世界史上最高の歴史家!司馬遷の生涯と史記に賭けた想いとは?

世界史には多くの歴史家が存在する。ローマ史家として有名なエドワード・キボンやノーベル賞を受賞したテオドール・モムゼン、歴史の父と呼ばれるヘロドトスに東方見聞録のマルコ・ポーロ、資治通鑑を書いた司馬光、日本では三国志を書いた陳寿が有名かも知れない。

それでは果たして世界史上最高の歴史家は誰であろう?

この問には迷いもなく「司馬遷」という答えが導き出される。

 我司馬遷には及ばず

我が国日本において最高の歴史作家は迷うことなく司馬遼太郎であろうと思うが、その司馬遼太郎をして「我司馬遷には及ばず」と言わしめたのが司馬遷という歴史家だ。

司馬遼太郎さんと言うとフォトグラフィクメモリー(カメラアイ)と呼ばれる特殊能力の持ち主で、神保町に行ってはトラック一台分の資料を買い込み一冊につき30分ほどで読み込んでしまっていたと言われていて、名作「竜馬が行く」や「坂の上の雲」などを生み出した偉大な人物である。筆名の司馬遼太郎も司馬遷にちなんで名付けたというほどのリスペクトぶりな訳なんだけど、謙遜である部分を差し引いてもそれぐらい司馬遷が凄いってことなんだよな。

先祖代々の歴史家

史記によれば、司馬遷の所属する「司馬一族」は中国でも最古の血筋の一つで、春秋戦国時代よりも昔の周の時代に紀元が求められるのだという。そのころの司馬一族は神主のような役職であったらしく、天と地を繋ぐ役割として神羅万象の記録を司る地位にいたらしい。

三国志時代の司馬懿やその子孫の晋王朝の王族との関りは不明だが、司馬懿の一族も源流をさかのぼると戦国時代における趙の将軍司馬蒯聵までさかのぼれるらしいので、古くは同じ一族であったかも知れない。

司馬一族は周の時代が終わりをつげ、春秋戦国時代において離散したらしく、各地に分散したと言われているのでさもありなん。三国志においても司馬懿は曹操よりも遥かに名門の貴族であったことが知られているし、中国史においても司馬一族はかなりの影響力をもった一族であったと言えるだろう。

そんな司馬一族が再び歴史の編纂に取り組んだのが司馬遷の父司馬談という人物であった。この司馬談の系譜をたどっていくと秦が天下を統一したころの将軍白起の副将司馬錯という人物までさかのぼれるのだからおそるべしである。

司馬談は漢王朝武帝が即位するとすぐに太史令という役職に任命された。これは先祖同様あらゆることを記録する係であり、歴史の記録もこれに含まれた。この時司馬遷6歳。

司馬談は孔子が書いた歴史書である「春秋」の続きを書くことをライフワークにしており、具体的には紀元前481年に魯の哀公より先の歴史を編纂しようというものであった。この間を埋めるような歴史書は当時存在していなかったため、この約400年に渡る空白を埋めようとしたのである。

司馬談は各地に偏在していた歴史資料を集め始めたが、その膨大な資料故に自分一代で全てをまとめるのは不可能と感じ、わずか10歳であった息子司馬遷に対し文書の読み方や書き方を英才教育し始めたという。やがて司馬遷が20歳になった頃には中国の各地を巡る旅行に出立し、中原はもちろん江南や山東省などの各地を巡り、実地による取材を試みるようになる。

ローマ史において、かつては文書のみが歴史として信頼性を持つという考え方があり、それを覆したのがテオドール・モムゼンであった。彼は文書のみならず各地に残された碑文などを調査する歴史研究を行い、現代の歴史学に革命を起こしたと言われているが、司馬遷はそれを2000年以上も前に実践していた訳である。

父の死

旅行から帰った司馬遷は22歳で郎中と言われる役職に就く。これは国家官僚たる者がとりあえず就くポストであり、所謂エリートコースの最初の一歩と言え、試験などなしにこのポストに就いていることから司馬一族がいかに名門かが分かる話でもある。

司馬遷はしばらくこのポストにいたが、紀元111年、蜀の地に派遣され、更に南の現在の雲南省まで異民族討伐の任を命じられている。もっとも、これは将軍としてではなく従軍にかこつけた取材旅行であったらしい。この時は30代半ばであったが、これによって広い中華世界を自分の足で歩き目で見たことになる。

翌年の紀元前110年、父が重病になる。この年は武帝が泰山において封禅の儀を敢行する年に重なり、始皇帝以来実に100年以上ぶりに行うデモンストレーションとなっていて、司馬談はそれに参加することを切望していたというが、残念ながら参加をすることはできなかったという。

死期を悟った父は息子に向かって自分の仕事を継ぐことを遺言とし、静かに息を引き取ることとなった。この時司馬遷35歳。

父の死を見届けた後司馬遷は封禅の儀に参加し、武帝のお供として行幸に参加、この際河北の地も見聞できたという。

その後は司馬談の跡を継いで太史令に就任し、資料集めなどに奔走する。

李陵の禍

「石虎将軍」の故事でも知られる李広という人物がいる。その卓越した弓の腕から「飛将軍」と綽名され、三国時代に活躍した呂布は李広にちなんで同じあだなをつけられたことでも有名である。

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この李広の孫に李陵という人物がいた。

武帝の時代、衛青と霍去病の活躍により北方の異民族匈奴に対して有利な立場にいたが、これらの将軍が亡くなると再び匈奴は勢力を盛り返してきた。そこで武帝によって対匈奴の責任者に任命されたのが李陵だったわけだ。

この李陵が匈奴に敗北した挙句に降伏してしまうという通称「李陵の禍」と言われる事件が起きた。

武帝は烈火のごとく怒り、朝臣たちは口々に李陵を罵った。しかし司馬遷は李陵を弁護した。相手はあの武帝である。

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怒りに狂った武帝は司馬遷を投獄し、宮刑に処してしまったのだ。

司馬遷はこれによって宦官になってしまった。

実は当時の武帝の政策では金を払えば刑は一等減じられるようになっていたのだが、司馬遷にはその金もなく、また誰も司馬遷に対し援助をしようという者はいなかった。

「隠忍して苟も生き、糞土の中に幽されて辞せざる所以の者は、私心に尽くさざるところあり、卑陋にして世を没し、文彩の後世に現れざるを恨めばなり」

宦官になったさいの司馬遷の言葉であるが、無念と情熱の両方が垣間見られる。

史記の執筆

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司馬遷に残されたものはやはり使命感であったのだろうか。宦官は権力欲が強くなる傾向にあるが、司馬遷に関してはもはや史記の執筆だけが己の証明であったかも知れない。明治の俳人である正岡子規は不治の病を抱えながらまるで残りの生命をぶつけるようにして俳句を作った。司馬遷にも同様の気迫が感じられる。

李陵の事件より5年が経過し、司馬遷は史記の執筆にとりかかった。

半端なものは作らない。司馬遷はきっとそう考えたのであろう。

父の司馬談は孔子以降の歴史を書き記すつもりだった。しかし司馬遷は中国が出来た時から現在にいたるまでの壮大な歴史書の作成を開始したのである。

漢の前には秦、その前には春秋戦国時代、その前は周、その前には殷、更に前には夏、それ以前の三皇五帝の時代を含んだ中華一代歴史書である。

司馬遷の恐ろしいところは、膨大な資料から信用できそうな部分だけを選んで記述しているところだ。それゆえに例えば臥薪嘗胆のあたりにおいては西施の記述を排除しているなど怪しい部分はできるだけ排除している。

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それでいながら物語として全く損なわないような歴史編纂をしているのだからすごい。

一例を挙げれば項羽と劉邦の初登場シーンである。

二人が登場したのは始皇帝が行幸していた時で、それを見た劉邦は「男として生まれたからにはああならねばなぁ」と言ったのに対し項羽は「俺がぜったいあそこに座ってやる」と言った。この部分に二人の性格が出ているとともに伏線としてこの先の展開を予想させるような構成になっているのである。これは司馬遷以外ではできない芸当であろう。

例えるなら日本の歴史教科書を内容を変えずにドラゴンボール並みに面白くするようなものである。しかも文章だけで。

史記はおそろべきことに全巻で130巻にも及んだ。そして興味深いのは司馬遷は漢の歴史家であるのに漢の歴史を肯定的には扱っていない点である。

例えばよく言われるのは項羽の伝で、漢王朝の建国者である劉邦とそのライバルである項羽を同時に並列させているのである。これは当たり前だが歴史上どの歴史書にも見られないことだ。

歴史書というのは、勝者の歴史の記録でもあり、現王朝の正当性を示すものである。これは必ずしも歴史書である必要はなく、例えばローマでオクタヴィアヌスがヴェルギリウスに書かせたアエネイスなどでも同様であり、歴史書を各王朝が遺すのは自己の正当性を主張するためだ。

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例えば唐の歴史書などでは隋が必要以上に悪しく書かれているし、他の王朝も前王朝のことは否定的に書く。しかし司馬遷の史記にはそれがない。であるがゆえに最も信頼のおける歴史書として現在まで伝わっている訳である。

これにはもちろん、司馬遷の武帝への恨みもあったことだろう。あるいは劉一族への恨みという面で項羽を肯定的に見ていたのかも知れない。

もっとも、武帝は宮刑を言い渡した二年後には司馬遷を中書令という極めて重要なポストに任命していたりもする。中書令は文章全般を取り仕切る役職であったが、この当時は宦官が就くのが一般的で、恐らくは屈辱的なことであっただろう。

司馬遷が史記を完成させたのは紀元前90年、紀元前87年に武帝が崩御し、それを見届けたかのように紀元前86年に司馬遷はこの世を去った。

史記は武帝存命中には献上されず、武帝の2代後で、庶民出身という変わり種の皇帝である宣帝の時代に司馬遷の親戚の血筋にあたる人物が紹介したために広まり、現在までその形を残しているのだという。

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個人的な司馬遷の評価

司馬遷の凄さは史記を読むことでしか認知し得ない。

中国の歴史がこれほどまでに詳細に残っているのは司馬遷の功績である。後の漢書や後漢書、三国志なども史記がなければ存在しなかった可能性は非常に高い。そうなれば当然日本の歴史も残っていなかったことになり、卑弥呼や漢委奴国王なども存在しなかったことになる。あるいは古事記や日本書紀さえ作られなかった可能性さえあるのだ。

そういった意味で司馬遷が世界の歴史や日本歴史に与えた影響は計り知れない。

司馬遷は誠に世界最高の歴史家なのである。

外部リンク:史記