明朝最後の皇帝「崇禎帝」の悲哀と不幸に満ちた人生について

人が生きる現世には数えきれないほどの不幸が眠っている。

人は高いところから落ちた時ほど衝撃が大きくなるものだが、そういった観点から見ても各王朝の最期の皇帝は悲惨だ。

有名なのは三国志に出てくる後漢最後の皇帝献帝であろう。

彼個人は利発であったのに、董卓や李確、曹操などにいいように操られ、最後は廃位されてその役割を終えてしまった。生涯傀儡から逃れられなかった運命は、三国志において最も不幸な人物だと言えるだろう。

しかしそれを上回るほどの悲劇的な皇帝がいる。

中華史上最も栄えた王朝である明の最終皇帝崇禎帝である。

繁栄を極めた王朝の最期の人物は、その王朝の業を全て背負わされる運命にあると言える。

これは現在進行形で若者に業を押し付けようとする老人たちによって支配されている我が国日本においても他人事ではない。

今回はローマ帝国の最後と双璧をなす世界史的悲劇の主人公を見て行こう。

 即位した時には既に何もかもが手遅れであった

崇禎帝は明朝第15代皇帝である泰昌帝の五男として生を受けた。

泰昌帝は万暦帝の長男として生まれ、その死後に皇帝となるものの即位わずか一ヶ月で崩御してしまう。その後を継いだのが兄天啓帝であったが、この人物は世界の歴史でもワーストクラスの暗君で、政治にはまるで興味がなく、木工と乳母にだけ異様に執着するという人物であった。

明王朝にとって不幸だったのは、この乳母であった客氏がとんでもない人物であったことだろう。

客氏は権力欲の権化であり、類は友を呼ぶのか史上最悪の宦官と言われる魏忠賢と組んで天啓帝を傀儡都市国を自分たちの好きなように弄んでいった。

有能な重臣たちは次々と粛正され、全国津々浦々にスパイ網を張り巡らし、明を恐怖のどん底に陥れて行った。

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幸いと言っていいだろう。23歳という若さで天啓帝はわりと早くに崩御した。

他の兄弟たちも夭折していたため、次代の皇帝は崇禎帝を選ばざるを得なくなった。

魏忠賢は崇禎帝に取り入ろうとしたが、崇禎帝は全てお見通しとばかりに客氏を処刑し魏忠賢を流罪として追放。魏忠賢はその途中で自殺し、遺体は市中に晒された。

崇禎帝の何が不幸だったかって、崇禎帝自身は明朝でも指折りに優秀であったことだろう。

明朝は初代の朱元璋からとんでもない皇帝ばかりが登場したが、崇禎帝はかなりまともであった。

もはや崩壊間近の明王朝を復興させるべく宰相に徐光啓を任じ国内改革に乗り出した。

崇禎帝の持つ猜疑心の強さ

崇禎帝は明歴代の中ではまともな性格だと書いたが、だからと言って名君とは程遠かった。

崇禎帝は酒や女性に溺れるようなことはなく、皇帝であるにも関わらず倹約家であったが、猜疑心があまりにも強く、臣下の言うことはまるで聞かず、佞臣の讒言を信じてしまうところがあった。

特に有名なのは袁崇煥を処刑してしまった件であろう。

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他にも数多くの名臣を罷免、処罰、処刑しており、ただでさえ人材が不足していた明に決定的なダメージを与えてしまう。

北の女真族・西の李自成

「内憂外患」という言葉があるが、まるで明王朝の為にあるような言葉である。

北からはヌルハチ率いる後金軍が、西からは李自成率いる反乱軍が首都北京に向かって押し寄せていた。崇禎帝はこの危機に呉襄将軍を呼び寄せて李自成に対応させるなど手を尽くすが、時すでに遅く、李自成の乱を止めることはできなくなっていた。

明の主力は対女真族の北方に集中しており、この軍を動かすことはできず、臨時軍を結成すべく重税を課したところでより大きな反乱を招いてしまい、各地でさらなる反乱が勃発する事態となってしまった。

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明王朝と崇禎帝の最期

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1644年、李自成の軍はついに明の首都北京を包囲した。

もはやこれまでと観念した崇禎帝は夜中に息子達を北京から逃がし、娘の前立った。

「あぁ、そなたはどうして皇帝の娘に生まれてしまったのだ」

崇禎帝は涙を流しながらそう叫び、娘の長平公主に向かって剣をふり下ろしたという。続いて側室たちを殺害した後、皇后も自害。

崇禎帝は鐘を鳴らして文武百官諸子を集めようとしたが、既に皆逃げ出してしまい来たのは宦官王承恩ただ一人きりであったという。

崇禎帝は絶望の果てに自害した。享年34歳。

なお娘の長平公主は急所を外れていたため生きており、王承恩の手引きによって紫禁城を逃げおおせたという。後に後金が名を改めた清軍の摂政ドルゴンに見つかりその保護を受け、明の滅亡から二年後に亡くなったという。

明王朝の滅亡と崇禎帝の最期について思うこと

 崇禎帝は崇禎帝なりに明を立て直そうと必死であった。しかし残念ながら崇禎帝はその器ではなかった。

崇禎帝がどんなに優秀でももはや明の滅亡を避けられなかったとは思うが、袁崇煥のような数少ない名臣を処罰してしまうにつけて明の滅亡を決定づけてしまったのは確かであろう。

やる気のある無能が一番組織を崩壊させるという言葉があるが、崇禎帝はまさにその代表と言えるかも知れない。

猜疑心の深さから人心の離脱を招いてしまったため、彼に準じようとする者は宦官を除いて誰もいない事態になってしまった。自業自得な面もあるとはいえ、巨大王朝の最期としてはあまりにも悲しすぎる最後だったと言えよう。

このエピソードは如何に皇帝という存在が本質的には孤独であり、宦官のみを信用してしまう理由を我々に教えてくれる。

世界最高の権力者は世界で一番孤独な存在だったのだ。

せめてこの記事ぐらい、崇禎帝の冥福を祈りたいと思う。