人類が生み出した最高の物語!!三国志最強の名将・英雄ランキングトップ100(演義トップ40&正史トップ60)

三国志、好きか?

俺は好きだぜ!

もはや好きを通り越して人生の一部になっていると言っても過言ではないかも知れない。

三国志、それは人類が生み出した最高の物語。

小学校低学年の時初めて買ってもらったスーパーファミコン。一緒に買ってもらったのはスーパーマリオと三国志だった。 

当時はよく父親とテレビで三国志で対戦していて母親に文句を言われたっけ。

その後は「アニメ版三国志」やその原作の漫画「横山光輝三国志」その原作の小説「吉川英治三国志」を経てもう絶版になってしまったけれども光栄から出ていた「爆笑三国志シリーズ」を出るたびに勝っていた。

大人になってからも漫画「蒼天航路」やアーケードゲーム「三国志大戦」などにはまってしまい、ついにはこんなブログまで作ってしまったぐらいだ。

そう、「俺の世界史ブログ」は元々は三国志の特化ブログにしようとしていたぐらいなのだよ。。

という訳で今月のベスト100シリーズのテーマは「三国志」な訳だが、ここで結構困った壁にいくつかぶち当たった。

最初の壁は「三国志」と「三国志演義」のどちらを重視するべきかというもの。

三国志に詳しくない方にはなんのこっちゃだろうが、一般的に三国志は1つある。

1つは陳寿という晋の時代(三国志の次の時代)の人物が書いた「三国志」という書物で、これは「正史三国志」という呼び方をされる。これは言うなれば「歴史書」であって、日本の卑弥呼様なんかもこの三国志の中の魏志に出てくる倭人伝に記載があることから日本の教科書などにも載っているぐらいのもので、いわば正当な歴史と言ってもよいかも知れない。ただ、ところどころ記述に疑問、あるいは不正確な部分があるのではないかということでさらに後代の劉宋という国に生きた裴松之という人物が注を付けていたりする。それも含めて「史実としての歴史」を著したのが陳寿の三国志であると言えるのだ。

もう一つは明代を生きた羅漢中という人物が書いた「三国志演義」で、こちらは小説な訳だが、日本では圧倒的にこちらがメジャーで、日本における「三国志」は圧倒的にこちらとなっている。

それは偏に吉川英治がこの三国志演義をもとに小説を作り、横山光輝がそれをもとに漫画を描いたからであろう。

俺自身も高校生か大学生ぐらいまで演義の物語が歴史なのだと思っていた。

多分、演義よりも正史の方が重視され始めたのが2000年前後ぐらいで、蒼天航路という正史三国志を重視した漫画がヒットしたあたりからだと思う。実際に光栄の三国志シリーズも7ぐらいまでは演義重視で、8ぐらいから正史をもとにし始めた感じがある。もっとも無双シリーズあたりになると演義を越えて何かべつのものになっているが…

はたして「演義」を重視するか「正史」を重視するか、これは三国志好きとしては非常に悩ましい問題なのだ。

次に果たして三国志という短い期間のベスト100が果たして面白いだろうかという問題。

「小説」とか「映画」とか、あるいは「世界史全体」などの広い分野のベスト100というのはもう数え切れないぐらいの中から選ぶから自然100にしぼると魅力的な項目だけになる訳で、三国志というのは中国という地域のわずか100年を切り取った話にすぎない訳で、トップ30位ぐらいは楽しいがさすがに100位から70位ぐらいまでは誰だそれ状態になってしまい、マニア以外は全然楽しめないランキングになってしまうのではないかという懸念があった。

そして三国志を取り上げるとしてテーマは何になるだろうか?ということも問題だった。

俺は考えた。

三国志の魅力とは何であろう?

それは血沸き肉躍る英雄たちの生きざまではないだろうか?

ならばテーマはやはり「最強の名将ランキング」であるべきだろう。

しかし三国志名将100はどうだろう。もしかしたらマニアですらも楽しめないかも知れない。

マニア向けも良いのだが、当ブログの最終目標は世界史に全く興味のない人物にも興味を持ってほしいというところである。

より多くの人が楽しめるのはやはり「演義」の方であろう。しかし世界史ブログなので歴史を軽視する訳にもいかない。

だったら、演義と正史の両方のランキングを作ってしまえばいい!という訳でこうなった。

前半は血沸き肉躍る人類が作り出した最高傑作「三国志演義」での強さランキング40、後半は世界史の一部としての「正史三国志」における強さランキング60という風にした。

だから同じ人物が出てくるわけだが、両方に出てくる人物は概して魅力的で、演義と正史でどのような違いがあるのかを見てもらうのもいいかも知れないと思う。

と、言う訳でまたもや前置きが長くなってしまったが三国志最強の英雄ランキングトップ100(演義トップ40、正史トップ60)をお楽しみください!!

三国志演義英雄トップ40

第40位:張角(チョウカク)

全てはこの男から始まった。

三国志の物語は演義であれ正史であれ黄巾の乱が起きた184年から晋が中国を統一する280年までの約100年間の時代を舞台にしており、220年まで後漢という国家は存続しているのだけれども、この張角が起こした黄巾の乱において有名無実化してしまい、これをきっかけに諸侯が独立、後漢の求心力は壊滅し実質的には滅亡してしまったことから始まっている。

中国の歴史では概して末期になると大規模な農民反乱が起きる訳だけれども、中国史はもちろん世界史全体で見ても元朝末期の白蓮教徒の乱と後漢末期の黄巾の乱は規模が桁外れで、その数は数十万人とも言われており、そのような大規模な乱の指導者がこの張角な訳であった。

張角は若いころから勉学熱心で清廉な性格であったのだが、時の王朝で出世するには中央の宦官などへの強いコネが必要であったため、どれだけ努力を重ねても裕福にはなれずに弟達と共に貧しい暮らしを強いられていた。

そんなある日張角が上を凌ぐために山菜取りに山の中に入ると、突然目の前に南華老仙と称する老人が現れた。

「必ず人々を救うために使うべし。決して己の欲のために使ってはならぬ」

老人はそう言って張角に「太平要術書」と書かれた書物を手渡すと霧のように消えてしまったようになる。

この太平洋術によって張角は様々な術が使えるようになり、南華老仙の言葉を守るために世のため人のために病気の者や怪我の者を無償で治療していった。

当時の後漢帝国領内では疫病、飢餓、盗賊の跋扈による怪我などが蔓延しており、人々を救うべき中央政府は宦官と言われる男性の大事な部分を切り取ってしまった欲の権化たちと清流派を名乗る貴族達との争いに明け暮れており、そのような実情には誰も対処をしようとはしなかったのである。そのような状態の中で寄る辺のない人々は張角の元に集まってきた。

その数は1人また1人と増え、次第に万の単位を越え、やがては国家規模の1つの大きな集団にまで膨れ上がる。

「蒼天既に死す、黄天まさに立つべし」

事態を見かねた張角は自らを「大賢良師」と称し、腐敗しきった後漢に向かって進撃を開始、世に言う黄巾の乱の始まりであり、この時点より三国志の物語は始まった。

曹操も劉備も孫堅も、この黄巾賊の討伐で名を上げた人物たちである。

張角の軍は当初官軍を圧倒し、そのまま後漢を飲み込むかに思えたが、当の張角が乱を起こしてすぐに死んでしまい、目的を失った人々は盗みや略奪を繰り返す暴徒となり果て、次第に次世代を担う英雄たちによって吸収されていくのであった。

ユリウス・カエサル風に言えば、賽は投げられたのだ。

第39位:凌統(リョウトウ)

淩統の父である凌操は孫策、孫権の兄弟に仕えた名将であったが、兄弟の仇である黄祖を攻めた際、敵将であった甘寧によって殺されてしまった。戦いそのものは孫権軍の勝利に終わったものの、当の黄祖は逃げ延びてしまい、孫権は父の仇を討つことはできなかった。

これにより黄祖は孫権、淩統両名にとっての仇となり、二人は仇を必ず取ると固く胸に誓うのであった。

時は過ぎ、黄祖から十分な評価が得られなかった甘寧は魯粛、呂蒙の勧めもあり孫権陣営に将軍として迎え入れられた。孫権はこれを喜んだが淩統にとってはもちろん面白くない。戦場で父の仇を取るはずがこれでいかなる理由であっても父の仇を取れなくなってしまったのだ。

やがて孫権兄弟の父の仇黄祖を討ち取った淩統であったが、そのわだかまりは消えることがなく、胸の内側でいつまでもくすぶり続けた。

そして悔しいかな甘寧の活躍は本物で、孫権陣営にとっては無くてはならぬ人物であることも淩統は知っていた。

甘寧よりも功績を立てることで仇を取る。

そう誓った淩統は甘寧が曹操軍に対しわずか100騎で夜襲をかけて成功したと聞いてはじっとしていられなかった。自身も功を立てるべく孫権に頼み込んで自ら兵を率いて敵陣に乗り込んでいく。

迎え撃つは魏の名将楽進。一体どれだけの戦場を駆け抜けたのかわからないほどの猛者だ。

楽進と淩統は激しい一騎打ちを繰り広げるも、中々決着がつかない。しびれを切らした曹操は曹休に命じて淩統の馬を射ると淩統はもんどりうって地面に投げ出される形となった。

もはやこれまで。そう思った淩統の目に飛び込んできたのは眉間に矢の刺さった楽進であった。

矢の飛んできた奉公を振り返るとそこには甘寧がいた。父の仇が自分の命を救った。甘寧は甘寧で淩統から父を奪ってしまったことを気に病み、いつかその息子の力になろうと思っていたのだった。

これによって両者のわだかまりは解け、それ以来淩統と甘寧の間には熱い友情が芽生えたのであった。

第38位:厳顔(ゲンガン)

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黄忠と並ぶ三国志の老将。

元々は劉璋の配下であり、益州を我が物にしようとする劉備軍と対峙、張飛を散々に苦しめる。

しかし奮戦虚しくた張飛の前に敗れ去り、捕縛されるも堂々とした態度で以下のように言い放つ。

「貴様らは無礼にも我が州を侵略した。我らには首を刎ねられることを歓迎する将軍はいても、降伏して命乞いをする将軍はいない。わかったらさっさと首を刎ねよ」

これを聞いた張飛は持ち前の短気を発揮して激怒、しかしそれを見た厳顔は眉一つ動かさずに言う。

「殺したいのならさっさとやれ。貴様に怒る理由などあろうか」

これを聞いた張飛は冷静になり、厳顔の漢気を感じ、自らの手で縄を解き手厚いもてなしをするようになった。その後劉璋が劉備に降伏するとともに厳顔も劉備陣営に加わり以後は同じ老将の黄忠と共にコンビを組んで漢中争奪戦で活躍するようになる。 

その忠義は広く知られ、遥か後代、南宋の名将文天祥が作った中華文学の最高傑作「正気歌」の中にも厳顔の忠義の様が歌われているほどである。

なお完全な余談だがこの文天祥という人物、中華史上最高の才能と能力を持ち、中国を支配したフビライ・ハーンの数年にわたる説得にも屈せずに亡国に忠義を誓って死んでいった人物である。

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第37位:黄蓋(コウガイ)

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孫堅、孫策、孫権と孫家三大に仕えた名将。

どれだけ苦境に立たされようとも主君を裏切ることはなく、赤壁の戦いにおいては決定的な勝利に貢献した。

天下を取らんとする曹操は孫権の治める江東への進軍を開始した。既に河北の袁紹、荊州の劉氏を降した曹操軍の前に孫権・劉備連合軍は圧倒的に不利であった。

しかし曹操軍にも突くべき隙はある。

それは水軍力が高くないことだ。

曹操もその点は認識しており、元劉表軍の蔡瑁を指揮官に水軍を組織していたが、周瑜の策によって蔡瑁は敵方と通じていると判断され処刑、その代わりの将となる人物を探していた。

そんな折、孫権軍に派遣していたスパイから連絡が入る。曰く孫権軍の古将黄蓋が曹操への降伏を主張し大都督である周瑜によって棒叩きの計に処されたというのだ。そしてそれに呼応するように闞沢という男が曹操の許を訪ねる。曰く孫権軍の中には周瑜に不満を持っている人間が多く、古くからの臣である黄蓋が100叩きの計に処されたのを見て多くの将が曹操軍への投稿を考えていると。

疑り深い曹操であったが、密偵の言とも辻褄があっているので闞沢の言うことを信じることにした。良い人材が手に入るのならそれにこしたことはない。

かくして闞沢と黄蓋は曹操軍に寝返り、黄蓋は水軍を率いて孫権軍に弓を引いた…というのはフェイクで、孫権軍が近づいてくるや黄蓋は曹操軍の船に火をつけた。

そう、黄蓋は初めから裏切ってなどいなかったのだ。敵を騙すにはまず味方から。「苦肉の策」によって周瑜は黄蓋を激しく罰し、味方でさえも黄蓋が孫権を裏切ったと思わせたのだった。その際、闞沢はこの策を見抜いており自ら使者を買って出ていたわけだ。

龐統の策「連環の計」によって船を繋げていた曹操軍は水上で逃げ場を失い、孔明の呼び寄せた風によって瞬く間に火が燃え広がった。

黄蓋は早々に船から降りるも敵将張遼のはなった矢を受けてしまい落水そのまま孫権軍に救出されて一命をとりとめる。大仕事を終え戦場から敵軍を眺めると、曹操軍が非に包まれながら敗走する姿が目に入った。

 こうして黄蓋の活躍によって孫権・劉備連合軍は曹操の侵攻を食い止めたのであった。

第36位:馬岱(バタイ)

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馬超の父馬騰が曹操に処刑された時、馬岱は商人に身を変えて馬超の元に父の死を伝えた。

この時点で馬超の一族で生き残ったのは馬岱のみ。他は全て曹操に殺された。

復讐を誓う馬超に付き従い曹操軍、劉備軍相手に転戦、その際漢中に攻めよせてきた劉備配下の魏延を退ける活躍を見せる。

従兄弟の馬超が劉備軍に帰属したのを機に馬岱もそれに従う。馬超が亡くなる際には劉備に「我が一門はもはや馬岱を一人残すのみとなりました。どうかよろしくお願いします」と言って馬岱の身を案じたという。

その後は諸葛孔明の南蛮遠征や北伐に参加、蜀になくてはならない将軍として成長していった。

第35位:張任(チョウジン)

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 貧しい生まれから身を立てて将軍となった人物。そのためか主君の劉璋への忠義が厚く、また非常に優秀であった。

劉備が入蜀した際、劉璋配下たちはこぞってこれを歓迎したが、張任は劉備の野望を見抜きこれに反対。後に劉備軍の軍師龐統の策で魏延が剣舞を踊った際にはその意図を見抜き張任も同じく剣舞を踊り主君の暗殺を阻止する活躍を見せた。

やがて劉備が益州奪取の意思をむき出しにするとこれに対峙、劉備軍を大いに苦しめ、落鳳坡の戦いにおいては劉備軍の軍師である龐統を戦死せしめることに成功した。

 やがて劣勢となり、終には捕縛されるも劉備はその実力を高く評価、自陣に加わるように再三の説得を試みるも張任は拒否、最後は孔明の進言を受け入れて戦場の星となって散っていった。

劉備は最後まで張任に敬意を持ち、その亡骸を丁重に葬ったという。

第34位:張苞(チョウホウ)

張飛の息子。

父親譲りの武勇でもって戦場を駆け抜け、父の仇である張達・范彊を討ち取り義兄弟である関興と共に呉の軍団を散々に打ち破る。

孔明の北伐にも参加し強敵郭淮を敗走させ、その追撃中に馬が足を滑らせてしまいそのまま谷底に落下するという非業の死を迎えた。

第33位:関興(カンコウ)

青龍偃月刀を受け継ぎし戦神の息子。

張飛の息子張苞とは当初仲が悪く、困った劉備は二人の腕比べをさせる。

まずは張苞が矢を三本連続的に当てると関興は飛んでいる鳥を撃ち落としてドヤ顔で張苞に笑いかける。

それに怒った張苞が関興に殴りかかるとこれに応戦、二人は劉備が止めるまで戦い続けたというが、それで分かりあったのか二人は親に倣って義兄弟の契りを結ぶことにした。

関羽の弔い合戦においては李異や譚雄、周泰の弟周平と言った敵将を討ち取りるも一人軍からはぐれてしまい山中をさまよい歩くことになってしまう。夜半過ぎに民家に泊めてもらうことにした関興はその家に父関羽が祀られているのを発見する。そしてその瞬間戸を叩く者が。

関興がとびらを開くとまさか、父を処刑した潘璋がそこにはいた。

関興はそのまま潘璋を討ち取り青龍偃月刀を奪取することに成功、見事に父の仇を討ったのであった。

第32位:徐盛(ジョセイ)

周瑜の腹心として孔明を暗殺しようとするが失敗するところから徐盛の物語は始まる。

その後も劉備と孫権の妹の縁談にかこつけて劉備を暗殺しようとするも当の孫尚香から「このようなことをして恥ずかしくないのですか!」と言われ絶好のチャンスを逃し、周泰や蒋欽と言った武将からは罵られ、曹操軍との戦いにおいては孫権と共に包囲されて周泰に助けられるなど前半は全くいいところがない。

しかし魏国が建国され、初代皇帝である曹丕が攻めて来た際には墨俣一夜城ならぬ仮の城と船を使った仮の軍団を作ることで大軍があると見せかけて曹丕を撃退、その逃走経路に配置していた伏兵たちが魏兵を火攻めにすることで魏皇帝軍30万人を散々に打ち破る活躍を見せた。

命からがら逃げ延びた曹丕は、徐盛をして「孫権軍には未だ人材が多い、今はまだ攻めるべきではない」と言って去っていったという。

第31位:曹彰(ソウショウ)

曹操の正妻である卞氏(ベンシ)の次男で曹丕の全弟。

後に文帝と呼ばれた曹丕とは対照的に武一辺倒で若いころから衛青や霍去病といった古代の英雄たちに憧れ、弓や馬術などに熱心だった。曹操や曹丕からはちゃんと勉強するようにいつも言われているが、曹彰がそれを聞いた気配はない。

しかしその強さは本物で劉備が張飛、馬超、魏延を伴って攻めて来た漢中争奪戦では並み居る強豪たちを相手に八面六臂の活躍を繰り広げ劉備軍を大いに苦しめた。

第30位:孫堅(ソンケン)

 孫子の兵法書の作者としても有名な春秋戦国時代の伝説的名将である孫子の末裔孫堅は17歳にして古錠刀を片手に河賊の船に一人で乗り込み、その船にいた数十人の賊をたった一人で全滅させて名を上げた。

やがて黄巾賊の乱が起こると各地で活躍し、袁紹が反董卓連合の檄を飛ばすとこれに呼応。袁紹や袁術といった有力諸侯が消耗を恐れて何もしないのを後目に曹操と共に董卓軍に果敢に攻め入る。

その途中で始皇帝の作った伝国の玉璽を見つけそのまま撤退するも途中で劉表軍に襲われて兵の大半を失う。

その後劉表軍にリベンジマッチを挑むも劉表軍の軍師蒯良の策にはまってしまい岩の下敷きに、その意思はわずか17歳の孫策に引き継がれるのであった。

第29位:姜維(キョウイ)

孔明の後継者。

初めは孔明の敵として登場し、いきなり趙雲との一騎打ちをしては互角の戦いをし、孔明の策を見破る活躍を見せる。 それを知った諸葛亮は姜維を自らの後継者とするべく策をめぐらせ、敵方に姜維が降伏したというデマを流す。これによって拠点に戻ることができなくなり、行き場を失った姜維の前には関興率いる大軍が目の前に。もはやこれまでと姜維が思った瞬間に羽扇を持った孔明が現れ、姜維に自分のもとにいて漢王朝の復興を目指すように説得した。孔明ほどの漢に口説かれたらそれを聞くしかない。もとより帰るべき家も失った。以後姜維は蜀に降り蜀と孔明のために尽くすようになる。

孔明死後はその意思を継いで魏との戦争を継続、大軍をもって戦っている最中に鄧艾によって蜀の首都成都が陥落し皇帝劉禅は魏に降伏。それを聞いた姜維は怒りのあまり持っていた剣で岩を真っ二つにしたという。

降伏するしかなかった姜維だが、対蜀の司令官の一人であった鍾会は自身が皇帝となる野望を持っており、姜維はこの鍾会と共に魏に対して兵を挙げる。しかしその計画は失敗、姜維も鍾会共々歴史の塵となったのであった。

第28位:華雄(カユウ)

袁紹、曹操、孫堅、劉備など錚々たるメンバーで結成された反董卓連合の前に2mを超すような猛将が立ちふさがった。

各群雄共に自慢の武将を繰り出すが、次々と華雄に討ち取られていく。猛将で知られた孫堅は華雄に大敗し、部下の祖茂が孫堅の身代わりとなってようやく逃げることに成功したものの身代わりとなった祖茂は華雄に斬られて絶命してしまう。

それを見た連合の士気は下がり、盟主袁紹は顔良、文醜を連れてくればこんなことにはならなかったのにと嘆く始末。各群雄ともに華雄を倒せるような武将は擁しておらず、このままでは敗北必至と見られたその時、立派な髭を蓄え青龍偃月刀を携えた大男が名乗りを上げた。

関羽と名乗るその武将を、聞いたこともないと一蹴する袁紹に対し曹操は関羽をただ者ではないと認め、酒を渡して祝福しようとする。それに対し関羽はその酒が冷める前に戻ってきましょうと言って戦場に颯爽と、そしてあっという間に華雄を討ち取ってしまうとまだ冷めていない酒を一口で飲み干したのであった。

第27位:張郃(チョウコウ)

曹操軍きっての仕事人。

元々は袁紹軍の武将で、官途の戦いにおいては敵将張遼と互角に戦うも郭図という自分の保身しか考えない軍師の讒言を信じた袁紹によって立場がなくなり曹操軍に降伏。その鬱憤をはらすかのように袁紹軍を大いに打ち破り、以降は曹操軍の将軍として活躍する。

馬超が攻めて来た際には30合ほどで敗北し、漢中争奪戦では張飛に敗れ、黄忠に後れを取るも諸葛孔明が北伐を開始した際には山頂に布陣した馬謖と王平を大いに破り救援に駆け付けた魏延を退ける活躍を見せる。

その後も司馬懿とのコンビで大いに蜀の軍団を苦しめる好敵手として活躍、孔明を大いに苦しめた。

三国志にとってはなくてはならない敵役といった感じである。

第26位:魏延(ギエン)

身の丈八尺(約190cm)、目は星の輝きをたたえ、顔色はくすべたなつめ色、後頭部は出っ張っており、それを見た諸葛亮からは反骨の相があるから今すぐに処刑すべきだと言われた男が魏延である。

彼は元々劉表に仕えていたが、劉備玄徳という男が劉表のところに身を寄せてから人生が変わってしまった。

魏延はとにかく劉備に仕えたかったが中々その機会が来ない。そうこうしているうちに劉表は死に、軍部の覇権を握った蔡瑁は曹操に降伏し劉備を亡き者にしようと策謀を巡らせ始めた。そのたくらみを知った魏延は劉備を救援すべく誰も知らないようなところで頑張るも結局劉備は曹操軍に追われて遠くへ行ってしまった。

時は過ぎ、赤壁の戦いで敗れた曹操軍がいない隙をついて劉備軍は荊州の南郡4州を奪取せんと進軍を開始、そのうちの1つ長沙を守っていた韓玄のもとに魏延はいた。

これはチャンス!

そう思った魏延は韓玄を斬って捨て長沙を劉備に献上、その際に孔明から反骨の相を指摘されるも劉備は意に介さずに魏延を部下に迎える。

その後の魏延はやはりというべきか劉備の言うことしか聞かず、独断専行が行きすぎ、同じ時期に劉備軍入りした黄忠は軍規を守らない魏延を処刑すべきとまで言う始末。それでも敵将をうちとるなど活躍を見せる魏延を劉備は擁護、劉備が生きている間は魏延は劉備のために粉骨砕身働いた。

劉備亡き後は反目しながらも諸葛亮孔明とのコンビで南蛮遠征や北伐などに参加し、魏の将軍王双を討ち取るなどの活躍を見せる。

しかし自身に反抗的な魏延をなんとか亡き者にしたい孔明は魏延を敵軍に突っ込ませて味方ごと司馬懿の軍を焼き討ちする作戦を敢行、魏延はなんとか生き延びて孔明に詰め寄るが孔明は馬岱のせいだと言って馬岱を降格させて魏延の部下とする。

そう、これは孔明の罠である。

孔明亡き後、魏延は北伐の続行を主張するも全軍は撤退。これを阻止すべく魏延は橋を焼き討ちしてしまい、そのことで味方であるはずの楊儀との戦いとなる。

その際楊儀は魏延に向かって「わしを殺せるものがいるかと言ったら降伏してやる」と謎の宣言をし、これを真に受けた魏延は「わしを殺せる者がいるか!」と言葉通りに叫んだ。すると真後ろから「ここにいるぞ」と言って魏延を切り捨てた者がいた。

馬岱である。

そう、全ては孔明によって仕組まれた罠だったのだ。

孔明はあらかじめ魏延が撤退に反対することを予想していたので、楊儀と馬岱にあらかじめ策を授けていた。

何をどうしようとも孔明は魏延を亡き者にしたかったのだろう。自分亡き後に魏延を制御できる人物はいない。そう判断しての結果であったかも知れない。

第25位:徐晃(ジョコウ)

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大斧を片手で振り回し颯爽と戦場を駆け抜ける名将は最初曹操の敵として現れた。

暴君董卓が死んだと思ったら李傕・郭汜の極悪コンビによって都はメチャクチャ、たまりかねた後漢最後の皇帝献帝は長安を脱出、それを知った曹操は献帝を迎えようとしていたがそれを阻止せんと出てきたのが当時楊奉という人物に仕えていた徐晃だったのだ。

曹操は徐晃を許褚と戦わせるも50合ほど打ち合っても決着がつかない。そしてそれを見た曹操はすっかり徐晃のことが気に入ってしまった。

曹操は満寵に命じて徐晃を説得させに単騎で楊奉陣営に忍び込ませる。

徐晃の前に立った満寵は春秋左氏伝を引用して「良禽は木を択んで棲むと言いますが賢臣もまた主を選ぶものではないでしょうか」と説得、徐晃もそれには反論できずに以降は曹操軍の武将として活躍する。

その後の徐晃は袁紹軍との白馬の戦いにおいて顔良に敗退してしまうも荊州争奪戦では関羽と互角に切り結ぶ活躍を見せる。

ちなみに徐晃と関羽はかつて関羽が曹操陣営にいた際にとても仲が良く、戦場で会った二人はその時の思い出話をしていたわけだが、徐晃は「私事を持って公事を動かすことはできない」と言っていきなり斬りかかっていった。公私混同はしない徐晃の性格がよく出ていると言える。

名医華佗に見てもらったとはいえ肘の調子の戻らない関羽は溜まらず撤退、その後関羽が城に戻ると既に城は呂蒙が占領しており、孤立した関羽はそのまま呂蒙に敗れ去るのであった。

その呂蒙は関羽に呪い殺されてしまうのであったが、徐晃にもまた関羽の呪いが降りかかる。

劉備、関羽、張飛のいなくなった蜀は諸葛孔明が中心となって魏に攻め込む北伐を開始、その際孔明の策によって孟達という武将が蜀に寝返り、徐晃はこの討伐に向かうも孟達によって眉間を撃ち抜かれるという壮絶な最期を迎えてしまう。

後述する正史における徐晃を見るとわかるが、この死にざまは完全に関羽の呪いである。

第24位:夏侯淵(カコウエン)

曹操の姓は曹だが元々は漢帝国建国の功臣夏侯嬰の末裔で、父の代に大宦官であった曹騰の養子となったことにより姓が変わったわけで、元々は夏侯氏の出身で、夏侯淵はそんな曹操の従弟にあたる。

夏侯淵は旗揚げ時から曹操に付き従い、各地を転戦、呂布に濮陽城を取られた際などは焼けた梁の下敷きとなった曹操を典韋と共になんとか助け出すことに成功するなど曹操の危機を救ってくれる存在であった。

後に馬超が攻めて来た際にはこれをよく防ぎ、張魯との戦いにおいては敵将の昌奇、楊任と言った敵将を討ち取る活躍を見せる。

弓の名手としても知られ、銅雀台が完成した時には4本の矢を的のど真ん中にあて、最後の一本をその中心に当てるというおよそ人間業とは思えない芸当を披露している。

しかし劉備が漢中に攻め込んでくると名将黄忠によって斬られその生涯を突如終えてしまう。

この時夏侯淵は損壊した陣地の修繕にあたっており、劉備軍の軍師の一人である法正の進言を受けた黄忠はそこをついた訳であった。

夏侯淵の死を知った曹操は大いに悲しみ、人目もはばからずに大泣きしたという。

第23位:周泰(シュウタイ)

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劉備軍の趙雲、曹操軍の許褚、そして孫権軍の周泰。

主君がピンチになると駆けつけてくれる武将たちである。

元々は長江で河賊をやっていたが、孫策というめっぽう強い男が強い男を探していると聞き相棒の蒋欽と共にこれに参加。孫策陣営に加わるとすぐにまだ少年だった孫権の絶体絶命の危機を救っている。

劉繇を倒した孫策はその拠点をまだ幼い弟の孫権に任せていたのだが、そこに山賊の集団が現れた。孫権の傍らにいた周泰は数十人はいようかという山賊をバッタバッタとなぎ倒し、見事に主君の弟孫権を救って見せた。

その際に傷だらけになってしまい瀕死の重傷を負うが、たまたま通りかかった名医華佗によって一命をとりとめる。

時は経ち、赤壁の戦いで大勝した孫権軍は調子に乗って曹操軍を攻めるも名将張遼によって跳ね返される。この時孫権は再び絶体絶命の危機になるのだが、そこに現れたのが我らが周泰、乱戦の中にあって敵陣を突き破り主君孫権を探し出し、身を挺して孫権を包囲網から脱出させることに成功させたのであった。

無事に拠点に帰った孫権は祝いの席で周泰の服を脱がせ、傷の1つ1つの言われを説明したという。晩年劉備が攻めて来た際には甘寧を斬った沙摩柯を一騎打ちに斬っており、孫権陣営にはなくてはならない人物だと言える。

傷は男の勲章。周泰なら、周泰なら何とかしてくれるのである。

第22位:顔良(ガンリョウ)

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袁紹軍最強将軍の一人。文醜と並ぶ二枚看板の1人。

曹操が袁紹との戦いに臨んだ際、元呂布の配下であり功を焦る宋憲と魏続を連続して討ち取り、名将と名高い徐晃をも撃退、これを見た曹操軍はすっかり顔良に怯えてしまったが、曹操陣営に加わっていた関羽はそれを見て一言。

「私が行って参りましょう」

曹操より賜いし赤兎馬を駆り、悠然と青龍偃月刀を振りかぶり、一太刀にて関羽は顔良を斬って捨てたのであった。

第21位:文醜(ブンシュウ)

伝説上の怪物のような顔をしていたとされる袁紹軍最強の将軍の一人。華雄が反董卓連合軍の前に立ちはだかった時に主君の袁紹から「顔良と文醜をつれてくるべきであった」と言わしめた二枚看板の1人。

公孫瓚との戦いでは袁紹のライバルにして劉備の兄弟子である公孫瓚をあと一歩というところまで追い詰めるも突如現れた趙雲という名の若武者によってそれが阻まれる。

その後天下分け目の官途の戦いにおいては親友の顔良が切られたことに怒り、それをぶつけるように張遼に矢をあてて落馬させ、徐晃を退ける活躍を見せるものの顔良を切り捨てた関羽によって文醜もまた斬られてしまうのであった。

第20位:龐徳(ホウトク)

涼州の群雄馬騰に仕えた猛将で、馬騰が曹操に処刑されるとその忘れ形見である馬超に付き従って曹操相手に戦をしかけるも離間の計にかかった馬超が敗北すると共に漢中の張魯のもとに身を寄せた。

馬超と馬岱は劉備が攻めてくると張魯の要請を受けてこれを迎え撃ったが2人はそのまま劉備陣営に降伏、病気のために取り残された龐徳は張魯と共に曹操と戦い、夏侯淵、許褚と熾烈な一騎打ちを繰り広げるも曹操陣営の罠にかかり捕縛される。それを見た張魯は曹操に降伏し、龐徳もまたそれに従うことにした。

優秀な人材大好きの曹操は漢中を手に入れたことより龐徳が自分の配下に加わったことを喜んだという。

その後龐徳は関羽の守る荊州に派遣され、曹操陣営からは龐徳が馬超のもとに駆け付けるために裏切るのではないかという噂が流れた。それを聞いた龐徳は戦場に棺を持っていき、自分がいつでも死ぬ覚悟があることを示す。

やがて関羽が攻めてくると龐徳の放った矢が関羽の肘に当たりこれを撃退することに成功。しかし関羽が名医華佗の治療によって肘を完治させると大将である于禁との連携を欠きそのまま関羽に捕えられる。

大将である于禁は関羽に命乞いをして降伏したが、龐徳は関羽への降伏を拒否し、そのまま帰らぬ人となった。

第19位:太史慈(タイシジ)

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劉繇の配下だった太史慈は孫策が大胆不敵にも一人で劉繇陣営を探索しているのを発見し、これは幸いといきなり問答無用で斬りかかった。小覇王と言われた孫策もこれに応戦し、二人は誰も見ぬ場所で互角の戦いを繰り広げた。

どれだけ打ち合っても勝負はつかないままに、孫策を心配した黄蓋たちが駆け付けたため太史慈は退散、後日両者は兵を率いての戦いとなったが今度は孫策軍の軍師周瑜の策によって生け捕りにされる。

先の戦いで太史慈に感じるものがあった孫策は太史慈を解放、これを恩に感じた太史慈は劉繇軍をまとめてくると言って去っていった。

孫策の部下たちは太史慈の言葉を信じなかったが、拳を交わした者同士、孫策だけは太史慈を信じ、そして太史慈はそれに応えた。 

やがて赤壁の戦いに勝利した孫権軍はその勢いで曹操陣営の拠点合肥を攻めるもその地を守る名将張遼を相手に攻めきれずにいた。

そんな太史慈の元に部下がある情報を持ってきた。

曰くその部下が合肥の城塞で馬の世話をしているのだが、ヘマをしてしまい張遼に懲罰を受け、そのことを恨みに思っているのだという。もし太史慈が望むのなら内部から火をかけるのでそれを合図に攻め込んでくるようにと。

これを聞いた太史慈は意気軒昂と合肥に攻め入る。かくして合図通りに火の手はあがり城門が開かれる。

この戦勝った。

太史慈がそう思った瞬間に矢があられのように降ってきた。そう、張遼は全てを知っていたのだ。

事態を知った陸遜の救援により太史慈はなんとか戦場から逃げ延びるが、既に全身に矢を浴びており助かる状態にない。

「男として生まれながら名を上げることも出来ずに死んでいくのか!」

太史慈はそう言ってこと切れた。最後まで戦う意思を失わない男であった。

第18位:夏侯惇(カコウトン)

吉川英治の三国志では「カコウジュン」という呼び方だったが現在は「カコウトン」の呼び方が定着している魏の猛将。

かなり閲覧注意な部分がある人物で、呂布との戦いにおいて敵将曹性が放った矢が目にあたるも「親からもらったからだを粗末にできるか!」と言って矢を引き抜きそのまま自分の目を食べてしまいビビった曹性をそのまま突き殺すというおおよそ人間とは思えないエピソードを持っている。

兎に角気の荒い猛将で、徐栄に追い詰められた曹操を助けに来たかと思うとあっという間に徐栄を一突きにしたり、5つの関を破った関羽に猛然と斬りかかったり、この手のエピソードに事欠かない。

猛将ゆえに猪突猛進なところがあり、10万の兵をもって劉備のいる新野を攻めた際には先鋒として出てきた敵将趙雲を蹴散らした勢いでこれ追撃し、李典にこれは罠ですぞと忠告されたにも関わらず深追いしてしまう。ところがこれは孔明の策略で、夏侯惇の軍は配置されていた伏兵の襲撃を受けてしまい兵の大半を失う失態を犯してしまう。

流石の夏侯惇もこれには意気消沈、自分で縄をかけると曹操の許に行って処罰を懇願するが、それを見た曹操は驚きながらも夏侯惇を赦す。

曹操にとって従兄弟である夏侯惇は特別な存在で、唯一自分と対等に話せる相手でもあったのだ。

それにしても夏侯惇、いきなり攻めていったタイミングで孔明が劉備に加わっているなんて、とても運の悪い奴としかいいようがない。

第17位:呂蒙(リョモウ)

若い頃は武力一辺倒で猪突猛進、先陣をきって一番槍を決めるのが常で、いつも何も考えずに敵陣に突撃していくのでついたあだ名が「 呉下の阿蒙(呉の土地にいる呂蒙は阿呆だ)」、これじゃあ早死にすると思った孫権は呂蒙に少しは勉強しろと注意する。根が素直な呂蒙はそう言われてそれからは暇があれば猛勉強を始める。すると呂蒙は白鷺城に閉じ込められた宮本武蔵よろしく分別のある将軍に大変身、久しぶりに会った魯粛からは「もう呉下の阿蒙ではないんだなぁ」と言われたほどで、呂蒙はそれに対し「士分かれて三日、すなわちさらに刮目して相対すべし」とドヤ顔で応じたという。

それからの呂蒙は智勇兼備の将軍として孫権陣営には欠かせぬ存在になり、幾度となく孫権軍の危機を救うことになる。

その最たるは劉備陣営最強の将軍関羽を討ち取ったことであろう。

赤壁の戦い以来、劉備陣営と孫権陣営の対立は避けられず、両者の国境ともいえる荊州にて争奪戦が繰り広げられており、そこに曹操軍も加わって三つ巴の戦いとなっていたものの、その地を守るは軍神関羽。その圧倒的な武力をもって曹操軍、孫権軍の侵攻を跳ね返し続けていた。

真正面からの戦いでは関羽には勝てない。

そう悟った呂蒙は仮病を使い陸遜という名も知られぬ人物を対荊州司令官に据える。それを見た関羽は陸遜という名も知らぬ若造を侮りこれをチャンスと樊城に陣取っていた曹操軍に攻め込む。

仮病を使っていた呂蒙はその間に住民に成りすまして城内に侵入、あっと言う間に領民を買収し、糜芳と傅士仁を裏切らせ、出払った兵士達の家族を捕虜としてしまう。

龐徳を斬り于禁を捕虜とした関羽は荊州に戻り愕然とする。居城がいつの間にか呂蒙に占領されていたのだ。

「図ったな呂蒙!」

関羽は仕方なしに麦城にこもって抗戦するも期待していた補給も援軍も来ずに孤軍奮戦、さしの軍神関羽も圧倒的な包囲網を前に養子の関平、腹心の周倉と共に捕えられてついには処刑されてしまう。

その後荊州を手に入れた孫権は呂蒙をねぎらうために宴を催したが、孫権が直々に酒を注ぐなり呂蒙は豹変、「碧眼の小児、紫髭の鼠輩。我は関羽雲長なり」と叫んだかと思うと孫権に襲い掛かり、体中の穴という穴から血を流してそのままこと切れてしまった。

死んでからも人を呪い殺すとは、関羽の力はすさまじき。

この一件以来、人々は関羽の怒りを鎮めるために彼を軍神として祀るようになったという。

第16位:黄忠(コウチュウ)

劉備が荊州南端の長沙という土地を攻めた際、太守の韓玄の命で劉備軍を迎え撃ったのが黄忠だった。

見るからに年を取ったこの老将を関羽は侮っていた。自慢の青龍偃月刀で一太刀にするつもりが40、50合打ち合ってもまるで決着がつかない。さらに打ち合うこと30合、黄忠の乗っていた馬がよろけてしまい打ち込む隙が出来たのだが、関羽はそのような勝ち方を望むような人物ではない。関羽は赤兎馬を翻すと「また後日」と言って颯爽と去っていった。

そして次の戦い、関羽軍の前に立った黄忠は弓を引いて関羽の兜の緒を射る。

「これで借りは返しましたぞ」

そう言って去って行った黄忠を長沙太守韓玄は見ており、黄忠を敵と内通した罪で牢獄に閉じ込めてしまう。それを見て怒ったのが魏延で、韓玄を斬ると黄忠を解放し、共に劉備陣営に降伏したのであった。

劉備配下になった黄忠は同じく老将である厳顔とコンビを組み快進撃を続ける。特に漢中争奪戦での活躍はすさまじく、孔明の「老将に張郃の相手は難しいでしょう」の一言に激怒、その怒りを張郃にぶつけた結果張郃の持っていた檄が真っ二つになり見事に敗走させることに成功。孔明、きっとそれはわざとだな。

怒りの黄忠は止まらず、張郃を追っ手てひたすら進軍、途中夏侯尚、韓浩が援軍に駆け付けたものの一蹴、終には曹操の従弟である夏侯淵までも斬って捨ててしまうのであった。

暴走した老人パワーは恐ろしい。。

黄忠の活躍もあって漢中の地は劉備のものとなり、漢中王に即位した劉備は黄忠を関羽や張飛と並ぶ五虎将軍に任命した。

やがて関羽が呂蒙に殺され、その弔い合戦として劉備陣営が全軍を率いて孫権に攻め入った際、張苞、関興の活躍を見た劉備が「昔からの将軍が老いて役に立たなくなった中頼もしいものよ」と言ったのを聞いた黄忠は再び頭に血が上り敵軍に突撃、八面六臂の活躍をするが頭に血が上りすぎて引き際を誤り、敵将馬忠が放った矢が腰に刺さり撤退。

「殿、天下をお取りください」

そう言って75歳の老将黄忠は劉備の腕の中で静かに息を引き取っていったのであった。

第15位:張遼(チョウリョウ)

魏国を代表する将軍である張遼もまた当初は曹操の敵として現れた。

いつの頃からは分からないが英傑呂布に従い曹操軍を大いに苦しめたが、呂布が曹操に捕えられると張遼も一緒に捕えられ、呂布が曹操に命乞いをするのを見ると「見苦しいぞ、人間死ぬときは死ぬのだ!」と一喝、呂布が処刑されるとさぁ自分の番だというその時、曹操の傍らにいた関羽が言った。

「張遼殿は忠義の士、拙者の命にかけて間違いござらん」

関羽大好き人材大好き曹操はこの言葉に大喜び、急いで張遼の縄を解かせて自らの陣営に加えた。

その後劉備と曹操は仲たがいをし、曹操が劉備を攻めると3兄弟は離散、孤立した関羽は曹操軍に包囲をされる。討ち死にを覚悟した関羽だったが、曹操側から使者が訪れる。

「死ぬのは簡単だが生きてこそなせることもある」

他でもない張遼の言葉を前に関羽は3つの条件を呑んでくれれば降伏するという提案をする。

  • 劉備の妻子を保護すること
  • あくまでも自分は曹操の臣ではなく漢王朝の臣であること
  • 劉備の消息がわかったらすぐにかけつけること

かなり無茶な条件だが張遼はあいわかったといい曹操も渋々それを承諾する。条件付きとはいえ関羽が自分の所にくるのだから大喜びで、やはり張遼を仲間にしてよかったと曹操はしみじみ思うのであった。

その後の袁紹軍との間に起きた官途の戦いにおける関羽の活躍はいわずもがな、張遼も名将張郃と互角の戦いをするなど活躍、敵将の将奇を討ち取るなど功績を立てた。

その後も烏桓との戦いでは今度は味方となった張郃と共に首魁である蹋頓(トウトン)を討ち果たし、赤壁の戦いでは偽りの降伏をした黄蓋に向かって矢を放ち怪我を負わせている。

そして赤壁の余波をもって攻め込んできた孫権軍の侵攻を合肥で防ぎ、太史慈を戦死させ、濡須口の戦いでは淩統を散々に打ち破る。

張遼が来る。そういっただけで呉の人間は恐れをなし泣いている子供が泣き止むと言われた張遼であったが、曹丕と共に呉に攻め寄せた際には徐盛の偽城の計によって伏兵に遭い、敵将丁奉の放った矢が腰にあたり落馬、危機一髪のところを徐晃に救われ、許昌まで戻るもその傷がもとで亡くなってしまう。

第14位:甘寧(カンネイ)

甘寧は元々長江流域で暴れまわっていた河賊の頭目で、部下には同じ刺繍の入った服を着せ、陸を行くときは馬に、河を行くときには船に乗っており、腰には鈴をつけていたためその鈴を聞くと誰もが逃げ出すほどであったという。

そんな甘寧も真面目にならねばと思ったのか部下と共に当時荊州一帯を支配していた劉表の部下である黄祖に帰順。黄祖と言えば江東の虎と呼ばれた孫堅を倒した有力者で、禰衡をはじめ広く人材を採用していたので甘寧もそれに乗っかった形だったのだろう。そこで孫堅の息子孫権軍との戦いとなり甘寧は敵将であった凌操を討ち取る活躍を見せる。

しかしどれだけ軍功を挙げても評価されないことに嫌気がさした甘寧は魯粛や呂蒙と言った人物の推薦もあり孫権に仕えるようになった。

赤壁の戦い後の合肥の戦いでは夜中にわずか100騎での夜襲をかけて敵兵を散々に打ち破る活躍を見せた。この際甘寧は味方がわかるように部下の胸元にがちょうの羽をつけさせたという。

これを聞いた淩統は父の仇にまけてたまるかと功を焦ってあわや敵将楽進に殺されそうになる。

実は甘寧にも淩統に負い目があった。今は味方となったがかつて自分は淩統から父を奪ってしまった。それはいわば借りだ。そしてその借りを返すべき瞬間がやってきた。甘寧はキリキリと弓を引き絞り楽進の眉間を一撃、それを見た孫権は「曹操軍には張遼という将軍がいるがわが軍には甘寧という将軍がいる」とご満悦であったという。

しかしそんな甘寧にも最後の時が訪れる。

関羽を殺された劉備は怒り心頭、全軍をもって孫呉の地に攻め込んできた。先鋒として向かうった孫桓はあっさりやられ、孫権は周泰、淩統などと共に甘寧を救援に向かわせる。

この時甘寧はかなり重い病にかかっており、かなり無理をしての参戦であった。

なにか悪い予感がする。甘寧は参戦前からそんな気がしていた。それなりの場数を踏んだ者特有の勘とでも言おうか。俺は今回の戦で死ぬ。

その予感の通り鬼の金棒のような武器を持った南方系の将軍沙摩柯の撃った矢が甘寧を直撃、名将はそのまま息絶えるのであった。

第13位:司馬懿(シバイ)

三国志におけるジョーカー的な存在。

司馬懿は荀彧同様代々漢王朝の名門で、漢王朝をないがしろにする曹操のことを兎に角嫌っていた。しかし優秀な人材大好き曹操がそれを許すわけもなく、司馬懿に出仕するように何度も催促をよこす。

どうしても曹操に仕えたくなかった司馬懿は仮病のふりをしてそれをやり過ごしていたわけだが、ある日女中が司馬懿が元気なのを見てしまい、司馬懿の妻の張春華は夫の秘密を守るためにこの女中を殺害してしまう。さすがの司馬懿も妻のこの行動にビビってしまい、家にいたくなくなったのか曹操の許へしぶしぶ出仕している。

この時曹操は司馬懿に対して後ろから話かけたところ首が180度回ったのでこれを「狼顧の相」があるとして非常に警戒をするようになったという。自分で出仕させておいて警戒するとはいかにも曹操らしい。

嫌々ながらも出仕した司馬懿はやはりかなり優秀で、曹操に対して逐一的確なアドバイスをしているが、それが的確であればあるほど曹操は司馬懿を疑うようになっていき、曹操が生きている間はあまり重用されなかった。曹操が優秀な部下を遠ざけるのは非常に珍しいことである。

しかし司馬懿は曹操の嫡男である曹丕と仲が良く、曹操が亡くなると魏の初代皇帝となった曹丕に重用され、自分が死ぬときには息子の曹叡を頼むと遺言される。

そして蜀の天才丞相諸葛亮孔明が魏国に向かって侵攻してきた際には司馬懿がこれを迎え撃つ。

途中孔明の空城の計にかかったり、死後に孔明の像に驚かされて裸足で逃げ出し「死せる孔明生ける仲達を走らす」などという諺が出来たりと散々な目には遭ったがなんとか5度に渡る北伐を阻止して魏国を守ることに成功した。

晩年、曹叡が死ぬと得体の知れない曹家の連中が皇帝となり、自身は中央からどんどんと遠ざけられるようになるのだが、孔明を相手にしていた司馬懿の敵になるような人物はおらず、政敵を1人ずつ排除していった司馬懿はついに曹家に対してクーデターを敢行し魏国を完全に掌握、息子達は蜀を滅ぼした後に魏も滅ぼし晋を建国、孫の司馬炎の代になって晋は三国を統一し、100年ぶりに中華統一を果たすのであった。

第12位:孫策(ソンサク)

古の時代、まだ漢という国が出来る前の話、中華の南半分を支配した楚という国が存在した。キングダムの主人公として知られる秦の大将軍李信が楚に20万人の兵を率いて侵攻してきた際、楚の大将軍であった項燕はこれを大いに破ったのだが、今度は王翦という将軍が60万人の兵を率いて楚を滅ぼした。楚の王族や貴族は根絶やしにされたが、項燕の孫の項籍は奇跡的に生き延び、そして祖父の恨みをはらすべく秦を滅ぼした。

項籍はやがて項羽と呼ばれるようになり、そのあまりの強さから「覇王」とあだ名されるようになり、劉邦の軍団を毎回のように蹴散らしてくのであった。

そしてまた一人、三国志の時代に項羽の生まれ変わりと言われた男がいた。

「小覇王」とあだなされたその男は父から受け継ぎし伝国の玉璽を質に袁術から兵を借りると瞬く間に江東の広い土地を我が領地とした。

父の後を継いだのが17歳。江東地方を制圧したのがわずか25歳。再び中華の統一を果たすのはこの男しかいない。誰もがそう思っていた。

その圧倒的な力とカリスマ性にあこがれて、多くの人材が男の元に集まってきた。

江東の名士張昭、張紘、元河賊の周泰、蒋欽、敵であったはずの太史慈に幼い頃からの親友周瑜。

その男、孫策の将来には誰もが夢を見ずにはいられなかったが、彼には一つ短気という欠点が存在した。

ある時領内で于吉という人物が民衆の支持を集めているという話を聞き、孫策は実際に会いに行く。孫策は于吉を人心をかどわかす危険人物としてこれを斬って捨てるも毎夜枕元に于吉が出てくるので次第に衰弱し、終には25歳の若さで亡くなってしまうのであった。

「戦えばお前は俺の比ではないが、この江東の地を守ることに関してはお前は俺より上だろう。内政は張昭に、外交は周瑜によく相談するように」

最後は弟にそう言ってこと切れた。

かくして孫権は兄の遺した江東の広大な土地の長となり、曹操、劉備といった英傑達と渡り合い、ついには皇帝にまで昇り詰めていくのであった。攻勢の孫策、守成の孫権、この2人の兄弟がいなければ、やはり三国志は成り立たなかったであろう。

第11位:曹操(ソウソウ)

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三国志におけるもう1人の主役。

横山光輝三国志だと「げぇぇ、張飛!」と言ってビビりまくっているイメージが強いが、黄巾の乱の鎮圧の時より曹操孟徳は戦の天才でもある。

確かに曹操は結構負けている。董卓暗殺には失敗し、董卓軍の徐栄には追い詰められ、呂布にはコテンパンにされ、赤壁の戦いには敗北し、漢中も劉備に取られた。

しかし曹操の恐ろしさは負けるたびに強くなっていくことだ。

董卓との戦いに敗れた時には人材のリクルートに熱心になり、荀彧、荀攸、郭嘉などの軍師を得て、呂布との戦いでは張遼を、袁紹との戦いでは張郃を、張魯との戦いでは龐得を、戦う度に強くなっていくその様はまるで少年ジャンプの主人公のようである。

呂布、袁術、袁紹、李確と言った群雄達を滅ぼし、劉備を散々に打ちのめし、馬超や張魯と言った有力者にも勝利し、中華圏の約3分の2をわずか一代で制覇してしまった傑物でもある。

その成功の秘訣は自身が一流でもあるのにさらに優秀な人材を使いこなす器があったことだろう。

曹操よりも強い人物はいるが、曹操よりも人を使いこなす能力のある人物は劉備玄徳だけである。その劉備も自身はさほど知略も力もないため、総合すれば曹操が一番であろう。このような力はさしの諸葛孔明にもなかった。

結局のところ三国志は優秀な部下を沢山擁した人間が勝利した。曹操、劉備、孫策、孫権、皆リクルートに熱心であった。

中でも曹操の熱心ぶりはすさまじく、敵であった関羽が自分の所に来たと聞いては喜び、太史慈が活躍したと聞いては勧誘し、趙雲が活躍するのを見ては生け捕りを命じ、劉備玄徳でさえも自分の部下にしようとしたぐらいだ。

それらは失敗してしまったけれど、元々は敵だった徐晃や張遼、張郃と言った人材の獲得には成功していて、とにかく優秀な人物なら誰でもウェルカムと言った感じだった(ただし呂布は除く)。

その性格が災いして龐統の連環の計にかかったり、黄蓋や闞沢の苦肉の策にかかったりと結構自ら敗因も作っているような気もするが、そういう失敗をするあたりも曹操らしいと言える。

演技における圧倒的な悪役でもあるのに同時に主人公でもあるという特異な人物で、スターウォーズのダース・ベイダー並みの魅力があり、やっぱり三国志はこの人物がいないと始まらない。

それにしても曹操、これだけの人材好きだったのに、唯一諸葛亮孔明のことだけは欲しがらなかったのはなぜだろう?

第10位:典韋(テンイ)

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たまたま狩猟に出ていた夏侯惇が初めて典韋を見た時彼は山中で虎を追っていた。

聞けばかつて人を殺して山中に逃げ出していたという。

この男をどうしようかと思案していた夏侯惇であったが、曹操はその話を聞いて典韋を気に入り、あろうことか自分の親衛隊に取り立てた。

80斤(約50キロ)もある檄を自在に振り回し、数人がかりで支える軍旗を片手で支える典韋を見て曹操は「まさに我が悪来」と言って喜び常に身辺に置いたという。

*悪来とはかつて殷王朝最後の王帝辛に仕えた怪力無双の人物。

典韋もまた曹操に忠義を尽くし活躍し、 呂布との戦いでは部下に「敵があと十歩の所に来たら教えよ」と言って手にした檄を次々に投げつけ敵を追い払ったという。

しかし曹操が鄒氏という絶世の美女とイチャイチャしているのに激怒した張繍が攻めてくると(鄒氏は張繍の兄嫁だった)門前に立ちふさがり80斤の戟をそれぞれ両手に抱えて振り回しながら敵の侵入を防ぐも、やがて戟は折れてしまい使い物にならなくなってしまった。そうなると典韋は戟を投げすてて今度は素手で兵を挟みながら敵を挟み殺すも既に体中に矢が刺さり、槍が刺さり、それでも武蔵坊弁慶さながらに典韋は戦い続け、曹操が逃げ延びたと知るまで一人になっても戦い続けた。

まさに親衛隊魂ここにありである。

やがて逃げ延びた曹操は典韋の死を我が子である曹昂(同時期に父である曹操に馬を渡して自身は死んだ)の死以上に嘆き悲しみ、半日間涙を止めることが出来なかったという。

このことがよほど堪えたのか、曹操は二人の命日になるとどんなに激しい戦闘の際中であっても2人を悼むことを忘れなかったという。

第9位:趙雲(チョウウン)

眉目秀麗にしてどんな時でも冷静沈着、主君がピンチとなれば真っ先に駆け付けて敵をバッタバッタとなぎ倒す永遠の若武者、それが趙雲子龍という男だ。

ある時、劉備の兄弟子公孫瓚はピンチを迎えていた。袁紹軍との戦いで伝説上の化け物のような容姿をもった文醜によって今にも殺されんとしたのだ。

この見るも恐ろしい、だが大陸中に名の知れたこの武将の前に一人の若武者が立ちはだかった。両者一歩も引かぬままに打ち合うこと数十合、既に公孫瓚は逃げ延びており、期を逸した文醜は撤退、趙雲はそのまま公孫瓚に仕えることになった。

やがて弟弟子の劉備が公孫瓚を訪ねてくるとそこには趙雲の姿があり、劉備は大変趙雲が気に入り、趙雲もまた劉備に大きな徳を感じた。お互い何か運命じみたものを感じたものの、趙雲には公孫瓚という主君があり、この時は一度別れを経験している。

その後公孫瓚と袁紹が戦った際には趙雲が敵の名将張郃と高覧を打ち破る活躍を見せるも公孫瓚の本軍は袁紹に敗れ去ってしまう。

その後趙雲は袁紹に仕える気にはなれず、劉備が袁紹のもとに身を寄せていると知ってこれに合流することに成功した。張飛も関羽も失った劉備を守ったのはこの時期趙雲であった。

その後の趙雲の活躍はまさに飛ぶ鳥を落とす勢いで、徐庶が加入するやその策を実行して曹仁の八門禁鎖を破り敵将の呂曠を討ち取る大活躍を見せる。

そして劉備が曹操軍100万人に攻められて散り散りになった際には敵将夏侯恩を討ち取ると劉備の妻子を見つけ、井戸に身を投げた劉備夫人の願いを聞き入れて劉備の阿斗を鎧の内に抱えながら100万の兵の中を単騎でかけぬけた。

それを見た曹操はどうしても趙雲が欲しくなり部下たちに生け捕りにせよ、決して傷づけてはならんと厳命。この曹操の本末転倒ともいえる命令も追い風となりなんとか劉備の許へ帰還することが出来た。

すると劉備は趙雲をして「子龍はこれ胆なり(まるで全身が胆っ玉のような勇気のかたまりだぜ)」という言葉を送って最大限の賛辞を与え、一方自分の息子阿斗を地面に投げ捨てて「お前のせいで私は大事な将を失うところだったではないか」と激怒し、それを見た趙雲は感涙に耐えたという。

それにしてもこんな扱いされてりゃそりゃあ劉禅も暗愚になるよなぁ…

赤壁の戦いが終わった後は荊州4郡のうちに一つ桂陽を攻め落とし、益州攻略戦では劉唆、馬漢と言った将軍を討ち取る活躍を見せ、続く漢中攻略戦でも慕容烈、焦炳などの将軍を討ち取ることに成功し勝利に貢献した。

劉備軍が関羽の弔い合戦、夷陵の戦いに臨んだ際には孔明と共に留守を預かるも孔明の命を受けて救援に駆け付け陸遜の放った大火から劉備を救い出している。

劉備死後も孔明の手足となって南蛮遠征や北伐にも参加、金環三結や韓瑛などの敵将を討ち取っている。

その他にも孫権に命を狙われた際などに劉備を助けており、呉の周泰、魏の許褚と共に主君の命を幾度となく救った人物である。三国志人気投票をしたらきっとトップ5には入るだろうなぁ。

第8位:許褚(キョチョ)

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曹操軍最強の武将。

典韋が黄巾賊の残党と戦っていた時、首領の何儀を追って山中に入っていったことがあり、その際典韋の目の前に立ちふさがったのが許褚である。許褚は典韋に向かって挑発するように

「既に賊は全て捕まえたぞ」

と言い放つ。典韋がそれが本当なら今すぐに連れてこいというやその許褚は「俺からこの戟を取れたらな」と言ったのでそのまま二人は喧嘩となった。

喧嘩と言っても両者途中から相手を殺す気になっており、それでもまるで決着はつかず、気が付いたら日が暮れようとしていた。流石に疲れた二人は勝負はまた明日と言ってその日は解散。

その言葉通りに次の日再び殺し合いを始めた二人であったが、その様子を見ていた曹操は許褚のことがとても気に入ったので何とかして部下にできないかと思案した結果、落とし穴をしかけて捕えることにした。おいおい猪じゃないんだぞ…いや、結構似ているか。

それ以来許褚はまるで影のように曹操に付き従い、寝所にあっても唯1人帯刀を許されたという。

その後も曹操の危機を幾度となく救い、父を殺され激怒した馬超が曹操に対して「貴様の生肉喰らってやる」と言って突撃した際にも許褚がその前に立ちはだかり、打ち合うこと数百合、戟も折れ、地面に投げ出された後も殴り合いの試合が続き、曹洪や夏侯淵が止めに入ってようやく一騎打ちが終わったほどであった。

張魯を攻めた際には龐徳との一騎打ちに臨み、わざと負けたふりをして龐徳を生け捕りにすることに成功、その後も曹操の親衛隊長としてその身を死ぬまで守り続けたのであった。

戦いとなると激しい勢いを見せる許褚であったが普段はボーッとしており、普段は「虎痴」という綽名で呼ばれていて、多くの人はそちらが本名だと思っていたようである。

第7位:馬超(バチョウ)

漢王朝の忠臣であった馬騰は皇帝である献帝を傀儡とする曹操の横暴に業を煮やし、これを誅すべく暗殺計画を立てたのだが、仲間の意思吉平の部下の裏切りにより失敗。その咎を受けて馬騰の一族は全員処刑。死を察した馬騰によってただ一人馬岱だけが生き残り、唯一の生き残りである馬超の許へなんとか逃げ帰ることが出来た。

復讐に燃える馬超は韓遂を始めとした涼州の有力諸侯の力や周辺の騎馬民族の協力を得て曹操への敵討ちを敢行、長安に向けて進軍を開始した。

中華最強と名高い涼州の騎馬隊を擁した馬超・韓遂の連合軍は進撃を開始するや曹操軍の将であり李通をあっさりと撃破すると、曹操旗揚げの時代より付き従う曹操の腹心である于禁をも退け、歴戦の名将張郃をもわずか30合ほど打ち合った末に打ち破ってしまったもであった。

「曹操、貴様の生肉喰らってやる」

目を復讐の炎で滾らせ、父の仇曹操を目前見据えた馬超が突撃するや曹操軍は雲散霧消、もはやその進撃は止められないと誰もが逃げ出したその時、馬超の前に一人の男が立ちふさがった。

漢の名は許褚。曹操の身辺を常に守ってきた男である。

馬超はこれを面白いと思い自ら進み出て許褚との一騎打ちを始める。

両者着る服もボロボロになるまで戦うも復讐は達成できず、馬超は結局曹操を討ち逃してしまう。

その後の馬超は曹操を攻めようとするも敵の軍師である賈詡の離間の計にかかって韓遂と仲たがいしてその腕を切り落としてしまうと連合軍は解体、その隙を突かれて馬超は敗北、そのまま馬岱や龐徳と共に漢中の張魯のもとに身を寄せる。

やがて張魯のもとへと攻めて来た劉備軍との戦いが始まると張魯に乞われこれを従兄弟の馬岱と共に迎え撃つ。

勇猛を知られる馬超の前に劉備軍は為す術もなく敗走してしまうが、それを見た張飛が馬超に向かって自慢の蛇矛を持って斬りかかっていく。思わぬ腕自慢の登場に馬超も武人の血が騒ぎたちまちに内に一騎打ちが始まった。

打ち合うこと数百合、二人の戦いは終わりが見えず、やがて日が暮れるものの二人の激戦を見守るべく灯がたかれ、それでも決着がつかず、気が付けば朝になる始末。しかしそんな壮絶な殺し合いの中でいつしか二人には敵ながら友情が芽生えていたことに二人は気づいていた。

劉備はなんとかしてこの猛将を自分の味方につけないものかと軍師の諸葛亮に相談。そこで孔明は一計を案じ、張魯軍の楊松に金を渡し馬超が劉備軍に寝返ったという噂を広めさせる。

これによって帰るところのなくなった馬超の元に劉備軍の李恢がやってきて言った。

「我々の敵は曹操ではないだろうか?そして目標は漢王朝を復興させることではなかろうか?」

それを聞いた馬超は劉備のもとにはせ参じ、共に漢王朝の復興と曹操の打倒を誓うのであった。

それを聞いてあわてたのは益州を治めていた劉璋で、錦馬超と呼ばれた猛将がいたのではもう敵わんとそのまま劉備に益州を差し出してしまった。

やがて漢中王となった劉備は馬超を関羽、張飛と並ぶ五虎将軍に任命したのだが、馬超は重い病にかかってしまい、ただ一人生き残った一族の馬岱をよろしく頼むと劉備に遺言して静かに眠っていくのであった。

第6位:周瑜(シュウユ)

父孫堅が死んだ後、息子の孫策は袁術のもとで領民たちの反乱鎮圧に勤しんでいた。その領民たちも元はと言えば袁術の悪政によって生きていく場を失った者たち。

苦しんでいる無辜の民たちを相手に雌伏の時を過ごす孫策は自分の人生に疑問を感じていた。一体自分はこんなことをしていていいのだろうか。いや、良い訳がない。

「もしもの時はこれを使え」

孫策は生前父から渡されていた伝国の玉璽を質に袁術から兵を借り、後の南京となる都市を治める劉繇を攻めることにした。旧孫堅軍の復活である。その様に古くからの将軍であった黄蓋や韓当、程普は涙した。

孫策挙兵の報は瞬く間に江東に知れ渡り、かつて孫堅のもとで戦った者、その噂を聞きつけたものなどが次々と集まってきた。そしてその中でも特に大軍を率いて合流した人物がいた。孫策の竹馬の友周瑜である。

「孫朗が兵を挙げたと聞いてあわてて駆け付けたんだ」

名門出身の有力貴族である周瑜の趣味は音楽、特技は剣舞、容姿端麗は極みにつけ、ついたあだなは美周郎、現代風に言えば三国志一のイケメンで、知略は古の軍師たちに匹敵し、指揮を取れば無敵、江東のイケメンコンビは瞬く間に江東の地を制圧しあっという間に一大勢力を築き上げてしまう。

周瑜はこの頃絶世の美女で知られる小喬を妻とし、小喬の姉の大喬は孫策と結婚したため二人は義兄弟にあたることになる。

無敵の義兄弟はこのままいけば曹操だって倒せる。誰もがそう思った矢先に孫策は死んでしまう。

跡を継いだのは弟の孫権で、孫策の遺言通り周瑜はこれをよく支えた。孫策の見立て通り弟は攻め手には欠けるが領地を守ることに才能があり、二張と呼ばれた張昭、張紘とともに江東の地はさらなる発展を遂げることになった。

だがしかし乱世にあって平和な時代は長くは続かない。袁紹軍を滅ぼし中原の覇者となった曹操は漢王朝皇帝献帝の名を使って孫権に対して服属を要求してきた。圧倒的な兵力を誇り、荊州の劉氏さえ服属させた曹操を相手に降伏するか抗戦するか、孫権陣営は割れた。なにせ孫権軍は劉表の配下であった黄祖をやっとの思いで攻略したぐらいなのだ。果たしてその何十倍も強い曹操軍に勝つだけの力があるのかどうか。

内政を司る張昭を中心とした文官たちは降伏を支持し、周瑜や魯粛などわずかな人間だけが曹操に徹底抗戦を行う構えを見せた。

しかし多勢に無勢、このままでは曹操はおろか孫権軍の多数派にも勝てない。どうすれば曹操の野望を食い止められるだろうか。

思い悩んでいたいた周瑜の元に、魯粛が珍妙な男を連れて来る。頭に頭巾をかぶり、手には羽扇、立派な体格をしたその男は諸葛亮孔明と言うらしい。周瑜は孔明とは面識がなかったが兄の諸葛瑾は孫権陣営の同僚であり、その噂は聞いていた。曰く弟は自分の何倍も才能があると。誰よりも優秀な諸葛瑾が自慢する弟とはどの程度なのだろうか。周瑜はさっそく孔明と会うことにした。

孔明は周瑜に会うなり孫権と劉備で同盟して曹操に対抗すべきと主張。なんなら自分が孫権軍の非戦派を説得しましょうと言い始めた。これは面白いと思い周瑜も諸将を集めて会議を招集した。

並み居る面々を前に孔明はまるで臆する様子もなく、孫権の面前で次々と論客を論破し、ついにはとんでもないことを言い始める。

「もしも皆さんが降伏したいのであれば良い手があります。曹操は小喬、大喬という美人姉妹を両脇に侍らせて酒を飲むのが夢だと言っていました。もし二人の美女を献上すれば曹操は喜び、皆さんのことを悪いようにはしないでしょう」

それを聞いた周瑜は激怒した。

「小喬は私の、そして大喬様は無き孫策様の妻であるのだぞ!貴様それを知ってのことか!!」

周瑜がそう叫ぶが早いか孫権やをらに立ち上がり、おもむろに剣を抜き、振りかぶったかと思うと目の前にあった机を真っ二つに割った。

「今後私の前で降伏を口にしたものはこの机と同じになると思え」

かくして孫権陣営は曹操との戦いを覚悟し、三国志最大の戦いである赤壁の戦いの火ぶたが切って落とされたのであった。

 とはいえ同盟を結んだとはいえ不利であることには変わりない。もし孫権・劉備連合軍が勝てるとしたら水上戦であり、そして火計である。

その点で周瑜も孔明も一致していたが、肝心の風が向かい風であった。このままでは放った火が自陣に燃え広がってしまう。

「なぁに、風ぐらい吹かせましょう」

そういって孔明が祭壇に祈りを捧げると7日目に本当に追い風が吹いた。この男、天候をも操れるのか!

しかし弓が足りないというと孔明は霧の中船を進水させ、曹操軍がその船に向かって放った矢を回収して10万本の矢を用意してきた。

ドヤ顔で矢を用意してきた孔明に周瑜は生まれて初めて恐怖を感じた。それは生まれて初めて自分よりも優秀な人物にあった周瑜にだけ起こった現象であった。

今は味方であるからよい。しかしこの男を生かしておいては将来の禍根を残すことになる。周瑜は内心そう思ったが、まずは眼前の曹操軍をどうにかせねばならない。未だ絶体絶命のピンチなのだ。

なにせ曹操は孫権軍内にも密偵を放っており、こちらの作戦などは全て筒抜けとなってしまっている。まるで前門の虎、後門の狼。

しかし周瑜はならばとそれを逆手にとることを考え付く。密偵としてやってきた昔馴染みの将済という男にわざと敵軍の水軍都督蔡瑁との内通を示す手紙を見つけさせ曹操を疑心暗鬼にさせ、孫堅以来の古将黄蓋を降伏を口にしたとして棒で100叩きにしては敵方に投降させる苦肉の策を用い、孔明のことはうまく利用しながら戦を有利に進めていった。曹操の次はお前だぞ孔明。

そして臨んだ曹操軍との戦い。事前に龐統が曹操に教授した船がバラバラにならないように船同士を鎖でつなぐという「連環の計」、そして孔明が呼び寄せた風によって孫権軍が放った火は燃え広がり、水上で身動きが取れなくなった曹操軍100万の兵は完全に壊滅した。

世に名高い赤壁の戦いである。

周瑜の動きは速い。曹操軍を追い返した瞬間に荊州に向けて兵を送っていたのだが、なんと周瑜が曹操軍相手に奮闘している間に、荊州はいつのまにか劉備軍のものになっていた。

話が違う!

激怒した周瑜は孔明を暗殺すべく追っ手を差し向けるも既に孔明は逃げ延びており、完全に一杯食わされた形となった。怒り心頭に発した周瑜は拳を地面に叩きつけて叫んだ。

 「なぜ天はこの周瑜公謹をこの世に誕生させながら諸葛亮孔明を生み出したのか!」

血が頭に昇った周瑜はそう叫ぶと血を吐いて死んでしまった。江東を占領し、最強の曹操軍を追い返した周瑜にとって、同じ時代に諸葛亮孔明という天才が生まれたことは不幸以外のなにものでもなったのだった。

もし孔明がいなければ、周瑜はそのまま益州や荊州を手に入れて天下は南北に二分されていたのかも知れない。

第5位:張飛(チョウヒ)

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 俺は張飛だぁ!文句のあるやつはかかって来い!文句のない奴もかかって来い!

三国志演義は張飛が劉備に声をかけるところから始まった。意気投合した張飛は劉備とのみ生き、そして関羽と出会い三人は桃園にて義兄弟の契りを交わしたのだ。

短気で喧嘩っぱやい猪突猛進型の性格だがその実情に脆く、戦場に出れば一騎当千の猛将、そんな張飛は本場中国では大変な人気であるという。

2mを超す大男で、4mはあろうかという蛇矛を操り袁術軍の紀霊や曹操軍の呂翔と言った名の知れた将軍を打ち破り、馬超との夜通しの一騎打ちは名高く、漢中争奪戦では名将張郃のことも撃退している。

厳顔や張任と言った名将にも勝利しているが、その見せ場は何と言っても「長坂橋の仁王」であろう。

曹操軍100万に攻められて離散した劉備軍、このままいけば全滅という場面で張飛はただ一人自慢の蛇矛を地面に突き刺すと橋の前で大軍の前に仁王立ちをした。そして大きく息を吸い込むと100万の兵に轟くような声でこう叫んだのであった。

「俺は張飛だ!死にたい奴はかかって来い!!」

雷のような声で恫喝した張飛に、100万の軍はビビってしまった。

その姿はまるで仁王のようであり、しかもかつて関羽が張飛は自分より強いと言っていたのを曹操軍の兵士たちは覚えていたのだ。

曹操軍の誰よりも強い関羽将軍よりも強い武将…

たった1人の相手であるにも関わらずその迫力の為に誰も動けない。曹操がいくら号令しても怖くて誰も張飛にはかかっていけない。膠着状態はしばらく続いたが、劉備達が逃げ延びたのを確認した張飛は長坂橋を打ちこわし、悠々と戦場を後にしていった。

そのような豪胆な張飛であったが、酒を飲んで寝ていたところを部下に寝首をかかれてしまい最期を迎えた。

 張飛には常日頃から酒を飲んで部下を殴るという悪習があり、その死を知った劉備は「あぁ、部下に殺されたのか」とその内容を聞く前に死因を察したという。

第4位:陸遜(リクソン)

建国されたばかりの呉は圧倒的なピンチを迎えていた。

呂蒙が関羽を討ち取ったことで孫権は荊州を手に入れることに成功したが、その代わり蜀の皇帝となった劉備の怒りも買っていた。

「我ら生まれた時は違えども、願わくは同年、同月、同日に死すことを願わん」

かつて桃園でそう誓ったように、劉備は弟の弔い合戦に蜀という国の全てをかけて臨んだのであった。

呉の国も既に周瑜はなく、呂蒙も関羽に呪い殺されてしまっており、呉の陣営にはもはやこの大軍に対抗できる人材はいない。誰もがそう思っていた。その証拠に指揮をとるのは陸遜とかいう何の功績もない若造ではないか。蜀の面々は既に敵討を達成した気になっていた。

ただ一人、白眉の語源ともなった馬良だけは「陸遜は周瑜以上です」と忠告していたのだが、その時には誰一人としてそれを真に受けた者はいなかったのだ。

そして蓋を開けてみれば呉の圧勝だった。

劉備軍の攻めは悉く跳ね返され、五虎将軍の黄忠も死に、大軍は陸遜の放った火に呑まれ、蜀の軍団は惨めに敗走するしかなかった。

これを機と敗軍を追う陸遜であったが、突然舞い上がる砂煙の中を抜け出せず、行けども行けども同じ場所をグルグルしてしまう。迷いに迷った陸遜たちの前に黄承彦と名乗る老人が現れ、陸遜たちを出口に案内する。

そして別れ際にこの老人は自分が孔明の妻の父であることを明かし、陸遜はそこで初めてこれが孔明の計略だと気づいたであった。

孔明は蜀が生き延びるには呉と蜀が同時に魏に向かって侵攻しないといけないと考えていた。そのため呉の軍団を傷つけることなく撤退に追い込む「石兵八陣の図」を仕掛けていたのだ。

さしの天才将軍陸遜も孔明の罠にだけは勝てずそのまま撤退、陸遜はその後蜀と呉の戦いを機に攻め入ってきた魏の侵攻も食い止め、3国は膠着状態に陥り、ここに名実ともに中華に三国が鼎立する三国志が始まったのであった。

第3位:関羽(カンウ)

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身の丈は九尺(2m越え)、二尺はあろうかという美しい髭をたたえ、顔は閻魔のように赤く、80斤(50キロ)を超す大獲物青龍偃月刀を携えた美髯公。ご存知三国志最強の一角にして五虎将軍の筆頭、劉備を兄、張飛を弟、どんな時でも兄弟たちの為なr駆け付ける。それが関羽という男である。

一騎で万の兵に匹敵すると言われ、黄巾賊の将程遠志を切り捨てたところから快進撃は始まり、反董卓連合では誰も手が出せなかった2mはあろうかという猛将華雄をあっと言う間に斬り捨てた。

その後は義兄弟の劉備や張飛と共に各地を流転、徐州の陶謙のもとに身を寄せたり、呂布に城を奪われたり、曹操と共にその呂布を討ち果たしたり、曹操に攻められて兄弟が離散したなんてこともあった。

もはやこれまでと曹操軍の大軍を前に討ち死にをする覚悟の関羽であったが、親友ともいえる張遼の説得もあり一時的に曹操軍に身を寄せることになった。

関羽大好き曹操はこれを聞いて呂布が乗っていた赤兎馬を与えるほどの喜びようであった。関羽の方もこれに応えるように袁紹軍最強の二枚看板顔良・文醜の二人をあっという間に切って捨てた。

その後は真の主君劉備の元に帰るために曹操軍の5つの関の5人の将を討ち果たし、それを聞いて激怒状態となった夏侯惇と斬りあうことに。それを見た曹操は夏侯惇に向かってただ行かせるようにとだけ言った。自分は劉備が見つかるまで関羽にいて欲しいと言っただけだと。

この恩に関羽は意外な形で報いることになる。

劉備・孫権軍が連合して曹操軍を打ち破った赤壁の戦いの後、敗走する曹操軍を待ち受けていたのは孔明の策を受けた関羽だった。

もはや形成は一目瞭然、群雄曹操の最期となるべきはずだったが、曹操は関羽に対し見逃してくれるように懇願する。それを聞いた関羽の脳裏には孔明の一言がよぎる。

もし曹操を見逃すようなことがあったら死罪とします。

ここで曹操を助ければ死罪。さらに兄劉備を始め仲間たちにとって曹操はやがて大きな厄災となるであろう。

それが分かっていた関羽ではあったが、同時にかつて受けた恩を無下にすることも出来なかった。

関羽は曹操を見逃し、その後は自ら裁かれるために孔明の前に進み出る。

孔明やをらに剣を取り、それを関羽の前で真横に振った。

切り口からははらりと関羽の髭が地面に落ちる。

「これで関将軍は死にました」

そう、孔明は関羽が曹操を見逃すこともわかっていたのだ。関羽がこのまま曹操に恩を返さぬままではいられないことを知っていた孔明の憎い演出と言えるかも知れない。もしもここで関羽を許さない孔明であったら、ここまで多くの人に愛されてはいなかったであろう。

やがて劉備が益州に侵攻した際には荊州の守りを任される。

かつて最も平和な土地であった荊州は孫権軍、曹操軍も狙う紛争地域となり、関羽はこれらの勢力の侵攻を防ぎ続けた。

しかし最後は両軍の挟撃に遭い、曹操軍の龐徳と于禁をとらえることに成功したものの拠点は既に呂蒙によって占拠されていた。行き場を失った関羽は麦城にこもって呂蒙の攻撃に抵抗、ひたすらに援軍を待ったが待てども待てども援軍は来ず、ついには養子の関平と腹心の周倉と共に呂蒙に捕えられてしまいそのまま処刑され、肉体としての関羽はそこで死んだ。

しかし神となった関羽は呂蒙を呪い殺すことに成功。

人々は関羽を祭った関帝廟を各地に建てることでその怒りを鎮めたという。敵になった関羽は恐ろしいが、関羽を祀る者には強き保護を与えたことから、現在でも横浜中華街をはじめ関羽を祀る場所は多い。

死してなお強いのは三国志の中でも孔明と関羽だけであり、死して神になったのは後にも先にも関羽だけである。

人智が及ばないという意味では、ある意味関羽が最強かも知れない。

第2位:呂布(リョフ)

身の丈は一丈(約2m30cm)、常に派手な鎧をつけ、兜には長い雉の尾をあしらい方天画戟を片手に中華を縦横無尽に駆け巡った天下無双にして三国志最強の漢。その名は呂布奉先。

その人生は裏切りに満ちており、最初の養父丁原を赤兎馬欲しさに裏切りそのまま斬って捨てて悪逆非道の董卓の養子となり、司徒王允の「連環の計」によって美女貂蝉にぞっこんとなり、それが原因で新しく養父となった董卓のことも殺害、まさに傍若無人な男であった。

しかしその強さは圧倒的で、華雄を討ち破った反董卓連合の前に圧倒的な強敵として立ちふさがる。

勢いに乗る群雄からは孔融軍の武安国が向かって行くが一刀のもとに切り伏せられ、白馬将軍と恐れられた劉備の兄弟子公孫瓚がそれに続くもまるで相手にならない。

そこでこの男、華雄を討ち取って一躍有名になった関羽が呂布に向かって行くわけだが、呂布は関羽の怒涛の攻撃を悠々と受け流すようにいなしてしまう。段々と疲れてくる関羽、まるで息のあがらない呂布、その状況に業を煮やした関羽の弟張飛もこれに加わり、さらには劉備も加わって呂布はひとりで三兄弟を相手に大立ち回り。さすがに疲れてきたのかもう楽しみ終わったのか愛馬赤兎馬を駆って颯爽と戦場を後にした。

その後の濮陽の戦いでは曹操軍相手に無双ぶりを発揮し、曹操軍の主要な将軍である李典、楽進、夏侯淵、夏侯惇、典韋に許褚といった7人の猛将相手に単騎で渡り合う活躍を見せた。

弓の名手としても知られ、100歩離れたところから地面に刺した戟の先に矢をあてることが出来、ついたあだなが飛将軍。

人々は「馬中の赤兎馬、人中の呂布」と言って敬意と畏怖を込めて呼んだという。

その圧倒的な強さゆえか呂布はかなり横暴な性格をしており、酒に酔っては部下に乱暴を働き恨みを買い、ついには宋憲、魏続と言った部下に裏切られ寝ているところを捕えられてしまい曹操の前に突き出される。

「お前と俺が組めば天下は我々のものとなるぞ」

縛られながらも生きようと命乞いをした呂布であったが、さしの曹操も呂布だけは部下にする気はなく、最強の武将はそのまま戦場の星となって消えたのであった。

 人材大好き曹操が最後まで欲しがらなかったのは呂布と諸葛亮の2人だけである。

第1位:諸葛亮(ショカツリョウ)

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孔明の智謀には三国志の誰も勝てなかった。

若い頃から司馬徽の門下生として飛びぬけて優秀で、その才能は古の名将管仲・楽毅にすら匹敵すると言われ、ついたあだ名が臥竜。

しかし仕えるに値する君主はいないと考え、誰にも仕えることなく弟と2人で荊州にて隠遁、やがて人々からは伏龍と呼ばれるようになる。

一方官途の戦いの後、どうにか合流した3兄弟であったが、相変わらず曹操軍には勝てず、段々と南側へ逃れて行った。広大な荊州の入り口ともいえる新野の土地にて劉備は水鏡先生と呼ばれる高名な人物のもとを訪ねた。

なぜ自分たちは勝てないのか。そのストレートな問に水鏡はこう答えた。

「良いぞ良いぞ、お主には関羽や張飛と言った一騎で万の兵に匹敵する将軍がそろっておる。しかし智謀が足りん。伏龍を探すが良い。さすれば天下も望めるであろう」

水鏡先生、本名を司馬徽というこの人物はそう言い残して去っていった。

果たして伏龍とは何者なのか。その人物を探していた劉備はある時単福という男に出会う。聞けばこの男は本名を徐庶と言い、あの司馬徽の門下生であるという。劉備はこの人物こそ伏龍に違いないと思い自陣に招く。

そんな折、曹操軍の曹仁が大軍を率いて新野に向かって進軍してきた。曹仁は八門禁鎖の陣を敷いてこれまで劉備を何度も苦しめてきた猛将で、劉備達は今まで散々に打ち破られてきたのであった。しかし徐庶はこの陣の弱点を見抜き、その言葉通りに趙雲に行動させるとなんと勝てた。

劉備はとても喜んだが、曹仁の敗戦を聞いた曹操はどうしても徐庶が欲しくなり、策によって母を人質に取ると徐庶に服属を求めた。親孝行で知られた徐庶は母親を見殺しにすることは出来ず曹操の許へ行くことを決める。

「せっかく伏龍を得たのに…」

そう落胆する劉備に対して徐庶は言う。

「私は伏龍などではありません。本物の伏龍は名を諸葛亮孔明と言います。彼の才能は私の何百倍もあり、漢の高祖に仕えた張良子房や周の文王、武王に仕えた太公望呂尚にも匹敵するでしょう」

かくして劉備は関羽、張飛を伴い諸葛亮孔明のもとを訪ねるのだが不在、次も不在、そしてその次も不在であった。さすがにこの頃には劉備達も居留守であることが分かっており、怒った張飛はついに裏手に回って火をつけようとする。

そして裏手に回った張飛が見たのは身長8尺(約190cm)はあろうかという偉丈夫であった。

「やいやい、ちゃんといるじゃねぇか居留守使いやがって」

今にも斬りかからんとする張飛を劉備があわてて抑える。いやいや、突然訪ねた自分がわるいのだと。そしてまた来ると言って立ち去ろうとするがその様を見て孔明、突然天下を三分し劉備がその一つを治める計画を語りだす。劉備玄徳はその器であると。

孔明は知っていた。自分が使えるに相応しい人物が自分の前に現れることを。

こうして「三顧の礼」をもって諸葛亮を加えた劉備陣営だったが、関羽と張飛はあまりにも劉備が孔明にベタベタなので面白くない。すると劉備は孔明は私にとって水のようなものであり「水魚の交わり」なのだと説得、そして曹操軍の夏侯惇と李典が10万の兵を率いて攻めて来るや孔明の策通りに動いた結果劉備軍は勝利した。この時から負けてばかりであった劉備軍に吹く風が変わった。

その後の孔明は右に左に、江東の孫権を曹操と戦わせ、その間に自分たちは荊州をとり、そのまま益州を奪取、さらには漢中争奪戦に勝利すると劉備は漢中王となり、後は孔明の計画通りに孫権と結んで曹操軍を挟撃するだけであった。

全ては孔明の思い描いた通りに進んでいるように見えたが、ここで孔明の予期せぬことが起こった。荊州で関羽が孫権軍と仲たがいし、あろうことか呂蒙によって処刑されてしまったのだ。

怒りに燃える劉備を孔明は必死におさめたが、兄弟を殺されてはこの男も黙ってはいない。桃園の誓いは本物の兄弟よりも深い絆で3人を結んだのだ。劉備は全軍を率いて呉に攻め込み、そして名将陸遜の前に敗れ去った。

孔明はそのことを予測して「石兵八陣の図」を敷いており、趙雲に命じて劉備を助けるも劉備はそのまま息絶えてしまうのであった。

「もしも劉禅が暗愚であったら君が代わりに国を運営してくれ」

常に劉備のいうことを聞いていた孔明であったが、結局この言葉だけは守らなかった。孔明は劉禅の暗愚を知っておきながらついぞ国を簒奪することはなかったのだ。それどころか一切私腹を肥やすことはなく、ただひたすらに劉備達の建てたこの国を守り続けた。

劉備の死後は南蛮に遠征し、南蛮王孟獲を7度捕まえて7度解放し心服させ、魏を滅ぼすべく北伐を開始。

しかし長安まであと少しというところで孔明の前に強敵司馬懿が立ちふさがる。

この時孔明の寿命は尽きようとしていたが、得意の祈祷によってこれを伸ばそうとするも何も知らずにやってきた魏延が祭壇を壊してしまい失敗。

自らの運命を知った孔明は自分の死後撤退するように言い残して死去。五丈原に散った。

孔明の死を知った司馬懿はこれはチャンスと攻め込んできたが、死んだはずの孔明が車に乗ってやってきたのを見て一目散に逃げだした。

「死せる孔明、生ける仲達を走らす」

孔明は死してなお宿敵を下したのであった。

神謀鬼略を使う最強の軍師であり敵の策略を見抜き的確な指示をだす最強の将軍であり義を重んじ決して国を私物化することのなかった最強の宰相、それが諸葛亮孔明という男である。

三国志最強はやはり孔明以外にいないであろう。

正史三国志名将トップ60

 冒頭でも述べた通り三国志演義は晋の時代を生きた陳寿という人物が書いた歴史書「三国志」をもとに羅漢中という人物が書いたもので、ここから先は「歴史としての三国志」を扱いたいと思う。

正史には正史の魅力があるので今回はそれを堪能してもらえたら嬉しい。

ランキングの発表でもその前に知っておきたい正史三国志 

早速正史三国志におけるランキングに行きたいのであるが、このブログも「世界史ブログ」なのでその前に歴史としての正史三国志とそれを楽しむための基礎知識について解説させていただきたいと思う。

まずは地理的な要素で、当時の中国はいくつかの州と郡に分かれていて、主に文明が発達していたのは北の黄河流域となっている。中華文明が古代の黄河文明を継承しているので人口が多いのは圧倒的に北で、開発も進んでいた。なので国土はそこまでではなかったが魏の国力が圧倒的出会った訳である。

後に中国の中心地が江南になったこともあるが、それはこの三国志の時代に呉が江南の開発を下からで、これによって江南は中国屈指の穀倉地帯へと変貌した。

次に役職の話で、現在と同様三国志の時代も階級制度であった。

頂点に皇帝をいただき、その親族が王や公と言ったくらいに就く封建制度で、皇帝、王、公になれるのは220年前後までは皇族たる劉氏だけで、劉備玄徳が漢中王になれたのはこのためである。

非皇族での最高位は「3公」と呼ばれる丞相、司空、司徒の3職で、名門である袁紹や袁術の一族は3代で4人の3公を出した超名門だったのである。

これらはいわば文官職で、中国は実は古来よりシビリアンコントロール(文民統制)の国で、武官は常に文官の下の地位であった。ついでに余談を言うと3公のさらに上に太傅という位があって、これは実権のない名誉職とされ、後に司馬懿がこの位に就けられていたりもする。 

武官職としての最高位は基本的には大尉と呼ばれる位だが、どちらかと言えば大将軍と言う方が覚えもいいかもしれない。この2つの役職はあまり区別がされておらず、何進や夏侯惇と言った人物たちが大将軍として軍事のトップにいたが、基本的には3公の下にあるイメージである。

中には丞相となった曹操や孔明のように自ら戦場に乗り出すものもいるが、基本的に軍を指揮するのは大将軍以下の将軍達で、大将軍の下のは前将軍、後将軍、右将軍、左将軍と言った4将が連なり、基本的にこれらが非親族の将軍として最高職と考えてよい。

この辺りは魏が漢を滅ぼした220年あたりで様相が変わり、それまではあくまで漢王朝がその位に任命していた訳であるが、220年になると魏が漢を継いだ唯一王朝を名乗るも蜀、呉も次々と自分たちで皇帝位を名乗り始める。特に蜀は漢王朝を正当に継いだのは劉氏たる自分たちだと主張していたので蜀は蜀漢という呼ばれ方もする。

余談だけれども魏国をはじめ歴代の中国王朝は周辺諸国にもこの位を授けていて、卑弥呼様なんかは曹操の孫曹叡から親魏倭王といって特別に「王」の位を授かっている。

という訳でこちらも前置きが長くなったけれど引き続き正史三国志の指揮官ランキングを楽しんでくれ。

第60位:華雄(カユウ)

演義では関羽の引き立て役として序盤に斬られる役であったが、実際に華雄が関羽に斬られたという話は創作であり、実際に華雄を倒したのは孫堅で、そして記述は基本それだけしかない。 

なので実際には本当に華雄が強かったのかどうかはよく分からない。さらに言うと演義では華雄は将軍として軍を率いているが、正史では胡軫という人物の副官に過ぎない。

演義では身長2mを超す大男で孫堅軍の祖茂、袁術軍の兪渉、韓馥軍の潘鳳などよくわからない武芸自慢達を次々に倒していくわけだが、そのような描写もなく、正直実際に強かったのどうかよく分からないので、華雄をこのランキングに入れようかどうか迷った訳だが、正史と演義の違いがよく分かるということで入れてみた。後悔はしていない。

それにしてもよくこのような地味な活躍しかしていない人物をとてつもなく強い化け物として描き、そして一瞬にして関羽にやられ、その引き立て役にするというような話を、よくもまぁ思いついたと思う。

羅漢中、やはり…天才!


第59位:黄祖(コウソ)

多分全く強いイメージはないだろうが、猛将名高き孫堅を倒したのはこの黄祖である。

西暦191年、三国時代における最重要拠点襄陽において、孫堅軍と黄祖軍の戦いが行われた。この戦いは背後に袁術と劉表の戦いがあって、黄祖と孫堅はいわばその代理で戦ったと言っても良い。

当時の情勢は袁紹+劉表VS袁術+公孫瓚という形になっていて、当時の孫堅は独立した勢力というよりも袁術の実質的な部下であり、黄祖は劉表の部下であった。

戦闘そのものは孫堅が当初圧倒的に押していたのだが、黄祖の部下である呂公という人物の放った矢が孫堅に当たったことから形勢逆転、この傷の悪化によって孫堅は死亡、孫堅軍は解散となってしまう。

その後息子の孫策が周瑜などの手助けにより勢力を回復すると黄祖はコテンパンにやられてしまうが、黄祖自体は命からがら身一つで逃げ延びてしまい、結局孫策の代では父の仇を取ることは出来なかった。

203年にはその弟孫権に敗北こそするものの部下の甘寧が孫権の武将凌操を射殺、その後も孫権軍との戦いが続く。

そして5年後、射殺された凌操の息子凌統によって撃破され、本拠地である江夏も失い、その後は再び戦場から逃げ延びるもついに捕まってしまいそのまま処刑。この戦いにより孫権、凌統ともに時間はかかったが敵討を果たした結果となった。

戦には負けてばかりだが、黄祖のもとには猛将として知られる甘寧や名士と名高い禰衡が身を寄せるなど当時かなりの勢力をもっていたことが伺え、あれほど精強を誇った孫策でさえもついにその生存中には仇討が出来なかったほどである。

正史における敵役の一人。

第58位:鍾会(ショウカイ)

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後漢を代表する知識人鍾繇の息子。孔明亡き後に活躍しているので三国志ファンでも知らない人は結構いると思う。

幼い頃から聡明で、論語や詩経などの書物を10代前半で諸々暗記してしまい、当代きっての名士として評価され、尚書中書侍郎などの文官職で活躍する。

やがて曹家が司馬懿のクーデターによって倒されると司馬懿の息子達に重用され、諸葛誕が反乱を起こすと軍師として乱の鎮圧に参加、「まるで張良子房(楚漢戦争の際に劉邦の軍師であった)のようだ」との評判を得る。

やがて司馬昭は鍾会を鎮南将軍に任じ、鄧艾らとともに蜀の攻略を命令、劉禅が降伏すると鍾会は姜維と親しくなる。

鍾会はかねてより非常に頭がまわり、弁が良く立った。また父同様名士階級に属していたために交流関係が広く、後に「竹林の七賢」と呼ばれることになる王戎などを推薦したのも鍾会であるが、同じく竹林の七賢に叙せられる嵆康を讒言により処刑させたのもまた鍾会であったという。

鍾会は蜀攻略の功により司空という3公の職に任ぜられたが、それで満足する気はさらさらなかったようで、対蜀司令官であった鄧艾を讒言により失脚、逮捕させると対蜀の軍隊及び蜀の全権を把握、亡国の徒である姜維と結んで司馬氏に反旗を翻した。

しかし司馬昭は鍾会このような性格を見抜いており、鍾会に兵を与えるのは危険だという部下の進言に対し「もし鍾会が裏切ったとしても鍾会は上手くできないだろう。蜀の将兵は意気消沈し、魏の将兵は魏に帰りたいから同調しないだろう」と答えており、実際に鍾会は晋の将軍胡烈の胡淵という人物によってあっけなく殺されている。

古来より、讒言を行うもので大物になった者はいない。

鍾会に関しては「小賢しい」という言葉が似あうように思う。

第57位:韓遂(カンスイ)

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三国志には「涼州閥」と言われる大きな派閥があり、韓遂はその涼州派閥における大人物であった。

中国史を読み解くとき、実は涼州付近における勢力が大きな力を握っているのがよく分かる。

例えば周王朝を襲った犬戎は恐らく涼州を根城としていたと思われるし、初の中華統一王朝となった秦は涼州から雍州にかけて勢力を誇った国である。さらに言えば隋や唐などの巨大王朝は武川鎮軍閥出身者が建てた国だが、この武川鎮も涼州と大いに関りがある。

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なぜこのようなことになるかと言えば涼州は中国で唯一と言って良い「馬」の産地であったからである。

古代の戦いにおいて、いや、中世までの戦いにおいては如何に強力な騎馬隊を確保できるかが勝負であった。

これは中国だけでなく、遠く離れたローマでもそうであり、ポエニ戦争などは騎兵の過多で勝敗が決まったほどである。

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 現在日本の馬の主な産地が北海道であるように、馬の生産においては広大な草原地帯が必要であり、モンゴル産の馬などは涼州を通じて中華に流通していたような節がある。

韓遂は涼州軍閥の実力者馬騰や董卓と相争い、騎馬民族である羌族やチベット系の氐族とも組みながら涼州で大勢力を築いていた。

涼州は大都市長安とも近いため、韓遂は董卓の後を継いだ李傕や郭汜と争ってボロ負けしたり馬騰と同盟したりしていたが、曹操が袁紹に勝ち漢中へ侵攻しようとすると韓遂は馬騰の息子馬超と組んで曹操軍を攻撃、当初は有利に戦闘を進めるが軍師賈詡による「離間の計」により仲たがいし分裂。人質に出した一族は曹操に皆殺しにされ、最後は仲間に裏切られて殺害、その首は曹操に送られたという。

演義では馬超に両腕を斬られていたし、演義でも正史でもロクな死に方をしていない人物である。

第56位:曹彰(ソウショウ)

魏の人物としては珍しく演義での方が強い人物。

直接戦闘なら曹操の何人いるかわからない息子達の中でも抜きんでており、幼い頃から弓矢馬術に昏倒し、そして全く勉強しなかった。

猛獣がなにであるかはわからないが、虎やクマであったとしたら恐ろしい…

父曹操は曹彰があまりにも武勇に昏倒するため勉強もするように言ったが、曹彰は男なら衛青や霍去病のような人物を目指すべきですと言って結局全く勉強しなかったという。

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魏の初代皇帝曹丕とは母を同じにするが相性がよくなかったようで、後年は対立したままとなっていた。

史実での曹彰はモンゴル系異民族である烏桓の征伐に功があり、その指導者である軻比能を屈服させている。中国の歴代王朝がモンゴル系騎馬民族に苦労したことを考えるとかなりの武功であると言えるだろう。

その腕力は並外れており、素手で猛獣と渡り合えたという。

ちなみに正史においては演義のような漢中戦での大暴れなどの記載はない。羅漢中がなぜ曹彰の大活躍を挿入したのかは完全に不明である。

第55位:公孫瓚(コウソンサン)

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演義でも正史でも劉備同様名将盧植のもとで学んだ劉備の兄弟子。

演義だと劉備アゲのためにいい奴に書かれているが弱く、正史だと残忍だが確かに強い。

三国志の最初期において最強は袁紹であった。当初の袁紹は曹操など問題にならないぐらい強力で、その袁紹に唯一対抗できたのが白馬将軍と言われた公孫瓚であった。

公孫氏は現在の朝鮮から遼東までに広く力を持っていた一族のようで、母の身分が低かったために公孫氏の中ではあまり優遇はされていなかったようだが、公孫瓚は自らの才覚で徐々に力をつけて行った。

実際公孫瓚の戦闘力はかなりのもので、黄巾賊の残党30万人がなだれ込んだ際にはこれを軽々と駆逐している。

しかし公孫瓚は漢王室の王族である劉虞と対立しこれを殺害、このことで名声と信頼を失い、袁紹軍に大義名分を与えてしまった。

公孫瓚もかなり粘ったようだが、計画などがだだもれだったこともあり、もはやこれまでと最終的には自殺している。

第54位:丁奉(テイホウ)

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演義だと劉備や諸葛亮を取り逃したり張遼を射殺したり色々活躍しているが、驚くべきことにこれらは全て羅漢中による創作である。

羅漢中から見ると丁奉は何かと使いやすかったのかもしれない。よくここまで話を創れるなと感心してしまうが、実在の人物をここまで歪めてしまうのもどうなんだろうという気持ちも同時に沸くところではある。良くも悪くも羅漢中という男の想像力はすさまじい。

実際の丁奉は甘寧や陸遜などの部下として戦功を挙げ、諸葛誕が攻めて来た時などは奇襲をかけて魏の軍団を大いに撃破するなどの活躍をみせており、その後は呉に起こった後継者争いなどの波に乗り呉の大将軍への出世を果たしており、実際の活躍もなんだかんだかなり凄い。

第53位:張繍(チョウシュウ)

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油断していたとは言え曹操に死を覚悟させた人物である。

軍師に賈詡を擁し、その勧めに従って曹操に早々に降伏したが、曹操が兄嫁(演義では鄒氏)といちゃついているのを見て激怒、強襲し、曹操を追い詰めた。

曹操はその時ボディーガードであった典韋と嫡男であった曹昂を失っており、その後張繍は劉表と同盟し曹操に対抗、曹操軍が侵攻してくるとこれを撃退したりもしている。

その後曹操のライヴァル袁紹から同盟を持ちかけられるが最強軍師の一角である賈詡は曹操が勝つに決まっているし、現在曹操は味方になる勢力が欲しいから曹操に降伏すべきだと進言。張繍はこれに従い以後曹操に仕えることとなった。

張繍は袁紹との戦い、勝利後は袁紹軍の残党との戦いなどで功績をあげ曹操陣営で順調な出世を遂げた。

その最期にはいくつか説があり、単に病死をしたという説と、曹操亡き後曹丕から「我が兄を殺したのにどうして生きていられる?」と問われ自殺したという説がある。

張繍の生きざまを見るに、例え憎い敵であっても厚遇する曹操の英雄としての器と、曹丕の冷酷さの両方を見て取れる。

第52位:周泰(シュウタイ)

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まだ孫策が生きていたころ、山越という恐らくは越王勾践の時代から続く少数民族を攻めた際、孫権が敵に囲まれて絶体絶命の危機に陥ったのを傷だらけになりながら救ったのが周泰であった。その際周泰は全身に12か所の傷を負い、満身創痍さながらに孫権を助けたという。

時は過ぎ、孫権は周泰を将軍に取り立てたが、部下となった徐盛や朱然は周泰の言うことをまるで聞かなかった。そこで孫権は部下たちの前で周泰の服を脱がせ、その傷を見せながら「今私があるのは周泰のおかげなのだ」と言って泣き始め、それを見た部下たちは周泰のいうことを聞くようになったという。

将軍としては濡須に攻めて来た曹操軍を撃退しており、平虜将軍の位を授かっている。

なお、三国志演義には周泰の弟周平を関羽の息子関興が倒したというエピソードがあるが、完全に創作であり、周泰にそのような弟はいない。

第51位:李傕(リカク)

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全く強いイメージはないだろうが、結構強い。

董卓の部下でありその後継者となった後知らない間に消えているイメージがあるが、黄巾の乱における功労者朱儁と互角の勝負をしたり涼州閥の首領韓遂と馬騰の連合軍を大敗させたりと実際には軍閥として結構強かったりする。

そしてなによりも董卓を殺害した呂布を大敗させたのは大きいであろう。

ただ、この事実で「李傕強ええええ!!」とはならないで呂布って実は弱いんじゃ?となってしまうのは少し悲しいところかもしれない。

李傕に関しては戦闘はそこそこ強いのだが、内政能力が0に近く、部下たちには好き勝手掠奪させ、街には死体が転がり、猜疑心が強かったため部下を簡単に処刑し、ついには相棒である郭汜と仲たがい、最終的には正史三国志の主人公ともいえる曹操の前にあっけなく敗退した。

献帝を擁したことで献帝の名のもとに公孫瓚や袁術、陶謙などに曹操および袁紹征伐の詔を出した訳だが、これが完全に藪蛇となってしまい、最後は自らの首を絞めた。

単純な戦の勝敗だけでは天下は決まらないものである。

それにしても、この時代こんな奴ばっかだった訳だから、劉備が多少いい加減でも聖人と思われていたのはよく分かる。

第50位:盧植(ロショク)


劉備玄徳の師にあたる人物。

「三国志」だけではなく劉宋時代に編纂された「後漢書」にも記述があるほどの人物で、五経の一つである礼記の注を付けたり学者としても名高い。

黄巾の乱の鎮圧に功があったのだが、宦官への賄賂を断ったことから宦官の讒言に遭い官職をはく奪、同じく黄巾の乱の鎮圧に功のあった皇甫嵩のとりなしによってなんとか復帰する。

しかしその後董卓が政権を握るとこの横暴に敢然と異を唱え、これまた重臣達からのとりなしで何とか処刑は免れたものの免職となる。

その後は袁紹に仕えた後病没したという。

この時代には珍しいほどまっすぐな人物であった。

第49位:劉備(リュウビ)

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蜀の初代皇帝。

多分全く強いイメージはないだろうが、実際問題劉備は結構強い。

確かに劉備は呂布に負け、曹操に負け、曹操に負け、曹操に負けまくったが、どれだけ追い詰められてもそれでもなんと生きていたし、最強無敵の曹操軍から漢中という要所を勝ち取っている。

関羽と張飛の活躍を強調するためか劉備はむしろ演義では弱めに書かれていて、割と実際の活躍がカットされていたりする。劉備は漢の高祖劉邦同様戦闘も政治も知略もダメだが人を使いこなす才能だけは凄い!という形にしたかったのであろう。

実際の劉備はかなり血の気が多かったようで、無礼な奴を木に縛り付けたり(演義だと張飛がやっている)直接戦闘で楊奉や韓暹、劉岱・王忠などと言った多くの名の知れた将軍を破ったりと中々活躍している。

三国志演義では劉備が善玉となるため蜀の面々は必要以上に持ち上げられ、実際にはないエピソードが多数付け加えられたりするのだが、劉備に関してはむしろアゲのエピソードよりも髀肉の嘆などの下げのエピソードが多いかも知れない。

劉備を殺しに来た奴が劉備と関わるうちに殺す気がなくなって自ら殺し屋だと白状したり、曹操がある時会食をしながら「天下に英雄は私とお前だけだ」と言ったなどのエピソードは実際に記録されている話であり、「大徳」と呼ばれる不思議な魅力劉備玄徳という男にはあったようだ。

なお、劉備も漢の高祖こと劉邦同様敵から逃げる際馬車を軽くするために子供を投げ捨てたというエピソードを持っていたりもしており、その辺りは確かな血のつながりを感じる。

さらに演義だと劉備の貧乏さが強調されていたりするが、実際の劉備は郷挙里選において名門袁家の当主袁紹の息子袁譚を推挙したり、盧植に習ったりと恐らくはかなり裕福であったのではないかと思われ、さらに名士としての地位も確立していたのではなかろうかと思う。

なにせ、郷挙里選は推挙人の地位や名声が重要で、三公を頻繁に輩出している名門の袁紹がその長男の推薦人とするぐらいだから、それなりの待遇ではあったことだろう。

そういった意味では本当の下級役人から皇帝になった劉邦とはちょっと違うのかも知れないとは思う。

正史三国志の作者陳寿は劉備をしてこう評している。

「度量が大きく強い意志を持ち、おおらかな心をもって礼儀正しく人に接し、人物を良く見極めて、ふさわしい待遇を与えた。それらは前漢の高祖(劉邦)に通じ、英雄の器を備えていたといえよう」

実際、劉備は魏延や楊儀と言ったくせの強い部下を使いこなし、馬謖のような口先だけの人物を重く用いなかった。

個人としての能力を考えれば劉備は諸葛亮には遥かに及ばないが、英雄としての器は孔明の何倍も広かったと言えるだろう。

第48位:程普(テイフ)

黄蓋や韓当と共に孫堅の時代から孫策、孫権と三代に仕えた名臣。

その中でも頭一つ抜けた活躍をしており、反董卓連合の際には董卓軍を打ち破る活躍を見せ、孫策の劉繇攻めの際にも敵の拠点を次々と落とす活躍を見せる。

赤壁の戦いにおいても周瑜と共に曹操軍を敗走させることに成功し、荊州では曹仁を破る活躍を見せている。 

孫呉になくてはならない名将と言えるだろう。

第47位:董卓(トウタク)

董卓が実際にどれぐらい強いのかは議論の絶えないところである。

伝統的に董卓は弱いイメージがあり、ただのやられ役であったが、正史を題材にした蒼天航路では中華史上でも指折りの有能な人物として書かれた。

実際には献帝を擁していたとはいえ曹操、袁紹、孫堅、劉備などの連合軍と戦っており、曹操は董卓に大敗、黄巾の乱に功績のあった朱儁をはじめとした将軍たちも歯が立たなかったため純粋な戦闘における指揮能力はかなり高かったと思われる。

若いころから武勇は轟いており、馬に乗りながら弓を自在に得ることができるなどその馬術には確かなものがあり、戦闘地帯涼州で名が轟いていたところからもその強さは伺える。

反面政治力は歴代中国、いや、世界史上恐らく最低で、世界史マニアの俺ですらここまでヒドイ例を他に知らない。海外の「狂王」などが全く話にならないぐらい狂っていて、村祭りに来た若者を理由もなく殺して財産を没収したり女性と見れば見境なく襲ったり、人を釜茹でにするのを見ながら食事をするのを楽しんだり、人間の考え付く酷いことは全て董卓がやり切ってしまったんじゃないかというぐらい酷い。演義よりもある意味正史の方が酷い。

そんな状態でも誰も手出しをできなかったのは強力な部下たちがいたからだが、それらの将軍を使いこなせたのは董卓の能力だともいえる。

しかしそんな董卓も最後は義理の息子呂布によって殺されてしまった。

悪事を咎められて死んだのはなく女性をとりあって殺されたのはいかにも董卓らしい最後だと思う。

第46位:文聘(ブンペイ)

演技においても正史においても地味にいい仕事をする武将、それが文聘である。演義だと徐盛に大敗する曹丕を担いで逃げたり魏延の邪魔をしたり、劉備に不忠を咎められたり(お前が言うか)地味に登場回数が多い訳だが、正史においても地味に結構強い。

演義だと不忠を劉備に攻められたりする文聘だが、正史では忠義のほどを曹操や三国志の著者である陳寿に称賛されているほどで、後に魏国建国功労者20人を選ぶ際には荀彧をさしおいて列せられていたりする。

その能力は非常に高く買われていたようで、曹操は吸収した元劉表軍をまるまる文聘に任せ、楽進と共に荊州に侵略してきた関羽を撃退、曹丕の時代には後将軍というかなり高い地位に就いている。

その後は江夏という重要拠点の守りに就き、攻めて来た孫権軍を撃退、その生涯にわたって江夏を守り抜いた。

蜀アゲのために演義の犠牲になった名将の1人であると言えるだろう。

第45位:袁紹(エンショウ)

袁紹をどう評価するかは董卓に次いで難しい問題である。

演技における袁紹はもはや無能を画にかいたような人物な訳だが、正史も似たようなもので、佞臣の讒言を信じ賢臣を排除、後継者問題で国を割ってしまい結局袁家を滅亡へと導いてしまった。

袁紹や袁術の一族は後漢における名門の地位にあり、三国時代きっての名門一族だと言えた。

反面曹操の一族は祖先を遡れば劉邦の息子達を救った夏侯嬰の末裔だが、最高職である三公などは遠い存在で、没落した一族を立て直すために大宦官であった曹騰のもとへ養子にでることになり、曹操などは宦官の孫として嘲笑の対象となっていた。

孔子の子孫たる孔融などは特に曹操を馬鹿にしていたようで、多くの名士が曹操を馬鹿にしていたが、名門袁家を担う袁紹は曹操とかなり仲良くしていたようだ。

若き日には良く行動を共にしていたようで、二人で女の子の家に忍び込んでそれが見つかった際袁紹が足をくじいてしまうということがあった。それを見た曹操は笑顔でこう言ったという。

「ここに下手人がいるぞ!」

袁紹はくじいた足で必死に曹操を追いかけたという。

後漢末期、党錮の禁と言われる宦官と名士たちの対立があった。それが解けたきっかけが黄巾の乱で、袁紹はこれを機と見て大将軍であった何進と共に宦官を排除する計画を立てるも何進は事前に宦官に殺害されており、袁紹はその宦官を抹殺、逃げ延びた宦官は皇太子を引き連れ、不幸なことに董卓の手にこれらが渡る。

袁紹の一族は結局悉く董卓によって殺されてしまい、怒り狂った袁紹は反董卓連合を結成、それでも連合の足並みはそろわずに結局董卓は倒せなかった。原因は兵力の消耗を袁紹が恐れたからである。

反董卓連合軍でまともに戦ったのは曹操と孫堅ぐらいのもので、袁紹たるや同じ連合軍の韓馥を攻撃したり人材のリクルートに勤しんだり、他の人間に戦わせて自分は戦後を優位に進めることしか考えていなかった。この辺りが袁紹と曹操、孫堅の器の違いと言える。

結果として田豊や沮授など優秀な人材を手に入れるのだが、袁家と並ぶ超名門荀氏の中でも最高の逸材と言われた荀彧や荀攸、郭嘉などの真の逸材は袁紹を見限りまだ弱小だった曹操の陣営に加わる。

華北に戻った袁紹は白馬将軍と言われた公孫瓚や北方の騎馬民族などを平定、劉表を始めとした各地の豪族と結びながらも勢力を拡大、曹操と戦う際にはその国力は10倍の差があったとも言われる。

本来であれば袁紹が三国志の覇者になっていたであろう。

それぐらい袁紹の戦力は圧倒的であった。

しかしそれを率いる袁紹自体が英雄の器ではなかった。

郭図のような佞臣の進言を受けて沮授や田豊と言った優秀な人物の言うことを聞かずにその隙を曹操に突かれて兵糧庫が炎上、同時に本陣を攻撃していた高覧や張郃が曹操に寝返るなど優秀な部下が離れていく始末。

ちなみに高覧や張郃が曹操に降ったのは郭図が責任をこの2人に擦り付けようとしたからで、ある意味郭図が悪い訳だが、このような人物を重用した袁紹にやはり問題があるというべきであろう。

結局圧倒的に有利だった袁紹は敗北した。

確かに相手が悪かったが、袁紹の器ではどのみち天下を取ったとしても国は長くは続かなかったであろう。

袁紹の死後、後継者争いなどもありわずか10年も経たずして袁紹の一族は全滅した。

後漢においてこれ以上ないほど繁栄した一族は、跡形もなく消えてしまうのであった。

もっとも、袁紹は天下をとるほどの器ではなかったが、漢民族が悩まされ続けた北方民族に対して圧倒的に有利な立ち位置を獲得し、領民からも慕われ、圧倒的な経済力を有しており、同じ門閥の袁術よりも遥かに優れていた人物ではあった。

悲しいかな彼は生まれる時代を間違えた。もしも平和な時代に生まれていれば、名宰相として歴史に名を遺せたかも知れない。

そして相手が悪すぎた。

曹操孟徳。その男は世界史においても稀なほどの逸材の名であったのだ。

第44位:郭淮(カクワイ)

曹操の漢中攻めの辺りから登場し、夏侯淵と共に漢中の守備を担当、漢中争奪戦における定軍山の戦いおいて夏侯淵が討たれると張郃と共に劉備軍の侵攻を阻止し、街亭の戦いにおいては馬謖を張郃が、蜀側の将軍高翔を郭淮がそれぞれ破り諸葛亮の北伐を阻止した。

諸葛亮や魏延といった蜀の面々にはしばしば敗れ去り、時々はその侵攻を阻止したりもし、トータルで見ると郭淮側がやや負けが多いと言った感じである。

諸葛亮亡き後はその意志を継いだ姜維の侵攻も良く防ぎ、249年には対蜀最高司令官にまで昇り詰め、翌年には車騎将軍、死後には大将軍の位を賜っており、これは武将としては実質最高位である。

 演義ではなぜか姜維に射殺されたことになっているが、正史にはそのような事実はない。

第43位:朱桓 (シュカン)

孫権陣営の将軍。

周泰の後任として濡須口を守り、侵攻してきた曹仁を撃退し、大司馬の地位にあった曹休との戦いにも勝利、後に石亭の戦いと言われるこの戦いは曹休軍10万、朱桓軍3万ほどであったという。

守成に非常に優れており、無理攻めはせず、敵の計略を的確に見抜く目を持っており、最終的には前将軍にまで出世している。

 

第42位:姜維(キョウイ)

 「姜維は文武ともに優れていたが、多年に亘り国力を無視した北伐を敢行し、蜀の衰亡を早めた」

これは三国志の著者陳寿の言葉であるが、姜維が蜀の衰亡をはやめたという点はどの歴史家も異論の挟みようがないであろう。

北伐に関しては後世だけでなく、当代でも批判が多く、同じく諸葛亮の後継者となった費禕からは「我々は力を合わせても丞相(孔明)には及ばないのだから無理な北伐はすべきでない」と言われ、他の重臣からもあまりよく思われていなかった。

姜維はその点優れた政治家ではなかったと言えるだろう。

しかし将軍として見た場合姜維は非常に優秀である。

諸葛亮をして「涼州で最高の人物、用兵の才がある」と言わしめるほどで、実際孔明に敗れて捕えられて蜀に降る訳だが、それまでに孔明を大いに苦しめ、その後は夏侯覇や郭淮を破るなどの活躍を見せる。

局地的な面では多数の勝利を得るも、結局は陳泰に阻まれ、鍾会や鄧艾の侵攻を阻止できず、最終的に蜀を滅亡させてしまった。

非常に才能があり優秀な将軍ではあるのだが、最強の将軍には程遠いであろう。

姜維という優秀な人物は、あくまで諸葛亮という優秀な宰相がいてこそ力を発揮できるのであった。

第41位:趙雲(チョウウン)

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趙雲、好きか?

俺は基本的に三国志全体の中でも5本の指に入るぐらい好きな訳だが、だとしたら趙雲の正史については知らない方が良い。

演義での趙雲は格好良かった。登場からいきなり文醜を退け、曹操が100万人の兵をもってせめてくるや単騎で駆け抜け、 鎧をまるで泥のように斬るという青紅剣を手にし、誰かのピンチには颯爽と駆けつける。そして最後は蜀の5虎将軍にまで昇りつめた若き獅子。

そんな趙雲の話がまさか全て作り話だなんて思わないじゃないか…

例えば演義では趙雲が倒したとされる呂曠は趙雲と戦った記述はないし、文醜や張郃と戦ったこともなく、慕容烈や韓瑛と言った将軍に関しては存在すらしていないため完全なる創作である。

いや、正確には全てが創作ではない。曹操軍5000の中に突っ込んで行き劉備の妻子を助けたのは本当。演義ではただ数が盛られているだけで…

とはいえ実際にはかなり出世しており、征南将軍という立派な将軍職に任命されているためかなりの実力であることは間違いない。

しかし関羽や馬超、張飛、黄忠などが前後左右将軍になっているのと比べるとその地位は低く、さらに曹真に敗れた責任をとって鎮軍将軍に降格させられている。なにせ趙雲の方が曹真よりも率いていた兵士の数が多かったのだ。

実際の趙雲の活躍は魏延より…

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この順位でさえも正直、正史の趙雲としては高すぎるという思いさえある。

ある意味趙雲こそが羅漢中最大の被害者なのかも知れない。

第40位:太史慈(タイシジ)

三国志と言えば一騎打ちこそが花形だが、実際に一騎打ちを行ったのは太史慈と孫策ぐらいのものである。

しかも衆人環視の中で行われたのではなく、太史慈がいきなり偵察中の孫策を襲ったというのだからかなりエキサイティングな人物だ。

太史慈は結構エピソードが豊富な人物で、かつて孔融の世話になっていた時の話、孔融の住まう城が黄巾賊に囲まれたことがあった。そこで太史慈は毎日外に出て弓を射るということを繰り返し、黄巾賊が飽きて警戒を解いた際に一気に馬に乗って駆けだして援軍を呼びに行き孔融は生きながらえることが出来た。

個人的な武勇で言えば三国志全体でも最高クラスなのだけれど、将軍としての活躍はそこそこで、劉表軍から領地を守ったり、黄祖軍との戦いで功績があったらしいがそこまで派手な功績はない。

ただ、あの人材コレクターともいえる曹操が直々にスカウトしたぐらいには優秀で、太史慈は孫家への恩義からこれを断っている。

演義では赤壁で活躍し張遼との一騎打ちもしている太史慈だが、実際には赤壁の戦いの前に死んでいる。

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第39位:龐徳(ホウトク)

元々は馬騰、馬超親子に仕える武将であったが、張魯のもとに馬超が身を寄せていた際に馬超は劉備に投降し、残された 龐徳は張魯が曹操に降伏した際に曹操の配下となった。

馬騰に仕えていた時からその武勇は轟いており、郭援という鍾繇の甥にあたる人物を撃破するなど馬騰陣営髄一の武将として知られていた。そのため曹操は龐徳が自らに帰参したと聞いて大いに喜んだという。曹操は兎に角有能な人物が陣営に加わると喜ぶ。本当に人材コレクターだな。

曹操軍に入ってからは荊州の要所樊城の北方に配置され、曹仁と共に関羽の侵攻を阻止。しかし川の氾濫によって孤立無援になってしまう。龐徳はそれでも心折れずにわずかな手勢で軍神関羽の猛攻をしのぐも船の転覆によって捕まり、劉備軍に降伏するを良しとせずにそのまま処刑された。

この忠義が評価され龐徳は後に魏国の建国功臣20人に選ばれることになり、これはほぼ同時期に関羽に降伏した于禁が長年の功にも関わらず選ばれなかったことと対照的であった。

第38位:郝昭(カクショウ)

 

 曹操の時代から仕えてきた魏の武人で、諸葛孔明が北伐を行った際には陳倉という要所を見事守り抜いた。

その際に郝昭のもとにはわずか1000名ほどしか兵がいなかったが、天下の奇才諸葛孔明から見事に陳倉を守り切った。史上名高き陳倉の戦いである。

演義だと孔明が最終的に陳倉を落としたことになっているが、実際にはそのような事実はない。

孔明相手に寡兵で戦って勝利するなどその活躍は魏国の中でも随一と言えるだろう。

第37位:文醜(ブンシュウ)

演義だと伝説上の化け物のような風貌で張遼や徐晃を圧倒するような怪物として描かれているが、正史では荀攸の策によって倒された、あるいは徐晃によって倒されたらしいということしか分かっていない。

袁紹軍内部では精神的な支柱を担っていたようで、文醜が敗れたことによって軍内部の士気が大いに下がったという。

豊富な経済力と人材を誇る袁紹軍において、張郃よりも格上の扱いであったことからかなり強かったのだろうと思われるが、実際にどの程度強かったのか、どんな功績があるのかは分かっていない。

そういう人物だったからこそ羅漢中は自由に動かしやすかったのかも知れない。

正史では実際誰が文醜を倒したのかはよくわかっていないが、少なくとも関羽ではないことは確かであろう。

なお孔子の子孫である孔融は曹操に対し顔良と文醜がいる袁紹軍とは戦わない方が良いと忠告しているぐらいなのでやはり相当強かったものと思われる。

ちなみにそれを聞いた荀彧は「どれだけの武勇であろうと、顔良と文醜は所詮は匹夫の勇。一戦にして生け捕れます」と言ったといい、そして実際にその通りになっている。

余談だが、正史三国志において荀彧が何かを予言すれば必ずその通りになる。荀彧はエスパーなんじゃないかと思う。荀彧に関しては後年曹操と対立しているが、それでもその活躍は記載されており、実際には軍師としては三国志および中国史でも最高クラスの人物であったことだろう。

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そしてその荀彧の言葉通りだとすれば、強いけれどもそれは純粋な武人としての強さであった指揮官としてはそこまで優秀ではなかったということなのかも知れない。 

第36位:于禁(ウキン)

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演義だとただの情けない人物だが、史実では張遼などと共に列せられるほど優秀な将軍で、その評価は途中まで徐晃や張遼よりも高かった。

古くは義勇兵を組織して黄巾賊の鎮圧にあたり、同郷の曹操が旗揚げするやこれに加わり陶謙戦や呂布戦などでも手柄を挙げて順調に出世を重ねる。

その後も黄巾賊の残党狩り、袁術戦、張繍戦と見事な活躍をし、天下分け目の合戦となった官途の戦いでは戦陣をきり、楽進と協力し数千の兵と20を超える将兵を投降させ、30を超える拠点を攻略した。

その後劉備を攻めた際には失敗したものの荊州攻めの際には活躍し、楽進、徐晃、張遼、于禁、張郃の5人はお互いに攻める時は戦陣をきり、撤退する時はシンガリを守ったという。

基本的にこの5人の将軍の評価は近く、後に演義において蜀の五虎将軍が創作された際にはこの5人をモデルにしたとさえ言われている。

5人の中でも最も出世が速く、左将軍に任命されるなど魏の建国において最高クラスの貢献をしていた于禁だが、関羽に負けてしまい降伏してから一気にその評価は落ちてしまった。

部下であり元々外様であった龐徳が忠義を守って死を選んだのに対し于禁は延命を希望、そのまま捕虜となり、やがて孫権が関羽を倒すと于禁の身柄は孫権から曹操軍に返されたが、そのころにはもはや曹操は亡く、曹丕の勧めに従って于禁が曹操の墓参りをすると于禁が関羽に降った様や龐徳が忠義を貫いた様が絵になっており、それを見た于禁は恥ずかしさのあまりそのまま死んだという。

実際には優れた将軍であったのに、晩節のせいでその栄光は霞み、演義ではただ惨めなだけのキャラクターになってしまった。

後に魏国建国の功臣20人を選んだ際には、楽進、徐晃、張遼、張郃の4人は選ばれているのに同格かそれ以上であった于禁は結局選ばれなかった。

なんというかもはや…

第35位:曹洪(ソウコウ)

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演義だとまるで活躍しないが、実際には車騎将軍まで昇り詰めており、正史をもとにした蒼天航路では夏侯惇らと共に曹操の四天王として描かれている。

曹操の挙兵の時から彼に付き従っており、董卓の部下徐栄との闘いの際には自らの馬を曹操に渡して「天下に私がいなくともあなたはいなくてはならないのです」と言って逃がすことに成功しており、かつ自らも生き延びている。

官途の戦いにおいては曹操軍が食糧庫であった烏巣を襲撃している際に本陣の守備を担当、作戦を見抜いた高覧と張郃が本陣を襲撃するも曹洪はこれを見事に防いで見せた。

漢中争奪戦においては曹休とともに張飛や馬超を大いに打ち破り、曹操が亡くなり曹丕が皇帝となった際には驃騎将軍に任命されるも曹丕が若い時に借財を申し込んだのを断ったことが原因で逮捕され処刑を命じられる。

卞太后の諫言により処刑はなんとか回避されたものの、所領と爵位ははく奪される。

曹丕亡き後曹叡の時代になってようやく地位と所領は回復し、魏国の功臣20人にはしっかり選ばれることになった。

主に防衛において功績があり、曹洪がいなければ曹操陣営はかなり危なかったという場面がいくつもあり、それゆえに演義の不遇や後年の曹丕との揉め事が残念な人物でもある。

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第34位:曹真(ソウシン)

演義だと完全に司馬懿&諸葛亮の引き立て役だが、実際には諸葛亮の北伐から魏を守った功労者である。

どうやら曹操の親戚らしく、幼い頃に父が董卓によって殺されると曹操は息子の曹丕と共に曹真を育てさせたという。

そのため曹丕が亡くなる頃には司馬懿や陳羣、曹休と共に息子曹叡を託され、魏の大将軍に任命されるほどの信頼をされている。

実際に曹操の一族の中でも優秀で、青年期には虎狩りの逸話もあり、劉備が攻めてくると張郃と共に漢中を守り、その後は郭淮などと共に涼州を平定、諸葛亮が攻めてくると趙雲を撃破し、諸葛亮の進路を読み名将郝昭を陳倉に配置したのもこの曹真である。

演義だと北伐は当初から司馬懿によってふさがれていることになっているが、そもそも司馬懿が対蜀戦線に配置されたのはこの曹真が病死してしまったからである。

つまりは諸葛亮はついぞこの曹真を破ることが出来なかった訳である。

それなのに演義では司馬懿や諸葛亮との才能の差に苦しんで病気になり死ぬという酷い扱いになってしまっている。

この記事で名誉挽回できると良いのだが…

第33位:王濬(オウシュン)

よほどの三国志マニアにとってさえ誰だそれ状態だと思うが、呉の最終皇帝となった孫晧を降伏させた人物であり、三国志という物語のフィナーレを飾った人物でもある。

唐代に編纂されたそれまでの中国史の名将を厳選するために企画された武廟六十四将の1人にも選ばれている。

このランキングには秦統一に功績のあった王翦や衛青、霍去病、馬援などの名将ばかりが選ばれており、王濬もまたこれらの将軍に並ぶ評価を受けていたのであった。

第32位:徐盛(ジョセイ)

合肥の戦いでは鬼神の如く突撃してくる張遼の前になにも出来ずに命からがら逃げ延びたが、続く濡須口の戦いでは曹操軍を退けることに成功、劉備が大軍をもって攻めて来た夷陵の戦いにおいては陸遜と共に迎え撃ちこれを撤退させることに成功する。

後に魏の曹休が攻めて来た際には寡兵でもってこの侵攻を防ぎ、曹丕自らが攻めて来た際には偽の城を作ってこれを撃退、呉国の危機を救った。

 

第31位:夏侯淵(カコウエン)

曹操や夏侯惇の従弟で、妻は曹操の妻の妹という曹操の腹心中の腹心。

蒼天航路などでは曹操四天王として登場し、曹操を挙兵の時から支えた功労者。

曹操初期の功労者は天寿を全うした例が多いが、夏侯淵に関しては戦場で死んでしまっている。

その働きは非常に広汎で、夏侯淵がいなかったら魏は成り立たなかったかも知れないというほどであり、主に支配地域の治安維持に活躍。特に涼州地域の平定の際には活躍し、韓遂を撃破、涼州にいた氐族や羌族は夏侯淵の名前を聞くだけで震え上がったという。

しかし神威将軍と言われた馬超には敗北しており、漢中争奪戦においては定軍山の戦いで黄忠に敗れてしまいそのまま亡き者となってしまった。

曹操からは生前「指揮官たるもの臆病な時もなければならない。勇気だけを頼みにしてはならない。指揮官は当然勇気を基本とすべきだが、行動に移す時は知略を用いよ。勇気に任せるしか知らないならば、一人の男の相手にしかなれぬ」と言われており、武勇にはやる性格だったことが伺える。

 非常に良い活躍をするが本当に強い将軍達には負けてしまう印象がどうしても強い。

なお、張飛の妻はどうやら夏侯淵の娘のようであり、後に息子の夏侯覇が蜀に亡命した際には劉禅は親戚として迎えている(劉禅の妻は張飛の娘)。

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第30位:魏延(ギエン)

劉備大好き人間。

反面諸葛孔明とは相性が悪く、演義では魏延を見た孔明はいきなり「反骨の相がある」といって処刑しようとして劉備に止められているほどである。

実際に魏延は将軍としてかなり優秀で、劉備は漢中を得ると最重要地域である漢中の太守には張飛ではなく魏延を任命している。

魏延はそのことにいたく感激し「もし曹操が10万の兵をもって攻めて来たならば私はそれらを全て呑み込みましょう」という言葉を遺して劉備を喜ばせている。

しかし劉備が死ぬと実質的に跡を継いだ諸葛亮と反目しあい、諸葛亮は魏延を重用せずに腹心の馬謖を重用、その結果街亭の敗北が起こってしまう。

魏延は北伐において郭淮を破り司馬懿の軍を撃退するなど実はかなり活躍をしたのだが、諸葛亮はついぞ魏延を評価しなかった。

ある時魏延が諸葛亮と別動隊を引いて長安に攻め入る計画を進言したが孔明は却下、もし魏延の策を採用していたら蜀は長安を攻め落とせた可能性さえあると言われており、魏延は孔明に対しかなり鬱憤が貯まっていたのだろう。

孔明はさらに魏延と犬猿の中の楊儀を組ませ、結局孔明の死後にこの2人は反目、魏延は孔明死後の北伐撤退に納得できなかったこともあって楊儀を攻撃、そのことで諸将の反目をかい、さらに味方だと思っていた馬岱によって斬られるという最期を迎えた。

孔明の態度は魏延を追い込むようなものであり、ただでさえ人手不足の蜀をさらに深刻な状況に貶めた。

孔明の後継者であった姜維や費禕などは明らかに力不足で、魏延を用いずに馬謖などを用いて敗北しているなど私情が勝っている部分が見受けられる。

魏延は非常に偏屈な性格をした扱いづらい人物ではあったが、戦闘においてはかなり秀でた人物でもあった。

そういった人物をうまく活かした劉備玄徳とまるで活かせなかった諸葛亮孔明、これは能力というよりも器の違いであると言えるかも知れない。

孔明は1個人としてこの上なく優秀だが、国を背負える英雄の器ではなかったのである。

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第29位:顔良(ガンリョウ)

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袁紹軍の筆頭将軍。その評価は名将張郃よりも高かったというのだから相当なものである。文醜と顔良がいるから袁紹軍とは敵対しない方がよいとは孔融の意見であるが、孔融は孔子の直系子孫という名門を越えた名門であり、その人脈ネットワークは三国志でも随一で、その孔融がそういうのだから当時はかなり名が知られていたことは確かであり、通信設備はもちろんマスコミすらなかった時代に広く名が知られていたというのは相当のことであっただろう。

演義だと大暴れした挙句に関羽に斬られるが、実際にはあまり大暴れした記述もなく、荀攸と徐晃に撃破され、関羽と張遼に敗れたようで、最後は敵陣につっこんだ関羽によって斬られている。

演義ではより関羽を引き立てる役になっており、徐晃を含めこの辺りは大分気の毒である。

第28位:夏侯惇(カコウトン)

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魏国の初代大将軍。

楚漢戦争時劉邦に付き従っていた夏侯嬰の末裔であり、曹操とは従弟の関係であるという。

曹操と夏侯惇の間柄は不臣の礼と言われる特別なものであったようで、曹操軍の中で夏侯惇は曹操の部下ではなく、あくまで漢王朝の臣として曹操と同格の扱いであった。

そのため曹操生存中は右将軍などには任命されず、その職には功労多き名将楽進が就いている。

演義では5つの関を破った関羽に襲い掛かったり徐栄を槍で一突きにしたり獰猛なイメージが強いが、正史ではさらに気性が荒く、若い頃には師を侮辱した男を殺害するなどしている。

夏侯淵や曹洪らと共に曹操の挙兵時から歩みを共にしており、楽進たちのように遊撃をするのではなく曹操の不在時に拠点を防衛する役目などを担当。演義同様呂布との戦いの際に片目を失っており隻眼の将となってしまう。

猪突猛進であるため劉備を深追いして罠にはまって李典に助けられるなど失策も目立つが、基本的に曹操軍が飛躍できたのは夏侯惇という防衛力の強い将軍がいたためで、呂布に城を取られるなどと言ったことはあったものの、概ねその役割は果たしていたと言える。

魏の将軍として珍しく演義の方が活躍している人物でもある。

第27位:皇甫嵩(コウホスウ)

黄巾の乱が起こった際の官軍の側の最高司令官。

皇甫嵩の父も名の知れた将軍で、異民族の討伐に功績のあった涼州の三明の一角であり、黄巾の乱の鎮圧と引き換えに宦官たちによる党錮の禁を解かせた人物でもある。

黄巾の乱の首謀者である張角及びその弟達は結局皇甫嵩によってその首が中央に送られることになり、実質的に黄巾の乱を鎮めた人物だと言える。 

黄巾の乱鎮圧後は宦官と対立して失脚するも涼州で起きた反乱鎮圧のために復帰、董卓と共に反乱鎮圧に乗り出しこれを鎮めるも董卓の策を無視したことから関係が悪化、後に董卓が実権を握った際には再び失脚、董卓が亡くなると軍事上の最高職太尉に就くもすぐに病死した。

後の世の評価も高く、唐代に武廟六十四将という唐以前の64人の優れた将軍を選んだ企画の際には皇甫嵩も選ばれている。

なお、三国志全体では武廟六十四将には12人がランクインしており、三国志以外だと衛青、霍去病、王翦、李牧、王猛、田単など錚々たるメンバーが名を連ねている。

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第26位:陳泰(チンタイ)

世界史の教科書にも載っている九品官人制の考案者陳羣の息子。

父は純然たる文官だが、息子は文武両道で、諸葛孔明の意志を継いだ姜維の北伐を三度に渡り阻止、結局姜維は一度として陳泰に勝つことは出来なかった。 

司馬氏の政変にあたっても父陳羣と司馬懿の仲が良かったこともあって重用され、多少のミスがあっても許された。陳寿からも「陳泰は広く世を救い、極めて慎ましく潔い人柄であり、誠によく父業を受け継いだ」と非常に高い評価を受けた。

ちなみに陳泰の母は荀彧の娘であるため陳泰は荀彧の孫でもある。

第25位:黄忠(コウチュウ)

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横山光輝三国志の影響か、どうしても年寄りのイメージのある黄忠だが、本場中国においても「老いてますます盛ん」の代名詞にもなっており、やはり老将のイメージがあるようだ。

若い頃は劉表に仕えていたようで、劉表が亡くなると曹操によって将軍位に就けられていることからそれなりには優秀だったのだろうと思われる。

その才能が開花したのは劉備の益州攻めの際で、敵を見るや真っ先に倒すなど大活躍、益州平定後は討虜将軍という位を与えられており、関羽や張飛を除けばその時点で最も評価が高かったと言える。

そして黄忠の一番の見せ場と言えば漢中争奪戦。

漢の建国者劉邦もその地を足場として天下を取ったという重要地点漢中を巡って劉備と曹操の間で戦争が起こった。

漢中は夏侯淵を中心に張郃など優秀な将軍がいたが、定軍山の戦いにおいて敵の重臣夏侯淵を討ち取る大戦功を挙げ、その功で後将軍に任じられる。

この時に張飛や馬超は黄忠の活躍を知っていたので文句は言わなかったが、関羽はずっと荊州にいたのでこの人事に不満だったので文句を言った話が残っている。

演義では黄忠と関羽の友情話があるのだが、正史では実はこの2人は面識がないのである。

演義では5虎将軍となっているが、実際には関羽、張飛、馬超、黄忠の順で評価され、趙雲は残念ながらこの4人とは大きく差がある。

後発でありながら関羽や張飛と同格の位を授けたことに黄忠への評価の高さが垣間見られる。

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第24位:甘寧(カンネイ)

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演義では河賊出身ということになっているが、正史ではそのようなことはなく、若い頃は普通に役人などをやっていたようだ。

ただ生来の気質から全く向いていなかったようですぐに辞めている。

正史の甘寧は河賊でこそなかったものの、無頼の徒として賭け事などを好み地元の若者たちをまとめる頭領のような存在であったらしく、各地を流浪しながら劉表のもとに身を寄せ、用いられなかったために黄祖のところに世話になり、その際に淩統の父親凌操を討ち取ったがここでも認められることはなかったようである。

黄祖のもとを出た甘寧は周瑜、呂蒙の両名の推薦を受けて孫権の部下となり、ようやく芽が出始める。

赤壁の戦いでは曹操軍を大いに破り、荊州を攻めて激闘の結果曹仁を江陵から追い出すことに成功している。

再び曹操が攻めて来た濡須口の戦いでは少数で夜襲をかけて敵陣を大いに混乱させる活躍を見せ、その後も関羽や曹操、曹丕との戦いで活躍した。

演義では楽進を射殺したことになっているが、実際にはそのようなことはなく、鬼神のような活躍を見せた張遼を淩統と共に防いだことが記録されている。

第23位:馬超(バチョウ)

世界史の教科書にさえ載っている後漢の名将馬援の末裔。

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演義だと主人公レベルに強いが、実際の馬超は圧倒的な破壊力を有しながらも脆い面があると言った感じで結構負けている。

若き日は韓遂軍の閻行という武将に一方的にボコボコにされ命からがら逃げ延びたという記録があり、ではこの閻行という人物が強いのかというと後に曹操が気に入るぐらいだから強いのだろうが、それほど活躍したという話は残っていない。

それでも武がものをいう紛争地域涼州においてその名は大いに轟いており、神威将軍としてまわりからは怖れられていた。

演義では曹操が馬騰を殺したことにより復讐戦が始まる訳だが、史実ではこれが真逆で、馬騰が漢の宮中に出仕している間に馬超が韓遂と組んで曹操に戦争を仕掛けたので曹操が馬騰とその一族を処刑したのだった。

騎馬隊を操る馬超の勢いはすさまじく、曹操はあわや囚われそうなところまで追い詰められるが、親衛隊の許褚の働きによってなんとか命はつながった。油断なき曹操をここまで追い詰めたのは馬超だけであろう。

ただし馬超自身は演義と違ってかなり残虐な性格をしていたようで、その性格は王異という人物とのエピソードでうかがい知れる。

王異というのは男っぽい名前であるけれども女性で、趙昂という人物の妻だった人物。息子を人質として馬超に取られるも馬超への反抗をやめず、結局息子を殺されていて、その前に趙昂の部下であった韋康という人物が馬超に降伏したのだが、馬超は命を助けるという約束を反故にし、この韋康という人物のことも殺しており、結局馬超は皆殺しにしている。

そのような性格を名軍師賈詡に突かれ、離間の計により韓遂と馬超は同士討ちをはじめ、結局曹操軍に敗退してしまう。

その後は張魯の元に身を寄せ、張魯の代理で同じく劉璋の代理で戦いに来た劉備と意気投合、そのまま劉備陣営に従弟の馬岱と共に身を寄せる。

馬超が劉備に味方をしたという話を聞いて劉璋が劉備に降伏したぐらいなので、当時馬超の名は相当知れ渡っていたのであろう。

しかしその後はあまり目立った活躍はなく、漢中攻めではその攻めを曹洪に阻まれたぐらいであったが、劉備が漢中王になると左将軍に、劉備が皇帝になると車騎将軍に任命された。

こうやって見ると馬超は実は特に強敵に勝った訳でもなく、その攻めは曹仁や曹洪に跳ね返され、君主としての器は狭く、猜疑心に富んでおり、決して英雄の器ではなかった。

劉備陣営で厚遇されたのも馬援の子孫だからという理由が大きいような気もする。

なにせ馬援の娘たるや後漢第二代皇帝明帝の皇后明徳馬皇后であり、漢王朝復興を掲げる劉備陣営にとっては馬超はこれ以上ないほど己の権威を高められる人物であるわけで。

演義ではさらにその部分が強調されているため馬超の活躍を描きやすかったのだろうと思われる。

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第22位:陸抗(リクコウ)

陸遜の子供であると同時に孫策の孫でもある(陸遜の妻は孫策の娘)。

20歳の時に父陸遜が亡くなると家督を継ぎ、蜀が滅びた後の呉を大いに支えた。

その力は非常に強く、歴史上でも最悪クラスの暴君である呉最後の皇帝孫晧でさえも陸抗の力を恐れて何もできなかったほどであった。実際に陸抗は孫晧が宦官を重用しすぎるのを咎める上申書を出している。

孫晧は自分に逆らう人間は死刑、逆らわなくても気に入らなければすぐに死刑にするなど酷い状態で誰も諫言できなかったのだが、如何に愚かな孫晧でも陸抗に逆らえないことぐらいは分かっていたようである。

そのような背景があったためか対呉司令官の羊祜とは敵ながら友誼を交わしていたようで、お互いに認め合う関係だったといい、そのことを孫晧に咎められたが陸抗は毅然としていたという。

滅びゆく呉を守りながらその最期を見ることなく病死、陸抗死後も陸家は江南の名家として晋が滅びた後にも貴族として繁栄を享受していく。

武廟六十四将にも選ばれており、親子で選ばれているのは歴代でも陸遜と陸抗の親子だけである。

第21位:羊祜(ヨウコ)

武廟六十四将にも選ばれている晋の名将。

その親戚関係はまさに華麗なる一族と言え、母は詩人としても有名な蔡文姫、姉は司馬師の後妻、妻は蜀に亡命した夏侯覇の娘(夏侯淵の孫)と色々と複雑ではあるが羊氏自体も泰山軍の有力者で、司馬炎が即位すると重用され衛将軍となる。

後に車騎将軍となって対呉戦線の責任者となり、名将陸抗との勝負はまさに語り草となっている。

人格者として知られ、晋の兵士たちはもちろん呉の兵士たちからも「羊公」と言われ敬愛され、最大のライヴァルであった陸抗とは敵ながらも友誼を結び、戦国の上杉謙信、十字軍のサラディンさながら敵にも敬意を表した。

王濬と協力しながら呉をあと一歩まで追い詰めるが重病となり、死に際に杜預を推薦してからこの世を去った。

その死は多くの人に惜しまれ、その日は人々の慟哭が止まなかったという。

後代からの評価も高く、詩仙と呼ばれた李白などの詩にも登場するほどである。

 

第20位:徐晃(ジョコウ)

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演義では顔良、文醜に圧倒されるが、実際には徐晃は荀攸と組んで顔良も文醜も破っている。

元々は楊奉という人物と共に各地に跋扈する賊を退治していたようで、楊奉が曹操に降伏したのを機に曹操に仕え始めた。

呂布戦から活躍し、劉備を討伐するなど戦功を重ね、袁紹軍の中核である顔良、文醜を撃破、その後も順調に軍功を重ねていき、荊州では関羽の軍も破っている。

最終的には右将軍まで出世しており、魏国の中でも指折りの評価を得ており、魏国建国の功臣20傑にも当然のように入っている。

演義では最後に孟達のような小物に眉間を射抜かれているが、これは羅漢中による完全なる創作で、実際にはその前年に病死している。

実際にはほとんど失策も敗戦もなく、曹操からは孫氏の兵法書で有名な孫子にさえも劣らぬという評価を得ている。

まさに名将中の名将だと言えるだろう。

そんな名将をなんだって羅漢中は…

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第19位:楽進(ガクシン)

演義ではその活躍が大幅に削られてしまった武将。

実際の評価は張遼や張郃と同格で、徐晃よりも序列が高い。

曹操の行くところならどこへでもついていき、切り込み隊長として常に先陣を切って活躍していた。

その功績は数えきれず、特に天下分け目となった袁紹との間に起きた官途の戦いでは于禁と共に数千の兵と20を超す指揮官を捕虜にし、30を超える拠点を制圧、烏巣襲撃では敵将淳于瓊を斬る活躍を見せた。

演義では丸々カットされているが、関羽の軍団を撃破したこともあり、呉を攻めた際には普段折り合いの悪かった李典や張遼と協力し孫権軍を敗走させ、最終的には右将軍となり、これは魏の武将の中で最高位であった。

演義では蜀を主人公とする関係上大幅に弱体化されている上に淩統が父の仇である甘寧の命を救うためのダシのようになってしまっているが、実際にはそのようなことはなく、魏建国においては于禁と共に筆頭となり、どの武将よりも評価された。

大きな負けもなく、演義ファンは納得がいかないかも知れないが、正史三国志においては実は最強クラスの将軍であると言えるだろう。

むしろ正史ファンは演義の改変っぷりに納得がいかないかも知れない。

第18位:徐栄(ジョエイ)

ほとんどの人が誰だそれ状態かも知れないが、若き日の曹操と孫堅をコテンパンにしている。

董卓の部下として曹操の軍団を粉砕、曹操はこの時逃げ延びるために馬を失っており、従弟の曹洪が自分の馬を差し出して何とか逃げ延びたほど。徐栄は敗走する曹操軍を見て容易には滅ぼせないと判断して撤退、その後は孫堅軍と戦いこれも撃破。

三国志の主役と言ってもよい2人を打ち破るほどの強さを見せつけたが、最後は董卓の後継者争いで李傕・郭汜と戦っている最中に味方に裏切られて死亡。

演義では曹操を追い詰めるも駆け付けた夏侯惇の槍に貫かれるという引き立て役になってしまっている。

呂布にしても李傕・郭汜にしても董卓陣営というのはどうしてこう…

第17位:高順(コウジュン)

呂布配下筆頭の将軍と言え、後に魏の初代大将軍となる夏侯惇を撃破している。

劉備玄徳はかつて呂布の資金を横領したことがあり、この時高順の軍にコテンパンにやられ妻子まで囚われている。

そのあまりの強さから高順の率いる軍団は「陥陣営」と呼ばれ狙、った敵は必ず倒すと恐れられたという。

呂布への忠義心は人一倍厚く、それが故に呂布に殉じてその命運を共にすることになった。

高順は呂布と違って自律的で酒も飲まず宝物も受け取らない高潔な性格であったというが、そのような人物がどうして呂布に忠誠を誓っていたのかは大いなる謎である。

演義ではなぜか典韋に撃退されるという役回りを持つが、これもまた羅漢中の完全なる創作である。

第16位:張郃(チョウコウ)

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劉備玄徳をして「敵として最も恐ろしいのは張郃」と言わしめた名将中の名将。

黄巾の乱が起こると韓馥と共に黄巾賊の討伐に乗り出し、韓馥が袁紹に帰属するとそれに伴って自身も袁紹のもとに身を寄せた。

やがて曹操と袁紹の間で官途の戦いが起こると曹操軍が袁紹軍の兵糧庫烏巣を襲撃、張郃は救援に行くことを願い出るが出ると負け軍師の異名をとる郭図はこれに反対、袁紹もそれに賛同し、張郃は曹操本陣への攻撃を命じられる。張郃はこの時曹操軍の守りは固く簡単には落とせないと主張したが郭図の進言を採用した袁紹はこれを却下、張郃は高覧と共に曹操の本陣を襲撃するが曹操は守りの要とも言うべき曹洪をここに配置、張郃は結局これを落とすことが出来なかった。

明かな作戦ミスだったが、その張本人である郭図は「張郃は敗戦を喜んでいる」などと袁紹に讒言、それを知った張郃と高覧はそのまま曹操軍に降伏した。

ちなみにこの際曹洪は張郃を怪しんだが、荀彧は「全く疑う理由がない」と擁護、張郃が降伏したと知った曹操は大喜びで「韓信が項羽のもとを去って劉邦に仕えたように張郃の行為は正当なものである」と言って大いに喜んだという。

これは史実だが、曹操陣営と袁紹陣営の差、曹操と袁紹の器の差を大いに物語っている。曹操の方が圧倒的に人を見る目があったのである。

完全な余談だが、荀彧は元々袁紹に仕えるつもりだったが袁紹の狭量さを知って曹操に仕えた。実際に袁紹と曹操が戦う際にも、圧倒的な戦略差があったにも関わらず荀彧は曹操の勝ちを微塵も疑わなかったという。

暗君には佞臣が、名君には賢臣が集まるものである。

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張郃はその後曹操陣営で大活躍をし、袁紹の残党との戦い、異民族との戦いで功を挙げ、馬超と韓遂が攻めて来た際にもこれを撃破し、劉備が漢中を攻めた際にも敵を大いに恐れさせた。

漢中争奪戦において、夏侯淵を討ったという報告が入った際、劉備は「張郃の首をとっていないではないか」と言ってあまり喜ばなかったという。

劉備をはじめ多くの人物から張郃は怖れられており、司馬懿が最も恐れた将軍は蜀にはおらず味方であるはずの張郃であったという話があるぐらいで、実際曹丕が魏の皇帝になった際には張郃は左将軍に任命されている。これは生え抜きの楽進や于禁などと同評価であり、加入時期が遅いことを考えると最高の評価を得ていると言っても良いかもしれない。

張郃は諸葛亮が北伐を開始すると対蜀戦線に配置され、街亭の戦いでは馬謖を撃破し第一次北伐を防ぎ、その後も幾度となく諸葛亮率いる蜀の軍を跳ね返した。

しかし4回目の北伐においては曹真が亡くなっており司馬懿が最高司令官に就任。張郃の献策を司馬懿が却下、そのため張郃は無謀な追撃をせざるを得なくなり、これが司馬懿の唯一のミスとなる。

最後はが司馬懿の命令によって敗走する孔明を張郃が追撃した訳だが、これは完全に孔明の罠で、伏兵により張郃は戦死してしまった訳である。張郃は孔明の作戦を見抜いていたが、官途の戦いの時同様武人らしく上官に逆らえず最後は死んでしまった。

司馬懿はこのことを大変後悔しており、後に孔明が死んで撤退した時も罠があると思い追撃をしなかった。このため「死せる孔明生ける仲達を走らす」という故事が生まれた訳である。

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第15位:曹仁(ソウジン)

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個人的に実は最強は曹仁なんじゃないかと思っていたりする。

少しややこしいのだが、曹操と曹仁は同性であるにも関わらず実は全然血縁関係がない。

これは曹操の父が養子となった曹騰の弟が曹仁の祖父であるという理由によるもので、人事などを見るに曹操は夏侯惇や夏侯淵を曹仁よりも優遇している節がある。

実際の活躍をみるに夏侯惇よりも曹仁の方が活躍しており、劉備、馬超、周瑜、関羽と三国志の主役たちとの直接対決を制しており、その実力は正史三国志全体でも最強クラスだと言ってよいであろう。

ある意味三国志演義最大の被害者かも知れない。

曹仁の活躍をそのまま書くと劉備はともかく馬超や周瑜、関羽と言った人物たちの格が下がってしまい、物語としての面白さは落ちる。

なので羅漢中は曹仁を思いっきり下げることにしたのだろう。

演技の曹仁と言えば徐庶の献策で八門金鎖の陣を破られて趙雲に敗北し、孔明が来た瞬間に攻めて来てボロ負けし、見事なやられ役となっているが、このような事実は実際にはない。

さりとて完全に弱い訳ではなく、ところどころは史実通りの活躍を見せるため、中々手ごわい敵役だけど最後は主人公格に人物に負けるというある意味絶妙な役どころとなっている。

物語の演出の巧さという面で、羅漢中以上の巧さをもった人物はいないであろう。

実際の曹仁はとにかく活躍が多い。呂布戦、陶謙戦、袁術戦、張繍戦、袁紹戦、対孫権軍、馬超戦、荊州戦と数え切れないほどに活躍しており、第一戦級の活躍を見せている。

周瑜や甘寧には江陵を取られてしまうものの関羽の激しい攻めに対抗して樊城を守り切ったことは特筆に値するであろう。

曹丕が魏の皇帝となると曹仁は車騎将軍に任命され、夏侯惇が亡くなると大将軍の位に就いており、その功績の大きさが伺える。

晩年は呉の朱桓相手に撃退されたものの、その実力は三国志最強クラスであると言ってよいであろう。

 傅玄という晋の時代に活躍した学者によれば、一番は曹仁、その次が張遼であったという。

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第14位:諸葛亮(ショカツリョウ)


三国志の作者陳寿からは「 応変の将略(臨機応変な軍略)が得意ではなかったからだろうか」と評され、これが元に陳寿は諸葛亮を戦下手と評したと言われる。

実際に孔明がどれくらい戦が巧かったのかを評価するのは非常に難しい。

孔明の功績を軍事的に客観的に評価すると「特にない」となる。

諸葛亮孔明は中国の長い歴史の中でも異質で、軍師としてのイメージが強いが同時に将軍であり、そして宰相でもある。

この時代、職業軍人というものはおらず、張飛ですら将軍の他に警察署長のような仕事もしていたが、孔明の仕事はあまりにも多岐にわたりすぎていた。

三国志の軍師の多くは、例えば荀彧や荀攸などは直接軍を率いて戦うというようなことはなく、孔明も劉備が存命中は特に軍を率いている様子はない。

孔明が戦わなくても張飛や関羽、馬超といった優秀な将軍が数多くいたからであろう。

しかし220年前後に多くの将軍が死んでしまい、諸葛亮は自ら将軍となって魏に攻め入るしかなくなったのか、魏に攻め入るべく自ら軍を率いて北伐を開始している。

しかし残念ながら結果だけを見れば北伐は結局成功しなかった。

後年司馬懿が指揮を執った際には敵が強すぎたという理由もつけられるが、それは第4次からのことであり、それまでは曹真や郭淮などによって巧妙に跳ね返されていた。

後に司馬懿が孔明の敷いた五丈原での布陣を見て「天下の奇才なり」と評した通り、その軍事的な才能も図抜けていたと言え、この点は曹真や張郃といった面々が優秀であったというべきであろう。

蜀は経済力も兵力も人材も全てが不足していた。そんな中で魏延を自らの失策で失うなどミスも目立った。姜維などを得たが、後継者である費禕や蒋琬とは仲が悪く、結局孔明の死後蜀が一致団結することはなかった。

孔明はやはり劉備という英雄がいてこそ輝いていたのだろう。

宰相としての孔明は「時代にあった政策を行い、公正な政治を行った。どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか調べ、嘘偽りは歯牙にもかけなかった。みな諸葛亮を畏れつつも愛した。賞罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲・蕭何に匹敵する」と陳寿が評した通り、中華史上でも最高クラスで、忠義を守り、最後まで暗愚な劉禅を支え続けた。

中華の歴史を紐解けば、誰もかれも簒奪の意思しかもたず、君主が暗愚と見ればすぐに自らの王朝を建てた。

孔明は同じことを行える立場にいたし、それをしても咎められることはなかったであろう。

しかし諸葛孔明はそのようなことはしなかった。だからこそ多くの人に愛されたのだ。

このランキングにもしばしば出てきている「武廟六十四将」に孔明は出てこない。

その代わり、「武廟六十四将」の上位にあたる「武廟十哲」には三国志の人物としてはただ一人載せられている。

他に載せられている人物も張良や白起など時代を越えた逸材ばかりで、如何に諸葛亮孔明の評価が高いかがよく分かる。

三国志に出てくる人物の中でも最高の人物、それが諸葛亮という人物であり性格な評価であろう。

第13位:孫堅(ソンケン)

孫権、孫策の父親。

17歳の頃に一人で河賊の船に乗ってバッサバッサと賊を斬ったとも、大軍を率いているようにみせかけてそれを見た賊たちが逃げ出したとも伝えられ、いずれにせよその一軒でその武勇は広く知られるようになったようだ。

黄巾の乱が起こると名将朱儁に見いだされ共に黄巾賊を討伐していく中で頭角を現し、乱に乗じて韓遂らが起こした涼州での反乱の鎮圧にも乗り出している。この際董卓と共に軍を率いたが、董卓が軍規違反ばかりしたので司空であった張温という人物に董卓の処刑を進言したため董卓との仲が悪くなったという。

その後は荊州南部で起こった反乱の鎮圧をするために長沙という都市の太守となり、この地方で力を蓄えることとなった。

そうこうしているうちに中央では董卓が力を握ったため反董卓連合が結成され、孫堅もこれに参戦。余談だがこの途中でどさくさに紛れて自分のことを常日頃からバカにしていた王叡という人物を殺害している。

この王叡という人物は琅邪の王氏と言われる有力貴族の1人で、三国志後にはこの琅邪の王氏が晋の政治を牛耳ることになり、孫堅の子孫達が開発した江南の土地で権力を握っていく訳だがそれはまた別の話。

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袁紹が盟主となり結成された反董卓連合だったが、諸侯は自らの勢力を削りたくないと考えてほとんどの勢力が戦おうとしなかったが、曹操と孫堅だけは積極的に董卓に向かって行った。

始めこそ曹操も孫堅も敵の名将徐栄に敗れたが、孫堅は陽人の戦いで董卓軍相手に大勝利、呂布を退け敵将華雄を討ち取る活躍を見せた。

これによって董卓は洛陽の都に火を放ち自身は皇帝を連れて長安に逃げ延び、反董卓連合は解散となった。

解散後は袁紹と劉表が同盟を結び、孫堅は袁術と合同してこれに対抗、孫堅は劉表を攻め、敵の将黄祖を撃破、そのまま攻めあがろうとするも黄祖の部下の放った矢があたりそれがもとで死んでしまう。

孫子の兵法書で有名な孫氏の末裔を自称したが、実際のところは疑わしいとされており、その家格はそれほど高くなかったと言える。そういった意味では孫堅の子供たちこそが三国志で最も成り上がった一族だと言えるかも知れない。

第12位:鄧艾(トウガイ)

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姜維の北伐を幾度も撥ね退け、最終的に蜀を滅ぼした将軍。

幼い頃に父を亡くし屯田兵となっていた苦労人で、司馬懿にその才能を見出される。土木工事に才があり、日々地形の測量などを行っており、田畑の開墾や運河の形成などに寄与、南安という場所の太守に任命され、そこに北伐を達成せんと姜維が攻めてくる。その際には郭淮と共に姜維を撃退、毌丘倹の乱が起こるや物凄い進軍速度でこれを鎮圧に向かい、指導者の一人である文欽を撃破、その後王経という人物が姜維に大敗すると再び対蜀任務に就き姜維を蹴散らし、そのまま司馬昭と共に蜀を滅ぼす。

鄧艾はそのままの勢いで呉を攻略しようとするが、鍾会や胡烈・師纂と言った人物たちが鄧艾を告発、そのまま護送車で都に運ばれることになった。その際中に鍾会が姜維と共に反乱を起こし、鄧艾はそのあおりを受けて殺害される。

この際の情報の錯綜により鄧艾は反乱者となり、都に残された家族も連座で処刑されるという憂き目にあう。

鄧艾は生まれつきの吃音持ちでうまくしゃべれず、また配慮に欠けた人物であったので周りとの仲は常に悪かったという。

若い頃、鄧艾の貧しさに同情して支援をしてくれた人物がいたが、鄧艾が礼を言うことはなかったと言い、鄧艾という人物の全てがこのエピソードに詰まっているかもしれない。

陳寿は鄧艾に対しこう評している。

「強い意志力で功績を打ち立てた。しかし災いを防ぐ配慮に欠けていた」

第11位:孫策(ソンサク)

三国志には主役となれる人物が何人もおり、孫策もそんな人物の1人である。

江東を中心に暴れまわり、覇王と呼ばれた最強の将軍項羽になぞらえて「小覇王」の異名をとった。

演義での孫策のエピソードは孫堅の弟の子である孫賁と実際の孫策のエピソードを混ぜたものであり、父孫堅が死んだ時孫策たち一家は周瑜の実家である廬江にいた。一説には周瑜の一族と袁術の一族には付き合いがあり、袁術と孫堅が同盟を結んでいたため家族は周瑜の一族が面倒をみていたという。

その流れで孫策も袁術軍に加わり、やがて程普や黄蓋、韓当と言った諸将を含む兵1000人を袁術から返還され、袁術の命を受けて江東の劉繇を攻めた。この時先述したように太史慈との互角の一騎打ちを繰り広げている。

孫策は自らの勢力を広げるべく優秀な人材を集めており、この時期に江東の名士だった張昭や張紘、武名高かった周泰や蒋欽などの将軍をリクルートしていたといい、呂蒙も孫策に見いだされた人物の1人である。

やがて袁術から借り受けた兵を返し独立、名家出身だった周瑜の助けもあり兵の数は増え、王朗や厳白虎と言った諸侯を次々と滅ぼし、江東をほぼ制圧するまでになったものの、つまらぬ人物から恨みを買ってしまいそれがもとで襲撃され、その時受けた傷が原因でわずか26歳で亡くなってしまう。

圧倒的な武力で瞬く間に巨大な領地を保有するにいたったが、その性格はかなり短気で、郭嘉のように孫策の早死にを予見していた人物もいたほどである。

単純な武力で言えば孫策は孫権よりも遥かに優れていたが、孫権のもとには甘寧や魯粛のような優秀な人物が次々と集まってきており、弟の方がより大きな器だったと言えるのかも知れない。

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第10位:張飛(チョウヒ)

三国志の主人公が1人。

演義ではもはや人間離れしていた張飛だが、史実でもやはり人間離れしている。

演義最大のハイライトでもある「長坂橋の仁王」の逸話はほぼ事実で、曹操軍の大軍を前に20ほどの手勢を率いて立ちはだかり「我は張翼徳。死にたい奴はかかって来い!!」と大喝したところ曹操軍がビビってしまい誰も動けなかったらしい。演義における雷のような声はこの出来事からきているのであろう。

実際張飛の武勇は大陸中に轟いていたようで、魏の代表的な軍師である程昱は「関羽、張飛の両名は1人で万の兵士にも匹敵する」と2人を評しており、武廟六十四将に選ばれていることから少なくとも唐の時代には将軍として大変評価が高かったことが伺える。ちなみに蜀の武将で選ばれているのは張飛と関羽だけである。

将軍としても優秀で、益州攻めでは厳顔を生け捕りにし、漢中争奪戦では名将張郃を撃破する活躍を見せている。

ただ、演義同様、あるいはそれ以上に粗暴な性格だったようで、そのために劉備は漢中の守りを張飛ではなく魏延に任せており、後に張飛が死んだ際には報告を聞く前に「あぁ、張飛が部下に殺されたのか」と言ったという。

張飛は劉備の傍から離れてはならぬ男だったのだろう。劉備は張飛という男を誰よりも理解していたと言える。

それにしても魏延や張飛、馬謖の話をみるにつけ、劉備玄徳という男の人を見る目の確かさがよく分かる。

第9位:杜預(トヨ)

三国志最後の名将。

司馬懿の娘を妻に持つが、父が司馬懿と反目したために長い間官職から遠ざけられていた。司馬懿が亡くなり義理の兄である司馬師、司馬昭兄弟が政権を握ると重用され、司馬炎の時代になると大軍を率いて呉を滅亡させ、長きに渡る三国志時代を終わらせたのがこの杜預である。

この際、「楽毅は済水の一戦で燕を斉に比肩させた。今、兵威は振興し、譬えるなら竹を割くようなものだ」という言葉を遺して一気に呉を攻めたことから現在日本でもよく使われる「破竹の勢い」という故事が生まれた。

杜預は非常に優れた将軍だが、自身は弓を引くことも馬に乗ることもできなかったといい、反面学術には優れ、春秋左氏伝という書物に注をつけた学者としても良く知られていた。

武廟六十四将に選ばれた1人でもあり、優れた将が必ずしも武勇に優れている訳ではない好例である。

第8位:呂蒙(リョモウ)

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三国志全体の中でも最も多くの故事成語を生み出した人物。

若い頃は暴れてばかりで全く勉強しなかったが、主君である孫権にたしなめられて勉強するやまるで別人のように成長し、親友であった魯粛から「もはや呉下の阿蒙に非ず(もうアンポンタンな呂蒙君ではなくなったんだね)」と言われ、それが「男子三日会わざれば刮目してみよ」の語源ともなった。 

成長した呂蒙は孫権陣営にはなくてはならぬ人物となり、黄祖との戦い、赤壁の戦いと軍功を重ね、荊州では曹仁を跳ね返し、合肥の戦いでは孫権の命を救い、濡須口の戦いでは曹操、張遼などの猛攻から国を守った。

そして極めつけは軍神関羽の奮闘を抑えその身柄を確保したことであろう。

演義では関羽に呪われて体中の穴という穴から出血するというとんでもない死に方をするが、実際には関羽をとらえてからすぐに病死をしている。孫権は呂蒙を大変愛しており、その病状に一喜一憂したという。

武廟六十四将に選ばれた1人でもある。

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第7位:呂布(リョフ)

強い奴の代名詞と言ったら呂布である。

馬中の赤兎、人中の呂布と演義では謳われた呂布だが、実際には結構負けている。

最終的に曹操に負けてしまったのは許せるが、李傕みたいな奴に負けるのはどうにもなぁ。

孫堅にも過去に敗北しており、強さという面では演義とは大分差があるのだが、そのトリックスターぶりは演義よりもむしろ正史の方が派手で、演義同様始めは丁原に仕えていたが裏切って董卓に寝返り丁原を殺害、後にその董卓も殺害、李傕に敗北した後は袁術、張楊、袁紹、張邈、張楊と諸侯の間を渡り歩き、夏侯惇の守る濮陽を奪取して独立、劉備と組んで暴れるもその劉備をも裏切って徐州を我が物とし、最終的には曹操に討たれた。

劉備と袁術が争っていた際に100歩の位置から地面に突き刺した檄に矢を当てた話は史実にもあり、馬術と弓術においてはかなりのものがあったのは確かなようで、漢の名将である石虎将軍李広になぞらえて飛将軍と呼ばれもしたが、そもそもこのエピソードに代表されるように何がしたいのかはさっぱりわからない人物であったようだ。

北欧神話におけるロキ、ギリシャ神話におけるヘルメスのような存在で、三国志という物語がここまで面白くなったのは呂布という強烈なトリックスターがいたからであろう。

曹操に捕らわれた際に命乞いをして、そこにいた劉備に「呂布は何をするかわからないからここで殺した方が良い」と言われ「この男が一番信用ならないのだぞ!」と言いながら死んでいったのはいかにも呂布らしい。

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陳寿は呂布に対し以下のように評している。

「虎の強さを持ちながら英略を持たず、軽はずみで狡猾で、裏切りを繰り返し、利益だけが眼中に有った。彼の如き人物が歴史上破滅しなかった例はない」

第6位:張遼(チョウリョウ)

演義でも名将だったが、正史での張遼は化け物と言ってもいいほどの活躍ぶりである。

特に曹操軍と孫権軍の間で起きた合肥の戦いにおいてはまさに鬼神の如し。泣いている子供に「張遼が来る」と言うと子供が泣き止むと言われるほどであったという。

赤壁の戦いで勝利した孫権は勢いに乗って曹操軍の要塞である合肥要塞を攻めた訳だが、孫権軍にとって大変不幸なことに合肥城塞は名将張遼が守っていたのであった。

攻撃は悉く跳ね返され、ついに攻撃に転じた張遼はあっという間に孫権軍の将軍2人を討ち取ると勢いそのまま孫権の姿が見えるところまで突撃してきた。それを見た孫権は必死になって逃げる逃げる。

「臆病者、戦わぬか!」

そう言って追いかけてくる張遼の恐怖たるやなかったであろう。

孫権は部下たちに命じて張遼の周りを取り囲ませたが、張遼はその包囲網をやすやすと突破し、逃げ遅れた部下がいると知っては包囲網に突撃して部下を救いに行っていたというからもはや人外である。

孫権が合肥からの撤退を決めるとこれを追撃、しんがりを守っていた淩統の軍団は全滅し、呂蒙の助けにより孫権はなんとか首がつながったまま国に帰れたという。

曹操からの評価はもちろん曹丕からの評価はとにかく高かったようで、冷酷で知られる曹丕も張遼から直接合肥の戦いの話を聞く時には心が躍ったという。

合肥の戦い以外にも異民族討伐や袁紹軍の残党との戦いでも活躍しており、官途の戦いでは関羽と共に顔良の軍団を打ち破っている。

演義同様史実でも関羽との間に厚い友情があり、まるで兄弟のようであったという。

張遼は三国志全体でも最も多く主君が変わった人物であると言え、最初は丁原、次に董卓、そして呂布を経て曹操に仕えている。それでも張遼は忠義に厚い人物であると言え、成り行きで主君が変わっていっただけであって自らの意思で主君を変えたことは一度もない(主君が死んだ後に新しい主君に仕えている)。

曹操に捕えられた際にも潔い態度で死を受け入れ、そのことがむしろ曹操の歓心を買い、以後は楽進や于禁などの古参と同格の位にまで引き上げられている。

武廟六十四将にも入っているが、実は魏の武将で選ばれたのは張遼だけであり(鄧艾は魏というより晋の将軍)、後世の評価は曹操軍にいたどの将軍よりも高いと言える。

まさに三国志を代表する名将と言えるだろう。

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第5位:曹操(ソウソウ)

乱世の奸雄、治世の能臣

筆を取れば達人級で、詩をはじめ文学の才能があり、屯田制など歴史の教科書にも載るような制度を考案し、良き人材を多数集め魏という国の礎を築いた男は兵を率いても超一流だ。

曹操の一族は元々は前漢の夏侯嬰の子孫であったが没落し、曹操の父は大宦官であった曹騰の養子となったことで勢力を回復させたが、そのせいで曹操は幼い頃から宦官の孫といってイジメられていた。

それでも門閥としてそれほど大きくはなく、袁紹や袁術などの袁家や周瑜の周家、荀彧や荀攸などの荀家とは比較にならないほど勢力は弱かったが、曹操には他の誰にもないほどの才覚があった。

三国時代、あらゆる群雄が割拠したが、生き残った三人には誰も皆人を見抜き、うまく使える器があった。

曹操陣営においては知略の面では荀彧、荀攸、郭嘉などの名軍師が、武略の面では楽進や于禁、後に敵であった徐晃や張遼などを吸収し大軍団を形成し、中華の3分の2を領有するに至る。

袁紹、袁術、呂布、李傕、荊州の劉氏、涼州連合軍、漢中の張魯、異民族を含むなど数多の強敵たちを倒し、そのたびに強力になっていった曹操は、正史三国志における主人公であると言ってよいだろう。

ある意味不運だったのは同時代に劉備と孫権という傑物が生まれてしまったことで、この2人がいなければ曹操のもとに天下は平定され、後の五胡十六国時代は来なかったのかも知れない。

長い中国の歴史でも、英雄の器が3人も同時に誕生したのは後にも先にもこの時代だけである。

その中でも最強を誇った曹操は、まさに三国志を、中国史を代表する英雄である。

第4位:関羽(カンウ)

三国志に出てくる人物の中で唯一神になった男。日本では横浜中華街などで関羽が祀られている。

三国志は関羽がいないと成り立たない。

その活躍はまさに軍神と言って良く、史実においても袁紹軍の名将顔良を討ち取り、曹操陣営で最も出世の速かった于禁を降伏させ、涼州でも名高かった龐徳を捕縛し、劉備玄徳が漢中王となった際には筆頭の前将軍の地位を得ている。

しかし関羽にはプライドが恐ろしく高いという弱点があり、孫権が自分の息子と関羽の娘の縁談を持ち掛けた時には「虎の娘を犬の息子にはやれん」と言って破断にさせ、これがもとで孫権と劉備の仲が悪化、さらには孫権側の物資を強奪したこともあったという。

これによって関羽は北からは曹操軍、東からは孫権軍の挟撃を受けることになってしまい、最後は陸遜、呂蒙のコンビの前に捕虜となり、そのまま天に昇ることになった。

その結果激怒した劉備は孫権陣営に攻め込み、蜀は壊滅的なダメージを受け、その後蜀と呉の関係は永久に戻ることはなかった。

政治的な面では弱点を見せたものの、張飛ともに敵であった程昱から一騎当千の強者として評価され、義兄弟仲良く武廟六十四将に選ばれており、当代、そして後代からもその評価は非常に高い。

まさに三国志最強の武人である。

第3位:陸遜(リクソン)

遅れてきた主役。

江東の名士陸氏の出身で、妻は孫策の娘。

呂蒙と共に関羽を討ち取り、蜀の全軍を率いた劉備を夷陵の戦いにて退け、魏の曹休が攻めて来た際にも石亭の戦いにてこれを撃破し、孫呉の地をまるで守護神のように守ったのであった。

晩年は丞相となるも二宮の変と呼ばれる孫権の後継者争いに巻き込まれて失脚し、失意の内に亡くなってしまう。

後に孫権はそのことを陸遜の子陸抗に泣いて詫びたという。

武廟六十四将にも選ばれている。

演義では赤壁の戦いや合肥の戦いにも参加しているがそのようなことはなく、闞沢が推挙したことになっているが実際には呂蒙が荊州を攻める際に関羽に名前が知られていないため有利であろうということで任用している。まさに名将は名将を見抜くのである。

 また、三国志演義では孔明の仕掛けた石兵八陣によって撤退に追い込まれているが、もちろんそのようなことはない。

第2位:周瑜(シュウユ)

映画「レッドクリフ」の主人公。

三国志演義最大の被害者の1人。

三国志演義だと主役級の1人であるにも関わらずその役割は完全に孔明の引き立て役で、散々振り回されたあげくの果てに「なぜ天は周瑜をこの世に生み落としながら孔明をも生み出したのか!」と言って血を吐いて死ぬというあんまりな最期を迎えてしまう訳だが、実際の周瑜は武廟六十四将にも選ばれるほどの名将で、その実力は三国志随一と言っても良いほどである。

周瑜の家は元々かなりの名門で、袁紹や袁術の袁家一門とも権勢としては劣らぬほど。後漢の三代皇帝章帝の時代には袁家の開祖とも言われる袁安の推挙で周家の開祖ともいえる周栄が出仕したほどつながりが厚く、その縁で袁術と同盟を結んでいた孫堅の一族を一緒に住まわせていたほどである。

袁家同様最高位である三公を多く輩出した家柄で、孫策が飛躍したのも周瑜の一族の力があったからだと言っても過言ではないであろう。

実は袁術からも出仕の話が来ていたが、周瑜は袁術が暗愚であったのを知っていたのでこれを断っている。当時の情勢を考えれば、袁術の軍勢は孫策の十倍以上はあったが、周瑜は孫策及びその弟の孫権を選んだ分けである。

この辺りは同じく超名門出身の荀彧が袁紹の器を知って曹操に仕えたのとよく似ているかも知れない。良禽は木を択んで棲むというが、周瑜や荀彧はこれを実際に実践していると言える。

孫権陣営は内政は張昭、外のことは周瑜が、まるで両輪のようにうまく噛み合いその勢力を拡大させてきたが、袁紹を破り中原の敗者となった曹操が献帝の名で孫権に臣従を求めてきた。

この際張昭はこれを受けるべきだと言い、周瑜はこれに断固反対した。漢の名門貴族であった周瑜としては漢王朝を亡き者にしようとする曹操の存在は許せなかったのかも知れない。この辺りも後に曹操と反目する荀彧と似ている。

演義ではここで魯粛が孔明を呼んでくるわけだが、正史では赤壁の戦いはほとんど孫権陣営が単独で曹操を追い返したようで、演技での赤壁の戦いは諸葛孔明を活躍させるための羅漢中演出がさく裂した結果となっていたようだ。

演義同様、大軍をもって攻めて来た曹操を赤壁の戦いで火攻めにし、孫権軍は曹操軍相手に大勝利を飾る。

周瑜はそのままの勢いで曹操が領有していた荊州に攻め込み、曹仁と徐晃をうまく分断して江陵の奪取に成功。

周瑜はそのまま益州に攻め込み涼州の馬超と結んで曹操を攻める「天下二分の計」を孫権に進言したが、その後すぐに死んでしまい、結局益州は劉備のものとなってしまう。

享年36歳。周瑜がもう少し長生きをしていたら中国の歴史は大きく変わったのかも知れない。

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第1位:司馬懿(シバイ)

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この1位に納得できなかったりあるいはガッカリする人も多いかも知れない。

趙雲が好き、諸葛孔明が好き、関羽が好きという人がほとんどであろう。あるいは周瑜が好き、曹操が好き、陸遜が好き!という人も多いかも知れない。

だが、司馬懿が好きという人はどれだけいるだろうか?

ほとんどいないであろう。

だが、何度考えても、どう考えても、三国志最強は司馬懿仲達その人である。

司馬懿はまず純粋な戦闘において最強であった。

三国志の登場人物は皆、勝ったり負けたりを繰り返し、勝率100%という人物はほとんど存在していない。

しかし司馬懿の勝率は100%に近い。

唯一勝てなかった戦いと言えるのは諸葛亮孔明の第四次北伐戦の際に名将張郃に諸葛孔明の軍を追撃させた際孔明の罠にはまり張郃を失ってしまった戦いのみで、これとて敗戦とは言えず、戦そのものは司馬懿が勝ち、孔明は逃げていく際中での出来事であった。

演義での司馬懿は諸葛孔明のライヴァルという部分を強調しているためか「軍師」のイメージが強いが、司馬懿の役職を見てみると録尚書事・撫軍大将軍・仮節・驃騎将軍・太傅と推移しており、文官というよりも将軍職の色が非常に強い。

とはいえ実際に曹操に進言もしており、曹操が漢中を手に入れた際に蜀の地を征服するように司馬懿は進言したが、曹操は「蜀を望まない」と言ってこれを退けた。

これは曹操が光武帝の故事に従って蜀を攻めなかった訳であり、ここでもし司馬懿の言う通りに実行していたら三国時代は存在せず、魏の統一が実現できていたかも知れない。

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さらに関羽が荊州を攻めた時に狼狽する曹操に孫権との挟撃を進言したのも司馬懿であり、これが実現され関羽は死亡、さらに劉備と孫権を対立させることにも成功している。

司馬懿は軍師としても超一流である。

演義においては孔明の活躍を強調するためかしばしばやられ役になっているが、実際に司馬懿が孔明と対決したのは第四次北伐からで、例えば演義で強調されるような街亭の戦いでの司馬懿の敗北などは実際にはない。

第四次北伐においては局所的に孔明に敗れていたりするものの、司馬懿の戦略は始めから持久戦であり、やがて孔明の軍は撤退をするだろうと見抜いており、実際その通りになったため、総合で言えば勝ちであると判断してよいだろう。司馬懿の目的はあくまで攻めて来た蜀の軍を追い返すことなのだ。

孔明の第5次北伐においても孔明の体調悪化を確信しており、その見立て通り実際に孔明は死に、蜀は撤退した。

結論から言えばこの時司馬懿が追撃を行っていれば蜀は壊滅していたのだが、司馬懿は張郃を失ったトラウマによって孔明の罠を警戒し追撃をしなかったので、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という故事成語が生まれた訳である。

演義だとこれが孔明の人形に司馬懿がビビりまくって逃げるという話になっているので司馬懿が少し可哀そうな気もするが…

司馬懿はこのように派手な会戦で雌雄を決するタイプではなく、相手の兵站などを見抜き総合的に勝つという戦法が得意であったため、非常に強いが強いイメージもなく人気もない。これはちょうど戦国の覇者豊臣秀吉に人気がないのと似ている。秀吉も会戦はあまり好まず地域の兵糧を買い占めたり水計を使ったりと搦手で勝利することが多かったため戦に強いイメージがないが実際にはとてつもなく強い。

それはさておき、司馬懿がこのような戦い方をせざるを得なかったのは相手が諸葛亮孔明という中華史上稀に見る逸材だったためで、それ以外にはまるで赤子の手をひねるように圧勝している。

孔明より前に孔明の兄の諸葛瑾と張覇という人物が攻めて来た時もあっさりこれを撃退しているし、孟達という人物が孔明の策によって蜀に寝返った際も通常の倍ほどの進軍速度でもって討伐に乗り出しこれをすみやかに鎮圧している。

後に孔明の後継者である馬岱が攻めて来た時もまるでものともせず、チベット系氐の王族苻双をも屈服させている。

司馬懿の強さは会戦に拠る物以上に全体の情勢を見て大事になる前に厄災は潰すという感じで、まさに孫氏の兵法書の「風林火山」のような戦い方である。

晩年では遼東の公孫氏が暴れまわった際にもこれをあっさりと鎮圧し、京観を建てている。公孫氏は恐らくは遼東地方から朝鮮を支配していた一族と見られていて、後に煬帝や李世民などが朝鮮出兵に失敗したことを考えると司馬懿の強さのほどが浮き彫りになってくる。

このように純粋に戦闘に強く軍師として優秀な司馬懿であったが、司馬懿の本当の強さはその政治力にある。

当初から曹操にその才を警戒されていた司馬懿であったが、晩年、曹丕、曹叡と続けて皇帝が崩御するにあたって魏の宮廷から司馬懿はこれ以上ないほど警戒されており、特に曹叡亡き後は司馬懿を亡き者にしようという動きが強まってきた。

司馬懿はこれに対しボケたふりをして相手を油断させるという作戦に出る。魏の宮廷は司馬懿にスパイを送って監視していたのだが、司馬懿はわざとボケたフリをし続け、食事の際は口から食べたものをダラダラとこぼしていたほどの徹底ぶりであったという。

そして警戒が解けた瞬間に電光石火の如く曹家の王族や重鎮を制圧、あっという間に魏という国を掌握してしまった。

その後魏という国は息子達によって滅ぼされて晋となり、晋の皇帝となった司馬懿の孫の司馬炎によって280年三国志は終わりを迎える。

しかし晋という国は司馬懿の子孫達が相争う八王の乱が引き起こされ衰退、国は匈奴族の劉淵に乗っ取られ、五胡十六国時代へと突入していくのであった。

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司馬懿の子孫はそれでも江南に逃げ延び、東晋を建国、劉裕に滅ぼされるまで皇帝の地位にあり続けた。

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司馬懿は全く人気がないが、「三国志」という枠組みにおいて圧倒的な勝者であり、最強の人物だったと言うべきであろう。

軍事、知力、政治、どの面をとっても三国志最強は司馬懿なのである。

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強い者が勝ち、勝ったものが強い。

司馬懿仲達はそんな乱世を象徴する人物であろう。

ランキングを終えて

気が付けば70000字を越えてしまった。

これは流石にこのブログでも最長で、さすがに作るのに疲れたが、三国志が好きすぎるので決して苦痛ではなかった。

さて、こうやって改めて正史と演義を比べてみると、演義では活躍したけれども正史では活躍していないし、逆の人物もいる。

前者の代表は特に蜀に多くて、張苞、関興なんかは正史のランキングには載っていない。実は張苞は張飛よりも前に死んでいて、関興も期待されながらも20代前半で亡くなっているので正史での活躍は残念ながら全くない。

また、許褚や典韋も曹操の純粋な親衛隊でありその命を何度も救っているが将軍として軍を率いている訳ではないので除外した。正史での許褚は突撃してくる馬超を止めたり馬超が会議の場で曹操を殺そうとするのを防いだりむしろ史実の方が活躍しているのだが、今回は指揮官ランキングでもあるので正史の方では除外しておいた。

後は演義だとどうしても3国鼎立する前の世代の評価が高くなってしまうのだが、正史では陸抗や羊祜、鄧艾と言った後の世代の評価も非常に高く、その辺りも両者のランキングに違いが出る結果となった。

俺は基本的に三国志演義のファンなのだが、同時に世界史好きでもあるのでできるだけ正史に基づいてランキングを作ったのだが、それでも演義に大分引っ張られた面はある。

そして今回ランキングを作ってみて羅漢中という男の凄さが改めてわかった。

中国を代表する文学者魯迅などは羅漢中は事実を変えすぎと言っており、あまりにも変えすぎなのであるが、三国志演義がむしろ正史を飲み込むぐらいで定着していることからもその物語性、演出、脚本などの才能はすさまじく、古今東西いかなる人物もここまで歴史を面白くは書けないであろう。

歴史を記録した人物という意味では我が国を代表する歴史作家司馬遼太郎が我司馬遷には及ばずと言った通り史記を書いた司馬遷が最高だが、物語という意味では羅漢中の才能は世界史上最高であろう。

俺も色々読んできたと思うけれど、未だに三国志演義以上の話には巡り得会えていない。

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どうしたらこんなにすごい物語が書けるんだろうな。

という訳で非常に長くなってしまったが読んでくれてありがとう。俺としても折角書いたものを読んで欲しいという気持ちが結構、かなりあるのでもしよかったら何らかの形でこの記事を拡散してくれると嬉しい。

今回の記事が好評なら次は「中国の英雄ランキングベスト100」を作りたいと思っている。

でも何万字もある記事をほとんど無償で作るのも結構しんどいので、モチベーションをオラに分けてくれると嬉しい。

てな訳で改めて、三国志は人類が生み出した最高の物語であり、これからの世にも語り継がれる歴史であろう。

三国志およびそこに出てくる英雄たちに愛をこめて。