江東の小覇王!孫策伯符の快進撃

女性に人気の三国志のキャラクター部門があったら周瑜と並んでトップ争いをするだろう人物が呉の初代皇帝である孫権の兄である孫策であろう。

歴史書に容姿端麗と書かれたイケメンで、同じくイケメンの周瑜こと美周郎と義兄弟で、共に大喬・小喬という美人姉妹を妻とし、共に若死にしている点も人気の秘訣と言えそうだ。

もちろん、その派手な生きざまは男性にも人気がある。

三国志の中でも特に勇猛な君主である孫策伯符の生涯について見て行こう。

雌伏の時

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孫策の父孫堅は、若いころは海賊退治、黄巾賊の討伐、董卓軍との戦いなどで名を上げた名将で、伝説的な兵法家孫子の血を引くと言われるその武勇は三国志の中でもトップクラスであった。

兎に角血の気の多い人物で、たった一人で海賊船に乗り込んで20人はいたと言われる海賊を斬っては捨て斬っては捨て、まるで時代劇さながらの活躍を見せた一方で、その勇猛さが仇となって劉表との戦いにおいて、黄祖の放った矢傷がもとでこの世を去ってしまう。

そのころ長男の孫策は家族と共に周家に居候しており、父の部下や兵たちは一時的に袁家の有力者袁術の預かりとなっていた。

孫策に残されたのは年端もいかない弟達と玉璽だけとなる。

父である孫堅は反董卓連合に参加した際焦土となった洛陽の井戸の中から始皇帝が作った皇帝の証、伝国の玉璽を拾っていた。

「私に何かあったらこれを使って兵を集めろ」

それが父と交わした最後の言葉となった。

孫策伯符、その時19歳。

寄る辺の無くなった孫策は袁術のもとを訪ね、父の兵を返してもらえるよう頼んだが、袁術は一向に取り合わない。

袁術は極少数の兵士だけを孫策に貸し、敵対勢力を征伐させることにする。父の臣下たちを人質にとられた形の孫策はこれに従い、袁術の政敵たちを次々に撃破していく。

どれだけ敵を倒しても、袁術は父の部下たちを返してくれる気配がない。しびれを切らした孫策は、伝国の玉璽と引き換えに父の部下を返してくれるように頼みこむ。

玉璽を見た瞬間に袁術の目が変わり、取りつかれたようにそれを求め始め、ようやく父の部下たちを返してもらうことが出来た。

一方の袁術は玉璽を得たことで自らを皇帝と称し、国号を成とし、宮殿を建て豪奢な生活をし始めた。国は乱れ、人心は離れ、やがて袁術は曹操に滅ぼされることになる。

朱治、黄蓋、韓当、程普、そして父の率いていた1000の兵を得た孫策の進撃が開始したのであった。

雄飛の時

孫策の旗揚げを聞いて、勇士達が続々と集まってきた。義兄弟でもあり、周家の当主でもある周瑜を始め、張紘、張昭と言った名士たち、孫策の武勇を聞いた元河族の蒋欽、周泰、陳武、凌操と言った無頼の者たち、兵は少なかったが精強な軍は周りの勢力を吸収しつつやがて強大な軍へと変わっていった。

特に周瑜のもつ人脈は強力で、陸家や魯家などの経済援助を取り付け、強力なシンパを次々に獲得していった。中でも魯家の当主魯粛は蔵2つをまるごと援助してくれたほどで、これをもとに兵力の増強が可能になった。

独立当初1000人だった兵力は5000に増えた。孫策は江東に覇を唱えるべく、江東の首都建業を有する豪族劉繇を攻めることにする。

孫策は様子見とばかりに劉繇の陣営の敵情視察に単身赴き、そして突然無頼漢に襲われる。太史慈と名乗るその男は大変に強く、いくら打ち合っても決着がつかない。気が付けばお互いの檄は折れ、素手での殴り合いに発展。孫策を心配した黄蓋などがやってくると勝負は後日と太史慈は退散、拳で語り合ったこの男を、孫策は大変気に入った。

張英や笮融と言った将軍たちを次々に撃破していく孫策の勢いを見て、劉繇はビビッて逃げ出してしまった。その部下を率いた将軍を見て孫策は驚いた。以前に素手で殴りあった太史慈ではないか。戦場で見えた二人はハッハと笑い、お互いに固い握手をした。

小覇王の進撃

その圧倒的な強さはまるで覇王項羽のようだ。

誰が言ったか知らないが、孫策はいつしか小覇王の名前で呼ばれるようになっていた。

戦乱の世にあって、優秀な君主を求める武将や名士たちが孫策のもとに集まるようになっていった。後に呉の大都督となる呂蒙や陸遜の叔父の陸績などもこの時配下に加わっている。

劉繇の軍勢を併呑した孫策は、王朗や厳白虎、許貢などの豪族たちを次々に撃破し、江東を平定、気が付けば江東の虎と言われた父孫堅の勢力範囲を超えていた。

その勢いは中原にも届き、特にこれから袁紹との戦いに臨む曹操の陣営には大きな混乱をもたらした。江東を征した孫策が許昌(曹操の当時の拠点)に攻め入れば二面戦争を強いられ、確実に滅亡する。

慌てふためく曹操陣営に向かって、軍師である郭嘉が言う。

「所詮孫策は匹夫の勇、江東を制圧するのに圧制を以てなしたので恨みを買っており、つまらぬ者の手にかかって命を落とすことでしょう」

郭嘉が言うならば、曹操陣営はこの一言で落ち着きを取り戻し、袁紹との戦いにも勝利し、中原の覇権を握ることとなった。

旗揚げから江東を平定するまでにかかった期間はわずか5年。あまりにも驚異的なスピードであったが、その分無理が出た。

撃破した豪族の一人である許貢の食客であった名もなき人物の放った矢が当たり、それが元で孫策は無くなってしまう。わずか26歳でのことだった。

孫策は死ぬ間際、弟の孫権を読んで言った。

「お前は武勇で言えば群雄たちを制圧する力はない。だが、賢者たちをまとめて国を守っていく力は俺よりはるかに上だ。国外のことは周瑜に、国内のことは張昭の言うことをよく聞いて国を治めるように。自信を持て、お前は俺より良い君主になれる」

正史での孫策

孫策に関しては演義でも正史でもそこまで大きな違いはない。

大きく違うのはその最期で、正史では許貢の食客に襲われた時の傷がもとで亡くなるが、演義だと于吉という仙人に憑りつかれて死ぬことになっている。

于吉という仙人が民衆の人気者になっていたのをねたみ、これを殺してしまった孫策が祟られて死ぬということになっているが、あまりにもオカルトじみているので個人的にはなかったことにした。演義だと曹操や呂蒙が関羽に祟られて死んでいる設定なのだが、これも今日では関羽はそんなことしない!ということでなかったことになっている。

演技と正史の違うところは、演義の孫策には孫賁という人物も含まれていて、正史では孫堅から軍勢を最初に引き継いだのは孫堅の甥であった孫賁という人物であったのだが、演義では最初からいなかったものとなっている。彼は袁術に仕え、孫策もそれを頼って袁術の配下となっていた。

さらに孫堅の妻で孫策たちの母親である呉氏の兄呉景という人物が孫策の旗揚げ当初のサポートをしていたのだが、この人物も演義ではいなかったことになっている。

後は孫堅が玉璽を洛陽で発見したというのは演義の創作であり、実際には袁術は玉璽を手にしていない。それなのに自ら皇帝を僭称したのは本当で、なんでそんなことをしたのかはよくわからない…

ちなみに周瑜の生家である周家は漢の名門で、孫家よりも遥かによい家柄で、袁紹や袁術などの袁家とも密接な関係があり、漢の和帝の時代、袁家の当主であった袁安が司徒になった時、周瑜の祖先の周栄はその腹心として活躍していた。

孫策の軍が伸長したのは周家のネットワークがあったからだというのもあり、孫策および孫権のもとには名士たちが揃うことになる。

孫策は豪胆で戦が強かったが、このように人材登用の面でも優れており、出自にはとらわれずに、元河賊であった周泰や凌操と言った軍事面で優秀な人材も採用している。

たった一代で後の六朝の基礎を築いて江東に一代勢力を築いたその手腕はまさに英傑と呼ぶにふさわしいであろう。

ただ一方で郭嘉のいうように軽率であり、最後は不用意に外出したことを狙われてしまった。

演義で一番創作っぽい太史慈との一騎打ちだが、なんと史実である。

演義では頻繁に起こる一騎打ちだが、三国志の中で確認できるのはこの孫策と太史慈の戦いだけであり、君主自ら一騎打ちに臨むというのは前代未聞で、長い中国の歴史、いや、世界の歴史においてこの孫策だけである。

その事実を鑑みて、孫策のランキングを大分上にしておいた。

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孫策が最後に言った通り、君主としてはやはり孫権の方が優れていて、領土を拡大しただけでなく、父の仇である黄祖の打倒を果たし、兄の代以上に優秀な人材を配下に加えることに成功している。

魯粛や陸遜、甘寧と言った人材は孫権時代に配下になっており、江東一の富豪であった魯粛に関して孫策時代ではなく孫権時代に配下に加わっていることは興味深い。孫権のことを使えるに相応しい君主と認めていたということであろう。