人類の歴史には、たびたび裏切り者が登場する。
日本史における小早川秀秋やカエサルに恩がありながら暗殺の実行をしたブルータス、イエスを売り渡したユダなど。
しかし意外なほど中国の歴史においては裏切り者は少ない。三国志の呂布のような奴はいるが、意図的に主君を裏切って自分の所属する国に不利益をもたらした人物というのは実は少ないのだ。そこはやはり儒教発祥の国だけあるなと思うが、そんな中国史に名を残した裏切り者がいる。
その名は呉三桂。
機能不全に陥った明朝
呉三桂が生まれたのは西暦1612年の話。この頃にはもはや明朝は機能不全に陥っており、明の宮中は悪辣なる宦官魏忠賢によって地獄と化していた。
弱体化した明とは反対に、北方の女真族は英雄ヌルハチのもと日々強大化していった。呉三桂の父呉襄は遼東の地にて女真族との戦いに明け暮れた将軍で、この地方の総司令官的な地位にあった。
若き日の呉三桂は父と共に女真族の侵攻を食い止めることに熱心で、明王朝の命運はいわばこの親子にかかっていた訳である。
この頃の呉三桂はひたすら有能だった。後金から清と名を改めた女真族の侵攻を巧妙に撃退し続け、父からその地位を受け継ぎ、国を、民を、よく守っていた。
もし明の敵が女真族だけであったら遼東で食い止められていたかも知れない。しかし明王朝の腐敗は極みに達しており、魏忠賢亡き後に民衆の怒りは爆発、李自成という人物が反乱を起こし首都北京へと迫っていた。
崇禎帝はこの非常事態に父の呉襄を首都に呼び戻し、呉三桂もこれに続いた。
呉三桂はこの時伝説的美女の陳円円と出会う。
陳円円との出会い
明王朝の腐敗はもはやみるべくもなく、この時期の上級国民は軍の有力者といかにつながるかでわが身の保全を考えるようになっていた。田弘遇という人物もそういった人物の一人で、かつては崇禎帝の妃の一人だった田姫の父親であったが、娘が死んで次の保護先を呉三桂に求めた。
田弘遇は金の力でもってある人気芸者を一人購入していた。それが陳円円である。田弘遇が陳円円を紹介するや呉三桂は一目で虜になってしまい、大金でもってこれを引き受けることにした。このことが後に明の滅亡を速めることになるとは誰も思っていなかったことだろう。
呉三桂は再び激しくなった清軍の侵攻に対するべき再び遼東の地へ派遣される。
この頃の清軍は順治帝とその摂政ドルコンによる精鋭でもって明を攻めていたが、要所である山海関がどうしても落とせず明の領内に侵入できずにいた。
明王朝最後の砦を守っていたのが呉三桂であり、まさに明の命運を握っていた訳である。
明王朝滅ぶ
しかし呉三桂が山海関で奮戦している間に明王朝が滅んでしまった。
滅ぼしたのは李自成。李自成は山海関にいる呉三桂に投降を呼びかける。
北からは女真族、西からは李自成、呉三桂が出した結論は女真族への忖度であった。
呉三桂は最後の要所ともいえる山海関を解放し、清軍の味方についたのである。
一説には李自成の部下であり凶暴で知られる劉宗敏という人物に陳円円が捕えられたと知って呉三桂が激怒したとも伝えられており、清の時代にはその様子が歌われた「円円曲」なる歌が流行るようになる。
この時の呉三桂の行動は、漢民族に対しては醜い裏切り行為だったと言えるだろう。だが李自成の軍隊は質が非常に悪く、占領した北京において強盗的な略奪を繰り返し行うまさに賊であったのに対し、ドルコン率いる清軍は規律のとれた整然とした軍隊であったことを考えると、呉三桂の行動がそこまで非難されるものであるかどうかは疑問である。
清軍が北京を占領した際には一切の略奪行為は禁止され、敗北した李自成は逃亡、悔し紛れに呉三桂の父呉襄を殺害して自らも命を絶った。
なお陳円円がどうなったかについては現在でもわかっていない。
平西王呉三桂
呉三桂は清の手先となって李自成の軍を掃討すると漢民族系の反対勢力を次々と討伐していった。ローマ最強軍団が対ゲルマニア部隊であったのと同様、明の最強軍団は対女真族部隊であるわけで、呉三桂の軍団は無敗を誇り、明王朝の復活を夢見て建国された江南の諸王朝も木っ端みじんに粉砕した。
明王朝の王族の生き残りであった桂王を追ってビルマまで遠征し、恐れをなしたビルマの人々は桂王を呉三桂に引き渡し、これを無惨にも処刑してしまう。
これによって人々の明王朝復活の願いは潰えた。これによって清に抵抗運動をしていた鄭成功は大陸を離れ台湾に逃げ延びることになる。
ちなみに日本の近松門左衛門はこの鄭成功を主人公にした「国姓爺合戦」を浄瑠璃として上映し、その中では鄭成功は最終的には呉三桂と組み清軍の撃退に成功、桂王は皇帝になり無事に明王朝は復興をとげるという内容になっている。
呉三桂の判断によってはそのような歴史もあり得たかも知れない。
しかし歴史は無情である。呉三桂は清に尻尾を振り続け、明王朝の王族を根絶やしにした。そしてその功績で雲南の地の永久的な支配権を手に入れることに成功し、そこに宮殿を設えてまるで王族のような暮らしを楽しんだ。
明王朝の血で暮らした生活はさぞ楽しかったことだろう。
呉三桂は清から平西王の位を授かり、本物の王族になることに成功する。
三藩の乱~世界最強の皇帝との戦い~
裏切り者の末路は皆惨めである。惨めなだけではなく、死後の評価を著しく落とす。
自ら仕えていた明王朝の王族を平然と処刑する呉三桂を、清王朝は全く信用していなかった。順治帝がわずか24歳という若さで亡くなると、その息子である康熙帝が即位した。
康熙帝は幼く、まだ8歳で、政治はオバイという人物が行っていた。呉三桂も康熙帝の幼さに完全に油断していたことであろう。このわずか8歳で即位した皇帝が、世界史上最強の皇帝と呼ばれることなど予想もしなかったに違いない。
20歳になった康熙帝はオバイを追放し、自ら親政を始めた。そして即位とほぼ同時に呉三桂の討伐を命じる。
呉三桂・尚可喜・耿仲明の3人は元々明の将軍であったが、清に投降しその手足となって働き、その功からそれぞれ王の位を与えられ、三藩と呼ばれていた。
康熙帝はこれらの勢力を一気に殲滅することを決意。対する呉三桂は「反清復明」を標榜し、自らを天下都招討兵馬元帥と名乗り清王朝に勝負を挑む。
歴戦の名将たちと若き皇帝。
本来なら勝負は明らかであった。呉三桂も若造など簡単にひねりつぶせると思ったことだろう。
しかしそうはならなかった。
呉三桂はまるで勝てなかった。自分の半分も生きていない皇帝に、まるで歯が立たなかったのだ。戦いは長期化し、呉三桂はヤケクソのように国号を周とし自ら皇帝を僭称するも5か月後にあっさり病死してしまう。孫がその地位を継ぐも康熙帝に勝てるわけもなく、1682年、三藩の乱は平定され、呉三桂の孫ももはやこれまでと自殺することになるのであった。
個人的な呉三桂の評価
中国史でも最も情けのない死に方をした人物であろう。
もはや明末期は手の付けられないほどに腐敗しており、李自成は野党の如く、これなら清に味方するものやむを得ないとして清軍に味方したならまだわかるが、実際には愛人のために異民族を招き入れた訳であり、明の王族を処刑しておきながら「反清復明」を掲げるなど厚顔無恥もいいところで、案の定人々はついて来なかった。
呉三桂が実際に女性のために国を裏切ったのかは不明な部分が多い。中国人は傾国の美女的な話が好きなので創作かも知れないし、本当かも知れない。
しかしそれがどちらであっても清朝による異民族支配を助長したという歴史的事実が覆ることもなく、旧恩あるはずの明王朝の朱氏の王族を処刑したという事実も変わらない。
南宋の文天祥などはモンゴルによる支配を良しとせずに自ら滅びゆく南宋と運命を共にした。フビライハーンは彼を処刑したものの、その忠義を称え文丞相祠という祠を建造したほどであり、今日でも高い評価を受けている。
呉三桂を慕う人物もいなければ評価するような人間もいないであろう。
呉三桂のような人物は人類のありとあらゆる歴史や文化から忌み嫌われる行為であり、裏切り者の末路などあらかじめ決まっているものである。
奇人や暴君の多い中国の長い歴史であるが、個人的に呉三桂ほど唾棄すべき人物もいないように思う。