最も存在感のあったアメリカ大統領!第35代ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ

第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディはわずか2年間しか大統領職になかった。これは歴代でも3番目に短い記録であるのだが、それでも最も人々の印象に残っている大統領であり、歴代でも確実に上位に入る大統領である。

 大統領になる前のJFK

ケネディ家はアメリカの中でも比較的新しい家系で、19世紀にアイルランドで起こったじゃがいも飢饉の際にアメリカに移住してきた一族である。

アメリカの支配者層はピルグリム・ファーザーズの時代からWASPである。すなわち白人でありアングロサクソン族でありプロテスタントでなければアメリカの支配者にはなれない。

もう少し言えば基本的にはイギリス、ドイツ系などが中心で、たまにオランダ系などの例外が出てくるぐらいで、アイルランド系はアメリカの支配者層とは異なり、その面でもケネディはかなり異質な存在であると言える。

アイルランドはイギリスのあるグレートブリテン島の隣にある島国であるが、さかのぼれば古代ローマを苦しめたガリア人達がアングロサクソン族の侵攻から逃れてケルト人として住み着いた土地であり、伝統的にカトリックを信仰する者が多く、それゆえにオリバー・クロムウェルを始めとしたイギリスの諸勢力から迫害と支配を受け続けた国でもある。

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アメリカの歴史もヨーロッパの歴史と地続きであり、ケネディ大統領の存在はそのことを伺わせる。

ケネディの父ジョセフ・P・ケネディは禁酒法解禁と共にルーズベルト家と組んでウイスキーやジンの輸入業を成功させて莫大な財産を稼ぎ出した実業家であり、自身も民主党の議員として在英国大使などを経験している。しかし父ジョセフに関しては表舞台に出るというよりも莫大な資産で民主党を陰から支えた人物という方がしっくりくる。例えばフランクリン・ルーズベルトの大統領選では資金援助をはじめ大いに暗躍し、レッドパージ(赤狩り)と呼ばれる狂気的な共産党弾圧を行った共和党のマッカーシ―議員などとも親しかったという。

私生活もかなり派手で、「サンセット大通り」などで有名なグロリア・スワンソンなどはジョセフと不倫関係にあったと言われ、映画産業や酒類産業、金融産業などで得た資産でかなりやりたい放題行っていたという。

しかし最終的には名誉欲が芽生えてきたようで、自身の子供たちには過酷ともいえる教育を施し息子には大統領になるように言い聞かせていたという。

実際にJFKの大統領選の裏には常にジョゼフがおり、ある意味息子はその操り人形であったとさえいえる。

JFKはそんなジョセフの次男として生まれた。JFKには兄がおり、非常に出来がよく、ジョゼフは兄のパトリックを大統領にしたいと目論んでいたようだ。

ジョンはと言えば生まれつき非常に体が弱く、病弱な子供であったという。

13歳の時には寄宿制の学校に通ったものの病弱さとホームシックとで結局家に戻ってきてしまうほどで、父ジェゼフはしかたなく兄と同じ学校に通わせたという。

そこでの態度は何でもできる兄へのコンプレックスからあまり良い物ではなかったらしく、さらに病弱であったために満足に活躍できなかったという。

その後はイギリスにある大学に通うも病気のため退学、その後プリンストン大学に入るもこちらも健康上の理由で6週間ほどで退学となっている。

この頃のJFKは兄への劣等感と父への負い目、そして自分自身への不甲斐なさで一杯であったという。所謂劣等生意識の塊となってしまったJFKであったが、ここでつぶれなかったのもまたJFKらしいと言える。

彼はただの劣等生ではなかった。彼には不屈の精神力が備わっていた。

父ジョゼフの尽力もありJFKはなんとかハーヴァード大学に入学、当初席次はほぼ最下位であったがヒトラーとチェンバレンに関する「ミュンヘン融和」と題された卒業論文は非常に高く評価され、最終的には優等な成績でハーヴァードを卒業することに成功した。

卒業後はこれまた父ジョゼフの口利きで海軍士官学校に入学し、やがてソロモン諸島のパトロール魚雷艇の船長となる。

1943年、時は第二次世界大戦時、ケネディが載っていた魚雷艇P109は大日本帝国軍の駆逐艦天霧によって文字通り駆逐され、船体は真っ二つ、ケネディは船の断片に捕まって命からがら生き延びるという体験をしている。

その後は遭難したがなんとか発見され無事に帰国する。そしてこれまた父ジョゼフのおぜん立てでなぜかケネディは日本戦の英雄に祭り上げられてしまう。

なお、同じころに兄のジョセフ・パトリック・ケネディがイギリス上空で戦死、ケネディ家の跡取りはJFKとなった。

二次大戦後はこれまた父ジョゼフの口利きで通信社の特派員となり、その後はケネディ家の豊富な選挙資金を背景にわずか29歳で連邦下院議員に当選、その後は連邦議員を歴任する。

この間に持病である脊椎の病気で療養を余儀なくされてしまい、その間で書いた「勇気ある人々」という本がピューリッツァー賞を受賞するも、実際にJFKが書いたのかどうかは当時からかなり話題であったようである。

ケネディ陣営にはセオドア・C・ソレンセンという後にケネディの大統領顧問官になる優秀な参謀がついており、その人物が「勇気ある人々」を書いたのではないかという疑いが当時から現在に至るまで存在している。さらにそのピューリッツァー賞受賞に対しても疑問は残っていたという。

実際に父ジョゼフはなりふりをかまわないところがあり、その暗躍があったとみるのが自然な見方であろう。

やがてケネディは弟のロバートと共に「マクラレン委員会」における活躍で名声を高め、やがて1960年の大統領選に挑んでいくようになる。

「マクラレン委員会」というのは犯罪組織と労働組合の癒着を暴くことを旨とした委員会で、ケネディ兄弟は麻薬の密輸ルートを始めとしたマフィア組織の行動を報告し名を上げた訳である。

しかしその一方でケネディ家はマフィアとのつながりがあり、ある種のマッチポンプであったのではないかともいわれており、後に暗殺される理由の一因となった可能性はある。

1960年、歴史に残る激戦を制してジョン・F・ケネディは第35代アメリカ大統領となる。この際、ケネディへの得票数は49.7%、ニクソンへの得票数は49.5%とわずか0.12%差に過ぎず、選挙人選挙もわずかな差でしかなかった。

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第35代アメリカ合衆国大統領

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「国があなたのために何をすることができるかを問うのではなく、あなたが国のために何をすることができるかを問うのです。」

1961年にケネディは有名な就任演説とと共に大統領としてのスタートを切った。

大統領になったケネディはソ連の指導者ニキータ・フルシチョフと会談し、ドイツの問題について話し合った。フルシチョフはケネディに米軍がベルリンから撤退するように求めたがケネディはこれを拒否、話し合いは決裂し、ベルリンにはソ連軍によってベルリンの壁が設置されることとなった。

さらにアメリカの裏庭ともいえるカリブ海ではカストロやゲバラによるキューバ革命が起こっており、キューバに社会主義政権が誕生しようとしていた。これに対しケネディは他のラテンアメリカ諸国に対して社会主義革命の飛び火がしないよう「進歩のための同盟」を結成、しかし1962年にはキューバにソ連がミサイル基地を設置していたことが判明、アメリカとソ連は一触即発の状態となり所謂「キューバ危機」が勃発した。

もはや第三次世界大戦が勃発かと思われたが、ケネディとフルシチョフは態度を軟化、結局フルシチョフはミサイル基地を撤去し、2人の間には直通電話であるホットラインが設置され、1963年には部分的核実験停止条約が成立している。

なお、1961年の12月に父であるジョゼフが亡くなっている。

極東においては東南アジアの共産化を防ぐべくベトナムへの軍事介入を決意、ベトナム戦争への道を開いた。

さらに米国内に特殊部隊であるグリーンベレーを設置し、アジアアフリカ地域に派遣、アメリカの覇権を世界に轟かせた。

国内にあたっては「ニューフロンティア政策」を採用し、以下の7つの項目の強化を掲げた。

  1. 人口のニューフロンティア
  2. 生存のニューフロンティア
  3. 教育のニューフロンティア
  4. 住宅及び都市郊外のニューフロンティア
  5. 科学及び宇宙のニューフロンティア
  6. オートメーションのニューフロンティア
  7. 余暇のニューフロンティア

内政的に最も有名なのはキング牧師が指導者となった「公民権運動」への支援で、リンカーン以来棚上げされていた黒人差別問題に真正面から取り組み、黒人への支援を表明した。

第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ暗殺事件

1963年、ジョン・F・ケネディはダラスで暗殺された。

20世紀最大の謎とも言われるこの事件は世界中に衝撃を与え、犯人のハーベイ・リー・オズワルドもまたジャック・ルビーという人物に殺され、このジャック・ルビーは後に変死するという形になり、未だにその真相は解明されていない。

古来よりCIAやFBIなどの国家機関説、ソ連の陰謀説、軍産複合体による暗殺、切り捨てられたマフィアの報復など様々な説があるが、それだけJFKには敵が多かったということであろう。

なお残された家族はやがてギリシャ人の大富豪アレクサンダー・オナシスという人物の保護を受けることになる。

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なお弟のロバート・ケネディもまた1968年に暗殺されている。

個人的なケネディへの評価

短い任期であったにも関わらずケネディは世界に大きな印象を残した。まさにアメリカ人が望むような力強いアメリカ大統領であり、その実行力は歴代でもNO.1であるだろう。

反面敵も非常に多かった。ケネディに対しては多くの勢力が反感を持っており、今なお背後には真犯人がいるのではないかという話が絶えない。

果たしてその真実が明かされる日は来るのだろうか?