南朝宋(劉宋)の建国者!劉裕(武帝)の成り上がり人生をご覧ください

三国志の時代が終わり、司馬懿の孫の司馬炎が晋を作るもその勢力を維持することはかなわず、晋は西側を失い、東晋としてなんとか生き延びていた。

一時期はチベット系氐族の苻堅が強大な力を以て華北を統一、大軍をもって東晋を滅ぼしにかかったが、淝水の戦いの歴史的勝利によって東晋はなんとか滅亡を免れていた。

その戦いから40年が経ち、ついに東晋も滅びることになる。

滅ぼした男の名は劉裕。

後に宋の武帝と呼ばれるようになる人物である。

 成り上がり皇帝

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世界の歴史においては、貧困層から身を立てて大帝国の皇帝となる人物も何人かいる。

漢を建国した劉邦もそうであったし、その子孫と言われる劉備玄徳も蜀を建国した。劉備が実際に劉邦の末裔であったかどうかはわからない。そして劉裕が劉邦の末裔であったかどうかも分からない。

漢も蜀もとうに滅び、その王族であった劉氏はもはや見る影もないほど没落していた。劉裕においてはその貧しさから口減らしにあう寸前であったとさえ言われ、劉裕を産んだショックで母は死亡、父もわずか10歳で亡くなってしまう。

彼は父母が遺したわずかな土地で農業を営みながら細々と暮らしていた。

その反動からか、青年期には非常に豪胆な性格になっており、学問的素養は皆無、博打を好む派手派手しい性格の青年になっていたという。

そのような彼がどのように東晋の軍に入ったかは不明だが、古今東西食い詰めた者が軍隊に入るのは常であり、劉裕もそこで功を立てて出世したものと思われる。

時は399年、五斗米道の孫恩という人物が大規模な反乱を起こした。

五斗米道と言えば三国志時代に漢中を支配していた張魯の祖父張陵が起こした道教の一派であったが、相次ぐ戦乱の世にあってその勢力が活発化していった。

キリスト教などがそうであるように、戦乱の世にこそ宗教は必要とされる。これまた古今東西宗教は武装化しやすい。イスラムは強かったし十字軍や日本の僧兵など、どの時代にも宗教勢力は存在している。

劉裕はこの孫恩の乱における大活躍にて一躍有名人の仲間入りを果たした。

伝承では、彼の部隊は全滅したが、劉裕はただの1人で敵軍を撤退せしめたという。

これが本当の話かどうかは分からないが、劉裕は次第に人気者となっていった。

この当時の東晋は軍勢的に首都建康を中心とした北府と荊州を中心とした西府に分裂していた。西府の実権は桓氏一族が握っており、帝位簒奪の意思をむき出しにしていた。一方の北府は淝水の戦いにおける英雄謝安と王族である司馬氏が対立関係にあり、孫恩の乱はこの微妙な力関係の均衡を破る出来事であった。

反乱の鎮圧後、西府の有力者桓玄が兵を引き連れて首都建康への進軍を開始した。内部抗争を繰り返していた北府にもはや戦う力はなく、桓玄は時の皇帝であった安帝を廃止自ら国号を楚としその初代皇帝となる。

この時劉裕は桓玄の将軍として活躍し、その功を桓玄は大いにねぎらったという。ただ、桓玄の妻だけは劉裕を警戒しており、夫に早々に排除を提案していたという。

この妻の見立ては正しかった。無頼の徒劉裕はたちまちのうちに兵を挙げ、安帝の復帰を大義名分とすると反桓玄の兵を挙げた。

この辺り漢王室の復興を名分とした劉備玄徳と被るんだよなぁ。

劉裕は旗揚げ時数十名の兵士しかいなかったが、次第にその数は膨れ上がり、わずか1700の兵を以て桓玄の軍を蹴散らしてしまった。

かくして東晋の皇帝である安帝を再び即位させ、自身は救国の英雄として宰相の地位に就く。

劉裕は自分が成り上がりものであることは重々承知していた。それゆえにすぐには帝位を簒奪せず、地盤固めに奔走する。国内の反対派を即座に粛正し、北伐を開始。

鮮卑族である慕容垂の子孫が建国した山東半島の南燕を滅ぼすと同じ漢人の国家である後蜀、苻堅を殺害した羌族の将軍姚萇が建国した後秦を立て続けに滅亡させることに成功。

418年には安帝を暗殺すると420年には自ら擁立した恭帝に対して禅譲を要求、晋を滅亡させて宋の国を建国した。

宋の建国後は後顧の憂いを排除するため司馬氏を全滅させ、根絶やしにした。中国の歴史において前王朝の王族を根絶やしにしたのは劉裕が初めてであり、以降中華帝国における伝統となっていく。

劉裕は成り上がり皇帝ではあったが、秀吉のように豪奢な生活をすることはなく、帝位に就いてからもかつて農業を営んでいた時と同じような部屋で生活をし、妻も同様であったという。

劉裕の治世時には大いに文化が繁栄し、田園詩人として有名な陶淵明や三国志に注をつけた裴松之などを輩出し、「説話新語」で有名な劉義慶は劉裕の甥にあたるという。

自らに学がないからと言って知識人を迫害するようなことはなく、むしろ文化を奨励し、六朝文化を開眼させた人物の1人だと言えるだろう。

個人的な劉裕の評価

劉邦、劉備に次ぐ劉氏3人目の成り上がり皇帝である。

実際に血のつながりがあるかはわからないが、劉裕もまた人を引き付ける人物であったようで、一代にして皇帝まで昇り詰めてしまった点は前2者と共通する。

前二者と違うのは劉裕自体が恐ろしく戦に強く、どんな寡兵であっても勝ってしまうところである。記録によればわずか2700の兵力で後秦及び北魏30000の兵力を粉砕したという。

実際は負けまくっていた呂布や最終的に負けてしまった項羽よりも戦闘に関しては上の存在かも知れない。

ローマには生涯無敗の将軍が何人かいるが、中国の歴史においては実に珍しい存在である。

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とはいえ劉裕が占拠した長安は劉裕が建康に帰還するとすぐに匈奴によって奪い返されているのでなんとも言えないところではあるが、基本兵を率いての戦闘においては無敵、建国の祖としては王朝開始後約60年後に国が滅びていることから世界史的名君とまでは言えないが、それでも王朝の祖としてはせめて世界史の教科書に名前が載ってもいいレベルであるように思う。

考えてみれば、世界史の教科書に名前が載るってとんでもないことだよなぁ。