三国志一のイケメンとして特に女性人気の高い美周朗こと周瑜。
音楽にも精通しており、酔った状態でも音楽家が半音ずれただけでそれがわかるほどであり、同年の君主であり義兄弟でもある孫策とのイケメンコンビは有名だ。
漢の名門周家の嫡男
三国志を生きた英傑達の多くは、漢の貴族階級として生を受けている。その筆頭が袁紹や袁術を輩出した袁家と荀彧や荀攸を輩出した荀家、孔子直系の子孫である孔融などと言った人物たちで、周瑜もまた漢の名門貴族として生を受けた。
周瑜の一族には周景のように三公と言われる最高職の1つ司空を経験した者もおり、袁家を始め漢の有力者達との交流もあった。
そのような名門出身者は、荀彧がそうであったように君主の方から士官の話を受け、人物を見定めてから使えるのが一般的であったのだが、周瑜は自ら仕えるべき主君を探し、当時江東の虎と呼ばれていた孫堅の息子孫策に会いに行った。
二人は同じ年で、すっかり意気投合し、周瑜の家に孫策やその家族は一時的に住んでいたこともあるほどであった。
やがて孫堅が死ぬと孫策は袁術に仕え、袁術はその名声を聞いたのか元々の付き合いからか周瑜に対し士官の話を持ち掛ける。
周瑜は袁術が英雄の器でないことを知っていたのでこれを固辞、自ら主君と認めた孫策の軍に合流したのであった。
周瑜の帰参を孫策は大変喜んだ。その証拠に父孫堅の時代より仕えていた古参の将軍であった黄蓋や程普よりも周瑜を高い位につけており、共に喬公の娘達を娶り2人は義兄弟となった。三国志一のイケメン義兄弟である。
周瑜は孫策のもとでその名士コネクションをフルに使い、天下平定に必要な人物を次々に紹介するとともに、兵力の増強や歳費の確保などに奔走した。
このような状況の中で知り合ったのが江東一の富裕と言われた魯粛であり、魯粛は周瑜の話をきくや蔵二つ分の財産を寄進した。
孫策と周瑜のコンビは無敵であるかのように思えたが、孫策はその勇猛さが祟りつまらぬ者の手にかかって亡き者となってしまった。
孫策はその死に際弟の孫権を呼び、「国外のことは周瑜に、国内のことは張昭の言うことをよく聞くように」と遺言した。
周瑜大都督
三国志の時代は世界史でも稀に見る乱世であった。そこでは力の論理がものを言い、人々は主君を選ぶことが出来た。仮に孫権のもとを去っても、不義理とまでは言えなかったかも知れない。あるいは孫権の代わりに江東を治めようとする人物がいても不思議ではなかった。
しかし、孫策亡き後、孫権を見捨てた者はいなかった。
それは真っ先に周瑜が臣下の礼を取ったからだと言われている。漢の名門貴族の出身者であった周瑜が孫権に忠義を誓ったのを見て、他の者も孫権を認めるようになったという。
なにせ名門度で言えば周瑜は曹操よりも遥かに上なのだ。そして誰もが周瑜が家柄だけの人物でないことを知っていた。江東は強くなる。孫権の臣下たちはそう思ったに違いない。
周瑜は孫権のためにまず魯粛を味方につけた。
魯粛は早くに父を亡くしていたが、その相続した財産を人々に配るなどして人々の尊敬を集めていた。飢饉などの際には積極的飢えた者に食料の支援をしていたという。
体格もよく、小さいころから狩りや剣術などを好み、兵法書などを読み漁っており、数多くの名士とも交流していた。多くの者が魯粛を配下にと望み、一度は袁術に仕えたが、その器の小ささを見抜き早々に袁術のもとを去っており、結局孫策にも仕えなかった。
それがどういう風の吹き回しか、孫権には会ってみようと思ったのであった。
魯粛は孫権に会うや「漢を復興することなどは無理なことであり、曹操もそう簡単には取り除くことが出来ません。ですから将軍にとって最善の計は、江東地方をしっかりと確保し、天下の変をじっくりと見守ることです」と言ってのけた。孫権は魯粛を大変気に入り、魯粛もまた孫権を気に入り、臣下の礼を取った。
孫策の言う通りだった。純粋な武力で言えば孫策の方が数段上であったのに、孫権には孫策以上に人を引き付ける魅力があった。その証拠に魯粛を始め、甘寧や諸葛瑾と言った有能な人物が次々と孫権陣営に合流していった。
孫権は208年、ついに父の命を奪った黄祖の軍を撃破することに成功、孫策が達成できなかったかたき討ちを成就させる。
一方華北では呂布、袁術、張繍、袁紹と言った有力者たちを次々に撃破し、漢王朝の皇帝である献帝を擁立した曹操が力をつけていた。
自らの武力と皇帝の名を借りて各地の諸侯を号令する立場となった曹操は、荊州の劉氏を滅ぼし、天下の半分をその手中に収めていた。
残る敵は涼州の馬騰、益州の劉章、そして江東の孫権だけとなっていた。
曹操は献帝の名において孫権に降伏を要求。陣営は曹操との戦いを主張する主戦派と降伏すべしという反戦派に二分された。前者の代表は周瑜と魯粛、後者の代表は張昭と張紘であった。
議論は終わりが見えず、魯粛は孫権の前にある人物を連れてくる。
武将と見間違わんばかりの長身に独特の冠飾り、手には羽毛でできた奥義を携えたその男の名は諸葛亮孔明。
先の戦で曹操に散々な敗北を喫した劉備玄徳の軍師である。
主戦派の論客として来たはずの孔明は、なぜか孫権陣営にて降伏を勧める演説を高らかと行い始める。
「もはや天下は曹操のものです。皆さまは曹操の望みをご存知ですか?先に出来上がった銅雀台にて天下の美女と名高い大喬と小喬の二人を侍らせて酒が飲みたいそうですよ。だから曹操に降伏するにはその2人の美女を探してきて献上するのが良い」
それを聞いて大激怒したのは当の周瑜だった。
「大喬は今は亡き孫朗(周瑜は孫策をこう呼んでいた)の妻、そして小喬はこの私の妻だ!貴様はそれを知っているのか!」
これには孔明も大慌て。
「これはこれは、存ぜぬことで大変失礼を申し上げました」なんてわざとらしくヘコヘコする孔明を見て、孫権はやをら刀を抜いてそれを振り下ろした。
そこにあった机は真っ二つ、怒りに目を真っ赤にした孫権は言い放つ。
「もしこれより曹操への降伏を主張する者あらばこの机のようになると思え!」
かくして天下分け目の大決戦、赤壁の戦いの火ぶたが切って落とされた。
開戦にこぎつけたとはいえ周瑜は孔明が気に入らない。次々に無理難題をふっかけては孔明はこれを軽々とクリアしてしまう。
矢が欲しいと言えば瞬時に10万本の矢を用意し、風が欲しいと言えば孔明は祈祷をして望みの風を吹かせてしまう。仮に曹操に勝ってもこの男がいる限り孫呉に天下はない。周瑜は孔明を殺そうとさえするものの、慌てた魯粛に諫められる始末。
さて、そんな折曹操からの使者が孫権のもとへやってきた。男の名は蒋幹と言って周瑜の旧友であった。周瑜は蒋幹をもてなし、酒に酔いつぶれて眠ってしまう。酔いつぶれた周瑜の懐からは手紙が零れ落ちる。蒋幹がそれを盗み見ると、なんと曹操の部下になったばかりの蔡瑁に宛てた手紙であるではないか。それによれば蔡瑁と周瑜には既に密約が出来ており、蔡瑁は孫権に寝返るつもりらしい。
曹操の陣営は陸では無類の強さを誇るが、水上での戦いでは不利であった。一方の孫権陣営の造船技術は当時ローマのそれを遥かに凌駕して世界一、武将も河賊あがりのれんちゅがわんさかといた。
曹操軍の指揮は劉表の配下だった蔡瑁が執る予定だったのだが、蒋幹は急ぎ曹操のもとへ手紙をしたためると曹操は蔡瑁を処刑してしまう。
とはいえ曹操軍には水軍を指揮できるものがいなくなってしまった。どうしようかと困っている曹操のもとへ名士として有名な龐統がやってきた。
人材コレクターとして有名な曹操は有名な名士の来訪を心から喜ぶ。聞けば龐統は必勝の策を持ってきたというではないか。それは長江の速い流れにおいて船団がバラバラにならないように船を鎖でつなげてしまえばよいというもの。
曹操はこの策に泣いて喜ぶ。
この策を一人見抜いた徐庶はひっそりと消えようとした龐統に声をかける。
2人はともに司馬徽の許で学んだ仲間、徐庶も劉備への恩義があるので策のことは黙っていた。
かくして赤壁の戦いが始まると、周瑜は10万本の火矢でもって曹操軍に攻勢をかける。孔明の祈祷により吹いた風とともに熱風と共に曹操軍を襲う。逃げようにも鎖が邪魔で船が退避できない。火はあっという間に燃え移り、曹操軍を焼き尽くしてしまった。
全て周瑜と孔明の策だったのか!
曹操が気づいた時にはすでに遅し、もはや惨めに撤退するより他に手はなかった。
「郭嘉さえ生きていれば、こんなことにはならなかったであろうに…」
曹操はわずかな手勢と共に命だけは助かった。
かくして孫権と劉備連合軍は周瑜大都督のもと、史上最大の決戦に勝利したのであった。
荊州争奪戦
共通の敵がいる間はまとまっていた人間達も、敵がいなくなると相争い始める。
周瑜は孔明の計画した天下三分の計の実現などさせるつもりはなかった。これを機に孔明を亡き者にしようとしたが、すでに孔明は帰ってしまっていた。それどころか劉備軍はいつのまにか荊州を支配下においており、周瑜自身も病におかされて血を吐いてしまう。
「天はこの周瑜の他にどうして孔明を産みたもうたのか…」
最後にそう言い残し、そのまま周瑜は帰らぬ人となった。
正史での周瑜
というのは三国志演義での周瑜の話。
前半は良いけれど後半は酷い。
周瑜が大都督として曹操を破ったのは歴史的事実だが、孔明が風を吹かせたとか龐統が連環の計を曹操に提案したとかは完全なる創作。演義ではとにかく短気な人物になってしまっているけれど、実際には謙虚で慎み深い性格であったという。
三国志演義は孔明をヒーローにするために周瑜を引き立て役にしてしまった訳だが、さすがにこれはやりすぎだと批判の声も大きいところである。
孔明以外の所は大体演義も正史の通りなのだが、もう一人蒋幹がかなり割をくってしまっている。赤壁の戦犯みたいな扱いだが、実際の蒋幹は孫権陣営を見て油断できないなと判断し、その旨を曹操に伝えている。
周瑜と蒋幹は三国志演義最大の被害者であったと言っても良いかもしれない。
また、赤壁後の荊州に関しては、曹操陣営の曹仁、劉備陣営の関羽と三つ巴と戦いとなっており、曹仁軍の放った矢を受けてしまいそれがもとで亡くなっている。
周瑜は、赤壁後の曹操軍が軍勢を整える前に荊州及び劉章の治めていた益州を占拠し天下を二分し、涼州の馬超とともに曹操を攻める計画を立てており、結局それは実現しなかった。
周瑜が死ぬと魯粛がその跡を継ぎ、劉備との協調体制がとられる。
後に孫権が皇帝になった時「周瑜がいなければ皇帝にはなれなかったであろう」と述べたという。
三国志の作者である陳寿も「真に非凡な才能」と絶賛しており、唐の歴史家が編纂した「武廟六十四将」という、中国の歴史において特に優れた64人の将軍に選ばれており、その評価は常に高い。
むしろ周瑜を貶めるような話にした三国志演義の作者羅漢中が責められるほどである。
個人的な周瑜の評価
呉という国の建国に対して多大なる貢献をした人物である。
江東に花開いた文化は後に六朝文化と言われ、書聖と言われる王義之など歴史に残る文化が生まれることになる。
三国志を統一した晋の国はやがてこの江南に本拠を移した東晋を建国する訳だが、その後数百年南朝が発展を維持できたのもこの時代にその基礎が整えられたからだと言えるだろう。
反面、もし孫権が曹操に降伏していれば、太平の世は早く来ており、後の異民族の流入を阻止でき、五胡十六国時代のような混乱の時代は起こらなかったという意見もある。
歴史にイフはないが、それも一つの側面であると思う。
いずれにしても、周瑜が三国志と呼ばれる時代の最も優れた人物であったことは疑いようのない事実であろう。
これほど傑物が多く出た時代も他にない。