世界の歴史に影響を与えたという面において、コンスタンティヌス帝は5本の指に入るであろう。
なにせ、コンスタンティヌス帝がいなければキリスト教が支配的になることもなければローマ法王もおらず、よって宗教改革も存在しなかった。
後のキリスト教史観において、コンスタンティヌス帝は聖帝、あるいは大帝と呼ばれる。
しかし一方で実質的にローマを終わらせた皇帝という評価も受けている。
コンスタンティヌス帝について考える時、一体歴史とは何なのか?を考えずにはいられない。
クリスチャンの母親と副帝の父親と
コンスタンティヌス帝の母親は熱心なキリスト教徒であったと言われている。
恐らくはそれを巧妙に隠していたので、キリスト教徒を弾圧したディオクレティアヌス帝は知らなかったであろう。あるいは、ディオクレティアヌスによって離婚させられたことからクリスチャンになったのかも知れない。
コンタンティヌスの父親コンスタンティウス・クロルスはディオクレティアヌス帝のもと始まったテトラルキア(四頭政治)において西方の副帝に任命された人物で、その際妻のヘレナと離婚させられ西方の正帝であったマクシミアヌス帝の義理の娘であるテオドラと結婚させられた。
コンスタンティヌス帝自体は父であるマクシミアヌスの許ではなく、東方にいたディオクレティアヌスの許で軍役に就き、ディオクレティアヌスとマクシミアヌスがそろって帝位を引退すると父が西方の正帝となり、その機会に父の許へと向かう。
父であるコンスタンティウス帝はブリタニアへの遠征中で病死してしまい、これに伴ってコンスタンティヌスは自らを皇帝とし名乗りを上げる。
これによりローマは激しい内乱の時代へと突入するのであった。
ローマ大内乱6人の皇帝
かつて最もローマを苦しめたカルタゴの将軍ハンニバル・バルカは、外敵を倒した国はやがて自国で争いを始めるという言葉を残したが、まさにその通りポエニ戦争に勝ったローマは勝手に内乱を始めた。
内乱は約100年続き、ユリウス・カエサルはオクタヴィアヌスと言った英雄のもと、ローマは再び息を吹き返し、パクスロマーナと言われる時代を創出。
その平和は約200年続いたが、次第に混迷の時代軍人皇帝時代がやってきて、一時期はローマは3つに分かれてるまでになってしまう。
それをまた1つに戻したのはアウレリアヌス帝であり、その後に現れたディオクレティアヌスは強権のもとローマを4人の皇帝で統治するテトラルキアを採用した。
しかしディオクレティアヌス帝が引退して後、テトラルキアは2年と持たずに崩壊する。
コンスタンティヌスの突然の即位に端を発した混乱は首都ローマに波及した。
ドミナートゥスによって完全に蔑ろにされてしまったローマ市民およびローマ元老院の怒りが爆発、これと結びついたのがマクセンティウスという人物で、正帝マクシミアヌスの子供であったのに自らは皇帝に選ばれなかったという不満もあり、自ら皇帝とするとともに父マクシミアヌスの皇帝復帰を宣言、ローマには6人の皇帝が並ぶという異常事態となった。
こうなるともはやお互いに争うしか道はなくなる。人間という生き物は、敵を作ることでしか自らの存在を示せない生物なのかも知れない。
まず最初に争ったのはマクシミアヌス帝&マクセンティウスと東方の正帝ガレリウス&西方の正帝セヴェルスだった。この戦いはマクシミアヌス帝に軍配が上がり、セヴェルスは死亡、代わりにリキニウスが西方の正帝に就任した。
マクシミアヌス帝の陣営はコンスタンティヌス帝とは同盟を結び、マクシミアヌスの娘ファウスタとコンスタンティヌスは結婚をする。この時コンスタンティヌスはすでにミネルヴィナという妻を持っていたので、離婚して結婚したことになる。歴史は繰り返すというが、子どもは親にされたことをそのまま子供にし返す傾向にある。
なお、この際に義理の兄にあたるマクセンティウスは結婚式に呼ばれもしなかったようだ。
内乱中と言えどもローマ皇帝の役割はインペラトール(最高軍事司令官)であり、国内の治安維持である。コンスタンティヌス帝は北方のフランク族との闘いに出向いていたが、義理の父であるマクシミアヌスがコンスタンティヌス打倒のために兵をあげる。この時にマクシミアヌスが何を考えていたかは不明だが、狡猾なコンスタンティヌスの罠であった可能性は高い。
コンスタンティヌス帝は早々にフランク族を制圧すると、疾風の如き速さでマクシミアヌスを撃破、先帝は現在のマルセーユにあたるマッシリアに逃げ込むも住人によってコンスタンティヌスに差し出される。
その後マクシミアヌスはコンスタンティヌス暗殺を企てたが娘であるファウスタの密告により失敗、その後は帰らぬ人となった。
コンスタンティヌスはこれを自殺と公表、それを当時の人が信じたかどうかはわからない。そしてそもそも、暗殺計画があったのかどうかもわからない。わかっているのはマクシミアヌスはこの時点で死んだということだけだ。
マクシミアヌスの娘テオドラはコンスタンティヌス帝の義理の母であり、もう1人の娘ファウスタはコンスタンティヌス帝の妻であり、マクシミアヌス帝は義理の父であり義理の祖父でもあった訳だが、ほとんど躊躇なくコンスタンティヌス帝は殺害している。
コンスタンティヌスはその生涯において多くの肉親を殺害しているが、これはその最初だと言えるだろう。
コンスタンティヌス帝は冷酷無比な性格をしていて、逆らう者は容赦なく、そして躊躇なく殺している。ゲルマン民族相手にも時に見せしめとしての虐殺を繰り返しながら怖れさせて反抗の気概をそいでいる。
ローマ最大の英雄カエサルがその寛容性(クレメンティア)で異民族に対応したのとは対照的だと言えるだろう。
さて、時間は少しさかのぼるが、セヴェルスが死んだ後にはリキニウスが西方の正帝となった訳だが、この事実はマクセンティウスはもちろん東方の副帝であるマクシミヌス・ダイアも不満であった。副帝の自分をさしおいていきなり正帝になってしまったのだから無理もない。
東方の正帝ガレリウスはダイアの正帝就任を追認、そして自身は重病によりこの世を去ってしまうのであった。
コンスタンティヌス帝はこの好機と見てローマに進軍、マクセンティウス帝を軽々と破るとミラノにおいてリキニウス帝と会談。この時に有名なミラノ勅令をだし、ローマ領内の信教の自由を認める。
ミラノ勅令はキリスト教国に支配された日本の教科書ではよく出てくる用語で、センター試験などにもよく出てくるが、これによってキリスト教を公認したというのは間違いではないが、この時点ではマニ教なども含めた信仰の自由を認めたのであってキリスト教のみを認めた訳ではない。
さらに言うとリキニウス帝との共同声明であるためコンスタンティヌスのみが出した訳でもない。
山川の世界史用語集には「増大した信徒を懐柔するための政治的措置」と書いてあるが、当時のキリスト教徒の数は多く見積もっても4%ほどであり、その意見が妥当であるかどうかは疑問もある。
また、この際コンスタンティヌスは妹のコンスタンティアナをリキニウス帝に嫁がせている。
その後はマクシミアス・ダイアとの闘いも制覇し、そのままリキニウス帝との闘いにも勝利、6人いたはずの正帝を全て殺害することに成功し、晴れてコンスタンティヌスは唯一無比のローマ皇帝となることが出来たのであった。
コンスタンティヌス帝は他の皇帝に比べて実は常に率いている兵士の数は少なかった。
だが、古代におけるいくつかの戦いが示すように、寡兵であっても訓練度や指揮官の能力、士気の高さなどによって数で勝る敵を撃破することは可能である。コンスタンティヌス帝はまさにこの全てを兼ね備えていたと言え、その軍事的才能はスッラやユリウス・カエサルに匹敵すると言ってよいであろう。
コンスタンティノープル建設
現在でもトルコのイスタンブールとして名の残る都コンスタンティノープルは、その名が示すようにコンスタンティヌス帝の名前をとってつけられた。
新たな都を作った理由は古来よりいくつか考えられてきた。
- 元老院のいない首都が欲しかった
- ゲルマン民族にもペルシャにもにらみが効く首都が欲しかった
- 新たにキリスト教を中心とした国家を作りたかった
恐らくこの全てであろう。
歴代のローマ皇帝は近衛兵と元老院によって多くは暗殺されてきた。皇帝でなくともユリウス・カエサルが殺された一件を考えればその影響下にあるローマにもどりたくない理由はよくわかる。もしコンスタンティヌスがローマに戻れば暗殺されていたことであろう。
遷都する場合の理由は既得権益者からの離脱であることが多い。日本で改革を行うとすれば東京ではないところで首都機能を移転して行うべきであろう。既得権益をもった連中が跋扈するような霞が関での改革は無理である。
立地で見てもローマは敵国であるペルシャやライン川ドナウ川と言った防衛線から遠かった。それぞれににらみが効き、防衛力も抜群のビザンチウムほど首都に適した土地もなかったであろう。
これは英断であると思う。
全ての勢力を傾けて作られた新しい都は、着工からわずか6年で完成したという。
また、このコンスタンティノープルには数多くの教会などがあったことが知られていて、さらに政策としてキリスト教の司祭などになると税制面の優遇が与えられた。
ローマ皇帝はインペラトール(最高司令官)でもあるが同時に最高神祇官でもあり、ローマの神々に対する祭祀を執り行う義務がある。
が、唯一の専制君主となったコンスタンティヌスには誰も逆らえない。ローマにいたら元老院も文句が言えたであろうが、遠く小アジアの地にいるローマ皇帝に何を言っても無駄である。
コンスタンティヌス帝とキリスト教
コンスタンティヌス帝がこれほどまでにキリスキト教を保護した理由については古来より様々な考察がされてきた。
恐らく彼は隠れキリシタンだったのであろう。
彼の母は敬虔なクリスチャンであったと言われていて、彼の父であるコンスタンティウスでさえクリスチャンであった可能性が示唆されている。
ディオクレティアヌス帝はそのような人物を任命したことになるが、そのことに不思議はないであろう。
キリスト教徒はその信仰を捨てることは滅多にない。宗教は人の死を超える。殉教なら喜んでするキリスト教徒はいくらでもいる。
あるいは現実主義的で狡猾なコンスタンティヌス帝のことだから、キリスト教を中心とした支配体制を確立するつもりだったのかも知れない。
かつて日本には、大仏を作ることで国を統治しようとした聖武天皇という人物がいた。発想はおなじである。
他民族国家であるローマを支配するには、言語も民族も超えたアイデンティティである宗教が最も都合のいい道具であったと言える。
なのでコンスタンティヌス帝は、ローマ皇帝であるにも関わらず、キリスト教の教義のために小アジアのニケーアで会議を行っている。
歴史の教科書にニケーア公会議として記載されているこの会議の主題はイエス・キリストは神であるか否かという点である。
イエスは神であるというアタナシウスとイエスは人間であるというアリウスのどちらが正しいか?コンスタンティヌスはアタナシウスが正しいと認めた。
その瞬間から、イエスは神となった。ローマ皇帝という世界最高の権力者がイエスを神としたのだ。
アリウスはその後追放となり、ゲルマン民族にその教えを布教することにした。
余談だが、アナタシウスの主張した、神と精霊とイエスは同一の存在であるとしたトリニティ(三位一体)の考え方は現在のキリスト教の絶対的な教えらしく、クリスチャンの人にイエスが神ではないとする説についてどう思うか?と聞いたところ激しい怒りを買ってしまったことがある。クリスチャンとは一生分かり合えないなと思った瞬間である。
のちに東方教会は皇帝が教皇であるという説をとるようになる。ローマ教皇と東方教会は互いに破門しあうことになるのだが、これはまた先の話。
コンスタンティヌス帝に話を戻すと、イエスは神である方が都合がよかったであろう。ローマ皇帝は神の代理とする方が何かと都合が良い。ナポレオンにしてもカール大帝にしても戴冠式はローマ教皇から行われている。ローマ教皇は神であるイエスの代理人なのだ。
実際にコンスタンティヌスはキリスト教が支配権を握った歴史観においては聖なる皇帝、大帝などと呼ばれ最高の評価を受けている。
更には「コンスタンティヌスの寄進状」というねつ造文章まで作られている始末。
これは、聖なる君主であるコンスタンティヌスがローマ教皇に教皇領を寄進した旨を記した寄進状のことで、ローマ教会の権威付けのために使われており、後に完全な偽造であることが判明した。
教会の腐敗ここに極まれりと言った事件である。
だが、この文章は後にカールの戴冠や十字軍遠征、大シスマ等の際ローマ教皇の正当性を主張するための根拠として利用されてきており、実はそれが大嘘であるということが分かったのは18世紀のこと、当事者たちは皆亡くなっていたのである。歴史上最大の詐欺事件と言っても良いだろう。
血塗られしコンスタンティヌスの家族殺し
世界史にはさまざまな暴君がいるが、いかな暴君と言えども肉親はあまり殺さない。
コンモドゥスやネロが暴君と言われるのもそれぞれ姉や母を殺したからであるという面が強い。ネロはさらにキリスト教徒を虐殺した点でも大きく評価を落としている。ネロもまさか嫌われ者のキリスト教徒たちが世界の支配者になるとは思ってもみなかったであろう。
中国でも煬帝や唐の太宗が自分の兄を殺害して帝位に就いている。
このように確かに肉親を殺害した人物はいるが、それでもコンスタンティヌス帝よりも肉親を殺害した人物はいない。
まず最初は先ほども述べたように義理の父であるマクリアヌス帝を殺害した。証拠はないが、コンスタンティヌス帝が殺害したとするのが妥当であろう。義理の兄であるマクセンティウスのことも殺害している。この殺害には特に正当性はない。ただ邪魔だから殺したのだろう。それも戦に乗じてだからうまく行ったと思ったことだろう。仮に生き延びたとしてもマクセンティウスが長く生きられたとは思えないが。
次に離婚した妻との間にできた子供クリスプスを処刑した。罪状は皇后ファウスタとの密通であったらしいが、その皇后のことは罰していない。クリスプスは優秀な将軍であったので、保身のために殺したと考えるのが妥当であろう。
その皇后も殺した。こちらはサウナに閉じ込められて殺されたらしい。証拠はないが、さすがにコンスタンティヌス帝以外が犯人だとは考えにくい。
半分ほどは証拠がない。だが、義理の父と血のつながった本当の息子を殺害したのは確かだ。
晩年と最期
国内が統一されるとコンスタンティヌス帝は北のゲルマン民族との闘いに赴き、アルマンニ族やサルマティア族、最強のゲルマン民族ゴート族などに完勝し、勢いそのままササン朝ペルシャへの遠征の途中でその最期をディオクレティアヌス帝の都であったニコポリスで迎えることになる。
その人生の最期において洗礼をうけ、正式にクリスチャンになって死んだという。
これがねつ造なのか本当なのか、今となっては確かめようがない。
コンスタンティヌス亡き後は帝位をかけて骨肉の争いが展開され、再び多くの血がながされることとなった。
個人的なコンスタンティヌス帝の評価
世界史において、これほど評価の難しい人物もいない。
コンスタンティヌス帝の評価はすなわち「中世」という時代への評価になるだろう。
コンスタンティヌス帝の即位をもってローマらしさは完全に死んだ。共和政も死に、ユピテルなどのローマ最高神も事実上死んだ。こののちにやってくるのはキリスト教の教義が支配する「中世」という時代である。
世界ではこの時代のことを別名「暗黒時代」と呼ぶ。
暗黒時代が晴れるのは、ローマ文化の見直しが始まるルネサンスの時代である。そういった観点からすれば、暗黒の時代に突入させた張本人であるコンスタンティヌス帝の評価は著しく下がるであろう。
一方で中世を理想的な時代と考えるクリスチャンにとっては、これ以上の存在のない最上の名君であり大帝となるであろう。
コンスタンティヌス帝について考える時、歴史とは常々現時点に立った評価なのだなと感じてしまう。
個人的なコンスタンティヌスの評価は、武人として最上級というものである。
コンスタンティヌス帝はご覧いただいたように生涯無敗である。
しかも敵も強かった。
あれほど強かったスッラも敵がローマ人以外である時にはどんなに不利であってもあっさり勝っていたものの、敵が同じラテン人やローマ人になるや苦戦している。
しかしコンスタンティヌス帝は同じローマ人が指揮する、しかも恐ろしく使ったマクリアヌス帝などの軍隊も撃破しており、精強なゲルマン民族の中でも特に強いフランク族やゴート族などにも大勝しており、間違いなく世界史上でも最強の一角であると言えるだろう。
内政においてもコンスタンティヌス帝の時期には大きな反乱もなく、治安も格段によくなっていた。コンスタンティノープルの建造という巨大公共事業も成功させており、軍事、外交、内政ともの超一流の結果を出していたと言える。
個人的にはあまりクリスチャンのイメージが良くない上に、家族殺しなどの点もあるが、総合的に見て世界史でも第一級の名君であると言って良いだろう。
確かにコンスタンティヌス大帝と言われるだけのことはあると思う。