中国史上最強最期の大軍師!明建国の功労者「劉基伯温」の凄さについて語らせてくれ

名軍師と聞いてどんな名前が浮かぶであろうか?

多分大体の人が最初に諸葛亮孔明を浮かべ、中国史に詳しい人は張良、あるいは太公望の名前を浮かべるかも知れない。

この3人は中国史に名を刻む名軍師たちで、それぞれ蜀、漢、周という国の建国に深く関わっている。

そしてもう1人、明という国の建国に関わった大軍師がいた。

名を劉基という。

日本ではほとんど名を知られていないが、本場中国では諸葛孔明と並ぶほどの人気となった名軍師の活躍について見て行こう。

 科挙試験に通った秀才

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フビライハーン(クビライハーン)が建てた元は、当初は科挙を廃止していたが、その末期には官吏登用制度である科挙を復活させていた。劉基はわずか23歳で元代末期の科挙試験に合格し、行省元帥府都事という、いわば県の副知事にあたる役職に就く。

余談だが科挙の平均合格年齢は大体40歳ぐらいと言われていて、20代での合格はよほどの天才でないとできない。劉基はもちろんよほどの天才である訳だ。

やがて方国珍の乱という海賊による大規模な反乱が起きた時、劉基はその討伐の任に就いた。

この方国珍という海賊、元々は塩の密売人をしていて、その経済力はかなりのものがあった。唐滅亡の原因となった黄巣の乱の黄巣も塩の密売人であったが、当時塩は国家の専売品であったため、やはり高値でさして質も良くなかった。そこで生活必需品を安価でしかも質をよく売ってくれる密売人は庶民に人気があり、経済力もあった。

当時の元の政治は腐敗しきっていて、この方国珍という人物は劉基の上司や中央政府に対し賄賂を贈り、劉基にも当然のように賄賂を贈ってきた。

劉基はこれをはねつけ、方国珍の本格的な討伐に乗り出す。

しかし元朝はあろうことかこの海賊に官職を与え、劉基には罰を与える。

あまりにも馬鹿らしいと感じたのか劉基は官職を辞し、田舎に帰って「郁離子」という書物を著し、天下国家のあるべき姿を記した。

この辺りのエピソードに劉基という人間の全てが出ているように思われる。

彼はまさに憂国の士であり、常に天下国家のことを考えて行動している訳である。この辺りが中国で人気のある理由なんだろうなぁと思う。

彼はこの故郷で天下を憂いて夜も眠れないというような旨の詩を作っている。

朱元璋をして「我が張良子房」と言わしめる

チンギスハーンが拡大させたモンゴル帝国は、歴史上最大の大きさを誇る大帝国となったが、長続きした国家は一つもなかった。

モンゴル帝国は戦闘には滅法強いが統治という概念がなく、挙句に一族同士で争いを始めて内部分裂を重ねた挙句に汚職などにまみれて反乱を放置していた。

元朝末期には海では先ほどの方国珍が、陸では白蓮教徒による反乱が大規模になっていた。

白蓮教というのは弥勒菩薩を信奉する宗教で、世直しをその旨とする仏教の一派と言われているが、その内容はマニ教やゾロアスター教の影響がみられる。特に善悪二元論ともいえる「光と闇」の対立をその教義の基礎となし、朱元璋が光の部分を信奉したので国号は「明」となったのであった。

余談だが、それまでの中国王朝はその成立地で王朝名が決まっていた。例えば益州(四川省)なら蜀だし、荊州なら宋、江東なら呉と言った感じに。なので歴史上いくつか同じ国名が出てくるわけである。

白蓮教徒の乱は劉福通という人物が韓山童という人物をかついで河南の地で起こした反乱である。劉福通は韓山童こそが宋王朝の末裔であり正当な皇帝となるべき人物だという大義名分をかかげ、モンゴル族の支配に不満を持つ者が次々に集まっていった。

反乱に参加した者たちが紅い頭巾をかぶっていたことから「紅巾の乱」とも呼ばれる。

残念ながらこの紅巾の乱、まったくまとまりがなく元朝の行った掃討作戦によってほとんど壊滅状態となってしまう。

唯一生き残ったのは江東に逃げ延びた一派で、後に明を建国する朱元璋もこの一派の中にいた。

江東は水域が広く、モンゴルの騎馬部隊がうまく機能しない土地で、しかも反モンゴル感情が中国のどの地域よりも根強かった。

というのも元朝は女真族の国だった金の支配領域である華北に住む人たちを「漢人」と呼んでいたのに対し漢民族の多くが住む江東の人々を「蛮子(マンジュ)」と呼んで蔑んでいたのである。

江東の地に逃げ延びた白蓮教徒の乱の首謀者は郭子興という人物で、朱元璋は目つきが悪い、残酷であるという理由で気に入られ、義理の息子となるも離脱して自ら軍を起こすことになる。

朱元璋の許には徐達、湯和などの無頼の徒が集まっていたが、やがて李善長という知恵者を陣営に迎える。

李善長は朱元璋に会うなり「天下を治めるのはあなただ!漢の高祖(劉邦)と同じことをしなさい!」と言い、朱元璋もそれを気に入ったという。

朱元璋は現在の南京を占領し、応天府と名称を変え、人材のリクルートに力を入れ始めた。

ここでようやく劉基が出てくる。この記事は劉基の記事なのに1000文字ぐらい出てこなかった訳だが、劉基はこの朱元璋の招きを一度断っている。これが本心なのか一応の形であったのかはわからない。

劉基は朱元璋の招きに応じると謁見し、「時務十八策」を述べた。それはかつて「郁離子」として編集した内容をまとめたものであったと言い、天下国家を大いに語った内容だったという。

朱元璋はそれを聞くや「我が張良子房!」と言って大変喜んだという。

あれ?どこかで聞いたような話だな。

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大軍師劉基

朱元璋は当時韓林児という人物を保護していた。宋の末裔という設定の韓山童の息子である。朱元璋もあくまで宋王朝復興を旗印に、韓林児から呉国公に任命された形にした。

そのための権威付けとして皆韓林児に跪いて礼拝をしていたわけだが、劉基だけはこれを断っていたという。

「牧童を奉じて何になる!!」

それ、言ったらダメな奴だよなぁ…

劉基は続けてこうも言ったという。

「天下に号令すべきはあのような者ではなくてあなたでなければならぬのです!」

貧民過ぎて托鉢しながらなんとか生き延びた朱元璋の承認欲求は一気に満たされただろうなぁ。

さて、明の建国というと、元との戦いがメインであったような気がするが、実際には元に対して反乱を起こした漢民族の戦いがメインであった。

南京の地を得た朱元璋の敵は元ではなく蘇州にいた張士誠と江州にいた陳友諒という人物であった。

朱元璋は悩んだ。両面戦争は不可能なのでどちらかと戦わねばならぬだが、どちらと戦うべきかわからない。ここで選択を誤れば全滅である。ここで劉基は迷いなく陳友諒を討つことを主張。

理由は簡単で、蘇州という豊な土地を手に入れた張士誠は遊んで暮らしているので軍を動かさない、彼は天下の器ではなく、大局を見ずに享楽に耽るだけの人物であるから放っておいても平気だというのである。

朱元璋は劉基の進言を聞き入れ陳友諒を討ち果たすことに成功し、劉基の言うように張士誠は動かなかった。

また、その陳友諒の部下であった胡美という人物が降伏を申し出てきたが、その条件が軍団を解散させないことであった。つまり兵力を保持したまま部下にしろということである。朱元璋はここでも悩む。隙を見て離反されるのを避けたかったのであるし、罠であることを警戒していた。しかし劉基はこれを受けることを進言、胡美の部隊は私兵で、陳友諒のために戦う意思はないだろうからというのが理由である。これもまた成功した。

しかし陳友諒の方もやられっぱなしではなかった。やがて強力な水軍を結成し、その数は60万を数えるほどだという。対する朱元璋の軍は20万人ほど。両軍は鄱陽湖において雌雄を決することにした。両軍ともにこの戦いが中国の覇権を決める戦いであることを認識していた。

陳友諒側の船は巨大な船が多く、朱元璋の側は小さな船が多かった。戦況は多数の兵と巨大な船を有する陳友諒が終始有利であった。陳友諒軍の船が朱元璋の船に向かって進水していき、もはや絶体絶命と思われたその時、風が吹いた。

劉基の言った通り、東南の風が吹いた。朱元璋にとっての文字通りの追い風である。

朱元璋は用意していた火船を敵方に向かって次々と放つ。陳友諒軍の巨大船が一つ、また一つと炎に包まれていく。

「煙焔天にみなぎり、湖水ことごとく赤なり」

敵将であった陳友諒も戦死し、朱元璋は勝利者となった。

実は赤壁の戦いにおける諸葛孔明の活躍は、明代この劉基の活躍をそのまま転用したものではないかと言われている。後の世に鄱陽湖の戦いと呼ばれるこの戦いは赤壁の近くにあることや孔明が読んだのが東南の風であったことを考えてもその可能性は非常に高いだろう。

劉基は孔明に並ぶのではなく、孔明以上と言っても良いかもしれない。

信長は、桶狭間の戦いにおいて雨が降ることを知っていたと言われている。それは信長がつねに気候観察をしていたからだという。

劉基はいずれの場合にもあらゆる情報を得てから分析し、結論を導いている。まさに科学的な人物だと言え、後の世からは魔術師と呼ばれた所以である。

鄱陽湖の戦いに勝利した朱元璋はその勢いで張士誠の軍も撃破し、さらに北京にせまると元軍は戦うこともなく逃走し、モンゴル高原へと帰っていった。

ここに、北宋以来の中国の統一王朝「明」が建国されたのであった。

「太祖(朱元璋)の張士誠を取り、中原に北伐氏、ついに帝業をなせるは劉基の謀の如し」

これは「明史」に残る記述であり、明の正当な歴史評価である。

つまり公式に朱元璋が天下をとれて明を建国できたのは劉基のおかげだと記されている訳である。

孔明でさえ陳寿に戦が下手だと書かれたのに、一臣下でここまでの記述がされているのは中華4000年の歴史の中でも劉基だけである。

粛正を逃れる

朱元璋は光武帝や趙匡胤と違って英雄と呼ばれることはあっても名君と呼ばれることはない。劉邦も実は怪しい。

違いは天下統一後部下を粛正したか否かである。

劉邦は韓信や英布などの建国の功臣を粛正しているし、朱元璋に至っては「胡惟庸の獄」で3万人、「藍玉の獄」においては15000人の部下を粛正している。これは中華史上でも最悪の粛正と言ってよく、世界史的に見てもスターリンやチャウシェスクなどに匹敵する規模である。

先ほど少し出てきた明建国の功臣である李善長などもこの粛正の対象になっており、有能な人物は全て粛正されたと言っても過言ではなかった。

朱元璋は人の醜い部分を見過ぎたのかも知れない。彼が信じていたのは家族だけであった。

またも余談だが、家族を信じた朱元璋が一族の裏切りによる自ら定めた後継者の地位を簒奪されるのは皮肉と言えるかも知れない。簒奪したのは明最大の名君と言われる永楽帝である。

劉基は明建国の功臣の中で唯一と言ってもよいほど粛正されなかった。

朱元璋は特に知識人階級を憎んでいたのか、呉中四傑といわれる代表的な知識人は全て粛正されているのだが、劉基だけは粛正しなかった。劉基の子孫は明朝末期まで続いているぐらいだ。

劉基は明が建国されるとすぐに「軍衛法」と言われる法律を整備し、厳正にその法を執行した。汚職などには厳しく対処し、朱元璋でさえ厳しすぎると言わしめたほどであったという。しかしあまりにも厳しくし過ぎたために他の臣下たちとの間に軋轢が生まれ、憎しみをかってしまった。

そのため劉基は官職を辞して故郷に帰っていった。あるいは朱元璋の本性に気づいていたのかも知れない。

朱元璋が大粛清を始める少し前の1375年に劉基はその天寿を全うした。

なお、先ほど少しでてきた「胡惟庸の獄」というのは、胡惟庸という人物が劉基を殺害したのではないかという疑惑から始まっている。

個人的な劉基の評価

張良、太公望に並ぶ中国史を代表する最強の軍師の一人であろう。

明の歴史か李卓吾は劉基を張良以上の人物であると評価している。

どちらが優れているかはわからないが、どちらも大帝国の建国を助け、その後の粛正を逃れているという点では共通している。

劉基はとにかく質実剛健とでもいうべき人物で、不正などを常に許さず、己の信念を貫き通した。その智謀はもとよりその人格も中国史において輝きを放っているというべきであろう。

もし劉基がいなかったら、明はなく、中国は唐滅亡後の五代十国時代のようになっていたかも知れない。

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朱元璋が張士誠の領土を攻める際、「殺戮することなかれ、略奪することなかれ」という布告をだしていたが、これは劉基が進言したことだと言われている。

もし劉基がいなければ、朱元璋の軍もまた多くの軍閥のように正義なき軍隊になっていたかも知れない。

明史にいうように、混乱した世の中を平定し、大帝国のもとにまとめ上げた功績の多くは劉基のものであり、世界史の中でも特筆すべきと言うべきであろう。

最強の最期の大軍師

劉基ほどその響きが似合う人物はいないであろう。

彼が求めていたのは、立身出世や栄達などではなく、ただ人々が平和に暮らせる世の中だったのだろう。