中国史屈指の名将!匈奴討伐の大将軍「衛青」の業績とつつましやかな性格について

一代で平民から皇帝になる例は少ないが、一代で将軍になる例もまた少ない。

人類の歴史においては封建制社会が多く、身分制度によって階級化されるのが常だ。日本の戦国時代を考えてみても、秀吉や斎藤道三などの一部を除き登場人物のほとんどが名門貴族および名門武士の出身であり、その源流をたどると天皇家にたどり着く者が多い。

武帝の時代に大活躍をした衛青は、その数少ない例外の一人だと言えるだろう。

 社会の底辺層から這い上がった将軍

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武帝時代に活躍した人物の中には司馬遷のようにその起源を1000年近くもさかのぼれる名門貴族階級のような人物がいる一方で衛青のような貧民層から芽を出した者もいる。

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衛青の出自は確かではないが、北方の生まれであるとされ、幼いころには匈奴の侵攻に怯えながら暮らしていたという。

暮らし向きは貧しく、また父から激しい虐待を受けており、後に衛青を見た人物が「あなたは貴人になるだろう」と言われた際も「鞭で打たれる暮らしから解放されるならそれで十分だ」と答えた逸話が残っている。

そんな衛青が出世をするきっかけとなったのが姉の結婚であった。

「シンデレラ」は西欧に伝わる物語であるが、実際に超玉の輿に乗った人物はいる。衛青の姉の衛夫人だ。

衛夫人は武帝の姉の平陽公主に仕えており、その流れで武帝の後宮に入ることになった。武帝の後宮に一体何人の愛人がいたのかは不明だが、ある日衛夫人は武帝に見初められる。やがて衛夫人は武帝の初めての子を産み、その功で皇后の地位にまで昇り詰めることに成功した。

まさにシンデレラストーリーである。

皇后の親類であり、また幼き時より乗馬や弓の訓練を積んでいたことが功を奏し、衛青も一気に将軍に引き立てられる。

武帝の衛夫人への寵愛は激しく、またその一族への優遇が激しかったため衛青も他の家臣から拉致・監禁されるという事態になる。これは陳皇后という武帝の最初の皇后の一派によるもので、陳皇后はどれだけ頑張っても武帝との間に子をなすことが出来なかったのだという。

衛青のピンチを救ったのが公孫敖という友人で、この人物と共に衛青は後に大活躍をするようになる。

匈奴征伐

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中国の歴史は、漢民族とその他の民族の攻防の歴史でもある。

漢の高祖こと劉邦は、匈奴との戦いにボロ負けした。それ以来漢帝国は匈奴に対し劣勢であったが、武帝は国の威信をかけて北方のモンゴル系民族である匈奴の討伐を決断した。

北方の生まれで匈奴の事情に詳しい衛青は、いきなり車騎将軍として匈奴征伐の任にあたり、そしてこれによく応えた。

紀元前129年における最初の征伐に始まり約10年にわたる七度の遠征全てに勝利し、車騎将軍から大司馬、そして大将軍へと昇り詰めることに成功した。

これは漢の歴史はもちろん、中国の歴史においても記録的な大勝利と言える。始皇帝が多大な犠牲を払って「万里の長城」を作ったのは匈奴の侵入に対抗するためであった。長城自体は元々春秋戦国時代の各君主が建設したものを始皇帝がまとめた訳であるが、それほどまでに匈奴は漢帝国の脅威だった訳である。

これほどの功績のある衛青だったが、政治にはほとんど口出しをしなかったことで知られ、成り上がり者にありがちな横柄な態度などもとらず、兵卒から貴族に至るまで多くの物に慕われていたという。

私生活では武帝の姉であった平陽公主と結婚しており、子宝にも恵まれたが、衛青亡き後に嵐のように吹き荒れた巫蠱の獄により子供たちは全員処刑されることになってしまった。

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個人的な衛青の評価

三国志の時代、曹操は息子の曹彰が武勇一辺倒なのを見てもう少し勉強もしなさいと注意したことがある。曹彰はこれに対し「男として生まれたからには衛青や霍去病などのように大軍を率いてこそ本望」と答えた逸話が残っている。

曹操の時代は衛青の時代よりも300年も後の時代であり、その時代においても衛青の名は引き合いに出されるレベルで評価されていたことが伺える。

中国の歴史においても漢民族が最も強勢だった時代の象徴であり、功績も大きく、政治的な混乱を起こしたりしない武人の鏡のような存在である。

中国の歴史上でも屈指の名将という評価が妥当であろう。