世界史は様々な人物たちが織り成すドラマである。
一体どれほどの人間達が生まれ、そして死んでいったのかはわからないが、歴史は時として英雄を生み出す。
中華4000年の歴史を考えた際、モンゴル民族を打倒し漢民族の王朝を復活させた洪武帝こと朱元璋以上の英雄はいないだろう。
そして朱元璋ほど数奇な運命をたどった者もいない。
あまりにも貧しい生まれ
歴史上の人物において、貧民に生まれて皇帝まで昇りつめた人物は少ない。ナポレオンも貴族であったし、始皇帝は生まれつき王族、平民から皇帝になった劉邦も国の役人であった。
1328年、朱元璋は貧農の家に生まれた。食うや食わずという言葉があるが、朱元璋の家は食うことさえできない家であった。食べるものがなく、一家は飢え死にするしかなかった。ただ1人、寺に預けられた朱元璋だけが生き残ったのだ。
時はモンゴル民族が建てた元朝が中国を支配していたころ、民衆の不満は白蓮教徒の乱という形で爆発した。
これは弥勒菩薩信仰とマニ教が融合した宗教を信奉していた者たちの反乱だったが、もはや民衆は何でもよかったのかも知れない。長く続くモンゴル軍の支配にさえ抵抗できれば。
白蓮教徒の乱は華北においてはモンゴル軍に鎮圧されるが、長江以南においては元朝はその鎮圧を放棄してしまったようだ。
その間隙を縫って3人の有力者が頭角を現していた。
塩野密売から身を起こした張士誠と、白蓮教徒の乱から身を起こした陳友諒、同じく朱元璋。
白蓮教徒の乱こと紅巾の乱に参加した朱元璋は、その悪辣な表情が首領の郭子興に気に入られかわいがっていた養女を娶ることになる(後の馬皇后)。
やがて郭子興が無くなると朱元璋はその跡を継ぎ、幼馴染の徐達や中国史上最強軍師の一角劉基、勇猛果敢な常遇春、謀略の名手李善長など有能な部下と共に江南の覇権をかけた戦いへと身を投じていく。
鄱陽湖の戦い(ハ陽湖の戦い)
どの地域にも歴史を決める一戦というものが存在するが、鄱陽湖の戦いは確かに中国の歴史を変えた戦いであろう。
琵琶湖の数倍の大きさを持つ巨大湖鄱陽湖において、朱元璋は陳友諒と戦うことになる。情勢は陳友諒に有利。陳友諒は60万を号する兵力に巨大な戦艦を多数用意し、朱元璋側は20万ほど、船も小型のものが多かった。
さらに陳友諒は船を鎖でつないだ連環の計を採用し、流れのはやい長江での優位を確立していた。朱元璋の軍団はそれを見て戦意を喪失する者も多かったという。
圧倒的に不利な状況に立たされた朱元璋であったが、ある時東南の風が吹く。そしてそれを予測していた劉基の策によって敵船に向かって火船を突っ込ませる。風にあおられて火は燃え広がり、陳友諒はこの戦いで戦死することになる。
「煙焔天にみなぎり、湖水ことごとく赤なり」
ピンチはチャンス。朱元璋はこの戦いにより江南の覇権を握ったのであった。
ちなみに、三国志ファンの方はなんだか赤壁の戦いに似ていると思ったかも知れないが、三国志演義の赤壁の戦いはこの鄱陽湖の戦いをモチーフにしていると言われており、諸葛亮孔明は劉基をモデルにしていると言われている。
孔明は歴史上の人物でもあるが、三国志演義の孔明はあまり原型をとどめておらず、劉基のキャラクターに近いと言われる。
中華統一
残った有力者張士誠はもはや朱元璋軍の敵ではなかった。この過程で朱元璋は自己の母体とも言える白蓮教を邪教と認定し、弾圧するようになる。この辺りに朱元璋の性格が出ていると言えるだろう。
朱元璋が白蓮教徒を弾圧したのは元王朝に仕える士大夫層、つまり儒教者たちを引き入れるためだったと言われる。しかし朱元璋の意図に反して儒者たちは仲間にならない。統一後朱元璋が儒教を暗殺したのもこの辺りに発端があると言われる。そして1368年、現在の南京にあたる応天府にて皇帝への即位を宣言、国号を大明とした。洪武帝の誕生である。
江南を統一すると朱元璋は20万にも及ぶ大軍団を組織し、親友である徐達にモンゴル軍打倒の北伐を命じた。徐達はモンゴル軍相手に連戦連勝、大軍の到来を察知したモンゴル民族の元朝はさっさとモンゴル高原に帰っていった。彼らの故郷はモンゴルなのである。
圧倒的な独裁
少し前に、「世界の暴君ランキング」にて朱元璋を比較的上位に置いた。
有名な話だが、朱元璋には2つの肖像画ある。1つ目は本記事のトップにあるような絵で、やさしくほんわかな空気を出した好々爺である。もう一つはあばただらけで見るからに悪人。おそらくは彼の義父である郭子興が気に入った顔である。
天下を統一すると、洪武帝はその本性を現した。
建国の功臣たちの多くは粛正された。
洪武帝は中国が統一されてから30年間皇位に居続けたが、その間粛正は絶え間なく続いた。
特に大きかったのが「胡藍の獄」と「藍玉の獄」の2回で、それぞれ万単位の人たちが処刑されている。
中には「光」や「禿」と言った字を使ったからという理由で処刑された者もいるからもはや暴君であるというべきであろう。両方とも僧侶であった洪武帝を揶揄する言葉であるというのが処刑する理由である。
このような独裁が可能になったのは洪武帝が圧倒的な中央集権体制を確立したからに他ならない。
明も元、あるいはそれ以前の官吏登用制度である科挙を引き続き行ったが、洪武帝はそこに殿試と呼ばれる皇帝直々の試験を追加した。皇帝による直々の官僚コントロールと言える。
洪武帝の粛正は止むことがなく、年を経るにつれて激しさを増していく。
幼き頃に家族を皆失ってしまった洪武帝は、特に血縁の絆を深く信じ、それ以外は信じなかったと言われている。
洪武帝は多くの功臣を処刑したが、劉基と徐達の2人は粛正しなかった(とされる)。この辺りは同郷を粛正しなかった劉邦に近いところがあるかも知れない。洪武帝は劉邦こと漢の高祖の国づくりを参考にしていたという。
しかし皮肉なもので、洪武帝の死後、自ら後継者に選んだ自らの長男の息子(建文帝)が、あろうことか自分の4男(永楽帝)に権力を簒奪されるという事件が起こる。世にいう靖難の変である。
朱元璋(洪武帝)について思うこと
洪武帝はまごうことなき暴君であったが、同時に世界史に大きな影響を与えた英雄でもある。
その影響力はすさまじく、かつて「世界の歴史に影響を与えた100人の人物」においても上位に置いた。
朱元璋は厳しいだけの人物ではなく、当初は器の大きい人物でもあり、はじめは敵方についていた将軍も後に朱元璋側に仕えるようになった例も結構あるほどだ。峻厳にしてやさしさをも持った男で、その性格は1口で表現できるようなものでもないであろう。
幼き日の厳しすぎる体験が英雄朱元璋を作り、そのひずみが暴君洪武帝になってしまったと言える。
ちなみに粛正ばかりが目立つ洪武帝であるが、中国歴代王朝を蝕んできた宦官の重用を禁じるなど革新的な政策も採用している。後に明王朝は魏忠賢を始めとした感慨の禍に苦しむが、それは皇位を簒奪した永楽帝が宦官を重用したからである。
それにしても、家族の愛に飢え、家族だけは信じた洪武帝が、その死後に愛する家族によって裏切られるというのはとても皮肉なことである。