【閲覧注意】張献忠は本当に殺戮王だったのか?~歴史の信憑性とねつ造について~

人類の歴史は虐殺の歴史でもある。

近年ではナチスヒトラーによるユダヤ人大量虐殺が有名だが、歴史を見ると人類は実に多くの虐殺を行っている。

中国の歴史においても大量虐殺がしばしば行われているが、明末清初を生きた張献忠はその事情が少し異なる。

蜀碧

清代に成立した「蜀碧」という本の内容を見てみよう。内容はかなりとんでもないものなので閲覧注意であることをあらかじめ記しておく。

蜀碧によれば、明末の混乱に乗じて蜀に入った張献忠は都である成都を制圧し蜀全体を掌握すると自らを皇帝とし、そして住民を皆殺しにする決意を固めた。彼は部下に対し人狩りを命じ、そのノルマを決めた。一人一日100人のノルマを課し、それを達成した者は昇進させるという方式を採用する。これによって兵士たちは嬉々として人狩りを敢行し、中には一兵卒から将校になった者もいたという。仮に降伏したとしてダメで、蜀にいた官僚たちを一列に並べて、犬が匂いを嗅いだ者から順に処刑をしていったという。処刑方法については流石に胸が悪くなるので書かないが、その方法もかなり残酷である。おおよそ人の発想ではない。

科挙も一応施行していたが、その試験内容は儒教の知識を問うものではなく縄を張り巡らしリンボーダンスをさせて縄に触れたら死刑というものであった。これのよって一万人の書生が処刑されたという。

しかしやがて殺戮する対象がいなくなると今度は兵士同士を密告させあい、難癖をつけてとにかく処刑させた。兵士は皆ノルマを達成するのに必死で、中には自分の家族を手にかけるものもいたという。

あらかた住民を始末し終えた張献忠は「今日は誰も殺す者はおらんのか?」と怒りはじめ、側近とその家族を殺害し、それさえいなくなると自分の妻や息子を殺害してしまったという。

次の日に妻を呼ぶも出てこず、側近が「昨日殺害なさいました」というと「なぜわたしを止めなかったのだ!」と言って今度はその側近の殺害してしまう。人がいなくとなる最後には牛や馬などを殺して回ったという。

蜀碧の信憑性

勿論ほぼ0である。合理的に考えてこのようなことは完全には起こり得ない。ただ、日本の北九州殺人事件をみるにつけ、まったく起こり得ないことではないから恐ろしい。蜀碧という本についてはあてにならないとして、張献忠が一体どのような人物であったのかを見て行こう。

張献忠の生涯

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張献忠の細かい出自は不明であるが、明朝末期、最後の皇帝崇禎帝の時代、民衆の怒りは頂点に達し、各地で反乱が相次いでいた。最も有名なのは明朝を実際に滅ぼした李自成の乱であるが、それに匹敵する規模だったのが王嘉胤の乱と呼ばれるものであった。

張献忠はこの乱に呼応する形で兵をあげた高迎祥という人物の傘下に入る。長身痩躯、顔はやや黄色味をおび、性格は機敏にして勇猛、果断にして侠に富んでいたため反乱軍の中では「黄虎」と呼ばれていたという。

李自成とは当初協力関係にあったようだが、1635年に各地の反乱軍が一堂に会する機会があり、そこで李自成や高迎祥と反目して決裂、それぞれ別の形で反乱を起こし続けることになった。

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高迎祥は翌年死に、その兵力は李自成が引き継ぐ形となったため、反乱勢力は李自成と張献忠の二大勢力となる。李自成がこの後明を滅ぼし清に味方した呉三桂によって討伐された一方、張献忠は軍を南や西に向け、現在の湖北省から安徽省一帯を支配するようになる。そこへ明の討伐軍がやってきた訳だが、張献忠は国防長官にあたる兵部尚書の長官に金塊やマスに溢れるほどの珠玉を送り、これを撤退させることに成功する。

明代の官僚がいかに腐敗していたかわかる話である。

張献忠はその後快進撃を続け、明代の重要都市であった武昌を陥落させ、自らを大西王と自称することになった。

この時はほとんど殺戮をおこなっていなかったらしい。

風向きが変わるのは明軍の将軍左良玉の攻撃を受けた時で、散々に打ち破れらた張献忠は逃げるようにして蜀の地に侵攻していった。この時期にちょうど清の軍が北京に入っている。

その後の1646年には部下の劉進忠が清軍に寝返り漢中を失い、そのまま進行してきた清軍に射殺されたという。

個人的に張献忠について思うこと~死人に口なし~

張献忠が実際に虐殺を行ったのかどうか結局のところ不明である。

張献忠が入蜀した時期と清軍が北京に入った時期が同じであることを考えると、清による歴史ねつ造の可能性は極めて高いと言えるだろう。

あるいは清に阿った者による歴史のねつ造。

漢民族には、史記を書いた司馬遷以来たとえ王朝に不利でも正確な歴史を伝えるという文化がある。暗君にはしっかりそれを表す「恵」という廟号が贈られるし、それが故に史記や三国志などは歴史的な価値が高く、信憑性が高いのである。

しかし異民族による支配が蔓延った魏晋南北朝では、中国式に王朝に不利な歴史を遺そうとした歴史家が一族皆殺しにあうという事件が起きており、漢民族意外にはそういった文化はないのである。

唐の時代もこれに近いと言われており、唐の歴史書には隋の煬帝などに見られるようにねつ造の個所が多いとされており、歴史書としての価値は低いとみなされている。

清は女真族の国であり、漢民族のような歴史観をもっていないといえ、王朝に不利なことは記さず、また王朝の正当性を高めるために明をはじめとした敵対者の歴史を悪い方向に捻じ曲げようという意図が感じられる。

張献忠はその最たる例と言え、蜀碧に関しては蜀の人口よりも張献忠が殺害した人物の方が多いというでたらめぶりである。

張献忠が実際に虐殺を行ったかと言う問題は、実際に歴史書といわれるものがどの程度信憑性があるかという問題にもなってくる。

これは中国のみならずどの国でもある問題で、例えばローマの歴史はタキトゥスなどは信憑性が高いが同時代におけるスエトニスなどは信憑性が遥かに落ちるとされる。

これに対して書物以外に歴史的実証を求めようとしたのがドイツの歴史家テオドール・モムゼンで、彼はその功績によってノーベル文学賞を受賞している。

まさに死人に口なし。

張献忠により虐殺が実際にあったかどうかは不明だが、どちらにしてもそれがねつ造された可能性は否めないであろう。

歴史とは常に、勝者が遺すものなのである。