李自成の乱の首謀者!明朝を滅ぼした男「李自成」の生涯とその評価について語る

歴史というのは一定のリズムを繰り返す音楽のようなところがある。

中国の歴史においては巨大な統一王朝が興るとその末期には大規模な反乱が起こり、その王朝は滅亡していく。

秦時代の陳勝・呉広の乱、漢の赤眉の乱および後漢の黄巾の乱、唐の安史の乱はもちろん、明そのものも紅巾の乱より出でた朱元璋によって建てられた国であった。

 明の時代の失業者

崇禎帝は魏忠賢によって滅茶苦茶になった明王朝をなんとか復興させようと増税と倹約を決意した。

その一環として駅伝制度を廃止した。

モンゴル系民族の後継王朝でもある明は各地に駅舎をおいて物流を促しており、李自成は駅卒といういわば配達員のようなことをしていたらしい。ところが崇禎帝がこの駅伝制度を廃止してしまったために失業してしまう。

こういった人物はかなり多く、同じように失業した連中と共に李自成は武装蜂起を始めた。

この時代の明においては各地で同様の反乱が多数勃発しており、散見的であったために明軍ももぐらたたき状態であった。さらに北方から女真族が侵攻してきており、主力の軍隊はそちらにいたため、徐々に反乱の芽が大きくなっていくのは自明であったと言える。

巨大化する反乱軍

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散発的な流賊はやがて寄り合い巨大化する。明末に起きた反乱は、やがて高迎祥という人物の許に集約するようになる。後に中国史上最悪の虐殺者として知られる張献忠も一時期高迎祥と共に行動を共にしていたようだが、後に仲たがいしてしまう。

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やがて高迎祥は官軍に捕まり処刑されてしまい、次代の首領として李自成が選ばれることになった。

巨大化した李自成の軍団は1641年、重要都市である洛陽を陥落させ、宋の都だった開封、唐の都であった長安(この時は西安)を次々と攻略し、西安にて皇帝を僭称、国号を「順」とした。

この状態になっても明は女真族への対処で精いっぱいで十分な対応を取れなかった。李自成率いる順軍は首都北京に向かって進軍し、「均田免糧(土地を平等に分配し税金を免除する)」を吹聴しながら周辺の住民を取り込んでいく。

1644年、ついに李自成は首都北京を包囲し、紫禁城にいた明の皇帝崇禎帝は自害して果てる。

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この時李自成の軍は北京で大規模な略奪を働いてしまい、住民の失望を買う。

李自成の軍団は流賊的な性格が強く、荒くれものが揃い、欲望に忠実であり、部下の一人である劉宗敏はあろうことか呉三桂の愛人である陳円円をわが物にしてしまう。

明最強の軍隊、清と結び李自成に牙をむく

明における最強の軍団は女真族と戦い山海関を守る北方軍であった。北京を制圧した李自成はこの北方軍を率いる呉三桂と合同で女真族との戦いに臨もうと北京を出立していた。

しかし李自成が実際に見たのは漢民族たる呉三桂が女真族を引き連れて北京に進軍するさまであった。

一説には呉三桂は陳円円を取られたことで李自成に憎悪を向けたという。

事の真偽は分からないが、事実としてあるのは李自成が敗れたということである。戦いに敗れた李自成は北京を離れ西安に向かうものの呉三桂に手も足も出ずに最終的には西安近郊で地元の自警団によって殺されたという。

まるで明朝を滅ぼすためだけに生まれてきたような男である。

個人的な李自成に対する評価

ある意味では朱元璋になれなかった男と言える。

李自成が北京行った際、北京の住民や明の高官たちは列をなして李自成を歓迎したという。さらに李自成の軍団は元来規律のとれた軍団であり、他の軍規の欠片もない流賊とは一線を画した存在であったという。

しかし巨大化していく中でいつのまにか軍規は乱れ、住民の失望を買うようになってしまった。

朱元璋と李自成の違いはこの辺りにあったと言える。朱元璋は元々流賊のような集団をまとめていた人物であったが、徐達のような軍事的な才能に恵まれた将軍や劉基のような天才的な軍師に恵まれていたのに対し、李自成にはそのような人物はいなかった。

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李厳という人物が李自成の軍師となって活躍をしたという話もあるのだが、実は創作ではないかと言う話もあり、李自成軍の宰相である牛金星によって謀殺されたとも言われている。

いずれにしても李自成は優秀な人物を見出し、使いこなす才能が朱元璋とは大違いであったと言えるだろう。

呉三桂が仮に李自成に協力していたとしても、多分仲たがいしていただろうし、結局は清が中国を統一したのではないかと思う。

なんだかんだ王朝の創始者というのは運だけではなくカリスマ性や人にはない魅力があるもので、李自成にはそういった部分が足りなかった。

簡単に言えば、李自成は英雄の器ではなかったのである。