春秋戦国時代最強の将軍は?
そのような議論になったら確実に名前が挙がるのが今回の主役楽毅(がくき)だ。
小国であった燕に仕え最強国家だった斉を滅亡寸前まで追い詰めた名将について見て行こう。
隗より始めよ
楽毅の先祖は魏の武将であった楽羊という人物で、戦功により中山国という国を一つ任されるまでになっていたようで、先祖代々その国に住み着いていたようであるが、趙の武霊王という人物に滅ぼされてしまった。
経緯は不明だが楽毅ははじめこの武霊王に仕えていたらしい。
武霊王が死ぬと魏の国に仕えていたという。
ちょうどそのころ燕の昭王という人物が郭隗(かくかい)という人物に優秀な人材を集めるにはどうすれば良いか尋ねた。郭隗はニッコリ笑って「まず私から採用してください。そうしたら自然と良い人材が集まってきます」と言ってのけたという。
現代日本語の教科書にも載っている「隗より始めよ」という諺のもとである。
郭隗の言った通り昭王率いる燕の国には中国中から優秀な人物が大勢士官に訪れた。
中でも優秀だったのが楽毅その人だった訳である。
最強国家斉との闘い
紀元前290年頃、中国における戦国時代においては秦と斉が2大強国家であった。
斉は「鶏鳴狗盗」で有名な孟嘗君を宰相に任じ、春秋の5覇としても有名な桓公以来国力を蓄え続けていた。
昭王は以前に斉にコテンパンにやられており、なんとかして斉を倒せないものかと日々思案していた。
楽毅はそんな昭王に他国との同盟を勧める。
具体的には趙、魏、韓の3か国を味方に引き込み、その背後にあった秦も味方に引き入れることにした。
斉の強さはすさまじく、趙、魏、韓の3か国は悉く敗北し、南の楚の国も敗れ、中山国も滅ぼし、まさに無双状態であったため同盟は容易く成立した。
一方の斉王は南にある宋の国を亡ぼすと元々傲慢であったのがさらにひどくなり、自分の地位が脅かされるのを恐れ孟嘗君を殺そうとまでしてしまう。
孟嘗君はたまらず魏に逃げ込み、楽毅はその隙をついた。
かくして昭王は楽毅司令官に任命し、5か国の連合軍が斉を攻めることになった。
楽毅率いる連合軍は連戦連勝、70以上もあった斉の城は悉くが占領され斉は残り2つの拠点を残すだけとなった。
しかも斉王は部下に殺されており、もはや斉の滅亡はすぐそこまで来ているという状態だったのだが、楽毅が予想さえしない出来事が3つ起きた。
1つは斉王の遺児が立ち上がり軍を率いたこと、もう1つは風前の灯であった斉に1人の天才将軍が現れたこと、そして3つ目最悪だったのが燕の昭王が死に跡を暗君として有名な恵王が継いだこと。
突如として湧いて出た敵将田単は恵王と楽毅の仲を裂くことに成功、楽毅は司令官を解任される。
命の危険を感じた楽毅はそのまま趙の国へ亡命。あと一歩というところで滅ぶはずだった斉は天才田単に率いられて燕にとられた城を全て取返すことに成功し、楽毅を失った燕は衰退の一途を辿るのであった。
燕の恵王は楽毅に来るのを恐れて手紙を送るが、楽毅は「報遺燕恵王書」と呼ばれる名文章を恵王に送り恨みなど抱いていないことを伝える。恵王は感動し、楽毅の息子を優遇した。
この文章は2200年後の現在にも伝わっており、書聖王義之をはじめ多くの書家がその文章を作品にしたことでも知られる。後年「これを読んで泣かないのは忠臣ではない」とさえ言われたほどで、楽毅は義侠の人と言われるようになる。
楽毅は最終的には趙と燕の国を行き来しながら最終的には趙の国で深い眠りについたという。
後年、最大のライヴァルであった田単も趙に仕え、宰相にまでなっているのは中々興味深い事実である。
個人的な楽毅の評価
春秋戦国時代を代表する名将である。
知力も政治力も兵の統率力もあったが、唯一運だけは足りなかったようである。
敵に田単のような天才がいたこともさることながらあと一歩というところで昭王が亡くなり跡を恵王のような人物が継いでしまったことが彼の最大の不運であったことだろう。
ただ皮肉にも、その暗君に宛てた手紙が彼の後世の評価を決定的に高いものにしたのも確かで、若いころの諸葛亮孔明は自分を楽毅に匹敵する才能の持ち主だと評してはまわりの顰蹙をかっていたという。
孔明ほどの人物があこがれるという部分と、楽毅がどれほど評判高い人物だったかが同時にわかるエピソードである。