る混乱によりドイツからスイスに、18世紀にはスイスからアメリカに移住したドイツ系移民で、母はエホバの証人を信奉し、父はプロテスタントともユダヤ系であるとも言われる。

アイゼンハワーの成果は決して裕福とは言えず、高校卒業後は進学を希望するも経済的な困難から砂糖工場へ就職、それでも進学の意思をもっていたアイゼンハワーは軍人となれば授業料が免除されると聞き海軍学校と陸軍士官学校を受験、年齢などの問題で陸軍士官学校に入学、1915年に卒業すると1917年に大尉、1920年には少佐と順調に昇進するもその後16年間も昇進なしに少佐のまま軍務につき続けた。

要約中佐になれたのは1936年のことで、この時アイゼンハワーの上官はかのダグラス・マッカーサー大将であった。

この時アイゼンハワーはマッカーサーの副官を務めており、アイゼンハワーははやくマッカーサーのもとを離れたいと転任届を出し続けたがマッカーサーはアイゼンハワーの手腕を高く評価しておりそのたびに転任届を握りつぶしていたという。

1940年にようやくワシントンに戻るとアイゼンハワーは順調に出世を重ね、1941年3月には大佐、10月には准将というかなりスピードで出世することになる。

日本がアメリカに対して真珠湾攻撃をするとアイゼンハワーはフィリピンでの軍務が評価され参謀本部戦争計画局次長に任命され少将に、その際後のノルマンディー上陸作戦の元となる対ドイツ作戦を立案、それを大将マーシャルが採用しアイゼンハワーはそのまま中将に昇進、そのまま計画に従ってロンドンの参謀本部に転任、連合国最高司令官に就任することになる。

コマンダーインチーフ(最高司令官)となったアイゼンハワーはモロッコとアルジェリアにおけるトーチ作戦を成功させ、1944年ついに大将への昇進を果たした。中佐のまま16年、大佐になってから大将になるまでわずか4年。ナポレオンもびっくりの昇進速度である。

www.myworldhistoryblog.com

大将になったアイゼンハワーはパットン将軍などと共にイタリア戦線に赴き、ファシスト党率いるイタリアを降伏させることに成功、そのままフランクリン・ルーズベルトにより対ドイツ連合国遠征最高司令官に任命される。

史上名高きノルマンディー上陸作戦の開始である。1944年12月、アイゼンハワーはついに軍の最高位である元帥の位に就く。

今日「Dデイ」の名でも知られる侵攻作戦は成功に終わり、1945年5月にはついにドイツは降伏、続く8月には大日本帝国も降伏し人類史上最悪の戦争である第二次世界大戦は終了した。

大戦後にはNATO(北大西洋条約機構)の最高司令官に就任し、1952年のアメリカ大統領選に出馬、見事当選し、第34代アメリカ合衆国大統領となった。

この際、アイゼンハワーは政党に所属していなかったために共和党と民主党の両方から候補に擁立されるという事態となり、最終的に20年間民主党政権が続いたためという理由で共和党からの出馬となった。

そのような経緯もあったためか、アイゼンハワーは選挙中に一切相手候補の中傷などは行わず、選挙も圧勝した。

なおこの時の副大統領は後に大統領となるリチャード・ニクソンである。

第34代アメリカ合衆国大統領

第二次世界大戦が終わっても世界はまるで平和になっていなかった。アイゼンハワーは大統領になると朝鮮戦争の休戦に踏み切る。なお現在も朝鮮戦争は休戦中である。

その後はアジアにおける民族紛争には不介入の姿勢を見せたもののフランス撤退後のベトナムが共産化するのを防ぐためにベトナムに介入、正規軍こそ派遣しなかったものの後のベトナム戦争の端緒を開いた。

もっとも、フランスとベトナムの間で行われたインドシナ戦争においてはトルーマンがフランス軍に対して物質的を支援をしていたため、その端緒はトルーマンの時代に開かれていたというべきかもしれない。

1956年、今度はエジプトのナセル大統領がスエズ運河国有化を宣言、これによって英仏はエジプトに対して軍事介入を主張するもアイゼンハワーはこれに反対、しかしエジプトがソヴィエトに近づくと反共を理由にアイゼンハワー・ドクトリンを発表、中東への軍事介入を宣言し、実際に1958年にレバノンで暴動が起きた際には米軍を派遣している。

一方でスターリン死去に際しては後継者のフルシチョフと歩み寄りが発生し、1955年のジュネーブ4巨頭会談に参加、英仏ソ米の巨頭の会談が実現した。1959年にはフルシチョフが訪米するなど平和共存的なムードが流れたが、ソ連が大陸弾道型ミサイルの開発に成功、U2事件などが続くと再び米ソの間には緊張状態が走った。

極東では日本との同盟を強化する日米安保条約の改定を行ったものの日本国内では大きな反発が生まれ、このことによりアイゼンハワーの訪日は中止となってしまう。

国内的には共和党らしく産業資本家の保護を重視した政策をとり、特にこの時代軍産複合体と呼ばれる新型の産業資本家が台頭、アイゼンハワーはこれを危険視しその抑制を呼びかけるもソ連との間の終わりなき軍拡競争に歯止めをかけることが出来ずに軍産複合体の肥大を防ぐことが出来なかった。

一説には次代のケネディ大統領はこの軍産複合体による暗殺されたとも言われており、かつての産業資本家同様大統領でさえもその存在をコントロールすることは出来なくなってしまったのはアイゼンハワー時代からであろう。これより後になると軍産複合体の経営者が大統領になってしまうような時代になってしまうのだが、それはまだだいぶ先の話。

大統領の任期後のアイゼンハワーはほとんど公の場に出ることはなく、1969年死んだ。78歳であった。

個人的なアイゼンハワーの評価

次代のケネディが強烈すぎるせいでアイゼンハワーの評価は常にケネディと比較されなければならないため低かった。その要因はソ連との宇宙開発競争に負けてしまったことがあり、それがアメリカ国民の誇りを傷つけてしまったことにあるだろう。

また、アイゼンハワーはインドシナ戦争やエジプトへの対応のように当初と反応を変えることが多く、そのことも評価を下げる原因であったと思われる。

しかし客観的に見るとそれほど積極的な評価をする点もないが失政は特になく、歴代の大統領の中ではむしろ上位に入るのではないかと思う。

大統領としてはともかく、軍人としては第二次世界大戦を勝利に導いた世紀の作戦ノルマンディー上陸作戦の立案と指揮を担当しており、世界史的に見ても指折りの指揮官であると言うことが言え、さらにトルーマンの原爆投下には強く反対した人物でもあり、戦後は「アメリカが原子力爆弾を使わずに戦争に勝てていたらどんなによかったことか」と言う言葉を遺している。