日本人では知っている人の方が少ないであろうゲルマニクスの生涯について簡単にまとめたいと思う。
ゲルマニクスの正式名称はゲルマニクス=ユリウス=カエサルという物凄い名前で、ユリウス家の血も引いていると同時にアウグストゥスのライバルであったアントニウスの血も引いている。
後世の歴史家タキトゥスをして「アレキサンダーをもしのぐ才能があった」といわしめたゲルマニクスについて詳しく見て行こう。
アウグストゥスの後継者と言われた若者
アウグストゥスは世界史上に名を遺す大人物であったが、後継者候補が次々と死んでしまうという不幸に見舞われた。後継者第一候補であったドルススは早死にし、孫のルキウスとガイウスも早逝してしまったのだ。唯一残っていた孫のポストゥムスは出来が悪すぎて後継者どころかローマを追放されてしまう始末。
そんな失意にあったアウグストゥスの救いがドルススの息子ゲルマニクスであった。
ドルススはアウグストゥスが結婚したリヴィアの連れ後であり、名門クラウディウス家の血を引いていた。妻はアウグストゥスの姉であるオクタヴィアとアントニウスの娘であるアントニア。その間に生まれたのがゲルマニクスで、アウグストゥスは彼を後継者に決めていた。
その証拠に2代目ローマ皇帝ティベリウスにゲルマニクスを養子にするように要求した。ティベリウスはすでに50を過ぎており、これは中継ぎであることを意味していた。
ちなみにティベリウスはゲルマニクスの父であるドルススの弟なので、ゲルマニクスから見て伯父にあたる。
中継ぎにあてられたティベリウスは面白くなかったのでゲルマニクスに意地悪をしたという言説が当時から現在まであるけれども果たしてどうだろう?
ティベリウスについては別記事を見てもらえると嬉しいが、実の甥のことは結構可愛がっていたような気がする。
実際ゲルマニクスとティベリウスの息子ドルススはかなり仲が良く、ティベリウスはアウグストゥスの意思の通りゲルマニクスを後継者として考えていたようである。
ゲルマニクス神話
ゲルマニクスの人気はすさまじかった。初代皇帝アウグストゥスの血縁であることもそうだったが、彼は若くイケメンであった。
イケメンはいつの時代だって大正義である。
ただしイケメンに限る!という言葉が現代にはびこっているように、イケメンは全てが正当化される。
しかもゲルマニクスは大変に出来が良かった。
アウグストゥスが死ぬとゲルマニクスはすぐにゲルマン族の住むゲルマニアに派遣される。
名前がややこしいが、ゲルマニクスと言うのは父であるドルススに与えられた尊称「ゲルマニクス(ゲルマニアを制する者)」をそのまま継いだ形であり、ゲルマン族を制圧するために生まれてきたような存在である。
アウグストゥスは紀元9年トイトブルク森の戦いでゲルマン人にボロ負けした。漢の高祖こと劉邦も北方民族匈奴にボロ負けしたが、統一王朝にとって他の民族、しかも野蛮民族だと思っている連中に負けるのは屈辱以外の何物でもない。紀元前9年にはゲルマニアの地で後継者候補にと考えていたドルススを失っているからなおさらだ。
アウグストゥスはゲルマニアの地に最も有能な将軍を派遣した。後の2代目皇帝ティベリウスである。
この1事を見るにティベリウスがいかに優秀で信頼されていたかがわかる。
ゲルマニクスがゲルマニアに行くとすぐにティベリウスへの反乱がおこった。
ゲルマニア駐屯軍がティベリウスの皇帝即位に反発したからだ。彼らはゲルマニクスを皇帝にするように要求したが、当のゲルマニクスはそれを叱責、ゲルマニア各地で起こった反乱や暴動を次々と沈めていった。
ゲルマニクスが後世の各皇帝のように野心的であったなら、この場で反乱を起こし、ローマ帝国は秦のように寿命が短い国になっていたかも知れない。
次々とティベリウスへの不満を述べる兵士たちの前に立ち、「信義に反するぐらいなら死んだ方がマシだ」と言って自ら自害しようとし、周りに止めたられた逸話も残っている。
それを見てゲルマニア駐屯軍はティベリウスへの忠誠を誓ったのだという。
ゲルマニクスはかなりの激情家であったらしく、ある意味ラテン人らしいと言えるかも知れない。常に冷静で何を考えているのかわからないティベリウスとは正反対の性格でったようにも思える。
ゲルマニアで起きた暴動は中々おさまることを知らない。部下はゲルマニクスに家族をガリアに送るように進言した。
ゲルマニクスの家族には幼い息子であるあるガイウスがいた。彼はよちよち歩きでカリガと呼ばれる靴を履いていたため兵士の間では大変な人気があった。このカリガからとったあだ名が「カリギュラ」すわちのちの3代目ローマ皇帝その人である。
カリギュラがいなくなって初めてゲルマニア駐屯兵は自らの行いを恥じたという。カリギュラがいかに人気があったかというエピソードの1つである。まさか彼がローマ最低の暴君の1人になるとは誰も思っていなかっただろうなぁ…
ローマならいざ知らず、自分たちが野蛮の地だと思っているガリアに家族を送られたからにはさすがにゲルマニアのローマ兵もショックを受けたようである。このようにして見事にゲルマニアの反乱をおさめたゲルマニクスはついにゲルマニアへの攻勢に出るようになる。
敵将であるアルミニウスという将軍はかなりの手練れであった。現在のドイツ人の祖先なわけだからその強さは想像できると思う。現在のドイツ人の平均身長は180㎝を軽く超えている。とにかくデカイ上に賢いのだ。
ゲルマニクスは真正面から立ち向かう前にゲルマン側への分断作戦を実行する。アルミニウスの妻およびその父がローマ側に投降し、親族が次々にローマに寝返るという結果になった。
とはいえゲルマニアの地の寒さには苦労したようで、中々うまく攻めあがれない。そんな折にティベリウスはローマにて凱旋式をするようにゲルマニクスに申し付けたが、ゲルマニクスはそのままゲルマニアに攻め入ることを選択した。
ゲルマニクスはティベリウスに対し必ずしも従順ではなかった。現地での判断とはいえ独断で動いている節もあり、のちに皇帝領エジプトに皇帝の許可なく入っている。
ゲルマニクスはそのままアルミニウスに大勝利を収める。が、冬の寒さには勝てなかったようで犠牲者も多く出た。
今度はゲルマニクスもティベリウスの言うことを聞き、ローマでの凱旋式を行った。
ゲルマン民族に勝利したゲルマニクスにはローマ中から拍手と喝さいが起こったという。ローマ市民はこのままゲルマニクスがゲルマニアの地を征服することを熱望していたが、ティベリウスはゲルマニクスを東方の地に派遣することを決定した。
「ティベリウスはゲルマニクスに嫉妬しこれ以上の戦功を建てられることを嫌った」
ローマ史家代表のタキトゥスが言うぐらいだから当時のローマ市民も皆思っていたことだろう。
ティベリウスが本当に何を考えていたのかはわからない。実際に嫉妬だったのかも知れない。ただ、ティベリウスに関して言えば人事の配置だけは完璧に近く、適材適所という言葉がこれほど似合う人物もいない上にゲルマニア侵攻を事実上放置しているため嫉妬というのはどうだろう?
ティベリウスほど実務的な人もいないからなぁ。現代でいうところのKYな性格なのだろう。
ティベリウスは出費を嫌っていた。サーカスのスポンサーを降りたぐらいである。そのおかげで3代目のカリギュラは信じられない勢いで浪費ができたぐらいだった。彼はゲルマニクスの前のゲルマニア総督であり、冬の厳しさなども知っていた。これ以上の損害を嫌ったというのが実際なところのような気がする。
派手な外征は後に疲弊を生み出す。アレクサンダー大王の王国がすぐに分裂したことやモンゴル帝国がすぐに分裂したことからも考えて、領土を増やし過ぎると出費も増えと内も難しくなる。三国志とかのゲームをやったことのある人ならわかる部分だと思う。
この部分に関しては個人的にはティベリウスの判断は正しいと思う。下手に深追いすればアウグストゥスのようになっていた可能性もあるし、甚大な被害を出していた可能性およびゲルマン民族の激しい抵抗を受けていた可能性もあるからだ。
ただ、この時も、そして後世の人々もこのままゲルマニクスがゲルマニアに居続けたらどうなっていたかという点については期待せずにはいられなかったようだ。そのことからローマ市民の間では長らく「ゲルマニクス神話」が語り継がれるようになる。それはやがてカリギュラの皇帝就任とその熱狂という形で現れることになる。
東方派遣と英雄の最期
ローマ最大の敵はどの国か?
これは後世西ローマを滅ぼしたのがゲルマン人であることからゲルマン勢力だと思われがちだが、この時はパルティア王国である。後のビザンツ帝国が当方から生まれたオスマン帝国に滅ぼされたことを考えれば、ローマ最大の問題は東方問題なのである。
ペルシャの流れをくむこの国は強大で、東方問題は常にローマ帝国の最優先事項であった。つまりゲルマニクスは最重要地への派遣をされた訳である。
ちなみに紀元前21年にパルティアとの間に調印式があった。ローマの代表はティベリウスその人であった。
専制君主制を採用するペルシャとの間の交渉には、王族、さらには後継者の存在こそが交渉の場にはふさわしい。
ゲルマニクスの東方派遣は後継者として認めているということでもあった。
東方問題で最も重要になるのが「アルメニア王国」である。
ローマとは国境を接し、この国が親ローマである限りはローマの東方は安全だと言える。
ゲルマニクスが東方に到着した際、アルメニア王国は後継者問題でもめていた。アルメニアの王ヴァノネスはローマ育ちであり親ローマであった。しかしポントス王の息子ゼノネスこそがアルメニアの王にふさわしいのではないかという話になっていたのである。
パルティアの支援を受けたゼノネスはヴァノネスを追放し、ヴァノネスはローマ領シリアへと亡命してきた。
ティベリウスはゼノネスを容認し、ゲルマニクスに命じてローマ式の戴冠式を行うように命じた。この際ゼノネスにアルタクセスへの改名も要求している。
これによってアルメニアは親ローマの国になった。アルメニアとしてもローマ帝国から認められた王であるという事実は大きい。
パルティアもこれに納得したようで、ローマとの調印式を要求、ゲルマニクスはそれを滞りなく完了し、見事にその責を果たしたのである。
何の問題もないように見えるが、ゲルマニクスとシリア総督であるピソとは非常に仲が悪かった。2人はたびたび口論を行う姿が見られ、折り合いが非常にわるかったようである。
パルティアとの調停を終えたゲルマニクスは突然高熱で倒れてしまう。そしてそのまま帰らぬ人となった。
ことの真偽はわからない。だが、ゲルマニクスはピソによって毒殺されたのだという風潮が蔓延した。中にはティベリウスがピソに命じたという者もいた。
ピソは裁判にかけられ、後に自死を選ぶことになる。
具体的な証拠は何一つ出なかったが、ピソには死後有罪判決が下った。現在に至るまで真相は分かっていない。マラリアで倒れたというのが現在の有力説であるが、それを裏付ける証拠もない以上、ゲルマニクスの死は永遠の謎に包まれることになるだろう。
個人的なゲルマニクスの評価
ティベリウス嫌いなタキトゥスだが、ゲルマニクスには最大限の評価を与えており、「アレキサンダー大王よりも優れている」とさえ言っている。
さすがにそれは言い過ぎだが、ゲルマニクスが優秀な人材であったことは疑いのない事実であったことだろう。彼が第3代ローマ皇帝であったら歴史は大きく変わっていたかも知れないけれど、ローマ皇帝には即位前には優秀だったけど皇帝になったら狂った奴らも多いのでなんとも言えない。
軍事も外交もうまくやっているし人気もあった。世界史レベルで見ても優秀な人物であっただろう。ただ、ティベリウスに従順とは言えない面もいくつかあったし、良くも悪くもラテン人らしく熱しやすい性格でトラブルも起こしていた。そういう部分は魅力的に映るけど、為政者としてはやはりティベリウスの方が優秀なのかも知れない。
軍事面に関してはアウグストゥス時代にボロ負けしたゲルマン人に勝っているところからかなり才能もあるし実績もあると言えるだろう。アルメニア王位をめぐる問題でもトラブルなくその責を果たしている。
コーエー的な感じで能力値を決めるとしたらこんな感じかな。
統率:92
知力:83
政治力:84
魅力:92
*数値は適当なのであまり気にしないでください。