ローマで最も嫌われた皇帝は誰であろうか?
キリスト教徒から一番嫌われたのはネロ帝であったためローマの暴君と言えばネロということになっている。
でも同時代のローマ市民から最も嫌われたのは第23代皇帝のヘリオガバルスであろう。
セヴェルス家の末裔
ヘリオガバルスは第20代ローマ皇帝セヴェルス・セプティミウス帝の妻の妹ユリア・メサの孫である。
セヴェルス帝の即位に元老院は難色を示したというが、その原因はセヴェルス帝の妻ユリア・ドムナがシリアの神官の生まれだったことも大きな理由だったと言われている。
ドムナ自身はそれを知ってかつつましく暮らしていたのだが、妹メサの方はそうはいかなかった。
セヴェルス家はセヴェルスの息子であるカラカラ帝暗殺後シリアへの移住を強制されていたが、マクリヌス帝の失政によって軍部の心が彼から離れたのを見るや迅速に兵士たちの心を掌握していく。
メサは孫のヘリオガバルスを兵士たちのもとへ連れていき、この子こそ亡きカラカラ帝の隠し子だと宣言した。
古今東西滅亡王朝の隠れた末裔は人気がある。
カラカラ帝自体は暴君だったが、軍事的な才能はまぁまぁあったほうなので、兵士たちからの人気は高かった。
兵士たちはわずか14歳のヘリオガバルスを旗印にマクリヌスと戦闘をし、勝利した。実際にはほとんどの兵がマクリヌスを見捨ててヘリオガバルスについたという。マクリヌスは逃げ出しその途中で帰らぬ人となった。
皇帝就任
ローマ皇帝の多くはこの時期北アフリカ出身であったが、ヘリオガバルスはオリエントと言われる東方出身者で初めてのローマ皇帝となった。
基本的にオリエントとローマでは文化が違う。
オリエントは絶対的専制君主の国々が普通だがローマでは基本的に共和政が理想とされてきたし、アウレリウス帝の時代までは皇帝はローマ第一市民を意味するプリンケプスだった。
ヘリオガバルスはいかにもオリエント的だった。
そもそもの生まれがオリエントの太陽信仰の家系だったので、ローマの多神教と合わなかった点も多々あるが、それを差し引いてもその治世は酷いものがあった。
ヘリオガバルスというのは例によって綽名で、彼の侵攻していた太陽神の名前に由来している。彼の皇帝になる前の名前はヴァリウス・アヴィトゥス・バッシアヌスと言い、皇帝就任後の正式名称はマルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥスとなる。
形の上ではアウレリウス帝の政治を受け継ぐことを旨としていたようだが、実際の政治はそれとは程遠かった。
14歳で皇帝になったヘリオガバルスは政治的には祖母のユリア・メサの傀儡であった。彼自身は神官になるべく育てられてきたようで、政治のことなどは何もわからなかったようだ。
そのためなのかヘリオガバルスはローマ皇帝とヘリオガバルス神の神官という二重の地位にとどまることになり、かつ太陽神信仰に関する行動ばかりをしていた。そもそも皇帝即位を宣言してから実際にローマに到着するまでに1年以上の歳月を要している。
当初元老院はヘリオガバルスを皇帝とは認めなかったが、その圧倒的な武力を前に皇帝就任を承認してしまう。もはや元老院にかつてのような気概はない。
ローマに到着し、元老院の議場に現れたヘリオガバルスはローマ風の衣装ではなくオリエント的なローブを身にまとっていたという。身に着けている装具は一様に豪奢で、頭には黄金の冠が輝いていたという。
ローマ皇帝は王冠をかぶらない。これは初代皇帝アウグストゥスがかなり気を使った点であり、彼はあくまで皇帝はローマ第一市民であるプリンケプスであると言ったのだ。そのためオリエント的な専制君主を表す王冠ではなく月桂樹でできた月桂冠を被ることにしたのだ。
挙句にユリア・メサはヘリオガバルスの肖像を元老院議場にかけさせ、その肖像に捧げものをするように強制したという。
ヘリオガバルス自体もかなり凶暴な性格に育っていたようで、家庭教師が「自制心をもって生きよ」と言ったことに反発し殺害してしまったという逸話も残っている。
傀儡政治と退廃
中国の政治は宦官と外戚によって乱れた。
日本の政治は宦官を輸入しなかったためその弊害はなかったがその分藤原氏や平氏のような外戚政治の弊害が大きくでた訳であるが、この時期のローマも外戚の害がモロに出たと言って良いだろう。
政治の実権は祖母であるユリア・メサとその一族が握っており、ローマの要職にその息のかかった人物を配置していた。
自分たちが任命した近衛隊長は三度のコンスルを経験し、メサは自らに元老院の女神の称号を、挙句にヘリオガバルスのお気に入りの奴隷を共同統治者にしようとさえした。
これらの行為は当然反感を買った訳であるが、中でも最も反感を買ったのはヴェスタの巫女に手を出したことであろう。
ヴェスタはギリシャ神話のヘスティアのローマ名で、ヴェスタ自身がヴァージンであったためにその巫女もそれを守らなければならなかったのだが、ヘリオガバルスはそんなことは知ったことではなかった。
えげつない性欲やで!!
ヘリオガバルスは統治4年間の間に5度も結婚している。
ヴェスタの巫女とも無理矢理結婚した挙句にすぐに離婚、その後すぐに美人で知られるアンニア・ファウスティナを夫がいるにも関わらず無理矢理結婚している。
この女性はアウレリウス帝の血を引いていて、政略結婚的な意味もあったようだが、そのために女性の夫を何の理由もなく殺害していることからヘリオガバルスの暴君ぶりが伺えるというものである。
しかも最後の結婚相手は男性であったというからもうなんというか・・・
性的倒錯に関してはすさまじ過ぎてここには書けない内容になっていて、これらを全部書いたらこのブログ自体がはてなから追い出されるだろうレベルなので興味がある方は以下の記事をお読みいただければと思う。
ちょっとすさまじ過ぎる…
中国歴代皇帝ですらここまでヒドイのはいないってレベルで、むしろこんな奴がよくも4年間も皇帝位に就けていたなと思う。
正直ネロもコンモドゥスもこいつに比べたらマシだ!!
ティベリウスなんてもはやただの名君だよ!
ちなみに冒頭の画は「ヘリオガバルスの薔薇」という題名の画で、これは薔薇で窒息する人をヘリオガバルスとその取り巻きが見て楽しんでいる図である。
カイジか!!
最低な皇帝の最低な最期
ヘリオガバルスを見捨てたのは元老院でもローマ市民でも兵士たちでもなかった。
他ならぬ祖母ユリア・メサであった。
メサはヘリオガバルスのあまりのひどさに皇帝位から引きずり下ろす決意をする。具体的にはヘリオガバルスの従弟を次期皇帝にすることにしたのだ。
メサはヘリオガバルスに言った。アレクサンデルを皇帝にすればお前は政治をやらなくて済むと。
ヘリオガバルスは喜んで従弟のアレクサンデルを共同皇帝の地位に就け、元老院もこれに承認を与えた。
しかしヘリオガバルスはこれを後悔する。皆アレクサンデルの言うことばかりを聞き自分のいうことをきかなくなってしまったのだ。
祖母であるメサに共同皇帝を取り下げるように頼んだが却下された。
ヘリオガバルスは従弟を亡き者にしようと近衛隊長官にアレクサンデル暗殺を命じた。
しかし近衛隊長が暗殺したのはヘリオガバルスだった。
紀元222年、兵士たちは皇帝を嘲笑とともに嬲り殺しにした。遺体はローマ市中を引き回しにされ、遺体は墓に入れられず河に投げ込まれた。
この時ヘリオガバルス18歳。あまりにもあまりにもな最後だった…
ヘリオガバルスへの評価
ネロには近年再評価の声がある。コンモドゥスも酷かったが在籍的には浪費をしなかったしキリスト教徒の迫害も起こらなかったし、ローマ市民の生活は実は脅かされていなかった。
しかしヘリオガバルス、お前だけはダメだ。
ヘリオガバルスに関しては古来より様々な歴史家が評価を下している。
18世紀イギリスの歴史家エドワード・ギボンはヘリオガバルスをして以下のように評価している。
「醜い欲望と感情に身を委ねた最悪の暴君」「ヘリオガバルスは全ての点においてローマ史上最悪の皇帝であった」
同時代の歴史家カッシウス・ディオもヘリオガバルスに同様の評価を下していて、当時のローマにおいても嫌われていたことは間違いないだろう。
カラカラ帝のように兵士たちから慕われていた訳でもない。
ローマには最低な皇帝が結構出てくるが、ワーストはこのヘリオガバルスで決定だろう。
その内容を書けないってよっぽどだよ・・・
とはいえヘリオガバルスが皇帝に就任した時は14歳。中学校1年生とかそんなもんだ。
そんな年に世界最大の権力者になってしまったら、やっぱり普通はおかしくなるよなぁ。