ガレリウスはディオクレティアヌス帝が始めたテトラルキア(四頭政治)において東側の副帝に任命された人物で、ディオクレティアヌスの娘を娶り、先帝が引退すると正帝として君臨した人物である。
ディオクレティアヌス帝の副帝
元々はディオクレティアヌスとマクシミアヌスの二人が並ぶディアルキア(二頭政)だったが、それでも広範過ぎたので後にディアルキアに移行した。その際軍事の才を見込まれて副帝に就任したのがガレリウスであったわけだ。
ガレリウスの出自もまたはっきりとは分かっておらず、現在のブルガリアのあたりで生まれ、アウレリアヌス帝やカルス帝のもとで戦功をかさねたことは分かっている。
ディオクレティアヌスの娘であるヴァレリアを妻に迎えると、副帝となりバルカン半島を任されることになる。
その後はすぐに中東に持ち場を変えられる。
彼の主な役目はササン朝との闘いに勝利することだったが、紀元296年にはササン朝との闘いに敗れメソポタニア地方を失ってしまう。
それでもアルメニアに親ローマの国王を就けることに成功し、その後迎えたササン朝との闘いに勝利、首都であるクテシフォンを占領しメソポタミア地方を取り戻すことに成功する。
正帝就任
ディオクレティアヌスとマクシミアヌス帝が引退するとガレリウスはコンスタンティウスと共に正帝の座に就任、自らの腹心であったヴァレリウス・セヴェルスと甥であるマクシミアヌス・ダイアを副帝にすえる。
この際、先帝であるマクシミアヌス帝の息子であるマクセンティスがこれに反発、ローマ元老院と共に首都ローマで先帝マクシミアヌスを擁立してしまう。
さらにその少し前にもう一人の正帝コンスタンティウスが亡くなると、その息子コンスタンティヌスが勝手に皇帝を僭称、敵対するのは得策ではないとの判断のためか、ガレリウスはこれを認め、コンスタンティヌスを副帝に任じる。
6人となってしまった皇帝はもはやお互いに争うことでしか解決を見いだせず、お互いが相争う時代へと突入する。
まず起こったのがマクセンティウス&前皇帝マクシミアヌスとガレリウス&正帝に昇格したセヴェルスの戦いだった。
老いたりと言えどもその軍事的な才は確かなマクシミアヌスの前に現正帝コンビは無惨な敗北を喫した。
セヴェルスは捕えられ、ローマに送られて死去。
ガレリウスは代わりにリキニウスを西方の正帝に就任させるも、元々の持病が悪化してしまい紀元311年にはこの世を去ってしまう。
個人的なガレリウスの評価
ガレリウスの評価はすこぶる悪い。
それはディオクレティアヌス帝のもとキリスト教徒への徹底的な弾圧を加えたからであろう。当時のローマは文化的に共和政期よりも衰退しており、記録を遺そうとするものも少なく、残っている資料はキリスト教徒が書き残したものであるため仕方のないことであると思う。
そういった記録によると、ガレリウスはローマ市民に冷淡であり、自らの故郷バルカン半島の人間を優遇する差別主義者であったという。
実際にこの頃のローマ皇帝はバルカン半島出身者で固められており、その傾向は多かれ少なかれあったのだろう。
ローマ帝国皇帝の出身地は、五賢帝時代まではローマ出身者が多く、次にスペイン出身、セヴェルス朝になると北アフリカ、軍人皇帝時代末期からはバルカン半島出身者が目立つ。
ガレリウス自体に失政があった訳ではなかった。
ガレリウスの時代に内戦に突入してしまったのは、ディオクレティアヌス帝時代に構築されたシステムに無理があったからであり、また後継者問題を十分に解決できなかったところに原因が求められるであろう。
結果的にマクセンティウスやコンスタンティヌスといった野心家が台頭してしまい、自らは病気の果てに命をおとしてしまう。
世界の歴史上、1つの政体で分割統治がうまく行ったためしはない。
広大な領土を誇ったモンゴル帝国も細分化され、やがて消滅した。4人の皇帝が国を治めるということと、皇帝に権限が集中するドミナートゥス政は相性が元々悪かったのだ。
専制君主制は絶対的なカリスマをもった強権的な人物がいて初めて成り立つ。
くしくも、ガレリウスの敵であったコンスタンティヌスにはその才能があった。
ガレリウスはある意味、ディオクレティアヌスからコンスタンティヌスへの橋渡しをした存在と言えるかも知れない。