世界史において受験生を悩ませるのが人の名前とやったことだと思う。特に〇〇の改革系は非常にわかりにくいし覚えにくい。
そもそも改革をする前にどんな状態だったのかとかわからないと一体なにを改革したのかとかさっぱりわからない。
という訳で今回は紀元前594年にギリシャのアテネで行われたソロンの改革について解説するぜ!
まずはソロンの改革の要点
まずはソロンが何をやったかというのを簡単に見てみよう。
彼の改革は以下の3点に要約される。
・負債の帳消し
・債務奴隷の禁止
・財産政治の実施
当時のアテネでは自らの身体を抵当に入れて借財をする者が後を絶たない状況だった。借金が返せないとどうなるかと言うと債務奴隷(ヘクテモロイ)になってしまう。このような事例は古代においては当たり前で、後のローマ時代はもちろん現在でもこの債務奴隷の問題は解決されていない。
中世の日本でも似たような問題があって、厳しい税金などが払えない、もしくは逃げ出すために貴族の保護を求めて荘園での労働に励むものが増えた。その結果貴族の大土地所有が加速しついには時の政体にまで影響を及ぼした。それより1000年も前のアテネも同様の問題に悩まされていて、債務奴隷になるのは平民であり農民で、大土地所有をする貴族の力は日々大きくなっていた。このような状態はアテネの尊ぶ民主制の崩壊を意味する。
そう感じたソロンは一連の改革を行うようにしたのである。
まずは借金を帳消しにした。日本で言うところの徳政令である。そして債務奴隷そのものを禁止した。その後に財産に応じて市民を4つの等級に分けた。500メディムノス級、騎士階級、農民階級、労働者階級。
分け方は農業生産量で決め、騎士階級は300メディムノス以上、農民は200以上と言った感じである。
これがソロンの行った改革だが、受験生はこれが一体何なのか?という部分がわからないと思う。なんでそんなことをしたのか?これがどのような効果があったのか?
それがわからないまま次に進むのでとりあえず「ソロンの改革」という言葉だけを覚えることになる。
今回はソロンの改革がどのようなことを狙い、どのような背景があり、どのような効果をもたらしたのかを見てみよう。
ソロンの改革の背景とソロンの狙い
アテネは王を持たないポリス(都市国家)である。これは強大な力を持つ王のいるスパルタとは対照的で、世界の歴史を見ても珍しい政体だと言えるだろう。
アテネは元々は王制だったと言われている。それが紀元前8世紀頃には王制は廃止され貴族政となる。当初は1年任期の9人の統領が政治を行っており、平民会はあったがあまり機能していなかったらしい。
そこに変化が起きたのが紀元前7世紀で、市民階級の中に商工業で力をつけ始める者が現れ始めたため、政治的な発言権を求め始めたのだ。ここにきて平民会の力は強くなっていく訳だが、同時にこの辺りから貴族階級と平民階級の間の軋轢が大きくなってきた。
貴族階級は土地を所有している。借財というと現代人は借金を想像すると思うが、当時はそれほど貨幣経済が発展していないから稲や麦などが借財の対象となる。
平民階級は基本的に貴族階級から麦などを借りて生活することになるが、不作の年などは十分に返済ができないということがよく起きていた。それが理由で平民階級が債務奴隷になることが頻繁にあったのだ。
これはアテネだけの問題ではなく、あらゆる社会で見られる出来事である。
普通ならそこにメスを入れようとも思わなかったであろう。その部分を危険視して改革に乗り出したソロンはただものではなかった。
ソロンの改革がなければアテネの発展はなかったであろうし、ギリシャはペルシャの一部になっていただろうし、後のローマ帝国の発展はなかったかも知れないし、現代社会は民主制を尊ばなかったかも知れない。
そう考えるとソロンの改革が如何に重要かがわかる。非常に重要な点である。
そこに住まう者たちが自ら政治についての意思決定をする。
現代社会の基本原理は、このソロンの改革を以て実現する訳である。
しかし、その有権者たる市民階級が没落してしまえば民主制は崩れる。当時の平民会には債務奴隷は参加できなかったからである。ソロンはそこを危険視した。債務奴隷の増加は民主制の危機なのである。
だからこそまず債務奴隷を禁止する必要があったのだ。
現代でも債務奴隷がいる国がある。そういう国が発展してるだろうか?
ソロンのふるった鉈はかなり大振りだったと言える。現代日本にここまでの実行力がある政治家は1人もいない。1000年後になってもソロンの名前は残るが現代日本の政治家の名前は1人も残らないであろう。
ソロンは改革を断行するために人口調査も行っている。その結果をもとに市民を4つの階級に分けた。
ソロンの行った改革は完全平等選挙であったわけではなく財産に応じた選挙権を与える財産政治であった。ソロンの改革では選挙権と財産の額が比例関係にあったのである。
ソロンの始めた財産選挙はティモクラツィアと呼ばれており、王制を表すモナルキアや貴族政を表すアリストクラツィアとは区別される。
ソロンの行った4等級の分類は詳しく見ると以下のようになる。
ペンタコシオメディムノス(富裕層級) :年500メディムノイ 将軍の資格がある。
ヒッペウス(騎士階級) :年300メディムノイ ヨーロッパ中世の騎士階級に近い。騎兵として武装するだけの十分な富がある。
ゼウギテス (農民階級):年200メディムノイ ヨーロッパ中世の農民階級に近い。重装歩兵として武装するだけの十分な富がある。
テテス(労働階級) :年199メディムノイかそれ以下 肉体労働者か、小作人。陸軍当番兵(従者)、投石器の作動の補助、海軍における漕ぎ手として任意で仕えた。
現代から見ると不十分な成果に見えるが、元々貴族政治だったアテネの政治はこれにより激変した。平民会は力をつけるようになり、また兵制の面でも大きな変化があった。
ペンタコシオメディムノスとヒッペウスとゼウギテスには兵役の義務があった。前二者には重装備と馬の用意が、後者には重装備が、それぞれ自費で用意することが義務付けられたのである。
ギリシャの強さは重装歩兵隊およびファランクス戦法にあるというのは有名な話だが、それを下支えしたのがこの制度である。
自分の国は自分たちで守る!
その意識のあるなしでは戦闘における士気が違う。
後にペルシャ戦争にギリシャが勝利するのも、この部分が大きかったとする歴史家は多い。士気の高さは常に戦闘を左右する。
また、税=兵役義務というのはローマも真似ている制度で、ローマ軍の強さの下支えにもなっていた。
ソロンの改革の肝はこの部分で、権利が増えれば義務も増えるという部分であっただろう。
ソロンの改革の効果
良い面を言えば経済的な発展と軍事力の増強があったと思われる。ソロンの改革による兵制度がアテネ軍の強さにつながったのは明らかである。
ただしソロンの改革は平民階級および貴族階級から強い反発があった。急速な改革反発を招く。
ソロンの改革後には僭主と呼ばれる存在が台頭することになる。僭主はtyrannosと言い、英語のtyrantすなわち暴君の語源となった。
僭主がどのようなことをしたのかというのはまた別のお話。
ソロンの生涯と評価
ソロンが生まれたのは紀元前639年頃と言われている。民主的改革を行ったので平民階級の出だと思う人も多いだろうが、意外にも貴族出身である。一説によればアテネ最後の王家の血筋であるともいわれている。
彼は一連の改革をなした後アテネを去っている。その後はギリシャ各地やエジプトなどを旅して暮らしていたようである。小アジアに行って最後のリディア王と会ったことなども伝えられている。
最期にはアテネに戻り、親族であった僭主ペイシストラトスを諫めるも聞き入れられず、自身はキプロス島で80年の生涯を閉じたという。
ソロンは改革者として現在に名を残すが、詩人としても名高い。
ソロンという人物は世界史に名を遺すだけあって第一級の人物であるという評価が妥当であろう。
貴族に生まれながらにして民主制を尊ぶその姿勢、先見の明、その発想、どれをとっても傑物と言わざるを得ない。
アテネの民主制の事実上の父と言ってもよく、現在の政治の基礎を作った大人物と言ってもよいだろう。