孟嘗君・平原君・信陵君・春申君 戦国七雄をも凌いだ戦国の四君の功績をまとめる

中国の春秋時代には五覇と呼ばれる有力な諸侯が存在した。

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春秋時代が終わり、周の影響力が皆無になった戦国時代においては、時に諸侯をも上回る人物たちが登場すし、彼らは戦国の四君と呼ばれるようになる。

「鶏鳴狗盗」で有名な孟嘗君(田分)

戦国四君の代表格ともいえるのが「鶏鳴狗盗」の故事でも有名な孟嘗君こと田分である。

直系ではないものの斉の王家となった田氏の血を引いており、彼の評判を聞きつけた食客の数は数千人となり、その勢力はもはや一つの国に匹敵することとなった。

彼は戦国時代に存在した七つの国の内、秦、魏、斉の三か国で宰相の地位に任ぜられるもその力を恐れた諸侯によって何度も殺害されそうになる。そのたびに彼の身の回りの食客が孟嘗君を助け、古代中国の義侠の精神を体現した。

しかし孟嘗君が無くなるとその恨みは残された家族に向けられ、一族は根絶やしにされてしまう。

後に劉邦は孟嘗君の孫を発見し保護するが、それらの人物が本当の子孫であったかはもはや確かめようのない事実であった。

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「嚢中の錐」で有名な平原君(趙勝)

数ある故事・成語の中でも個人的には「嚢中の錐」の逸話が好きである。

戦国四君の一人である平原君は趙の国の生まれで、恵文王の弟として生まれた。兄とその息子である孝成王の宰相として仕えた。

平原君もまた多数の食客を養っており、以下のような有名なエピソードを持つ人物である。

彼の仕えていた趙の国は「刎頸の交わり」でも有名な名将廉頗を擁していたが秦の策にかかってこれを更迭し、代わりに趙括を将軍に任命して秦との戦いに臨んでしまう。

秦の名将白起の活躍もあり、長平の戦いにて趙は大敗、数十万という単位の人間が生きたまま埋められるという大惨事となってしまった。白起はそのまま趙の国の首都邯鄲に向けて進軍し、趙王は平原君に救援の使者を任せることとなった。

平原君は数千人いる食客の中から選りすぐった小数の者だけを連れて行くことにしたが、そのメンバーに毛遂という人物が立候補した。

平原君はその人物に見覚えがなく、いつから自分に仕えているのかを聞いたところ、3年であるという。それを聞いた平原君は以下のような言葉を発した。

「それ賢士の世におるや、例えば嚢中におるがごとく、その末たちどころにあらわる(賢明な者がいれば袋の中に錐があるようにすぐに先端があらわれるものである)」

それを聞いた毛遂が嚢にいれさえしてくれれば先端どころか柄まで出して見せましょうと言ったので連れて行くことにした。

楚の国に行った平原君は援軍を願い出るも聞き入れらなかったが、あろうことか毛遂の弁舌により楚は趙への援軍を許諾し、同時に魏の国からも義理の弟である信陵君(信陵君の姉が平原君の妻)が援軍駆け付けたために秦軍は邯鄲の包囲網をといて撤退していった。

信陵君(無忌)

3人目の信陵君は魏の昭王の末子であり魏の安釐王の弟である。

王族であったにも関わらず常に謙虚な人物であったらしく、彼のもとにもまた三千人におよぶ食客がいたという。

信陵君は人材を見出す才能があり、肉屋であっても老人であっても優れた人物は積極的に登用したという。

秦が趙の都である邯鄲を包囲した際には10万と言われる兵を将軍の晋鄙に率いさせて援軍に向かわせたが、秦の使者より趙を救援するなら次は魏を攻撃すると言われて援軍を中止するということが起こった。

これに対し趙の平原君は義理の弟でもある信陵君に使者を送り続けたが、兄である魏王は首を縦に振らなかった。信陵君はややヤケクソ気味にこうなったら自分で軍を率いていくしかないと邯鄲に向かう決意をする。

そこに現れたのが侯嬴(こうえい)という老人で、この人物は70を超えていたにも関わらず信陵君に見いだされた人物だったわけだが、この老人が一計を案じる。

曰く、安釐王の持つ兵符があれば将軍晋鄙の軍を率いることが出来ると。そしてその言葉の通り兵符を盗み出してきた。

「将、外にあれば主令も受けざるところあるは、以て国家に便すればなり」

老人はこう言って、もしも晋鄙が軍を引き渡さない場合はこれを殺してしまえとも助言した。

老人の読み通り晋鄙は軍を渡さなかったが、この時肉屋の朱亥が鉄槌を晋鄙に向かって下した。

そのまま軍の司令官となった平原君は義理の兄を助けに趙の国に向かい、見事に秦の軍を追い払うことに成功したのだった。

信陵君はそのまま趙の国に居続けたが、秦が魏に侵攻すると帰国を赦される。しかし狭量な器の安釐王は弟を疎んじるようになり、信陵君は人が変わったようにやる気をなくして酒に溺れるようになるとそのまま死んでしまった。

 春申君(黄歇)

戦国四君の中で、春申君だけは王族の出身ではない。

彼は楚の出身で、博学ぶりを買われて楚の王に仕えた。ある時春申君は秦に使者として向かうことになる。この頃はちょうど秦の最強将軍白起が楚に攻め入るタイミングだったため、春申君は秦の王に出兵を中止させるように求めた。春申君の弁舌の才もあり楚と秦は同盟を結ぶに至り、楚は滅亡を免れることとなった。

同盟の質として春申君は楚の太子と共に秦に人質として送られる。やがて現楚王が重病になると太子に帰国を助言、春申君は太子の身代わりをつとめる。春申君はひたすらに仮病を使って人を遠ざけたが、太子が関所を越えると秦王に事情を話すことにした。もはや死刑も覚悟していたが、秦の宰相であった応候という人物のとりなしもあってか楚の国に帰れることになった。

この時の太子が孝列王となり、春申君は宰相に任じられることになった。

しかし宰相として勤めること25年、ある事件が起こる。

春申君の食客に李園という人物がおり、彼女の妹が大層な美人であったので春申君はこれを愛人とした。やがて彼女は身ごもった訳だが、李園は春申君に対し「今妹を孝列王の妻にすれば次期王はあなたの息子となる」と言って妹を王の妻とした。

生まれた子は男の子で、やがて皇太子となり、李園は順調に出世を重ねるようになる。こうなると今度は春申君が邪魔でしょうがない。

紀元前238年、李園は暗殺者を雇い春申君とその一族を滅殺。

皇太子はやがて楚の幽王となる。

「史記」の作者司馬遷は春申君をしてこう評している。

「かつて秦の昭襄王を説き伏せて、身を投げて楚の太子を帰国させた。なんと輝かしい栄智を持っていたことか。後年、李園に翻弄されたときには老いぼれていたのだ」

戦国四君まとめ

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春申君を除けば食客との間に義侠の精神が見られる。これらは中国社会において尊ばれた概念で、日本を始めとした東洋の文化の中に刻まれていたと言える。

日本においては武士道や忠臣蔵、清水次郎長の話などにそれがよく表れている。

皆有能な部下を持っていたが、その晩年や死後は悲惨なことになってしまっている。そしてどの人物にも言えることだが、秦の増長を止めることはできず、皆その死後20年以内に国が滅んでしまっている。

時代は秦による中国の統一と言う新たなステージに進み、やがて秦も滅び、漢が出来上がっていく。

まるで川の流れのように、人類の歴史はその歩みをすすめていくのであった。