「数奇な運命」という言葉があるが、俺の知っている限り最も数奇な運命をたどったのが前漢の九代目皇帝だ。
まるで作り話のような宣帝の運命について見て行ってみよう。
平民出身の皇帝
中国の歴史においても、平民出身の皇帝というのは珍しい。そしてその珍しい例は大体が王朝の創始者である。
大帝国の皇帝が平民出身というのは中国4000年の歴史でも宣帝の他に例がないほどで、その即位までの経緯はとにかく変わっている。
巫蠱の獄
宣帝について語るには、一端武帝の時代まで話をさかのぼる必要がある。
世界史の教科書にも載っているほど有名な武帝の時代、巫蠱の獄と言われる珍妙だが大規模な事件が起きた。
巫蠱というのは呪術の一種で、呪いをかけたい相手の人形を地下に埋めることで相手を呪殺するという完全にオカルトな話なのであるが、漢帝国ではこれをオカルトとはせずに巫蠱を行った者は死刑になっていた。
武帝の時代にはこの巫蠱に関わったとして万単位の人物が実際に死刑になっており、そのほとんどがでっち上げであった。というのもこの巫蠱を行ったという密告は政敵を貶めるのに絶好であったからである。
朱安世という人物がいた。この人物は漢裏社会のドンで、巫蠱を利用したビジネスを行っていた。その顧客には王族を含んだ各諸侯がおり、誰も手出しができなかったのだが、公孫賀が息子の不始末(横領)を免罪させるためにこの人物を捕えると言ったのであった。
朱安世は簡単につかまった。そもそも逃げも隠れもしなかった。なにせこの人物が捕えられると困る人間が政権に多数存在していたのだ。しかもこの人物は巫蠱を使って人を呪い殺すことができる。そんな人物に手出しをする者などいなかったのだ。
結局、公孫賀の一族は三族にいたるまで皆死刑になった。朱安世は公孫賀こそが巫蠱を使っている元締めだと言ったためだ。証拠も出てきた。おそらくは朱安世の手のものが用意していたのだろう。
これに連座して、対匈奴の英雄として有名な衛青の姉である衛夫人とその娘、つまり武帝の娘までもが死刑になってしまう。武帝は自分の臣下はもちろん娘や息子ですらも平然と殺せる人物なのである。
武帝は嫡男さえもこの巫蠱の罪で死刑にしている。しかもこれが冤罪であった。武帝に気に入られていた江充という人物がいて、この人物が皇太子の軽い阻喪を武帝に報告したため、その報復を恐れて皇太子を亡き者にしようとはめたのだった。
江充はわざわざ巫女まで担ぎ出して皇太子が巫蠱を行っているとでっち上げた訳だが、実際に武帝は病気になってしまっていたのだからかなり運が悪かったと言えるだろう。皇太子の妻や息子達まで皆死刑になってしまい、ただ一人の孫を除いて根絶やしになってしまったのだった。
この孫は死刑こそ免れたもののまだ赤子だというのに牢獄に入れられ、庶民の地位にまで落とされてしまう。
このただ一人生き残った孫こそが劉詢である。
登場するまでに1000文字かかった訳だが、ようやく主役が登場した訳だ。
幼帝と三人の実力者
武帝の死後、末子である劉弗陵が昭帝として漢帝国第八代皇帝に即位した訳だが、昭帝は即位した時まだ8歳であった。そのため武帝は幼帝をさせるべく3人の補佐役をつけた。
一人は歴史的英雄霍去病の異母弟である霍光。もう一人は匈奴出身という異色の車騎将軍である金日磾。最期に武帝の近衛士官でもあった左将軍の上官桀。
この三人による補佐体制で始まった昭帝の治世であるが、金日磾が早々に死んでしまう。武帝はまるで三すくみのような政治を思い描いていたと思われるが、さっそくこれが壊れた訳である。
両雄並び立たず、残った二人は対立しあう訳だが、霍光の娘と上官桀の息子が結婚し、生まれた娘は昭帝の皇后となることで表向きは友好的な関係を維持していた。
しかし上官桀は武帝の息子でもある燕王劉旦とひそかに手を結び、クーデーターを画策する。これに怒った霍光は上官桀を処刑し、外戚として独裁政権を樹立することになる。
のだが、昭帝がわずか24歳という若さで亡くなってしまう。
霍光は困った。武帝の子孫の生き残りは、劉旦の弟である広陵王しかいない。劉旦はクーデーターに失敗した後死んでしまっており、弟にも恨みを買っているうえにもう壮年なので自分のいうことを聞くとも思えない。
もう一人後継者候補がいたが、この人物も廃されてしまう。
理由としては昭帝の葬儀の際に酒を飲み歌を歌い宮女と交わったためとされているが、実際には霍光によって都合がよくなかったのであろう。
霍光はこの人物の関係者数百人を3人を除いて処刑する。これは霍光に対するクーデーターを企んでいたことをこの三人が密告したのではないかと言われている。
はてさて困った霍光は、この考えがひらめいた瞬間にきっと手を叩いて喜んだに違いない。そうだ、武帝の時代に庶民に落とされた劉詢がいるのではないかと。
先に光に関わり白し
「関白」という言葉の語源をご存知であろうか?
これは宣帝が霍光に言った「先に光に関わり白し、しかる後に奏御せよ」という言葉から来ている。
劉詢は父が冤罪であったため獄からは出されたが、官職もなく庶民として育った。祖母の実家で育てられたようで、小さいころは闘鶏などの遊びに夢中で、勉強もそこそこにはできたらしい。
若くして刑務所職員の娘と結婚し、18歳で即位した時には既に子供がいたという。
有力な後ろ盾もなく、まだ若い宣帝ほど霍光の望んだ存在はいなかったことだろう。しかも全部自分にまかせると言っているのだ。
ただ、この宣帝、後宮で育った他の皇帝とは一味違った。霍光が自分の娘を皇后にしようとすると元々の妻を皇后にし先手を取る。これには霍光は大いに不満で、なんと皇后を毒殺してしまう。
結局は霍光の娘が皇后となり、霍光は再び外戚としてすべてを集中に収めることに成功した。
まるで望月の歌を歌いたくなるような霍光であったが、その翌年死んでしまう。
世の中に、悪の栄えたためしなしと言ったところであろうか。
これを機と思った宣帝は即位前からいた息子を皇太子として取り立て、霍光の一族とは対決する姿勢を見せる。
霍光の持っていた権限を宣帝は巧みに削っていく。この時代には珍しく軍縮に着手し、兵力を削ることで霍光の一族の軍事権を削っていき、霍光の息のかかっていない人物を次々と要職に就けていった。霍光の一族は次々と中央の役職から遠ざけられ、遠隔地の地方長官などに任命されていくことにし、中央の役職は祖母や妻の実家の人間達を任命する。
権限を奪うと霍光の一族を謀反の疑いで次々に処刑し、霍光の娘は皇后を廃される。ここに来てようやく妻の仇を討ったと言えるだろう。
かくして匈奴を討伐した英雄である衛青や霍去病の一族は漢の要職からは完全に消えてしまった。絶頂からわずか数十年でのことである。
庶民派政治家
「聡明にして剛毅。民の疾苦を知る」
宋代の歴史家である司馬光は「資治通鑑」において宣帝をそのように評している。
霍光を廃した後、宣帝は即座に塩の値下げをしている。
中国史において塩の値段は国家の趨勢を左右する問題で、唐も塩の密売人であった黄巣の乱によって滅びた。塩の専売は国庫を潤すが、庶民がそれでどれだけ苦しむかということを庶民の目から見て知っていたのだろう。
さらに獄中の様子などの報告もさせており、これも庶民の目線から獄吏が如何に囚人に対して不遜な扱いをしているか知っていたからであろう。塩の専売以外にも減税を実施している。
現代日本もそうであるが、富裕層が政治を行うと兎角増税しがちである。彼らは増税が如何に庶民の暮らしを締め付けるかを知らないのであろう。
宣帝はことあるごとに恩赦礼を出し、庶民に対して肉や酒、絹などを頻繁に施したという。
そんな彼の政治は「政平訟理」の四文字に集約される。
匈奴の分裂と漢に対する服属
秦の始皇帝は匈奴の侵入を防ぐために万里の長城を築き、漢の高祖こと劉邦は匈奴にボロ負けをした。武帝は衛青や霍去病をして匈奴を討伐させたが、そのため巨額の歳費をかけるひつようがあり、増税や塩・鉄の専売などをして領民を苦しめた。
宣帝の時代、匈奴は分裂した。匈奴の王(単于)呼韓邪単于は漢に対して降伏を申し出た。最大の敵だった匈奴は味方となり、しばし平和な時代が訪れたのだ。
分裂した匈奴の一派はロシアの平原を越え、ヨーロッパに渡り、そこではフン族と呼ばれたという。
紀元前49年、宣帝は崩御した。享年43歳、在位26年であった。
個人的な宣帝の評価
名君そうに見えるが、割と評価は難しいところだと思う。
理由としては晩年に神仙思想に耽ってしまい、無駄な浪費をしてしまったことや、宮中に賄賂がはびこり、宦官の勢力を伸長させてしまったことが挙げられる。
さらに儒者のことが好きではなかったらしく、政治から遠ざけたのも儒教史観から嫌われた理由であろう。
漢の有力者は儒教教育を受けている人物が多いし、名門貴族において儒教を学ぶのは必須であったが、庶民出身の宣帝には儒教は堅苦しいものとしか映らなかったのであろう。宣帝は儒家ではなく法家を重視し、厳格にこれを適用した。そのことで息子と激しく対立し、一時は廃嫡まで考えたという。
漢書の著者班固は宣帝のことを中興の祖と呼び、資治通鑑を書いた司馬光も大いに評価した。
しかし宣帝の息子である元帝は皇后である王氏の一族を重用し、このことが王莽の台頭を産み、漢王朝を滅亡させてしまうことになる。
実は宣帝は息子の元帝が皇帝向きではないことを知っていたが、亡き妻のことを思って廃嫡しなかったという意見もある。ことの真意は分からないが、漢王朝滅亡のきっかけを宣帝が作ってしまったのも確かであろう。
とはいえ宣帝の政策が庶民の生活を助け、匈奴を屈服させたことで平和な時代を創出したのも確かであり、宣帝個人の業績で言えば、希代の名君という評価が妥当であろう。