暴君ヒッピアスを追放した後のアテネはクレイステネスの元で再び民主制へと舵をとることになる。
今回はそんなクレイステネスについて見て行こう。
クレイステネスの行った改革の内容
・ソロンの改革の復活およびアテネの再民主化
・血縁的部族制の廃止
・オストラシズム(陶片追放)の創設
・平民会の権限強化(500人評議会の創設)
・ストラテゴの創設
スパルタの支援を受け、 僭主であったヒッピアスを追い出したクレイステネスは自らが僭主となるようなことはしなかった。彼はソロンの路線を受け継ぎ民主制を固める方向で政治を行うことにしたのだが、貴族政政治の復活を目指すライバルイサゴラスとの対立を深めるようになる。
イサゴラスはスパルタと手を結んでクレイステネスを追い出し、平民会を解散させようとしたのだけれどこれはアテネ市民たちの激しい反発を招いてしまって、スパルタ軍とともに包囲されてしまう結果になってしまった。
その後アテネ市民たちはクレイステネスを呼び戻し、以降彼は民主的な政治を行うようになったわけだ。
クレイステネスは民主制を強化するために血縁にもとずく4部族制を解体させた。
代わりに人口密度に即した「デモ」に分けてそれらの組み合わせでもって10の部族制を新たに作り上げることにしたのだった。事実上の貴族政の解体であると言っても良い。
平民会はソロンの時代から400人評議会として存在していたのだが、新たな部族から選出する500人評議会を開設し民会の地位を大きく向上させることに成功する。この議会は各デモから選出される30歳以上の男性からなる組織で、その選出方法は抽選。門閥の区別なく議員となる可能性が出た訳である。これは現代日本でさえも実現できていないことである。
元々は4つの部族から100人ずつ選出される仕組みであった400人評議会と違い誰でもなれる可能性があったことと一部の閥族が権力を握ることを避けることができた点に大きな特徴があった。
ちょっとわかりにくいと思うけれど、これによってアテネに住む人間の正式な名前が名前・父親の名前・デモ名となり家系や一門を表すファミリーネームは消滅した。徳川家康の息子秀忠が徳川を名乗れないと言えばわかりやすかもしれない。徳川秀忠ではなく秀忠・家康・江戸となる感じである。現代風に言うと貴族涙目状態である。
また、ソロンの改革以前には9人の統領によって国が運営されていたが、クレイステネスはそこに1人加えた10人の役員を選出し国家戦略の担当官とした。これを「ストラテゴ」と言い、現在のストラテジー(戦略)の語源ともなっている。これらの役員は貴族から選ばれる訳ではなく毎年の民会から決められることになり、事実上のアテネの最高意思決定機関となった。
そしてクレイステネスの行った改革で最も有名なのがオストラシズム(陶片追放)であろう。
主に僭主の出現を防ぐ目的で作られた制度で、陶片に追放したい者の名前を書いてそれが6000票に達した場合その人物を10年間アテネから追放できるという制度である。
当初は僭主の出現を防ぐ目的として作られた制度であったが、後の世にはデマゴーゴス達にとって不都合な人物を追放する手段へと成り下がるのは歴史が生み出すひずみであると言えるかも知れない。
クレイステネスの改革とソロンの改革の違い
クレイステネスの改革では平民会への参加資格は20歳以上の男子となり、1人1票の原則で運営されることとなった。ソロンの改革の結果誕生した政体が「ティモクラシア(財産政治)」と呼ばれるのに対しクレイステネスの改革の結果生まれた政体は「デモクラシア(民主制)」と呼ばれている。
共通しているのはクレイステネスはソロンの路線を基本的には受け継いでいるので市民の階級を4つに分けた部分に関しては継承している。少し違うのがソロンは農業生産量で分けたのに対しクレイステネスは商工業も含めた生産量で分けた部分であろうか。
平民階級は商工業に従事している者が多かったので、これも平民階層の地位を上げるのに大きく貢献することになる。
クレイステネスの個人的な評価
文句のつけようもない大人物であると言える。
ソロン同様自身は貴族階級の出身であったにも関わらず貴族政を解体し民主制を推進した、いわば民主制の父と言っても良い人物であろう。
ソロンが改革しクレイステネスによって完成されたギリシャにおける民主制は、オリエント的専制君主制を打ち倒すことに成功する。
ご存知ペルシャ戦争である。
クレイステネスの改革がなければ小国の集まりであったギリシャがオリエント一帯を支配する強大なペルシャ帝国の侵攻を防ぐことは不可能であったことだろう。