春秋の五覇最強の男!臥薪嘗胆で有名な「越王勾践(こうせん 句践)」

越王勾践を春秋の五覇に入れるかどうかは古来より論争のあるところで、史記を始め勾践を五覇に入れていない書物が多く、彼を五覇に入れているのは実は荀子ぐらいである。

周王朝を尊ばない王

春秋時代、名目だけとは言え周王朝は存続しており、斉の桓公や晋の文公などは明らかに周王朝を凌ぐ力を持っていたにも関わらず王とは決して名乗らなかった。

それが変わったのは楚の荘王の時代からで、楚と言う国が中原から離れていたため周の権威を認めておらず、自らを周と同格として王を名乗ったのである。

だが荘王は史記を始め多くの書物で五覇として扱われている。

これは春秋の覇者たる地位が諸侯会議をまとめる人物のことを指すことに由来し、荘王は尊王攘夷を叫ばなかったものの春秋の諸侯をまとめる地位にあり、勾践はそのような地位にはなかった。

だが、その軍事力と才能は春秋時代一と言え、荀子のように越王勾践を春秋の五覇に含める考えのものもいるのである。

突如出てきた越という国

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中国の歴史は黄河文明から始まる。伝説と言われる夏王朝やそれに続く殷、周、さらに後代の秦や漢、三国後の晋や隋・唐に至るまで基本的に中国の諸王朝は黄河流域をその支配領域としてきた。

長江流域の民である楚や呉、そして越などは当時異民族扱いで、越にいたっては三国時代においてさえも「山越」と言って異民族扱いであった。

歴史的に見ても越が取り上げられるのはこの勾践の時代ぐらいのもので、その前も後もまるでいないかのように記録が出てこない。

しかし越はかなり裕福な国だったという説が強い。

その理由は子安貝にある。

当時、まだ始皇帝が中国を統一する前の話、中国には統一的な貨幣はなく、物々交換に近いか、通貨の代わりを子安貝が担っていた。

子安貝は中国大陸では取れず大変貴重で、かつ一定の流通量があった。

その産地は沖縄の石垣島であったと言われている。琉球文明は沖縄であるかは不明だがかなり古くからあり、現在の浙江省にあたる越は琉球を通じて子安貝を大陸に流通させる役割を担っていたのではないかという説があり、越はかなり裕福な国だったという。

そんな越が初めて出てきたのが勾践の父允常の時代からであった。

即位直後に呉に攻められる

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 紀元前496年、越の王允常が死に、呉王闔閭(こうりょ)はこれを機と越に攻め込んできた。

呉は闔閭の時代に急速に勢力を伸ばし、覇者たる地位をもって越に攻め込んできた強敵である。即位したばかりの勾践は軍師である范蠡(はんれい)の献策を受けて実行した。

呉の軍が攻めてくると越の兵が三列になり、次々に自死していった。呉の軍団はあっけにとられ、隙をついて越の軍団は突撃をし、強勢で知られる呉の軍団を散々に破ることに成功、呉王闔閭はこの時に受けた傷がもとでそのまま帰らぬ人となり、夫差が呉王となり跡を継いだ。

臥薪嘗胆

越を父の仇と憎む夫差は毎日薪を寝床に敷き、敗戦の屈辱を忘れぬように努めた。

元々軍事力で言えば呉の方が上であったので、三年後に夫差率いる呉の軍が攻めてくると会稽の戦いにおいて越はあっさりと敗北してしまう。

経済力に優れる越は呉の宰相伯嚭(はくひ)に賄賂を贈っており、これが功を奏して勾践は命と越王としての地位を守ることには成功した。

呉の名将伍子胥は勾践を殺すように夫差に言ったが、夫差は勾践を許した。

勾践は捕虜となって夫差の宮殿の馬小屋に住まわされ、屈辱の日々を重ねることになる。

数年後解放された勾践は会稽での屈辱を忘れないために毎日獣の胆を嘗めてその苦みを感じてから一日を始めたという。

かの有名な「臥薪嘗胆」の故事である。

鼠は壁を忘れても、壁は鼠を忘れない

夫差は得意になっていた。

父の仇を討った後は北方の大国斉や晋、魯と言った国々と渡り合うようになり、中華統一の夢さえもった。

伍子胥は無理な出兵は兵や民の疲弊を招くから辞めるようにと諫言したが、夫差は聞く耳をもたなかった。

一方の勾践は范蠡の助言もあり、見かけはひたすら恭順しており、夫差の北伐のために進んで兵を出しさえした。夫差はこれを喜んだが、伍子胥は油断しない。

「鼠は壁を忘れても、壁は鼠を忘れないものです。どうして越が呉を忘れることがありましょうか?」

伍子胥自体、父や兄を殺された恨みを10年以上も忘れなかった男である。人の恨みがどれほど消えないものかをよく知っていた。

 もしこの時夫差が伍子胥の諫言を聞いていれば、呉という国の歴史は大きくかわっていたことだろう。闔閭は夫差を後継者に適任でないと見抜いていたが、伍子胥が補佐をするならと思い死に際してようやく夫差を後継者にしたのだが、闔閭の人を見る目は確かであったということだろう。

 夫差は伍子胥を疎ましく思い始めた。

絶世の美女西施

勾践は范蠡と文種という二人の補佐の元富国強兵策をとり、越はどんどん強大な国になっていった。

さすがにこのままでは呉も越を警戒するであろう。そう思った范蠡は絶世の美女として評判の娘を教育し、夫差のもとへ送る計略を考え付いた。西施と呼ばれたこの女性に夫差は夢中になり、益々勾践を信用するようになっていったという。

伍子胥の死

夫差はもう伍子胥の言うことを聞かなくなっていた。

跡継ぎから程遠かった夫差を呉王に推したのは伍子胥であったし、呉が強国になったのも伍子胥に拠る部分が多かったと言えるだろう。

夫差にとってはそれも気に入らなかったのかも知れない。

夫差は伍子胥を斉の国への使者に任命した。戦後処理を決める大事な使者である。

伍子胥には既に呉という国の命運が見えていたのだろう。息子を斉にいる友人に預け、自分だけ呉に帰ってきた。伍子胥は自ら斉に亡命することも可能であっただろうに。

これに喜んだのは越より賄賂をもらっていた佞臣伯嚭であった。彼は嬉々として忠臣伍子胥を謀反の疑いありとして弾劾、夫差も伍子胥に「属鏤の剣」を贈る。

「私の墓の横に梓の木を植えておくがいい。その木はやがて夫差の棺桶を作ることになるだろう。また、呉の城門に私の目を括り付けておいてくれ。越が呉を滅ぼす様を見たい」

伍子胥はそう言って自らの首を刎ねた。

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 勾践はこの話を聞いて即座に呉に攻め込もうとするが范蠡はこれを諫める。

「黙っていても呉は衰退し、越は強大になります」

呉越は同舟せず

范蠡の言った通り、呉はその後も無理な北伐を敢行しその国力を衰退させて行った。

紀元前482年、伍子胥の死から三年後、夫差は軍を率いて北方で行われた諸侯会議に出席した。強国となっていた呉の王夫差は覇者としてこの会議に認められたが、その隙をついて越は呉に攻め込んでいた。守りを任された太子がこれに対抗するもあっけなくとらえられて殺害、慌てた夫差は越に講和の使者を派遣、越もこれに応じる。

既に呉には越に対抗できるだけの力は残っていなかった。

会稽の戦いから22年後の紀元前476年、越は全軍を持って呉への侵攻を開始、呉はここに滅亡したのであった。

夫差は降伏し、命乞いをする。勾践はかつて命だけは助けられたため夫差を助けようとするが、范蠡は「会稽のことは、天が越を呉に賜っていたのに呉が取らなかった。今展が呉を越に賜っているというのに越は果たして天に背いてもよいものだろうか」と進言、勾践は夫差を遠くの島へ流すことにした。

しかし夫差に生きる気力はなく、「伍子胥に会わせる顔がない」と言って頭に頭巾をかぶり自らの首を刎ねて果てた。

呉越は結局同舟することはなかったのである。

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なお、呉を裏切り続けた伯嚭を勾践は真っ先に処刑した。

晩年の越王勾践

越を倒した夫差は堕落したが、呉を倒した勾践は疑心暗鬼になった。

勾践には優秀な部下がいた。その優秀な部下たちが自分の地位を奪うのではないかと思ったのかも知れない。

范蠡はそれを察し越を去った。

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范蠡は脱出してから手紙を文種に送った。

「狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵(かく)る」

要は用済みになった我々は勾践に消される運命にある。君も逃げろということである。

范蠡の読み通り、文種は勾践によって自殺を強要させられた。

その後の勾践について記した書物はない。

勾践亡き後越は急速に衰退し、紀元前334年に楚によって滅亡させられたという。

個人的な勾践の評価

呉を滅ぼすまでの勾践と滅ぼしてからの勾践は別人であるようだ。

毛沢東は二人いるという言葉があるが、毛沢東もまた若いころと晩年が別物であるかのようになったしまった人物で、それほどまでに権力というのは人を変えてしまうものなのだろう。

勾践がもし光武帝のような名君であったのなら、中国を最初に統一したの始皇帝ではなく勾践だったかも知れない。

臥薪嘗胆の故事にみられるように、基本的に勾践は我慢強く、期をうかがうことのできる人物で、その点は日本の徳川家康に通じる面がある。

一方で晩年は中国の歴代暴君と通じるほどの疑心暗鬼さで優秀な家臣は皆越を去ってしまい、国は急速に衰退していってしまう。

なお余談だが「越王勾践の剣」が1965年に出土された。驚くべきことに当時のままの状態で残っていたらしく、当時の製鉄技術の高さがうかがえる歴史的資料となっている。

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越王勾践剣は現在中国の湖北省博物館に展示されているという。