アテネ民主制の完成者ペリクレスの功績と生涯について5分で解説!

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定期テストにも受験にもよく出てくるのが「ペリクレス」という名前。

でも実際にペリクレスが何をした?という話になるとはてなマークが頭に飛ぶ人も多いんじゃないだろうか。

今回はそんなペリクレスについてまとめたいと思う。

ペリクレスについて知っておくべき3つの功績

ペリクレスについては以下の点を抑えておきたい。

・民会の最高議決機関化(史上唯一の直接民主制の実現)
・重要官職の抽選制
・パルテノン神殿の再建

 ペリクレスが活躍し始めるのはギリシャ連合軍がペルシャ戦争に勝利をした紀元前5世紀頃の話。

ペルシャ戦争において舟のこぎ手として活躍した無産市民と言われる階級の権利が上昇し始めていた。

ペリクレスは無産市民にも参政権を付与することによって選挙権を拡大するとともに専門性の強い軍事職と会計職を除く重要な役職および500人評議会の議員をも抽選制で決めるようにしたのである。

500人評議会については以下の記事を見てもらえると嬉しい。

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 さらに執政職であるアルコンや将軍の地位は農民階級にまで開放され、かつアルコン、法廷陪審員、評議員などの役職には手当が支給されることになる。

人類の歴史において政治家に公費を支払うか否かは常に大きな問題となる。現代でも議員が無給の場合は存在しているし、近現代の民主社会においても論点になっているこの議員の無給問題であるが、今から2500年ぐらい前にこの問題に着手しているのはペリクレスぐらいのものだと言える。

議員というのは国政を決める役職なのだが、名誉職としての意味合いも強い。そうなると自然と富裕層でないと議員になれないことになり、自然と金持ち優位の政治になりやすい。

ペリクレスの政策は一貫して民主的で、アテネ市民であれば下層民でも政治参加できるような改革を行っており、ソロンやクレイステネスの流れを完成させた人物だと言える。

ペリクレスのもとで民会はアテネの最高意思決定機関となり、すべての18歳以上の男性のアテネ市民が参政権を持つという史上初にして最後の直接民主制が完成することになった。

さらに国内においてはペルシャ戦争で荒れたアテネの再建に乗り出し、歴史に名を遺す建築家フェイディアスの協力などを得てパルテノン神殿の再建などにも着手している。

パルテノン神殿というとアテネの象徴であり、三井住友カードの表面に印刷されているアレである。

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 デロス同盟の資金流用問題

完全無欠の名君のように見えるペリクレスだが、結構悪いこともやっている。特にデロス同盟の資金流用問題は後世の評価を大きく落とす結果となった。

デロス同盟というのはペルシャの再侵攻に備えてアテネが中心となって形成された軍事同盟のことで、デロス島と言うところに金庫を置いたところからこの名前がついた。

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約200のポリス(都市国家)が参加したと言われていて、加盟ポリスには兵員・船もしくは軍資金の提供が義務づけられており、紀元前454年には金庫はアテネに移された訳だが、ペリクレスはこともあろうにこの軍資金に手を付けた訳である。

パルテノン神殿の建築費用もここから出ていたと言われており、ギリシャ世界は急速に分裂していくようになる。

特にアテネと並んでギリシャ最強国家であったスパルタとの関係は緊張状態となっていく。

ペリクレスとペロポネソス戦争

ペルシャ戦争後のギリシャはアテネを中心としたデロス同盟とスパルタを中心としたペロポネソス同盟の覇権争いへと移行していった。

当初はデロス同盟の方が規模としては大きかったのだが、資金流用問題などで離反するポリスが増えていく一方ペロポネソス同盟はその規模を増していく。

両国の間で戦争が始まるのは必然であった。

戦争は終始スパルタが攻めた。それに対しアテネのペリクレスはひたすら防衛につとめることにしたが、そのことが災いしたのかアテネ内部で伝染病が流行りペリクレスもまた病に倒れるのであった。

スパルタはペルシャとも手を結び、アテネ内部にデマゴーゴスが蔓延したこともありペロポネソス戦争はスパルタ側の勝利に終わるのであった。

その後のギリシャ世界は急速に力を失い、変わって北部のマケドニアが力を持つようになっていく。

ペリクレスの人生について簡単に振り返る

 ペリクレスもまたソロンやクレイステネス同様貴族階級の出身である。

ペルシャ戦争後のアテネで力を持っていたのがキモンという人物で、典型的な貴族政治の実践者であった。彼は選挙権をできる限り制限し、アレイオパゴス会議と呼ばれる貴族議院の権限を強化し貴族による寡頭政治を実現させようとしていたが、ペリクレスはエフィアルテスという人物ともにいわばクーデターを起こす形で政権を握ることに成功した。

その後は上記したような改革を行い民衆の心をつかむ。上に書いた以外でも劇場の入場料を無料にするなど民衆の支持を得るような政策は片っ端からやったと言っても良い。

ペリクレスは大層演説が巧かったらしく、彼の行った演説が現代でも多数残っている。

「アテナイの住民は富を追求する。しかしそれは可能性を保持するためであって、愚かしくも虚栄に酔いしれるためではない」
「貧しいことは恥ずべきことではない。しかし、その貧しさから脱しようと努めず、安住することこそ恥ずべきことであるとアテナイ人は考える」
「アテナイの住民は私的な利益を尊重するが、それは公的利益への関心を高めるためでもある。なぜなら私益追求を目的として培われた能力であっても、公的な活動に応用可能であるからだ」
「時の言うことをよく聴け。時はもっとも賢明なる法律顧問なり」
「アテナイでは政治に関心を持たない者は市民として意味を持たないものとされる」

デロス同盟の資金流用問題で誤解されることが多いが、ペリクレス自体は無欲な人であったらしく、その資金を私的な用途で使うことはなかったようだ。

私生活では離婚を経験しており、子どもたちも不出来でペリクレスの名前を借りて勝手に借金を繰り返すなどしていたようである。

 晩年は完全に不遇で、アテネに疫病が流行ると裁判にかけられ将軍職を辞職、子ども2人を失い失意の中自らも疫病にかかり亡くなってしまう。

 個人的なペリクレスの評価

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ソロンやクレイステネスが行った改革を完成させ、後にも先にも存在しない直接民主制を実現させた点において歴史的意義は大変大きい。ペリクレス時代こそがアテネ最盛期でありギリシャ世界の全盛期であり、文化的にもギリシャ3大詩人やソクラテスが活躍もしくは誕生するなど世界的に見ても最高クラスの文化水準をアテネが実現出来たのはペリクレスの力量も大きく関係していると言えるだろう。

間違いなく世界史的に一級の人物だが、デロス同盟内における権力を濫用しアテネの国政のみに終始した点はやはり評価を下げる。

ペロポネソス戦争の直接的敗因は疫病にあると言えるが、そもそもの戦争の原因はデロス同盟からの加盟ポリスの離脱という面もあり、ひいてはギリシャ世界全体の没落の原因であるとも言える。

そういった理由はでやはりソロンやクレイステネスよりは評価が落ちるであろう。