魏国初代皇帝!曹丕

三国志とは元来魏の建国から始まり晋が再び中国を統一するまでの期間をさす歴史である。

しかし三国志演義をはじめ三国志の始まりは184年に起きた黄巾の乱からであり、魏の建国は実質的な三国志演義の終わりを示す。

曹操が死に、曹丕が魏国皇帝となったのが220年。その年から5年以内に三国志演義の英雄たちは次々と亡くなっていくのだから仕方がないのかも知れない。

今回は三国志を始めた人物でもあり魏を建国した初代皇帝文帝こと曹丕について見て行こう。

 曹操(武王)の後継者

曹丕は黄巾の乱の3年後、187年に曹操と卞氏の間の長男として生まれ、曹操の正妻である丁氏の養子となり育てられた。

曹丕は幼い頃から優秀で、8歳で読み書きをマスターし、騎馬を乗りこなし弓や剣の才能もあったという。

曹操の嫡子は本来劉氏の産んだ曹昂であり、さらにその下には曹鑠(そうしゃく)がいたため曹丕は後を継ぐはずではなかった。

しかし曹鑠は病弱で20歳になる前に亡くなり、曹昂は張繍との戦いである宛の戦いにおいて曹操に馬を渡し自らは囮となるという壮絶な死に方をしたために曹丕は後継者候補となった。

しかしこのまま曹丕がすんなりと後継者になった訳ではない。

曹操は正妻である丁氏と離別し、曹丕の生母卞氏が正妻となった。丁氏の養子となっていた曹丕よりも卞氏の子供である曹植の方が立場が上になった節もあり、更に曹操は曹植をいたく気に入っており、曹丕のことはあまり気に入ってはいなかったのだ。

一説には曹操は袁紹の次男袁煕の妻である甄氏を狙っていたが、曹丕が彼女を先に娶ってしまったのを恨みに思っていたという。

甄氏は後に曹叡という世継ぎを産む訳だが、曹操はかなりの女性好きであり、中国の長い歴史においては息子の妃を無理矢理我が物にした玄宗のような皇帝もいるからあり得る話ではあると思う。

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曹操の真意はともかく、後継者問題は曹操陣営を二分するような大問題へと発展していった。

三国志においても袁紹や劉表が後継者争いで揉めて自滅していったパターンもあり、曹操と言えどそのパターンにはまりそうであったが、曹操はやはりそれらの群雄とは器が違った。

曹操は軍師賈詡を呼び寄せて曹丕と曹植のどちらが跡継ぎとして相応しいかを尋ねた。すると賈詡は袁紹や劉表の例えを出して曹操を説得し、後継者は曹丕に決まった。

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魏国初代皇帝

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曹操は慎重な男であった。限りなく天下に近い位置にありながら、結局自身は皇帝となることはなかった。

中国の長い歴史を見ると、王位を簒奪して反発を買い一瞬にして転げ落ちた人間は何人もいる。この辺り曹操は流石というべきで、自身は漢王朝の皇帝の下につき魏王として就任、その地位は曹丕に受け継がれることになった。

220年、曹操死す。魏王となった曹丕はその年に漢最後の皇帝献帝から禅譲を受け、魏の初代皇帝となった。ここに劉邦こと漢の高祖以来断絶を含みながら400年間続いた漢王朝は終わりを迎えた。

魏が建国されると孫権や周辺異民族から臣従の使いが次々と来た。もはや魏の優位は誰の目にも明らかである。しかし益州と漢中を手中に収めた劉備が221年に蜀を建国、続いて一度は臣従の意を表した孫権も222年に呉を建国し、次代は三国志と言われる時代に突入する。

当初、蜀と呉が連合して魏に立ち向かうと思われていた。しかし実際には荊州の支配権をめぐり蜀と呉は互いに争い、結局荊州を治めていた関羽が死亡。大激怒した劉備は孔明などの諫めも聞かずに全軍を以て呉に攻め入るも天才軍略家陸遜によって夷陵の戦いにて敗北、そのまま劉備は病死してしまった。

曹丕は夷陵での戦いを見てから呉に攻め入るも敗北。時代は三国による膠着状態を迎えた。

曹丕の治世と九品官人制

曹丕は四人の寵臣と共に政治を行った。

1人は九品官人制の考案者である陳羣。

魏は漢の武帝時代より続く郷挙里選を廃止し新たな制度九品官人制を採用した。

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これは国家官僚を中正官と呼ばれる役職の人物が1品から9品に分けることで各州や郡を支配する仕組みであったが、この中正官があまりにも強い権限を持つようになり、少数貴族による寡占政を生み出した。

名目上は中正官が有力な人物を見極める制度であったが、実際には賄賂やコネが横行する事態となった。曹丕亡き後の話をするのも無粋であるが、この制度は晋および南朝に受け継がれることになり「琅邪の王氏」や「陽夏の謝氏」と言った一部の大貴族による政治を蔓延させてしまう原因にもなった。

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曹丕の最期

226年、曹丕は肺炎になり死んだ。跡継ぎは甄氏の産んだ曹叡であった。

曹丕は後事を陳羣、曹休、曹真、そして司馬懿に託して死んだ。

司馬懿は曹丕には心の底から親愛を感じていたようで、曹叡に対しては何もしなかったが、曹叡がなくなると曹家を滅ぼして帝位を簒奪するにいたる。

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漢から実質的に簒奪した帝位は同じように簒奪されてしまうのであった。ある意味因果応報と言えるかも知れない。

個人的な曹丕への評価

曹丕は三国志演義にはほとんど出てこない。

せいぜいが先述したような曹操が狙っていた甄氏を我先に嫁にしてしまったシーンと、呉と蜀の同盟に起こって兵を差し向け大敗するシーンぐらいである。

曹丕はかなり優秀だったが、決して華やかではなく、後年甄氏に対して死を賜るなど冷酷なイメージが強く、さらに漢王朝から帝位を簒奪した人物として中国史における評価も非常に低い。後の世には「曹丕、司馬懿と言えば簒奪者の代表」と言われるほどであり、ローマ史におけるブルータスやカッシウスなみの嫌われぐらいである。

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なので華やかさが売りの三国志演義においてはやられ役としてさえ使いにくかったのだと思われる。

ある意味現代社会で言えば東大卒の官僚ぐらいそつがなくつまらない感じがある。

三国志に出てくる数百の登場人物の中で最も世界史の教科書に頻度高く出てくるのはじつは曹丕で、そういうのを見ると世界史の教科書は歴史のつまらない部分をエッセンスとして抽出しているのではないかとさえ思ってしまう。

歴史上意義のあることを追及していくと非常につまらなくなってしまうのは、歴史という教科の永遠のテーマなのかも知れない。

三国志を書いた陳寿からは評価が高く「 文学の資質には天稟といえる趣があり、博聞強記の学識と技芸の才能を兼備していた。これでこのうえ、広大な度量を加え、公平な誠意をもって努め、徳心を充実させることが出来たならば、古代の賢君もどうして縁遠い存在であっただろうか」としている。