秦を最強国家にした男!商鞅(公孫鞅)の生きざまに見る改革と変法の重要性と難しさについて

周の没落より500年近く続いた春秋戦国時代はある一人の人物によって突如終わりを迎える。

彼の名は秦王政。

のちに秦の始皇帝と呼ばれる人物である。

なぜ始皇帝が中華を統一し得たかにはいくつかの理由があるが、その中でも最も大きいのが秦という国の国力の高さであろう。政が秦王になる前から、秦の強さは戦国時代におけるどの国をも凌駕していた。

では一体いつごろから秦はそのような強国になったのか?

それは商鞅という人物が改革を行った時からである。

 商鞅、衛の国に生まれる

戦国時代において、まず魏の国が強くなった。それに応じるように斉と楚も強大になり、秦は強力な軍事国家ではあったものの辺境の蛮族に近い扱いを受けており、諸侯会議にも呼ばれない有様であった。

このような状態で秦内部の権力を掌握した孝公は秦をさらなる強国にすべく右腕を探し求めた。

戦国時代というのは現在から見ても変わった文化を有した時代で、生まれた国にそのまま仕えた訳ではない。これは西洋で言うとイタリアのジェノバ出身のクリストファー・コロンブスがスペイン国王に雇われたようなものであろうか。

商鞅は衛鞅という名も持っており、もとをただすと衛の国の王子であった。もっとも、正妻のことどもではなく所謂庶子であったため、国を治める地位にはおらず、自分を高く買ってくれる人物を求めていたようだ。この辺りは同じく戦国時代に活躍した戦国四君に似ているかも知れない。

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商鞅は実は最初は当時の最強国家であった魏の国の宰相に仕えていた。公叔座という楚の宰相は、自分が死去する才に魏王に「商鞅は宰相とすべき人物です。もし宰相にしないのなら殺さなければ災いとなります」と遺言した。

魏王である恵王はこれを死にゆく者の戯言と思い商鞅を取り逃してしまう。

商鞅、秦の孝公に仕える

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魏を後にした商鞅は英君と名高い孝公を見定めるべく秦に向かう。

商鞅は孝公の寵愛する宦官であった景監という人物にコンタクトをとり、やがて孝公と面談する機会を得た。

そこで商鞅は法を重視して中央集権国家にすることで秦を強国にすることを主張、孝公はそのことにいたく感激するも国内の反発を恐れていた。そこで商鞅は「疑行は名なく、疑事は功なし(確信のない行動によっては結果は得られない)」と述べ、孝公を説得する。

商鞅は綿密に決めた法を施行し、五家、もしくは十家を単位とする相互監視組織を作り、違反者があれば積極的に密告した。この制度はのちに日本にも取り入れられ、五人組の制度として伝わることになる。

また商鞅は諸侯や貴族たちに等級を設けて財産政治を実行した。くしくもこれは古代ギリシャのソロンが行った改革に近いが、これによって強くなるのは民衆ではなく君主たる孝公の勢力である点が違った。

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戦国時代は諸子百家と言われるほど様々な思想が跋扈した世の中で、現在我々は当たり前のように法律を守っているが、この当時は当然ではなく、法を重視する国もあればそうでない国もあった。商鞅は法を重視する法家の代表的な人物で、法を君主の権力の上においた稀な人物だったと言える。

近代国家においては王と言えども法を順守することを求められるが、先進的と言われた西洋でさえもイギリスを除けば18世紀までこのような思想はなく、中国史においては法が皇帝位を上回ることはついぞなかった。これは立法機関と行政機関の分立がならず、皇帝を縛る法律ができなかったからだともいえる。

商鞅の変法は徹底しており、孝公の太子でさえも法律違反で処罰されるというほどであった(実際には身代わりとして後見役が処罰された)。

あまりにも急激な商鞅の変法改革は多くの者の恨みを買ったが、着実に秦という国は力をつけて行った。

紀元前352年、秦の宰相となった商鞅は最強国家であった魏に向かって侵攻を始める。結果は圧勝、魏の首都安邑は陥落し、魏は最強国家から転げ落ちることになる。勝利した秦は都を擁から西の咸陽に遷都し、本格的に中原を睨むようになる。

その後も秦は強くなり続け、魏との戦いに大勝利し、魏は東の方に追い詰められていく。都も東の大梁(後の)に移し、黄河以西の土地を秦に割譲することになる。

ちなみに商鞅は勝つためなら手段は選ばない男で、魏との戦闘の際にも偽りの和議をもちかけて魏の将軍を宴に招待し、隙を見て捕虜としてしまう。この作戦にて魏の指揮系統は乱れ、秦は圧勝することが出来た訳である。

ここに来てようやく魏の恵王は公叔座の言ったことを理解したであろうが、時すでに遅しであった。

孝公の死と商鞅の最期

数々の功績により商鞅には商の地が賜れた。元々は公孫鞅もしくは衛鞅と呼ばれていたが、これにより商鞅という名前が定着することになる。

栄枯盛衰。驕れるものも久しからず。

紀元前337年、孝公が死ぬ。

人々の恨みは一気に紛糾し、商鞅は逃亡を余儀なくされた。途中、商鞅が宿に泊まろうとすると「商鞅様の取り決めにより旅行証のない客を泊ると罰せられます」と言われて宿に泊まることが出来なかったというエピソードがあるものの、なんとか隣国の魏に亡命することに成功した。

しかし魏の国は商鞅に対して恨み骨髄、秦に強制送還となる。殺されなかっただけよかったかも知れないが、商鞅は自らの運命を察していたのであろう、軍を組織して秦に対して戦争を仕掛けるも大敗、一族もろとも処刑されることとなった。

個人的な商鞅の評価

商鞅は見事に改革を成し遂げた人物である。

今の日本には、というより明治以降日本で改革に成功した人物はいない訳だが、改革を断行するとこのようなことになるという例が商鞅だとも言える。

急速な改革は発展をもたらすが、守旧派の反発を買う。この辺りは王安石にも共通していて、政治の難しさ、改革の難しさを感じずにはいられない。

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商鞅の激しすぎる改革によって秦は強くなり、ついに中華を一体とすることに成功した。しかし商鞅の改革を受け継いだ結果、秦では民衆の不満がたまり、陳勝・呉広の乱に代表されるような大規模な反乱の末、あっさり滅びた。

あまりにも厳しい法律は、人々の反発を招くのである。