歴史上最強の悪女!清の「西太后(慈禧)」という生きざまについて

暴君と暗君は違う。暗君は国家の大事に何もせずにいて衰退もしくは滅亡を招く存在であるが、暴君は意図的か否かは別として政治に積極的に介入することで国の衰退や滅亡を招く。

前者の代表は宋の徽宗や明の天啓帝で、後者の代表は隋の煬帝や秦の始皇帝であろう。

しかしいかなる暴君や暗君が現れようとも、中国は一定の文化や社会を守り続けた。途中何度も漢民族以外の民族が為政者となったが、それでも中華帝国としての威容は保てていた訳である。

秦が滅びれば漢が出来た、隋が滅びれば唐が出来た。

始皇帝が皇帝を名乗ってから2000年以上が経ち、中華帝国はついに滅びようとしていた。

果たして中華帝国を滅ぼしたのは誰であろうか?

 西太后、感豊帝の妃となる

西太后とは日本でよく使われる名称で、中国では「慈禧」と呼ばれることが多く、出自は満州族の「エホナラ部」であったと言われる。

清王朝の決まりとして、妃は女真族(満州族)から選ばねばならぬという決まりがあり、エホナラ部はかつて清朝の源流とも言えるヌルハチとの戦いに敗れた名門貴族の出であったようだ。

西太后の生まれについては諸説あり、貧民出身であるとか清を滅亡に導いたのは先祖の恨みを晴らすためだとか色々な説があり、実際のところは不明なところが多い。

分かっているのは17歳の時に皇帝の妃選抜試験である「選秀女」に合格して感豊帝の後宮に入ったということだ。

父はどうやら中堅の官僚であったらしく、この前後に亡くなっているらしい。

西太后の伸長は175cmを越えていたらしく、若いころは溢れる美貌をもっていたらしい。感豊帝はかなり気弱な性格であったらしく、そういった男性にありがちなように強い女性を好んだようだ。

感豊帝の寵愛を受けた西太后は22歳の時に男の子を産んだ。この子が感豊帝にとって初めての男の子で、この功により西太后の地位は最下層の「貴人」から皇太后に次ぐ「貴妃」にまで昇格している。

ちなみに感豊帝には正妻である皇后がおり、これを東太后と言った。西太后という名はこれに対になる言葉で、西太后自体は最後まで皇后の地位にはつけなかった。

ニオフルこと東太后は温厚な性格だったようで、激しい性格の西太后との折り合いもよかったのか、両者の争いは少なくとも感豊帝の生きている間は起こらなかった。

西太后に関しては生前も生後も様々な憶測を呼び、実はこの男の子は西太后が産んだ子ではなく、愛新覚羅の血を引いていないのではないか、生まれたのは女の子だったが取り換えたのではないかという噂が当時からあったらしい。北魏の孝文帝にも見られるように中国史には度々このような噂が絶えない。

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真相は不明だが、確かに西太后ならやりそうであるし、全くない話ではないと、この後の西太后を見ていると思うようになる。

滅びゆく新王朝と感豊帝の死

西太后は非常に派手好きで浪費家であったことは有名だが、そうこうしているうちに新王朝は完全なる死に体になっていった。

感豊6年、西暦で言えば1860年イギリスとの間に「アロー号事件」が起こる。アロー号というのはアヘンを積んだ船で、それを調査したことに対してイギリスが文句を言ってきた訳だが、清王朝と大英帝国の武力の差は歴然であった。

イギリスはフランスと共に首都北京を振興し、国を守るはずの皇帝一家は北京から逃亡、熱河にあった離宮に避難した。

余談だが、この頃の大英帝国の女王はヴィクトリア女王で、「君臨すれども統治はせず」の原則通り政治には介入せず、大英帝国の全盛期を創出していた。君臨もするし統治もするけれど国防はしないで国を破壊しまくった西太后とは全てにおいて対照的である。

もはや清朝に大英帝国とたたかう術などなく、圧倒的な不平等条約である北京条約を締結、九龍半島の割譲と多額の賠償金を承諾した。

感豊帝は現実逃避として熱河で享楽の日々を送り、翌1861年衰弱死してしまう。享年31歳。

辛酉の政変

感豊帝が死に、西太后の息子である同治帝が即位した。この瞬間から清王朝は内戦に突入しそう…だったが、西太后が東太后と組んで感豊帝の腹心であった8人の重臣たちを誅殺したことにより権力は西太后と東太后の2人が握ることになった。

感豊帝は8人の重臣たちに息子の補佐を頼むと遺言していたようだが、西太后は先に北京に戻り宮中の軍事権を掌握、8人の重臣が北京に入ってきたと同時にこれらを逮捕、特に功績の大きかった3人の人物には残虐なる死刑を、その他の人物にも厳罰を科し、反対派を一掃した。これを世界史では「辛酉の政変」と呼ぶ。

感豊帝の死からわずか3か月以内の出来事であり、あまりにも手際が良すぎることからあらかじめ準備があったと考える説もあり、中には感豊帝を西太后が暗殺したという説まである。

こちらもまた真偽は不明だが、西太后は幼い息子を傀儡にし垂簾政治を行うようになる。時に西太后27歳。以降50年に渡って西太后は権力の頂点に君臨し続ける。そしてその期間、清朝の国力は衰退の一途をたどっていく。

同治の中興

同治帝が就任すると西太后は清朝を立て直すべく改革を実施する。特に有名なのが漢人官僚の登用で、清朝では圧倒的少数の満州族が大多数の漢民族を支配する政治形態から漢人の起用には積極的ではなかったのだが、西太后は李鴻章や曽国藩などの漢人官僚を積極的に採用した。

この二人の活躍によって太平天国の乱も平定され、欧米の侵攻もなりを潜め、「同治の中興」と呼ばれる平和な時代が10年以上も続いた。

西太后は明らかな暴君であり悪女であったが、完全なる無能という訳でもなかった。ある意味それが故にやっかいな存在だったともいえる。

やがて同治帝が18歳になった時、大事件が勃発する。

同治帝の結婚相手は自分が決める。西太后はそう思っていただろうが、当の同治帝がこの相手を拒否したのだ。しかもあろうことか東太后の勧めた相手と結婚すると言い出したのである。

西太后は激怒した。

そして同治帝はその怒りに触れて死んでしまった。

本当の死因はどうやら梅毒か天然痘であるらしい。さすがの西太后も息子を殺すことはしないであろうと思われるが、噂通り血がつながっていなかったらあるいは…

というのも西太后は同治帝の死にさして悲しみを感じることもなく、さっさと自分の妹と感豊帝の弟が産んだ子を次の皇帝にしてしまう。

1874年光緒帝の誕生である。光緒帝この時4歳。傀儡として扱うにはちょうど良い年であったことだろう。

西太后の専横

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1881年、東太后が死ぬ。

この死についても西太后の仕業であるという説が現在まで根強い。

一説には東太后は感豊帝の遺言を持っており、その中身は「今後彼女が実権を握るようであればこの遺言状を公開せよ」というものであった。東太后はある日それを西太后に見せてしまう。恐怖にかられた西太后は東太后を毒殺しその遺言状を処分したという。

ことの真意はこれまた不明だが、東太后が西太后の寵愛していた宦官の安得海を処刑したのは事実であり、同治帝の結婚問題も含めて両者の間に亀裂が走っていたことは確かであろう。

いずれにしても西太后は圧倒的な権力を手に入れた。彼女に逆らう者はもういない。自分に少しでも異を唱える者は悉く失脚させた。長年清に仕えてきた軍事責任者の奕訴という人物も失脚させられた。

この手の人物によくあるように、西太后も多数のスパイを雇っており、その役割は宮中の各地に配置された宦官が担っていた。宦官たちは皇帝を始め宮中のあらゆる人物の監視を行っており、少しでもおかしな動きがあるとそれを報告させていたほどで、止める者のいなくなった西太后の暴走は日々加速していく。

特に庭園造営には芽がなく、国家財政を圧迫するレベルで豪華な庭園を次々に建設し始め、足りなくなると海軍の軍事費用を流用した。結果的に国防力は見るも無残なことになっていく。

日清戦争

日本の歴史にとって中国の歴史は多大なる存在である。日本の歴史の始まりは中国の歴史書に出てくる記載であったし、日本と言う国は中国文明の多大なる影響を受けている。

一方の中国の歴史にとって日本はほとんど出てこない。その存在されほとんどの人は頭の片隅にさえなかったことだろう。そんなまことに小さな国が4000年の歴史を持つ中華帝国に牙をむいた。

西太后の頭の中では、大和民族率いる倭国などアリのように感じられたことであろう。

西太后にとってはそんな小国のことよりも自分の誕生日会の方が重要であった。戦艦を配備するための資金は西太后の誕生日を祝うための費用と化した。

その結果愛新覚羅清朝は日本という極東の国に負けた。結果として賠償金を支払い、台湾を割譲し、下関条約という屈辱的な条約を結ばされる羽目になったわけである。中国4000年の歴史の中でも、日清戦争ほどの屈辱はなかったであろう。

中国国内では「変革」を望む声が大きくなった。中でも康有為が中心となって進めた改革は「戊戌の政変」とも呼ばれ、社会の抜本的な変化をもたらそうとしていた。

それを西太后はどうしたか?

当然の如くぶっ潰した。理由はこの変法自強運動が成就してしまったら自らの権威が失墜すると考えたからだ。

西太后にとっては自分>>>>>>>>>>>越えられない壁∞>清王朝および民衆であったので、変法自強運動は悉く潰し、その芽を摘み取ってしまった。

怒りに満ちた西太后はこの運動を推進させようとした光緒帝を幽閉し、新たな皇帝をたてようとしたが、それはさすがに反対の声が多く欧米列強からも圧力をかけられたため断念した。

義和団事件

義和団は元々「反清復明」を標榜する秘密結社であったが、日清戦争を機にスローガンを「扶清滅洋」に変えた。ようは清を助けて西洋文明を滅ぼそうというものである。

西太后はこれをいたく気に入った。

義和団はやがて蜂起し、外国人焦点などを焼きうちする蛮行に出るも西太后はこれを鎮圧するどころかむしろ支持し、義和団事件に乗じて列強への宣戦布告を行った。もちろん勝てるわけもなく2か月後には欧米列強が群れをなして北京に進軍、西太后は光緒帝を連れて西安に逃亡。途中光緒帝の側室が皇帝は北京にとどまるべきという正論を言うと彼女を井戸に投げ込ませるという暴君ぶりは忘れない。

西安についた西太后は李鴻章を全権大使として列強と交渉、賠償金の支払いや北京への軍隊駐留など屈辱的な内容の北京議定書を呑むしかなくなっていた。

西太后の最期

西太后はこの敗北がよほどショックだったのか、急激に西洋かぶれになり始めた。英会話を習い始めたり写真を趣味にしたり、宮中を西洋風に変えてみたり。

1908年、光緒帝が崩御する。

西太后は光緒帝の弟の子であったわずか三歳の溥儀を次代の皇帝に指名し、このわずか一日後に死んだ。

享年74歳。

この3年後の1911年、孫文による辛亥革命により清王朝は滅ぶ。溥儀は文字通りのラストエンペラーとなり、2000年にわたって続いてきた皇帝位は廃止されることになった。

個人的な西太后の評価

あまりにもすさまじ過ぎる人物である。

文明の破壊度でいったら、秦の趙高や明の魏忠賢さえも凌駕し、ローマのテオドシウス帝に並ぶレベルである。いかなるテロリストも西太后ほどの勢いで文明を壊すことはできないであろう。

清は欧米列強によって弱体化した面があるが、実質的には西太后によって滅ぼされていた。

その権力欲は寒気がするレベルであり、何が何でも権力の座に居座ってやろうという妄念を感じる。史上唯一の女帝である則天武后でさえも生前に退位を迫られているのに対し、西太后は死ぬまで権力の座に居座り続けた。

「権力を握る」という一点においては天才的で、この激しい時代に一度の退位もなくキングメーカーとして君臨し続けたのは圧巻である。

一方それ以外の能力はないに等しく、義和団事件の際にもみられるように国際的な感覚はまるでなく、政治的に言えば無能という言葉さえ生易しいであろう。

国家とは、国民を守るための存在であるが、西太后にとって国家とは自分を守るためのものであったらしい。

西太后がいかなる人物であれ、清朝は滅びたであろうが、中国という国をここまで衰退し、世界史の第一線から脱落させたのはやはり西太后である。

中国よりも遥かに国力の劣る日本が帝国主義によって拡張したのを見るにつけ、もし西太后が改革を潰さなければ列強と互していた可能性は大いにある。

「眠れる獅子」と呼ばれた中国が「眠れる豚」と揶揄され、4000年続いた中華文明は終わりを迎えた。

皇帝という絶対的な専制君主による独裁政治。これが時代にそぐわなくなったのも確かだったであろう。西太后が死んでから10年以内に、ロシア皇帝もオスマン帝国皇帝もドイツ帝国の皇帝も消滅している。西太后はまごうことなき暴君だが、皇帝および帝国の消滅は時代の流れであったかも知れない。

「傾国の美女」という言葉がある。

中国史においては西施、妲己、楊貴妃など様々な傾国の美女がいるが、西太后ほど国を傾けた女性もいなかったであろう。