中国歴代名将の中でも特に功績が大きく、また人気が高いのが霍去病という将軍だ。
わずか24歳で死去するまでの間に立てた功績は数知れず、その豪放磊落な性格は当代のみならず後代からも愛された。
大将軍衛青の甥
武帝は最初に皇后にした陳皇后との間に子供が出来なかった。当時のあらゆる医術を試したがどうしても子供が出来なかったのだという。そうこうしているうちに武帝が愛人との間に子供をもうけてしまった。その子供は男の子で、しかも最初の子供だったので皇太子となり、その愛人は皇后衛皇后としてその地位を確立することになった。
衛皇后と陳皇后の一派は政争を繰り広げたが、陳皇后の側には有利な条件がなく、武帝の臣下たちも衛皇后の側にまわる。
衛皇后の一族は弟の衛青が車騎将軍に任命されたのを皮切りに優遇され、衛青や衛皇后の甥である霍去病も若くして将軍に取り立てられた。
衛青は紀元前129年から始まる匈奴遠征に功を挙げ、車騎将軍から大司馬、大将軍へと出世をくり返し、甥である霍去病にも期待が寄せられた。
叔父を上回る功績
苦労人の衛青と違って霍去病は自信家で傲慢なところがあったが、それは決して嫌味とは映らず、兵士や他の臣下からは大変慕われていたという。武帝の寵愛も甚だしく、霍去病自身もそれによく応えた。
武帝はかなり激しい性格の持ち主であることが知られていて、部下の功績には大喜びするが部下の失態には厳しく、時には処刑したりしている。その中で霍去病は常に対匈奴戦線で功績をあげつづけた。
「飛将軍」の名で有名な李広などは匈奴との戦いに敗れた責任をとって庶民に落とされたことさえあるほどだ。
霍去病は紀元前123年の初参戦の時より功をあげ、以来六度の匈奴征伐においていずれも大勝利を収めた。
李広一族との対立と義侠
霍去病が人気なのは、匈奴征伐に功を挙げたことに加え、義侠の精神に満ちた人物であることも要因であると言える。
日本にも「任侠」として伝わっているが、中国の歴史においては儒教精神の他の「義侠」と呼ばれる精神が尊ばれる傾向にある。
「飛将軍」と呼ばれた李広であったが、衛青の匈奴征伐に従軍した際行軍に遅れが出てしまったことがあった。衛青が使いをやりこのことを問いただすと「衛青将軍が私を後方の部隊に回してしまったからだ!」と言って起こり自刎してしまうという事件が起きる。
これにより李広の一族は衛青に恨みを持ち、息子の李敢は酒宴にて衛青を殴打してしまう。温厚な衛青はこのことを黙って不問に処したが、激情家の霍去病はこれを聞いて怒り、李敢を狩猟に誘い込んで射殺してしまった。
日本だととんでもない話だが、霍去病の行動は義侠心に溢れた行動として中国では絶賛されることになり、大変な人気者となった。
日本の江戸時代において主君の敵討ち物語である「忠臣蔵」が人気になったのと同じようなものであろう。
この一件は衛青と霍去病の性格の違いを表すエピソードであるとも言え、どちらかと言えば控えめな衛青よりも派手派手しい霍去病の方が人気が高いのもこの辺りの性格にあるのだろう。
霍去病は24歳で死んだ。
「去病」は病気が去るという意味であるが、結局病で倒れてしまった。
霍去病を寵愛していた武帝はこの死を誰よりも悲しみ、自らの墓の近くに霍去病の墓を作らせたという。
霍去病の子供の霍嬗は武帝が封禅の儀を行った際唯一武帝と共に泰山を登ることを許されたという。武帝が如何に霍去病を愛していたかが分かるエピソードだと言える。
個人的な霍去病の評価
中国史におけるヒーローの一人である。その功績は関羽や張飛を遥かに上回り、中華文明の最盛期を現出したと言える。
武帝の功績の大部分は衛青と霍去病によってなされたものであり、この2人に関しては権勢をほしいままにしたり晩節を汚したりしなかったこともあり中国の歴史全体の中でも非常に人気が高い。
一方霍去病の弟の霍光は長生きし、権勢をほしいままにし、後に皇帝となった宣帝によって一族もろとも静かに排除されていくことになる。
なお、霍去病の墓は現代でも残る武帝陵の近くにあり、現在は公園として整備されているという。
若くして夭折した身ではあるが、その功績は大きく、漢民族が異民族相手に大勝利をおさめたそれほど多くはない例の一つであると言え、漢民族の歴史における英雄の一人であると言えるだろう。