ローマ最強の英雄!スキピオ・アフリカヌス(プブリウス・コルネリウス・スキピオ)について!

世界史上最高の戦略家がハンニバルならローマ史上最高の戦略家はスキピオ・アフリカヌスであろう。

今回は生涯において無敗を誇ったスキピオ・アフリカヌスについてくわしく見て行こう!

 名門コルネリウス家に生まれて

貴族社会であったローマにおいて、クラウディウス家やファビウス家と並ぶ名門コルネリウスに生まれたスキピオの本名はプブリヌス・コルネリウス・スキピオと言う。

後年の呼び名である「アフリカヌス」は本名ではなく尊称で、日本語に訳すとアフリカを制した者とでも言おうか。

ローマでは時々このような尊称が呼び名になることがあり、帝政ローマにおける英雄ゲルマニクスなんかもゲルマニアを制した者という綽名の方が残っている。

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スキピオの父も同じ名前のプブリヌス・コルネリウス・スキピオで、ハンニバルが攻めてきた時の最高指導者コンスル(執政官)の1人で、手痛い敗北を味わっている。

若き日のアフリカヌスも父に従って従軍しており、命からがら戦場から逃げ延びたという表現が正しい。

そしてよく言われることであるが、スキピオは後年このハンニバルのとった戦略を吸収し、常勝軍となる。

もしもこの頃にネットがあったら、ハンニバル「スキピオはわしが育てた!」のアスキーアートが流行ったことだろう。

その後アフリカヌスはローマの慣習を無視してエディリスというローマ第3位の役職に若干22歳で就任してしまう。

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本来エディリスは30才を超えないとなれないのだが、スキピオの市民からの人気は圧倒的で、元老院もそれを認めざるを得なかったという。

父の死とスペイン

ハンニバルに敗れてからの父スキピオは叔父スキピオと共にヒスパニア(スペイン)でバルカ一族(ハンニバルの弟たち)と戦っていた。

2人はバルカ一族をよく食い止めハンニバルへの補給線を絶っていたが、連戦に次ぐ連戦の中ついに2人とも命を落としてしまう。

元老院は困っていた。

ハンニバルの襲来より8年、ローマは数多くの指揮官を失っており、コルネリウス兄弟の代わりに誰をヒスパニアに派遣するのか中々決めかねていたからだ。

そこに一人の若者が手を挙げた。

父と伯父の無念は私が晴らす!

そういったかどうかは定かではないが、スキピオは自らヒスパニア方面の司令官に立候補することとなった。

スキピオはこの時25歳。

執政官の立候補条件は40歳。

まだ15歳も足りなかった。

現代日本であったなら相手にもされなかったかも知れないが、そこは後世の歴史家から理想とさえされることの多かった共和政ローマの元老院、コンスルにこそなれなかったが、プロコンスルという地位でスキピオをスペインに送り出す。

ちなみにプロコンスルはコンスル(任期1年)を経験した者が戦闘の継続をするためにコンスルだったものとして任命するのが常だったが、この時は特例中の特例だと言えた。

慣習を重視するが時として柔軟に対応できるのがローマという国の強みであると言えよう。

ヒスパニアに向かったスキピオはあっという間にスペインにあるカルタゴの本拠地カルタゴ・ノヴァを占領してしまう。その後は鮮やかな手つきでスペインの原住民の懐柔に成功、その後もハンニバルの弟のハシュドゥルバル・バルカを撃破するが、そのままとどめを刺すことはできず、ハンニバルの弟をイタリアまで逃がしてしまう、ローマの元老院を大変に憤慨させたという。

あっと言う間にスペインを制覇したスキピオは、次にアフリカを直接攻略する手はずを整える。

スキピオはハンニバルの強さの一端が地中海最強のヌミディア騎兵にあると見破っていた。このためスキピオはヌミディアに使いを送り、ヌミディア王シュファクと同盟を試みるが拒否され、その敵対者であるマシニッサと手を結ぶことに成功する。

31歳にしてコンスルに任命されたスキピオだったが、すぐにアフリカ上陸とは行かなかった。元老院が反対したからである。

スキピオはしかたなしにシチリア島に上陸し兵士を募り、鍛え上げた。その様を見た元老院はスキピオのアフリカ派遣に揺れた。

スキピオはその型破りさを元老院から嫌われているところがあり、特にイタリアの盾と言われたファビウス・マクシムスとは仲が悪かったようだ。

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元老院はスキピオに援助をせず正規軍ではないとしたうえでスキピオのアフリカ上陸を黙認した。

当初はカルタゴ側についたヌミディア王シュファクに苦戦するスキピオであったが夜襲という形でカルタゴ・ヌミディア連合軍を攻撃し撃破、自分の味方であるマシニッサをヌミディア王にすることに成功する。

こうなると慌てたのがカルタゴで、右往左往した挙句にハンニバルをイタリアから本国の守りに呼び寄せてしまう。

ハンニバルとの会戦!史上最強同士の戦い

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まるでドラゴンボール劇場版のようなタイトルだが、最強同士の戦いは世界史上でも珍しい。

西洋における軍略家を5人挙げろと言われたらスキピオもハンニバルも両方入るだろう。

ハンニバルはスキピオとの闘いの不利を感じていた。

純粋な兵数だけならハンニバル率いるカルタゴ軍の方が多かったのだが、騎兵の数ではスキピオ率いるローマ軍の半分でしかなかった。

ハンニバルが強かったのは地中海最強のヌミディア騎兵を組み入れていたからである。スキピオはそのことをよく知っていた。

ハンニバルは戦前スキピオに会談を申し入れており、講和を結ぼうとしていた。

スキピオはこれを拒否した。

雌雄は戦場でつけようと。

結果は歴史が知る通り、ザマを見ろの語源ともなったザマの戦いでハンニバルは圧倒的な敗北を味わうことになる。

*本当の語源は「座間を見ろ」という鎌倉時代に使われた言葉から。座間には仏様がいた。

ポエニ戦争は終わった。

ローマの大勝利という形で。

プブリウス・コルネリウス・スキピオはアフリカを制する者と言うアフリカヌスの尊称を与えられ、凱旋式を執り行った。

ローマ中が歓喜に酔いしれた。

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ポエニ戦争後のスキピオ

戦争後のスキピオは終身執政官などの役職を辞し、地味に暮らしたという。

元々ギリシャ文化への昏倒が激しく、研究などをしてくらしていたらしい。

だが時代はスキピオに平和を許さなかった。

ローマは、東の大国セレウコス朝シリアとの闘いを始めた。

 

セレウコス朝はアレクサンダー大王後分裂した王国の中でも最強の国家だった。

だが、スキピオの敵ではなかった。

ギリシャ式のファランクス戦法はハンニバルの考案した包囲戦の前に無力だった。

実際にはスキピオは参謀として派遣され、最大の決戦であるマグネシアの戦いの際には病気で寝込んでいたらしいが、それでも元老院はスキピオにアシアティクスという尊称を与えた。

スキピオの追放

時代は移り、ローマでは大カトーと呼ばれる元老院議員が力を持つことになった。

のちにカルタゴを野原に変えてしまうことになる彼は平民出身の護民官だったが、背後には有力貴族のヴァレリアヌス家の存在があったという。簡単に言えばローマ内部にも内紛が起き始めていた訳である。

国が大きくなればその権力争いも激化する。

スキピオの断崖裁判はその始まりであったかも知れない。

スキピオの兄ルキウスがセレウコス朝から賄賂を贈っていたという告発を受ける。兄の弁護をしたスキピオだったが、今度は自身が裁判にかけられることになった。

この日のエピソードはローマでは非常に有名で、くしくもこの日はザマにおいてスキピオがハンニバルを破った日であり、スキピオは裁判など無視して戦勝の祝いに行ってしまった。それを見た観衆や元老院議員、裁判官までもがスキピオの後を追った。残されたのは大カトーだけであったという。

裁判自体はスキピオの政敵でもあるグラックスという護民官が擁護したこともあって無罪となったが、これ以降政治の表舞台からは去るようになった。

後にスキピオは恩人でもあるグラックスに娘を嫁がせ、その娘は兄弟を産んだ。

のちにその兄弟はローマで改革を行い、「グラックス兄弟の改革」として日本の世界史の教科書にもその名が記されるようになる。

スキピオはその後静かに54年の生涯を閉じた。

紀元前183年。くしくも同じ年に最大のライバルであったハンニバルも死んだ。

時代は、移ろっていく。

スキピオは最後はローマを毛嫌いしていたようで、先祖代々のコルネリウス家の墓に入るのを拒否したという。

個人的なスキピオ・アフリカヌスの評価

ローマには優秀な指導者が多い。

ユリウス・カエサル、トラヤヌス、アントニヌス・ピウス、そしてスキピオ。

戦術家としてみた時、やはり抜群なのはスキピオ・アフリカヌスであろう。

彼の存在がなければ恐らくローマは滅びていた。あるいは空前の大帝国になることはあなかったであろう。

会戦においてハンニバルを唯一破った人物であり、その生涯において一度も敗戦がない。

生涯無敗の人間は、世界史でも指折りで数えられるぐらいしかいない。

スキピオは、ローマ最強の英雄と言うべきであろう。