鶏鳴狗盗で有名な孟嘗君(田文)の激しい生きざまと性格について

春秋時代が終わりをつげ、中国はさらなる戦乱の時代に突入した。

終わりなき戦いが続いたその時代を戦国時代という。

そのような時代にあって戦国四君と呼ばれる4人の猛者たちが誕生する。その筆頭が今回の主人公である田文こと孟嘗君だ。

 斉の王族

周建国の功臣太公望呂尚(姜子牙呂尚)建国した斉の国は春秋五覇の筆頭斉の桓公を出すなど周王朝が力を失ってもなおその力を持ち続けた国であった。

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しかし桓公が無くなるとその力は次第に衰えていき、6人の豪族たちが力を持つようになった。その中で最も有力な一族であった田氏一族が力を握り斉の国の君主となる。中国の歴史においてはこれ以降の斉のことを田斉と言ったりもする。

孟嘗君は田斉五代目君主宣王(田辟彊)の甥っ子で、継承権こそないものの王族の一人であった。

父田嬰は長らく宰相をつとめたほどの実力者であり、子どもは40人ほどいたとされている。孟嘗君の母親は身分が低く、しかも側室であり、さらに5月に生まれた子供は親を殺すというメチャクチャな理由で父親から殺されそうになったことさえあるほどで、母は息子を殺したふりをして成人まで育てたという。

ちなみに成人後に孟嘗君が父に会った時、父は「なぜ私の命令に背いたのだ!」とキレたというが、孟嘗君は「人の生は命を天に受くるかまた命を戸に受くるか(人は運命を天から授かるのでしょうか、それとも門戸から授かるのでしょうか)」と言って絶句させたという。

孟嘗君は万時がこの調子で頭の回転が速く口が達者で、父の田嬰はこの問答の後に孟嘗君に食客の世話をさせる仕事をさせることにした。すると孟嘗君の噂を聞きつけた人物たちが次々とやってくるようになり、次第に孟嘗君に家督を継がせるべきであるという意見が多数を占めるようになる。

かくして孟嘗君は父の跡取りになることに成功したのである。

鶏鳴狗盗

食客を養うというのは中国の、それも戦国時代に特異な文化であると言える。日本における「任侠」の始まりともいえ、「侠」の精神の現れとも言えるだろう。この精神は日本にも輸入され、例えば鎌倉時代の「御恩と奉公」などはこの制度が元になったとも考えられる。

戦国時代はそれほど儒教が支配的であったわけではなく、忠義などがそれほど求められておらず、人々は自由に仕える人物を決めていた。現代で例えるならアメリカの労働者に近いだろう。日本は雇用が守られていて、未だに終身雇用信仰を捨てられないが、これは儒教文化が深く取り入れられているからであろう。

中国中から集まった食客は数千を超えるようになり、中には鶏の鳴き声がうまいだけの人物や盗みに長けた者などどう考えても役に立たない人物が多かったが、孟嘗君はそういった人物たちの面倒もちゃんと見ていたという。いうなれば巨大なたけし軍団のようなものであろう。

ある時孟嘗君は西方の大国秦に使者として行った時の話。秦の昭襄王は孟嘗君をいたく気に入り秦の宰相に迎えた。現代的な感覚でも後の中国史的な感覚でも中々考え難いことではあるが、やはり秦の人間にも不安に思う者がいたらしく、「孟嘗君は斉の一族なので秦よりも斉の利益を優先するでしょう」と言う者もいた。

昭襄王はこれを聞いて不安になり、孟嘗君を殺そうと考えるようになった。

この流れを察知した孟嘗君は昭襄王が気に入っている寵姫に助けを求める。寵姫は「狐白裘」という宝をくれたら考えると言った。孟嘗君は確かにその宝を持っていたが、既に昭襄王に献上した後だった。

困り果てた孟嘗君のところへやってきたのが例の盗みが得意な奴だった。

「へっへっへ旦那、コイツが入用じゃあないかと思いましてね」

そういったかどうかは分からないが、その者は献上した狐白裘を盗み出すことに成功し、寵姫にそれをプレゼントするとなんとか監禁を解いてもらうことに成功したのだった。

命の危険を感じた孟嘗君とその一行は秦の脱出を考え夜中に出立するが、途中函谷関に阻まれてしまう。追っ手が迫っては来るものの、関は朝にならないと開かない。そこで今度は鶏の鳴きまねが得意な人物がやってきた。

「クックドゥードゥルドゥー♪」

関所の役人は鶏の鳴き声を聞いて目を覚まし、無事に函谷関を抜けることに成功したのであった。

高校の漢文の教科書にも出てくる「鶏鳴狗盗」の故事である。

馮驩(ふうかん)という男

鶏鳴狗盗と並んで有名なのが馮驩という人物とのやり取りである。

孟嘗君のとこにやってきた馮驩を、最初は伝舎と呼ばれる粗末な家に住まわせていた。すると馮驩は「国へ帰るのが良いかな、ここでは食事に魚も出ないのだから」と言っていたのが聞こえてきた。孟嘗君はその後馮驩を幸舎と呼ばれる少しいい家に住まわせたが、今度は「国へ帰るのが良いかな、ここでは外出する時車も出ないのだから」と言っていた。ここで怒るようなら孟嘗君の名前は歴史に残ってはいない。孟嘗君は代舎と呼ばれる最も良い部屋に彼を住まわせた。すると今度は「国へ帰るのが良いかな、ここでは屋敷も用意してくれないのだから」と言っているのが聞こえた。流石に屋敷までは用意しなかったが、孟嘗君は馮驩を最も良い家に住まわせ続けたという。

 流浪の宰相

有能ではあるが危険な人物。

これが当代の孟嘗君への評価であったことだろう。

斉に戻った孟嘗君は宰相に任じられるも、もはや王を越えたその力は危険その力を斉王は怖れるようになり、孟嘗君の排除を考え始めた。秦の時同様、危険を察知した孟嘗君は斉の国を逃げ出すこととなる。

最大の後ろ盾を失った孟嘗君の許を、多くの食客たちが去っていった。しかしどれだけ人が去ろうとも、馮驩だけは孟嘗君のそばを離れることはなかった。既に良い家も食事もないというのに。

馮驩の行動はまさに侠の精神を体現していると言えるだろう。

一宿一飯の恩を忘れないのが日本の武士であるが、その源流はこのような部分にある。忠義とも友情とも少し違う特殊な文化。それが侠の文化である。この部分は後代にも伝わり、侠は漢気と表現されるようにもなる。

斉を去った孟嘗君は魏の国に亡命し、そこで再び宰相に任じられる。そして秦、趙、燕の三国と共同して斉への攻撃を開始し、斉の王は敗北、逃亡の途中で命を失うこととなった。

斉の国に帰った孟嘗君は己の領地にこもりきりとなり、その地で生涯を終えた。

孟嘗君が無くなると斉の王は魏と結んで孟嘗君の治めていた地を滅ぼし、孟嘗君の一族を根絶やしにしてしまったという。

個人的な孟嘗君の評価

こんなエピソードがある。趙の国に孟嘗君が立ち寄った時のこと、孟嘗君が来たというので大勢の人が見物に来たことがった。見物人の一人が「なんでぇ、もっと大人物かと実物は小さいしなんか目がおかしいじゃねぇか」と言った。孟嘗君はこれを聞いて烈火のごとく怒り、食客たちは車から降りてその街の住人を皆殺しにしてしまったという。

鶏鳴狗盗に代表されるように、孟嘗君は荒くれものを多数侍らせており、自らを追放した斉の王に報復したように激情家であった。そしてそのことが引き金となり子孫は誅殺されてしまう。

なお劉邦が孟嘗君の孫を発見したという話があるが、それが本物なのかどうかは誰にも分らないので採用しなかった。