名君になれなかった男!ローマ帝国第24代皇帝アレクサンデル・セヴェルスの悲劇

f:id:myworldhistoryblog:20190222201707j:plain

英雄や名君には優秀なだけではなれない。

現代社会において官僚出身の英雄や名君は存在しない。彼ら彼女らは優秀ではあるが国を救うことなどはないし人々に光明をもたらすことはない。

アレクサンデル・セヴェルスは非常に優秀な男だった。

彼の治世の評価は歴史家からの評価は高い。

けれども彼には英雄や名君に必要なカリスマ性と運が足りなかった。

 皇帝即位と善政

アレクサンデル・セヴェルスはローマ史上最低暴君のヘリオガバルスと同じユリア・メサの孫として生まれた。

www.myworldhistoryblog.com

アレクサンデルはヘリオガバルスの血族とは思えないほど温厚で実直な人柄で、祖父ユリア・メサが任命したローマ法学者ウルピアヌスの助けもありその治世の前半6年間は驚くほどの善政を敷いた。

アウレリウス帝の路線を引き継ぐことを元老院で宣言し、事実彼はその治世中に元老院議員の誰一人も粛正していない。

名前もカエサル・マルクス・アウレリウス・セウェルス・アレクサンデル・アウグストゥスという名称に変えた。

ユリア・メサもヘリオガバルスの件で懲りたのかしゃしゃり出ることはせず、背後で静かに糸を引くにとどめていた。

が、今度は母であるユリア・マメアが政治に口を出すようになっていく。

元老院は新しく就任したアレクサンデルを歓迎し、あらゆる尊称とあらゆる権限をわずか14歳のこの皇帝に与えた。

ヘリオガバルスがローマに持ち込んだオリエント的なことは徹底的に排除され、ウルピアヌス主導のもとローマ本来の政治が執り行われた。

各種インフラの整備や食料確保に対する陣頭指揮、治安対策などに積極的に乗り出し、一部を除いて成果を上げた。

一部というのはローマ法の最終決定権限を各属州の総督に任せるという点であった。

この部分は後代失政に上げられることが多いが、当時の状況を考えると非があったのはアレクサンデルにあったというよりもカラカラ帝のアントニヌス勅令にあったというべきであろう。

www.myworldhistoryblog.com

ローマ市民権を持つものなら誰でもローマ本国の裁判所への控訴権をもっていた。ローマ市民権は法によって厚く守られており、有罪になるまでは現代日本と違ってしっかりと推定無罪の法則が適用されていた。

だが、アントニヌス勅令において爆発的にローマ市民が増えてしまったために本国では処理が不可能になってしまった。そのためこの控訴権をローマ市民たちは失ってしまったことになる。

それでも大きな失政などはなく、彼の統治の最初の6年間は非常にうまく行っていた。ローマも、久しぶりの平和を享受していた。

ユリア・メサの死亡とウルピアヌス暗殺

歯車が狂ったのは祖母であるユリア・メサがこの世を去ってからであろう。

メサは暴君ヘリオガバルスを生み出してしまった張本人ではあるが、それを反省してかアレクサンデルの善政を助けた存在でもあった。

彼女の死去はローマに大きな影響を与えた。

メサの代わりに力を持ち始めたのが母親のマメアが暴走を始める。手始めに皇后のサルスティアを追放すると次第に自らの権力を誇示し始める。

アレクサンデル自体は真面目で優秀な皇帝だったが、母親のこういった行動のせいで不人気になって面もあるだろう。後に起こる悲劇もこの点が絡んでいると言える。

言葉は悪いがマザコンな総理大臣がいたらどんなに絶対に人気がでないであろう。

母と娘は一端関係がこじれると泥沼化する。

マメアはメサの影響力を抹消するのに必死であった。彼女の息のかかった近衛隊によってウルピアヌスは暗殺されてしまう。

ウルピアヌス自体は近衛隊長官だったのにも関わらず部下に殺された形になった。

この頃のローマの指揮系統は一体どうなっているのだろうというぐらい乱れてしまっていた。事実兵団のこの指揮系統の乱れはアレクサンデルの身にも災難をもたらす。

有名な歴史家である元老院議員カッシウス・ディオはこの時期にローマを離れて歴史叙述に没頭し始める。

冒頭で彼には運がなかったと言ったが、不運なことに彼の治世中にパルティアが滅び新たな強敵ササン朝ペルシアが誕生してしまっていた。

ローマ歴代皇帝の最初の仕事はパルティアとの講和である。5賢帝と言われる皇帝達も即位時にはパルティアとの関係をどうするかという選択に迫られていた。

歴代皇帝はアルメニア王国を緩衝帯に使うことで危機を回避してきた。

f:id:myworldhistoryblog:20190219213227p:plain

だが、ササン朝はパルティアと違って好戦的であった。

ササン朝はローマへの侵攻をこの時期開始したのだった。

ササン朝との闘いが勝ったのか負けたのかは実はよくわかっていない。

アレクサンデルはササン朝との講和後ローマで勝利の凱旋式を行っている。

 だが、同時代の歴史家たちはみなアレクサンデルはササン朝に敗北したと記している。中でもヘロデアヌスによれば「皇帝アレクサンデルはペルシャ戦役で多くの兵士を寒さと上と疫病で失った」とのことである。

ことの真相はわからないが、ササン朝の侵攻を食い止めたという部分は評価するべきであろう。

彼はトラヤヌス帝のような名君では決してないのだ。決して比べてはいけない。

www.myworldhistoryblog.com

 いずれにしても元老院側はアレクサンデルに期待した。気をよくしたのは彼はドナウ川に軍を向け、対ゲルマン民族戦線に赴くのであった。

もちろん、母であるユリア・マメアも一緒に・・・

アレクサンデル・セヴェルスの悲劇

 アレクサンデルはゲルマン民族との闘いで死んだのではない。味方であるはずの自らの軍団によって殺されたのだ。

今度は元老院でも近衛隊でもなく、一般兵士たちによって公然と殺害された。

アレクサンデルがゲルマン人と戦いを避け講和を結ぼうとしていたのに不満だったという話もあるが、もはやこうなると理屈でもなんでもなくなるのかもしれない。

近衛隊長官ウルピヌスが近衛隊によって殺害されたように、ローマ最高司令官であるローマ皇帝もその部下によって殺される。

もはや武力だけが正義の世界にローマは突入してしまったのだ。

そこには共和制の輝きも民主主義の理念もない。

ただ暴力だけある。

アレクサンデルの死をもって、ローマは軍人皇帝時代という名の混迷に向かって突き進んでいく。紀元235年。3世紀の危機は終わらない。

ローマ第一の市民だったプリンケプスは死んだ。なぜだ?

それはきっと坊やだったからだろう。

彼を襲った兵士はこういったという。

この乳飲み野郎!と。

事実、アレクサンデルは母親と共に殺された。

まだ26歳であった。

www.myworldhistoryblog.com