中華史上最高の名君が一人!後漢の創始者「光武帝(劉秀)」

始皇帝が「皇帝」を名乗ってから清のラストエンペラーが退位するまで中華史上には300人もの皇帝位を持つ者が存在した。

その中で最高の名君を決めるとなると候補は三人に絞られる。

清の康熙帝、宋の趙匡胤、そして後漢の創始者光武帝の3人だ。

今回はそんな中華史上最高の名君の一人である劉秀こと光武帝のお話。

 仕官するなら執金吾、妻を娶らば陰麗華

徳川第八代将軍徳川吉宗が将軍位から程遠い存在であったことは知られるが、後の光武帝こと劉秀はそれよりもさらに皇帝位から遠い存在であった。

漢の高祖こと劉邦が国を興して以来200年が経ち、劉姓を持つ者はもはや数えきれないほどの数となった。漢の武帝の兄弟である中山王劉勝などは子供だけでも50人以上いたと言い、劉備もその子孫であると言われている。

劉秀の直系を辿っていくと漢の第六代皇帝景帝までさかのぼることが出来、その子供である長沙王劉発の子孫が後の光武帝ということになる。

長沙を始めとした荊州と呼ばれる広い地域はかつて南陽と呼ばれており、劉秀は長沙よりは北にある新野で生まれ育った。三国志マニアならご存知のように劉備が諸葛亮や徐庶と言った人物たちと出会った場所である。

劉秀は南頓県令でああった劉欽の子として生まれ、本来ならば皇帝位はもちろんそれほど出世が望める立場にいた訳でもなく、「仕官するなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」とよく言っていたという。

執金吾というのは首都の警備長官のような役職で、現代日本で言えば警視総監と言った感じであろうか、陰麗華というのは南陽一の美人の名前で、決して皇帝になろうとは思ってもいなかったのである。

若いころの劉秀は物静かで学問を好む性格で、それほど人付き合いが好きなタイプではなく、暴れん坊で義侠心溢れる兄の劉縯とは対照的な存在であったという。

王莽による簒奪、赤眉の乱、緑林の乱

時は動乱、劉邦が建てた漢王朝は滅びた。

滅ぼしたのは外戚として権勢を誇った王莽という人物であり、紀元8年漢王朝の皇帝を廃位して自ら皇帝となり新という国を建てた。形だけで言えば禅譲(皇帝位を自らの意思で平和的に渡すこと)であったが、明らかな簒奪であった。

王莽の政治は中国歴代でもほぼ最低レベルで、1000年前の周の時代を理想とし、まるで現状に合わない政治を行った上に大規模な飢饉が起きた。食うに困った人民たちは次々と反乱を起こし、中でも赤眉の乱は世界史の教科書に載るほど大規模で、貴族や豪族たちは新を捨て、各地方で独立した政権を作り出し始めた。ちょうど分国法を作り地方の自治をしだした戦国の大名のようなものである。

劉秀は兄の劉縯や後に軍師となる鄧禹(とうう)など南陽出身者と共に新野の地にて蜂起をする。この際、馬がなかったので劉秀は牛に乗っていたという逸話もある。劉の姓はもっていても、当初はそれだけ小さな勢力であったということをあらわしているのだろう。

当時の中国はかなりメチャクチャなことになっていて、王莽率いる新の軍、反乱を起こした赤眉の軍、同じく反乱を起こした緑林軍、そして各地の豪族たちが互いに争う状態であった。

このような戦乱の中で劉秀と劉縯は次第に勢力を伸ばして行き、南陽の軍勢だけではなく新市・平林の軍団を吸収し、緑林の反乱軍なども次第に吸収していく中でいつしか兵力10万の巨大な勢力となっていく。

劉秀兄弟は新の軍団を次々と撃破していき、その血筋も相まって漢王朝の復興を期待されるようになるが、豪族たちは英明な劉縯が皇帝になるのを望まず、暗愚として知られる劉玄を更始帝として即位させることにした。

昆陽の戦い

更始帝の存在を最も恐れたのが簒奪者王莽である。

王莽は更始帝の本拠地となった宛に向けて自称100万の軍を進軍させてきた。

しかし王莽は軍事的には完全な素人で、相次ぐ暴政により人心を失っており、これほど烏合の衆という言葉がぴったりの軍もなかった。

しかしこれを迎え撃つ劉秀の軍団はわずか1万人ほどで、平地での会戦を行ったら確実に敗北するという状態である。多勢に無勢、あっと言う間に昆陽城を包囲された更始帝であったが、劉秀は包囲網をわずか13騎で抜け出しやがて数千の兵を連れて包囲網を破ることに成功したのであった。

勢いそのまま劉秀は数戦騎でもって新の本軍に対して全力で突撃していき、圧倒的大軍であった新の軍団を敗走させることに成功する。この結果新の軍団が都長安に帰った時にはわずか数千を残すのみであったという。

数字に関しては必ずしも正確とは言えないが、この昆陽の戦いにおいて新は決定的なダメージを受け、急速にその勢力を失っていき、対する更始帝の軍団は益々勢力を拡大していく。

兄の死と分裂

当時の更始帝の軍団は大きな二つの派閥に別れていた。新市・平林の豪族を中心とする派閥と劉秀・劉縯兄弟を中心とする南陽派閥の二つである。

新の凋落が決定的となったタイミングで、更始帝にとっての最大の脅威は劉秀・劉縯兄弟となった。

更始帝とその一派は邪魔になった劉縯を殺害し、それを知った劉秀は二の舞を防ぐべく兄の非礼に対して頭を下げて耐え忍んだ。

そもそもの発端は兄劉縯の部下が更始帝の存在を認めなかったこと、その任官を拒否したことにあり、劉縯はその連座になって罰せられたという形になった。

昆陽での勝利を機に更始帝の軍団は都長安へと進軍を開始し、劉秀に対しては黄河以北の地である所謂河北地方の攻略を命じた。

更始帝の軍はそのまま進軍を続け、長安を陥落させることに成功、ここに簒奪国家新はその命運を閉じることになる。

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これにより赤眉の軍団も更始帝の軍門に降り再び漢王朝は復興したかに見えた。

劉秀の即位と更始帝の凋落

都を占拠した更始帝の軍団はもはや野盗と同じであった。酒に美女に略奪に暴行に、人の本能を露わにした更始帝の軍団に、人々の心は離反していった。「王莽の時代の方がまだマシ」という言葉さえあったほどだ。赤眉の軍団もこれには呆れて離反していき、劉姓を持つ劉盆子という人物を擁立。やがて更始帝への攻撃を開始した。

更始帝の退廃は極まっており、兵や指揮官も愛想をつかしていたためあっさり敗北、新の滅亡からわずか1年と7か月で更始帝の時代は終わりを迎えた。

一方の劉秀はその間に河北の豪族たちと戦いながらその勢力を拡大させていった。更始帝はまだ存命だった時に劉秀に長安に帰還するよう命じたが「河北未だ平らかならず」と言ってそれを拒否している。

河北では始皇帝の故郷でありかつての大都市であった趙の都邯鄲(かんたん)にて王朗という豪族が劉秀の首に賞金をかけるなど敵対心を露わにしたが、後に雲台二十八将と呼ばれるようになる優秀な配下と共に華北の豪族を次々に屈服、吸収させていき、紀元25年、部下の強い要請の許に光武帝として即位することになる。

光武帝は 更始帝亡き後の洛陽に入城するとここを都に置き、国を後漢とした(元号は建武)。光武帝は新を滅ぼした赤眉の軍団を降伏させ、中原の覇権を完全に掌握することに成功した。

隴を得て蜀を望む

一つの望みをかなえてもまた次の望みがでてくることを「隴を得て蜀を望む」というが、これは光武帝がライバル勢力の一つであった隗囂を撃破し、隴西を手中にしたその瞬間には蜀の地を望んでいたことに由来がある。

中原の覇権を握った光武帝は隗囂や公孫述と言った豪族を破り、紀元38年再び中華帝国を統一することに成功した。

歴史上においても、一度滅びた王朝を復活させたのは光武帝だけであり、かつ一代で中国を統一したのは始皇帝、劉邦に続いて三人目である。

これらの先達と光武帝が異なるのは、暴政を行わずまた功臣の粛正を行わなかったことであろう。

中華史上最高の名君

「治世の能臣、乱世の奸雄」という言葉は許子将という人物が曹操を評していった言葉であり、これ以上曹操という人物を的確に表した言葉はなかったと言えるが、光武帝にもまた同じ言葉がよく似合う。

光武帝は本来ならば手の付けられないぐらいの乱世をほとんど庶民に近い状態から平定し、皇帝になった人物であり、三国志で言えば劉備玄徳と曹操孟徳を足したような人物であると言える。

皇帝となった光武帝はまず荒れ果てた国家の再建に乗り出した。

王莽の簒奪から始まった一連の戦乱において、田畑は荒れ、人口は著しく減ってしまった。

そこで光武帝はまず最初に官吏、つまり公務員の数は10分の1にした。

実は中華史上最高の名君とされる康熙帝も同じように公務員の大規模リストラを行っている。

その結果どうなったかというと国力は嘘のように回復した。純粋に支出が増えたのだから自明の結果であった。古今東西の君主の中で、官僚組織の逓減に成功した人物は少なく、実行できたのは光武帝と康熙帝ぐらいであろう。

もし現代日本で同じことができる人物がいたら人の世が続く限り名君と呼ばれるようになるだろうが、恐らくそれを断行できる人物は出てこないであろう。日本と言う国は平均して能力の高い人物が出てくるが、革新的な名君や英雄などは出てこない土地柄なのかも知れない。

良くも悪くも光武帝がそれを可能にしたのはその武力であっただろう。ローマなどは官僚組織の暴走と皇帝の持ち軍事権(インペラトル)の弱体化が相まって国が滅びてしまった。良くも悪くも軍人皇帝時代やディオクレティアヌス帝のような強権的な軍事政権の際には官僚組織は発達しなかったのだ。

ちなみに光武帝は公務員をただ減らしただけではなく、有能な人物が公務員になれるように首都洛陽に太学を設置したり郷挙里選の中でも「孝廉」の項目を重視したりした。これにより事実上後漢の国教は儒教になったと言え、三公(丞相・司徒・司空)は一定数の人物を孝廉として漢王朝に推挙するよう求められるようになるなど官吏登用に関してはむしろ熱心であった。

高祖や武帝と異なり光武帝は対外遠征にはあまり積極的ではなく、これにより国内は安定したもの匈奴を増長させる結果になってしまったとも言われている。

唯一と言って良い外征はベトナムにおける徴姉妹の乱で、これを名将馬援によって鎮圧させている。

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ちなみに、歴史上初めて日本について記述されたのがこの光武帝の時代に委奴国王が来た際に委奴国王印を紀元57年に光武帝が授けたという記録である。次が50年後の倭国王帥升、その次が100年以上先の卑弥呼である。

さて、光武帝が歴史に残る名君と言われるのは、彼が度々「奴隷解放宣言」をしたからであろう。

奴隷制を廃止した訳ではないのだが、光武帝自体が庶民に近い出であったからかも知れない。リンカーンによる奴隷解放宣言がこの時代から1900年も後のことであったことを考えればかなり進歩的であったと言える。

「われは天下を治めるも、また柔道をもってこれを行わんと欲す」

光武帝が一族と宴をしている際に発したと言われるこの言葉に、彼の治世の全てが表れていると言えるだろう。

個人的な光武帝の評価

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中華史上最悪クラスの乱世を統一し、強力な統一王朝を打ち立てたその功績は圧巻である。

くしくも三国志の時代から唐の時代まで、中華帝国は分裂し、とういつするものはほとんど現れず、現れてもすぐに滅亡したためひたすらに乱世が続いた。始皇帝以前を考えてもひたすら乱世が続いていた訳で、広大な中国を統一することが如何に難しいか。

それをまるでいとも簡単にやってのけた光武帝は、能力が高すぎてそのすごさがよく分からないレベルである。

「柔道」の言葉に表されるようにその軍事的な才能だけではなく政治的な才能もずば抜けており、どこかに文句をつけるのが難しいレベルである。

あえて言うならベトナムで反乱を起こしたことかも知れない。後漢朝は三国志時代に象徴されるように地方の豪族が力を持ちやすい構造になっており、それが後漢末期の乱世を作ってしまった面もある。それらの豪族が圧政をしても救済される余地がないためベトナムでの反乱のような大規模な反乱が起きてしまった訳だが、それは建国から抱えていた問題なのかも知れない。

ちなみに「仕官するなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」と言っていた光武帝であるが、途中政略結婚で郭氏という人物と結婚して皇后としたがのちに廃后して陰麗華と結婚しており、彼女は光烈皇后となった。まさに若き日の夢をかなえた形となった訳だ。

光武帝は歴代皇帝と違い欲のない素朴なタイプと言え、それが人を惹きつけ、中国歴代でも最高の名君の一人と評される理由になったともいえるだろう。

なにせライバルたちが欲望むき出しに私利私欲に走ったのに対し光武帝だけが民心や部下のことを考えて行動した訳で、馬援のように元々は敵だったような人物も次々に光武帝のもとへ下っており、雲台二十八将に代表されるような優秀な人材が集まってきた。

曹操や孫権、劉備もそうであったが、乱世を生き抜くにはまず何よりも人望が必要である。

ちなみに、劉邦の部下の張良や陳平、韓信などが有名なのに対して雲台二十八将のメンバーがあまり有名でない理由として、諸葛孔明は「光武帝が優秀過ぎて部下が目立たなかったせいだ」と言っている。

自ら優秀でありながら優秀な部下に仕事を任せることが出来、寛大にして思慮深く、大胆にして慎重なその性格は、中華の歴史のみならず世界史上でも指折りに数えられる名君としてふさわしいものであると言えるだろう。