「ハンニバル」と聞いてもしかしたら羊たちの沈黙のハンニバル・レクター博士を思い浮かべる人も多いかも知れない。
だが、世界史好きから見ればレクターはあり得ない。
ハンニバルと言ったらカルタゴの将軍「ハンニバル・バルカ」
古代世界の覇者であり1000年、味方によっては2000年近くも繁栄を続けた空前絶後の大帝国ローマが、かつてないほどの敗北を味あわされたのが今回の主人公ハンニバルである。
後にナポレオンがその戦術を真似、現在でも各国の士官学校で手本とされるハンニバルの、その生涯について見て行こう。
ローマを滅ぼすために生まれてきた男
ハンニバルは第一次ポエニ戦争の際、戦うことを許されなかった名将ハミルカル・バルカの息子である。
ハミルカルは9歳になる息子ハンニバルをバール神殿に連れていき、神々に誓ってローマを滅ぼすようにと誓いを立てさせた。
以降ハンニバルはローマを滅ぼすことのみを考えて生きていくことになる。
ハミルカルはスペインの部族を制し、鉱山を開発し、荒れ地をの内へと変えていった。バレンシアオレンジなどで有名なスペインは気候も温暖で作物もよくとれる。
ハミルカルのもとでスペインは富んで行った。やがてハミルカルが亡くなり、跡を継いだのは娘婿のハシュドゥルバルであった。彼はハミルカルの路線を継ぎ、ひたすらにスペインを富ませ、兵力を充実させた。すべてはハミルカルの息子で義理の弟であるハンニバルの打倒ローマのために。
ハシュドゥルバルは死んだ。原因は未だにわかっていない。奴隷であったガリア人を激高させたためだともいう。
いずれにせよハンニバルは父と義理の兄が用意した兵力と財力を受け継いだ。この時まだ26歳。
ハンニバルは家督を継ぐとすぐに行動に出た。
スペインにあるサグントというローマの同盟都市を攻めることでローマに宣戦布告をした。
残念ながらローマからサグントまでは遠すぎた。ローマは軍隊を派遣する代わりに元老院議員2名を送ったが、ハンニバルは攻撃をやめようとはしなかった。
サグントは落とされ、その瞬間から雷光のごときハンニバルのローマ侵略が始まるのであった。
ハンニバルのアルプス越え
第一次ポエニ戦争の部隊はシチリア島だった。
アフリカに本拠を置くカルタゴがローマに攻め入ろうとすれば当然の如くシチリア島を経由することになる。
ローマはそう考えた。
現代人でもそう考えるであろう。
当時は誰もハンニバルが北川から来るとは思っていなかった。
なぜならイタリア半島の北部にはアルプス山脈があるからだ。
アルプス山脈の最高峰はモンブランで約4800m、日本の富士山が3300mぐらい、アルプスには2000m級の山々が連なる。
登るには現代でも専用の装備が必要になるだろう。それでも遭難の危険性がある。
ましてや紀元前218年の話。日本だと卑弥呼様の時代よりもさらに400年以上も前の話だ。
少し話が脇にそれるが、20世紀の半ば、日本軍はビルマまで山越えをしようとした。狙いはインドにいたイギリス軍で、山を越えようとして失敗し作戦に参加した日本兵のほとんどが死んだ。かの有名なインパール作戦である。
インパール作戦はその無謀さから世界史上最悪の作戦ともいわれる。
さかのぼること2000年以上も前、世界史上最高の軍略であるハンニバルはアルプス越えを成功させた。
精強なヌミディア騎兵はもちろん象も一緒だったというから驚きだ。
なぜハンニバルがアルプス越えを成功できたのかは現代でもわかっていない。
ただわかっているのはハンニバルという将軍は人知を超えた天才であるということだけだ。
さすがのハンニバルも無傷でアルプスを越えられた訳ではなく、兵力の30%ほどは失ったらしい。
そしてローマもハンニバルの動きをただ指をくわえてみていただ訳ではない。
消耗しきったであろうアルプスを越えてきたハンニバルをローマ執政官プブリウス・コルネリウスとセンプローニウス・ロングスが強襲する。
結果はハンニバルの圧勝。
ローマ軍は当時地中海最強と言われていたヌミディア出身の騎兵隊に手も足もでなかったのである。
この戦いはのちにティキヌスの戦いと呼ばれ、続くトレビアの戦いでもハンニバル側の圧勝に終わった。
兵数で言えばほぼ互角であったようだが、ローマ側はヌミディア騎兵には全く歯が立たなかったようで、20000とも言われる数の兵力を失っている。
対してハンニバル側はほぼ消耗がなく、その消耗も道中雇い入れたガリア人傭兵であったという。
つまりローマ側大打撃、ハンニバル側ほぼ無傷という構図である。
完璧に近い勝利だったが、ハンニバルは敵の執政官を取り逃がしたことを悔しがったという。そのことについて後世の歴史家は思う。ハンニバルにとって本当に残念だったのは執政官をとり逃したことではなく、執政官の息子を取り逃がしてしまったことであると。
大いに勝利したハンニバルは捕虜にしたローマ兵のうちローマの同盟国の兵士は無条件で解放し、ローマ本国の兵士は全て拷問の末処刑したという。その様を故郷に知らせ、ハンニバル側につけば独立と自由は保障するが、ローマ側につくようなこのようになると伝えさせた。
ハンニバルの狙いはローマ同盟(ラテン同盟)の解体であったことは明白である。
当時ローマは属国という制度はなく、すべて同盟国であった。かつて敵であったエルトリアやサムニウムも属国ではなく同盟国なのである。
ハンニバルは、この同盟国の離反を画策したのである。
進撃のハンニバル!!
豊富な資金を持つハンニバルはイタリア北部にいるガリア人達を雇い入れ戦力を補充した。
対するローマはハンニバルの行動の予測がつかなかった。正確には予測は立てたがそこには自信がなかったというべきか。
ローマ執政官コンスルは常に2人である。ローマはハンニバルが動くであろう地点の予測としてリミニとアレッツォに執政官を分けた。結論から言えば失策であったと言える。
時のローマ執政官の1人であったガイウス・フラミニウスとハンニバルはトラシメヌス河畔で激突した。
まるで相手にならなかった。ローマ側は瞬く間に川岸に追い込まれ、散って行った。フラミニウスも死んだ。25000人いたローマ兵のうち少なくとも15000人が死んだ。対してハンニバル側の被害は約2000、そのほとんどがガリア傭兵であったという。
ローマ側は名門フラニウス家のファビウス・マクシムスをディクタトル(独裁官)に任命し、ハンニバルに対抗しようとした。
後にローマの盾と呼ばれるファビウス・マクシムスはハンニバルと戦わない持久戦術を採用した。
ハンニバルがやってきて戦おうとすると逃げるということをひたすら繰り返したのである。
ハンニバルと戦えば負ける。ファビウスの判断は正しかったが、誇り高きローマ人はそのような戦い方を歓迎はしなかった。彼にはグズを表す「コンクタトール」という綽名がつけられローマに呼び戻されることとなった。
そして紀元前216年、ローマは建国以来最悪の、あるいはローマ史上最悪の出来事に遭遇するのである。
日本の高校生が使う世界史の教科書にも登場し、先進国の士官学校であれば必ず教材に使うと言われる「カンネの戦い」である。
ローマの強さの秘密はレギオンと呼ばれる重装歩兵の密集戦法にあると言われる。
重装歩兵が一体となって突撃することによって敵を撃破していくのである。
ハンニバルはこれを利用し、ローマにわざと突撃をさせた。
突撃をすれば陣は2分され、指揮系統がメチャクチャになる。
ローマはそうやって勝っていった。だからハンニバルは突撃させ、左右の部隊にその突撃してきた軍団を包囲するように仕向けた。
結果としてローマ軍は四方を囲まれた。
中国史上最強の武将項羽は四面楚歌にて敗北した。
ローマ軍もなすすべもなく敗北した。
カンネの戦いに参戦したローマ兵は70000人と言われている。そのうち60000人は戦死し、残りもほとんどが捕虜になった。
ローマの兵士は皆ローマ市民権を持ったローマ市民である。士官から一兵卒までこの戦いで悉く戦死した。
ローマ執政官ルキウス・アエミリウス・パウルスも戦死した。もう1人の執政官ヴァロは逃げ延びた。そしてもう1人、この時ハンニバルは自身の最大のライヴァルを取り逃がしてしまったであろうことはまだ知らなかった。
ローマ側は同じ年イタリア北方のガリア征討軍も壊滅させてしまい、たった1年で8万もの兵力を失うこととなった。
こうして、世界史上最も有名なカンネの戦いが幕を下ろしたのであった。
イタリアの盾とイタリアの剣
新しいローマ執政官にはファビウス・マクシムスが就任した。ローマはカンネの戦いの敗北を受けて悟ったのだ。ハンニバルと戦ってはならないと。
ファビウスをクズと罵る者はいなかった。
ファビウスはやはり徹底的にハンニバルとは戦わなかった。彼の戦いぶりからいつしか「イタリアの盾」と呼ばれるようになった。
ファビウスの戦略の正しさは歴史が証明している。
ハンニバルは鬼人のごとき強さを誇っていたが、大きな欠点を持っていた。それは兵站の問題である。
ローマ軍がなぜ強かったか?
それは兵站を重視していたかだと言われている。
秀吉が天下をとれたのはなぜか?
秀吉よりも会戦に優れた武将はいくらでもいた。武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、毛利元就。しかし秀吉よりも兵站に優れた人間はいなかったという。
アルプスを越えたハンニバルには物資などの補給はなかった。
そのためハンニバルはイタリア南部の都市を落とし、補給基地としていた。
カルタゴからの支援はハンニバルには届かなかった。
理由は2つ。
1つは地中海の覇権をローマが握っていたからである。
シチリアを占拠しているのがローマであるからには補給は届かない。
そこでハンニバルはシチリア東部の都市国家シラクサをローマから離反させることに成功する。
シチリアの僭主ヒエロンは第一次ポエニ戦争の頃からローマ側だったが、90歳まで生き延びると死んだ。そして後継者はハンニバルにつくほうを選んだのだった。
カンネの戦いの結果、多くの都市がハンニバルの側についた。
中にはカプアやタレントゥムなどの重要都市も含まれていて、ローマ側はジリ貧となっていった。
もう1つはスペインに派遣されたローマ軍がカルタゴ軍を釘づけにしていたからである。
こちらはかつて執政官も務めたプブリウス・コルネリウスがよく働いていた。
それゆえにハンニバルはカルタゴからの支援は一切受けずに単独で戦っていた訳である。
そのようなことが可能だったのはハンニバルが手持ちの兵をほとんど減らさなかったからであろう。
そんなハンニバルに積極的に攻勢に出るローマ執政官がいた。マルクス・クラウディウス・マルケルスである。ファビウス家やコルネウス家と並ぶローマの名門貴族の出身でイタリアの剣と呼ばれる執政官はハンニバル相手に積極的に攻勢に出た。
ハンニバルは本国からの支援が期待できない以上、占領したイタリア南部の都市を守らなければならなかった。
マルケルスはヒットアンドアウェイを繰り返し、ハンニバルに行動を起こさせないようにし、ノラの戦いにおいてハンニバルに勝利することに成功する。
勝利と言っても小さなもので、消耗を嫌うハンニバルが退いただけであったが、それでもハンニバルにも勝ち得るということをローマが知った戦いという意味では重要であった。
マルケルスはハンニバル側になったシラクサを攻めて陥落させ、ハンニバルとの消耗戦を展開したがハンニバルの策にはまって戦死してしまう。
ただ、マルケルスとファビウスの功績は大きかった。その間にローマには後に戦神とまで言われることになるある1人の若者が頭角を現すようになったのだから。
そして歴史が動いた~戦神降臨す~
スペイン戦線に異常が発生した。
スペインにおいてカルタゴ軍を釘づけにしていたプブリウス・コルネリウスが戦死したのだ。弟のグネウス・コルネリウスも死んだ。
ローマ元老院はスペインに派遣する指揮官について頭を悩ませていた。
主要な将軍はハンニバルで手一杯だった。優秀だった将軍はハンニバルによって殺されていた。
そんな折、1人の若者がスペイン戦線の司令官に立候補した。
25歳になったばかりのその若者の名はプブリウス・コルネリウス。
スペインで戦死したプブリウス・コルネリウスの息子である。
後年、彼のことを皆こう呼ぶ。
スキピオ・アフリカヌスと。
ローマの慣習では執政官は40歳以上と決められていた。ので、元老院は反対した。
スキピオは22歳でエディリスになっているが、本来資格は30歳以上である。
型破りなスキピオだったが、ローマの元老院は懐の深さを見せる。というよりも人材不足であったし滅亡の危機でもあったのでそんな慣習にしばられているばあいではないと判断したのだろう。
こういう点がローマの強みである。ダメな国家は決断力がない。強い国家は決断力がある。
スキピオはスペインに着くとあっという間にハンニバルの弟たちを打ち破って見せた。
そればかりではなく持ち前の明るさと寛容さでスペインの諸民族の心をもつかむ。
が、スキピオも1つだけ失策をしてしまう。ハンニバルの弟ハシュドゥルバルを軍隊ごと逃がしてしまったのである。
だがイタリアに到着したハシュドゥルバルはミスを犯す。兄ハンニバルにあてた手紙をローマ軍に奪われてしまい、待ち伏せしていたローマ軍によって壊滅させられてしまったのだ(メタウルスの戦い)。
ハミルカルの時代もそうであったように、ローマ側には豊富な人材がいた。一方カルタゴで人材と呼べるのはハンニバルだけである。
スキピアはローマにもどると今度はシチリアに行き、軍を組織。ついにはアフリカに上陸してしまう。
アルプス越えをしたハンニバルの戦略を最も忠実に真似たのがスキピオだと言われている。スキピオはアフリカに行き、ハンニバルの強さの源泉であるヌミディア騎兵を味方につける。
もっとも、当時のヌミディアは2つに分裂していて、より優位な方はカルタゴについてしまったのではあるが。
この頃は鐙などもなかったために馬に乗れる者は貴重で、さらに馬に乗ったまま戦える人間は非常に少なかった。そのため騎馬兵の確保が何よりも重要だったのだ。
スキピオのアフリカ上陸に、カルタゴの首脳陣はビビってしまった。
カルタゴは第一次ポエニ戦争の時同様ハンノン一派が政権を握っていた。ハンノンはハンニバルをアフリカに呼び戻した。
ザマを見ろ
「ザマーーーー!!」という言葉はザマの戦いから来ている。
*嘘だ。「ざまをみろ」のざまは鎌倉時代に仏様がいた「座間」の地名からきている。
ザマの戦いにおいて、ハンニバルはスキピオに負けてしまう。
しかもスキピオはハンニバルがカンネの戦いで見せたと全く同じ戦い方をした。
突撃するハンニバルをスキピオは巧みに包囲した。
実は純粋な兵士数だけならハンニバルの方が多かったが、騎兵だけに限ればローマはカルタゴの2倍であった。このことが勝敗を左右した。
ハンニバルも自軍の不利を知っていたのだろう。開戦前にスキピオと会談し、和平を持ち掛けているが、スキピオはこれを却下している。
最強無敵を誇るハンニバルは負けた。
これ以降、ザマを見ろという言葉は世界中に広がった。
カルタゴはローマ側からの要求を飲み、領土を失い、賠償金を払うことになった。
ザマの戦い以降ハンニバルはカルタゴの長となり様々な政治改革を行うようになる。
ローマへの賠償金も完済したが、国内の反ハンニバル派は根強く、またローマのハンニバル憎しの感情も強く、両者が組んだことによってハンニバルはシリアへの亡命を余儀なくされる。
亡命先でも警戒され、クレタ島や小アジアと各地を亡命する生活となり、亡命先で自ら命を絶ったという。
享年60歳。世界史上最高の戦略家としてはあまりにも悲しい最後である。
個人的なハンニバルの評価
西洋において、最も優れた将軍を1人選べと言われたら誰もがハンニバルの名を挙げるだろう。ナポレオンですら恐らくハンニバルを挙げるに違いない。
行政手腕にも優れていたようで、個人の能力なら世界史上でもトップクラスであろう。
ただ1つ、運だけは全くなかったようである。
ハンニバルは終始味方に恵まれなかった。カルタゴ首脳のハンノンは無能の典型と言ってもよく、ハンニバルがローマに侵攻している間ロクな軍事行動をとっていなかった。
仮にカルタゴが全力でシチリアに攻め入っていれば歴史は大きく変わったかも知れない。
少年ジャンプ誌上最強の主人公はラッキーマンだと言われるが、運のよい奴がある意味一番強い。
実力はないがついてついてツキまくるのがラッキーマンなら実力は最高にあるがツキがないのがハンニバルだと言える。
もしもカルタゴがローマに勝っていたら、もしももう少しカルタゴに有能な人材がいたら、歴史は大きく変わっていたことだろう。
とはいえポエニ戦争の結果はカルタゴとローマの国家としての大きな差であっただろう。
国の危機に一致団結し、人材の豊富なローマと、国の危機にも指導者がまるで危機を感じず、足を引っ張りあったカルタゴ。
国とは、1人によって動くものではない。
ハンニバルが仮にカンネの戦いの後にローマを占領していたとしても、同盟国から包囲されてやはり滅びの道を辿っていたことだろう。事実ハンニバルはカンネの戦いに勝ってからローマを直接攻めたりはしなかった。
ザマの戦いも避けられるなら避けたかったようだ。
ハンニバルは徹底したリアリストであったのだろう。彼にはすべての戦いの勝敗が見えていたようである。
そしてそんな彼のもっとも不運だったことは、同時代にスキピオという天才的な将軍がローマに誕生したことかも知れない。
そして皮肉にも、ハンニバルの戦略は、ローマによって徹底的に研究され、後のローマの圧倒的な強さに組み込まれていくのであった。