漢書の作者「班固」と「班超」兄弟について~虎穴に入らずんば虎子を得ず~

世界の歴史を考えた時に、兄弟が共に歴史の教科書に載るほど有名になるという例はそれほど多くない。

孫権・孫策兄弟などは日本でも有名だが、世界史の教科書には悲しいかなほぼ出てこない。日本の秀吉と秀長兄弟なども有名だが、世界レベルで見ると秀吉が少し出てくるぐらいだ。

そんな中、違う分野で世界史レベルの活躍を見せた兄弟がいる。

後漢の時代に活躍した班超・班固の兄弟だ。

虎穴に入らずんば虎子を得ず~班超の生涯~

まずは弟の班超の方から見て行こう。

兄弟はともに班彪という人物の子供として生まれた。班彪は光武帝に仕えた人物で、漢の歴史書である「史記」の補充を行い「史記後伝」を編集した人物としても知られる。班超も兄の班固と共に幼いころには歴史を学んだが、班超は歴史の編纂よりも自分が歴史上の人物になることに興味があったようだ。

後漢を創始した光武帝は、乱世を収束させた英雄であり、内政を充実した名君であった。民に負担をかけるのを良しとしない性格もあり、異民族討伐などは行わなかったため、北方の騎馬民族である匈奴の勢力が増してしまった。

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そのため、光武帝の跡を継いだ二代目皇帝明帝は建国の功臣である竇融の甥である竇固に命じて匈奴を討伐させた。

班超はこの竇固の遠征軍に随行する形で匈奴征伐に参加し、次々と戦功をあげていく。

匈奴はかなり北の方に逃げていたらしく、現在で言うところのバイカル湖の周辺まで匈奴の勢力圏を後退させたと言われており、この結果匈奴はロシアの高原を横切って西に進みフン族としてローマ世界を圧迫したのではないかと言われている。

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フン族の話はさておいても、班超の有能さを認めた竇固は西域と呼ばれる国々を後漢の勢力圏にすべく班超を使者とすることにした。

西域と呼ばれる地域には50を超える国々があり、この時匈奴もまた西域に使者を送っていた。

楼蘭で有名な鄯善国に到着した時の話。

鄯善国の王は後漢の使いである班超の到来をねぎらい歓迎していたのだが、匈奴の使者が来た途端班超を粗末に扱いだした。

このままではいかんと思った班超は連れてきた部下たち36人に向かって歴史に残る言葉を告げる。

「虎穴に入らずんば虎子を得ず」

班超は部下たちと共に匈奴の使者のもとに行くと奇襲をかけ全滅させてしまった。数では匈奴の方が多く、数百人の軍団であったらしいのだが、班超の思い切りの良さが功を奏したのであろう。

鄯善国の王はこれにより後漢に臣従し、他の西域の国々もこれに従うようになった。

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これにより後漢の勢力は一気に拡大し、漢の全盛期の勢力を取り戻すことができた訳である。


「漢書」で有名な班固

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兄の班固はそのまま父の歴史編纂事業を継いだ。しかし讒言があり、「班固は歴史を改作しようとしている」という告発のもと班固は投獄されてしまう。

班固を救ったのは弟の班超であった。

班超は兄を救うための上申書を作成し、その結果班固は冤罪だと認められ、後に典校秘書という歴史を編纂する役職に就くことが出来た。

班固は前漢の一代記である「漢書」を20年物歳月をかけて作成し、それを三代目皇帝章帝に提出、大変に高い評価を受ける。

「漢書」は「史記」同様紀伝体の形をとる歴史書であったが、違いは史記が神話時代から始まるのに対し漢書は高祖から王莽に簒奪されるまでを描いた一代記であるという点であろう。

紀伝体というのは年代ごとに記録するのではなく人物ごとにその業績をまとめたもので、例えばこのブログも紀伝体の一形態だと言える。大して編年体というのは現代日本の歴史教科書のように年代を追って記録する歴史の編集の仕方である。

中国の歴史において一代王朝の歴史がまとめられたのはこの「漢書」が初めてであり、後に「後漢書」や「三国志」などのように時代ごとにまとめられた一代記としての歴史書が遺されるようになる。

班固はやがて建国の功臣である竇融の子孫である竇憲と共に匈奴討伐に参加し、功をたてるも、朝廷内の権力争いから竇憲が失脚すると連座して班固も投獄され、最後は獄中死をしたと伝えられている。

漢書はこの時まだ完成されておらず、続きは妹の班昭が引き継いで完成させたという。

班超・班固の兄弟について思うこと

別々の道でそれぞれ名を成した驚異的な兄弟である。

弟の班超は幼いころは兄と共に学問に励んだが「男たるものは傅介士、張騫のように西域で功績をたてるべし!」と言って西域への遠征に臨んでいったといい、そこで見事に結果を出した。

「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の故事に見られるように、判断能力と度胸に優れた人物で、大きな犠牲を出さずに西域を後漢の領域としたのは天晴としか言いようがない。

一方の班固の功績も大きく、彼が編纂した「漢書」は後の中国の歴史書の基本となり、各王朝は歴史を遺すことに熱心になる。我々が日本の歴史以上に中国の歴史を知れるのもこのためで、その功績は計り知れないものがあると言えるだろう。