コンモドゥス帝が暗殺された後はローマ近衛隊によって擁立されたプブリウス・ヘルヴィウス・ペルティナクスがやはり近衛兵隊によって暗殺され、あろうことか次代の皇帝権を競売にかけるという前代未聞の暴挙に出る。
結果として皇帝に選ばれたのがディディウス・ユリアヌスであったが、それを不服とした各属州の総督が一気に皇帝就任に名乗りを上げた。
ブリタニカ属州総督クロディウス・アルビヌス
シリア属州総督ペシェンニウス・ニゲル
そしてパンノニア総督府セプティミウス・セヴェルス
全員がマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝によって総督に任命された者たちであった。
そしてアントニヌス帝が恐れていた通り、ローマは各属州官が相争う内乱の時代へと突入していくのであった。
セプティミウス・セヴェルスのローマ進軍
名乗りを上げた属州総督のうち圧倒的な速さでローマに到着したのがセヴェルスだった。
純粋にパンノニア(現在のハンガリーのあたり)がローマに近かったというのもあるし、セヴェルスの動きが速かったのもある。
セヴェルスの動きに時のローマ皇帝ユリアヌスはすっかり怖気づいてしまい、セヴェルスに共同統治を持ちかけるが無視。
セヴェルスを恐れた元老院と近衛隊によってユリアヌスは殺害されてしまう。
セヴェルスはそのままローマに到着し、近衛兵を解散させると元老院の承認を得てローマ皇帝に就任する。
世にいうセヴェルス朝の始まりである。
ローマを手中にしたとは言え、まだ敵は残っていた。セヴェルスはシリア総督であるニゲルとの闘いに東方に赴くことにした。
皇位争奪戦
セヴェルスはブリタニア総督アルニヌスと手を結ぶと一路シリアに向かった。
帝国最重要地点シリアを守るニゲルは手ごわかった。セヴェルスは初戦ニゲルになすすべもなく敗北している。
セヴェルスの兵隊は北方から南方まで一気に駆け抜けている訳だから気温差や疲労に苦しんだことだろう。
ニゲルはセヴェルスに共同統治を持ちかけたがセヴェルスはこれを拒否。
イッソスの地で行われた決戦ではほぼ互角の戦いだったが最終的にはセヴェルスの勝利となる。
なおこのイッソスはアレクサンダー大王とペルシャのダレイオス王が戦った場所でもある。大軍同士がぶつかれる場所なんてそうそうない訳なので、世界史上にはいくつか同じ場所での戦いが起こっている。受験生なかせだけどしかたがない。
決定的な敗北とまでは言えなかったようだが、指揮官ニゲルはこの戦いで逃げ出してしまうのだが、死の運命からは逃れられなかったようだ。
逃げるを倒した後はブリタニア総督アルビヌスとの闘いが待っていた。
2つの軍は現在のフランスのリヨンのあたりで行われた。
結果はセヴェルスの大勝。アルビヌスは戦場に散った。
こうしてセヴェルスは全ての戦いに勝利し、ローマへと戻っていった。
皇帝セプティミウス・セヴェルス
セプティミウス・セヴェルスの皇帝就任を以て世界史的にはセヴェルス朝が始まるとされる。
この時代以降はもはや元老院は形骸化し、武力を持つものが政治を行う武断政治の時代に入るようになる。
皇帝となったセヴェルスはまずコンモドゥス帝の記録抹消刑を取り消させた。
なぜこのようなことをしたのかはよくわからないが、自らをアウレリウス帝の正当後継者としたいがために行ったという説がある。
更に息子のカラカラをインペラトール・デシナーナスという地位につけるように元老院に要求する。これは息子カラカラ帝を次代の皇帝と認めよということである。
セヴェルスの身内びいきはアウレリウス帝のそれよりも酷く、後年故郷である北アフリカのレプティス・マグナに多数の公共事業を持ち込んだ。田中角栄みたいなものである。
元老院は完全にセヴェルスの言いなりだった。民主主義はもう死んでいた。アウレリウス帝までは第一の市民を表す文字通りのプンケプスだったが、この辺りから明確にインペラトルでありカエサルになっていった。
セヴェルスは自分に反対するような態度を見せた元老院議員は容赦なく粛正した。
キリスト教の弾圧も激しくなった。
もう誰も、セヴェルスには逆らえなくなっていった。
あっけなく病死
人間というのは死ぬ。必ず死ぬ。あっけなく死ぬ。
セヴェルスもあっけなく死んだ。
彼は病床に愛息子であるカラカラを呼んだ。セヴェルスは妻のユリア・ドムスを愛し、息子のカラカラとゲタを愛した。帝国中に家族の肖像画を置いた。
セヴェルスは我が子に「家族と仲良くせよ」と言った。
息子はそれを守らず、弟を殺した。家族の肖像がからはゲタの顔を消すようにローマ中にお触れを出したという。
セヴェルスもまたアウレリウスと同じミスを犯した。
適性のない人物を皇帝にしてしまうというミスだ。
ローマは、坂道を転がり続ける。それを止める者は今はいない。