孔子の著作である「春秋」から名前を取った春秋時代が始まったのは紀元前770年、周王朝が東西に分裂したところから始まる。
中華帝国、主に黄河文明は周を中心とした封建制度を維持できなくなり、諸侯は独立し、大小さまざまな国が生まれた。
覇者とは諸侯会議の議長のような存在である
春秋時代は300年近く続き、「覇者」の持つ定義もその間に代わってきた。
周がその力を失ってから、各地で数えきれないほどの争いが起るようになってきたが、諸侯たちは定期的に会議のようなものを行っており、議長はその時代に最も強力な諸侯、すなわち覇者が取り仕切った。
当初の覇者は周王朝を助けて異民族を討伐する「尊王攘夷」を掲げていたが、周の衰退が顕著になるとその役割はより現代的に、時代において支配的な存在というように変貌していく。
こうした覇者のうち、五人の有力な諸侯を五覇と後代呼ぶようになる訳だが、これが中国史の不思議なところで、五覇の候補は主に8人もいる。
五覇とはどのような存在か?
誰かが打ち出した命題に解決を与えるのはまるで数学のようだが、五覇には誰が含まれるか、どのような存在かという議論は古代から現代にいたるまでの2800年間尽きることはなかった。
覇者の定義が時代が人によって、時代によって異なるように、五覇の定義も異なる。
具体的には
- 最も強力な力を持つ者
- 諸侯会議の盟主であること
という2つの要素に周王朝を尊ぶ者や夷狄を排除した者などの条件を評価者が加えていくことになる。
確実に五覇に含まれる二人の君主
候補の多い五覇であるが、斉の桓公と晋の文公はあらゆる書物で五覇として扱われ、異論のない部分である。
この二人は周王朝を遥かに超える力を持ちながらあくまで周を盟主として諸侯をまとめたため特に儒教から評価が高い。
19世紀後半に日本で流行った「尊王攘夷」と言う言葉も元をただせばこの人たちが作り出した概念である。
斉の桓公に関しては、名宰相管仲を要し9度も諸侯会議を行ったほどで、名実ともに覇者の地位にあったと言えるだろう。
かなり高い頻度で入る楚の荘王
「鳴かず飛ばず」「問鼎」などの故事で有名な楚の荘王もかなり高い頻度で五覇として紹介される。
楚は周を始めとした黄河文明から離れた長江流域での文化活動をしているため、いわば夷狄に含まれる国であり、周のみが使えるとした「王」の位を平然と使っており、黄河文明からは必ずしも好まれておらず、班固の書いた「漢書」においては五覇に含まれていない。
漢書に関しては漢がそもそも楚を打ち破って天下を統一したことが影響しているのかも知れないが、王を名乗っているのも評価の分かれるところなのかも知れない。
「史記」「漢書」が認める2人
最も信憑性が高いと言われる司馬遷の書いた史記と班固の書いた漢書は「秦の穆公」と「宋の襄公」を上記三人に加えて五覇としている。
秦の穆公は文公亡き後の晋を打ち破り周の弱体化を決定づけた西戎(犬戎)を討伐した人物で、宋の襄公は斉の桓公亡き後の諸侯会議をとりまとめた人物であり、元々の定義からすればこの二人を五覇とするのが妥当であるが、現代的意味の「覇者」としての強大な力を持っていたとは言い難かった。
「荀子」が認める二人と「漢書」が認める1人
史記に対して荀子が五覇と認めるのが呉王闔閭と越王勾践、漢書が認めるのが呉王夫差となっている。
純粋な格や武力で考えたら「臥薪嘗胆」の故事のもとにもなったこれらの人物が五覇に等しいともいえるが、呉王闔閭と越王勾践は諸侯会議を開いておらず、呉王夫差は開いている。
漢書は諸侯会議を重視し、荀子はその勢力の大きさを重視していると言えるだろう。
春秋五覇についてまとめ
3つの権威的な歴史者の分類をまとめると以下のようになる。
史記 | 荀子 | 漢書 | |
斉の桓公 | 〇 | 〇 | 〇 |
晋の文公 | 〇 | 〇 | 〇 |
楚の荘王 | 〇 | 〇 | |
秦の穆公 | 〇 | 〇 | |
宋の襄公 | 〇 | 〇 | |
呉王闔閭 | 〇 | ||
越王勾践 | 〇 | ||
呉王夫差 | 〇 |
中国史上最も信憑性の高い歴史書は史記だが、個人的にはより現代的な意味に近い覇者を選ぶということで、荀子と同様以下の五人を春秋の五覇としたい。
- 斉の桓公
- 晋の文公
- 楚の荘王
- 呉王闔閭
- 越王勾践