三国志において最後に笑った男!司馬懿仲達

もし三国志不人気投票を行ったら多分司馬懿はトップになるだろう。

あれだけの英傑達がしのぎを削って戦ったのに、最終的に笑ったのは司馬懿であったからだ。しかもそのやり口は陰険極まりないと言って良く、中国の歴代歴史家からもすこぶる評判が悪い。

しかし、もし三国志全体で一番優秀な人物は?と聞かれたら、司馬懿はその筆頭に挙げられるだろう。

 司馬の八達

司馬懿は三国志に出てくる人物の中でもトップクラスの名門出身で、祖先を遡れば楚漢戦争の際に活躍した司馬卬の子孫にあたり、その源流は春秋戦国時代の趙の国に求められるほど歴史が古い。

司馬懿の父親である司馬防は後漢の首都洛陽の知事を務めた人物で、若き日の曹操を洛陽北部尉(警察署長)に推薦した人物でもある。

司馬防には少なくとも8人の子供がおり、その子たちは皆字に「達」の文字があったことから「司馬の八達」とも呼ばれ、中でも次男の司馬懿仲達の評判はピカ一であった。

そんな司馬懿を曹操に推薦したのは三国時代最高の名士とも名高い荀彧で、ちょうど曹操が官途の戦いで袁紹を破った頃であったという。

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しかし司馬懿は曹操のことを好きではなかったようで、仮病を使って出仕の要請を断っている。この際、疑り深い曹操は人をやって司馬懿の様子を見させたが、司馬懿が寝ていたので病気であると曹操に報告したことは有名だが、この際、司馬懿が元気な姿を見てしまった女中を司馬懿の妻である張春華が口封じのために殺してしまったのは有名である。

やはり司馬懿の妻、ただものではない。

とはいえ人材コレクターの名で後代知られるようになる曹操である。司馬懿ほどの人物を諦めるわけがない。

208年、自身が漢の丞相になると再び司馬懿を召し出し、今度は司馬懿もこれに応じている。

司馬懿は曹操のもとで順調に出世し、特に曹操の長男の曹丕とは大変にウマがあったようで、その交流は生涯にわたり続いた。

死せる孔明生ける仲達を走らす

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とはいえ曹操が生きている時はそれほど目立った活躍をしたわけではなかった。

曹操が漢中を手に入れた際にそのままの勢いで蜀の地を得た劉備を攻めるべきと進言したものの曹操に「隴を得て蜀を望むことはしない」と言われてしまう。

ちなみにこの問答は曹操が光武帝の「望蜀」の故事に倣ったものであろうと思われる。

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司馬懿にとって幸いであったのは懇意にしていた曹丕が曹操の跡を継いだことであろう。曹操も他の群雄同様後継者争いを起こしかけたが、賈詡などの進言もあり長男の曹丕が魏を継いだ。

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曹丕は曹操が死ぬと9か月後に漢王朝の献帝から禅譲の形で魏を建国、初代皇帝に就任する。

王朝が変わる際は武力による放伐ではなく平和的に王位や帝位を以上することを禅譲と言い、孔子によって理想化されていた。

漢は特に武帝などの時代に儒教は官学ともなっていたので、曹丕はそれに倣って禅譲を行った訳だが、それは形だけで誰がどう見ても簒奪であった。

結果を見れば魏も同様の形で簒奪される訳であり、そういう意味では因果応報と言えるかも知れない。

皇帝になった曹丕は司馬懿を重用した。

「私と憂いを分かち合って欲しい」

曹丕はそう言って自ら呉に親政した際には司馬懿に留守を預け、司馬懿もまたその役割を見事に遂行した。

しかし曹操の死からわずか6年後の226年に曹丕は病死をしてしまう。

死の床についた曹丕は曹真、陳羣、曹休、そして司馬懿の四人に後事を託しそれほど長くない生を終えた。

曹真と曹休は文字通り曹丕の親戚であり、陳羣は歴史の教科書にも載っている九品官人制の考案者、そして司馬懿という非情にバランスの取れた補佐役を得て、曹丕の長男である曹叡が魏の二代目皇帝となる。

そしてその隙をつくように南から攻めあがってくる者がいた。

ご存知諸葛亮孔明である。孔明の北伐にかける執念はすさまじく、歴史に残る明文「出師の表」を奉じて魏討伐の意思を露わにして来た。

孔明は当初孟達をして魏をけん制する作戦を実行していた。

この孟達という男は裏切りの代名詞的な存在で、かつて関羽が危機に瀕した際に援軍を送らなかった上に曹操に寝返ってしまった人物で、蜀にとっては不倶戴天の敵であるが、孔明はこの孟達を蜀に帰属させる案を思いつく。

孟達は三国志一薄っぺらい人物ともいえ、孔明の呼びかけにあっさりのってしまう。

これを見抜いた司馬懿は神速とも思える速さで孟達の許へ進軍し、あっさりこれを惨殺。記録によれば520kmの距離をわずか8日で行軍したという。

これによって孔明は二拠点同時に魏を攻めるという作戦を断念せざるを得なかった。

孔明は実はこれまでにも何度も北伐に臨んでいたのだが、司馬懿と諸葛亮が直接対峙したのは四度目の北伐でのことだった。

孔明の北伐は一進一退と言え、最初は曹真を相手に有利に進めていたものの孔明の懐刀ともいえる馬謖が失策をし失敗。その後もさしたる戦果はなく230年に最後の大攻勢に出た訳である。

それまで対蜀司令官の任にあった曹真が死亡し、司馬懿が漢中方面総司令官に任命。ちなみに曹休も呉の陸遜に負けたショックで亡くなっており、司馬懿は魏の実質的な軍事をこの時点で握ったと言える。

司馬懿にとって後邪魔なのは孔明だけであった。

歴史上でも稀な天才同士の対決は、当初諸葛亮孔明に軍配が上がっていた。

司馬懿は蜀の食糧不足を見抜き持久戦を選んだ。その見立ては正しく蜀の軍は撤退を始めたが、司馬懿はこれを追撃、これを読んでいた孔明の策にかかり歴戦の名将張郃を失ってしまう。

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司馬懿の人生にとってこのことは唯一の汚点になったともいえる。

そして三年が経ち、孔明は再び北伐を開始した。

234年、蜀の全軍ともいえる10万の兵をもって五丈原に陣を構える孔明を迎え撃つのは当然のように天才軍師司馬懿であった。

三国志に出てきた英雄たちのほとんどがこの時既に亡くなっており、魏においても孔明に渡りあえる人物は司馬懿だけであっただろう。

孔明は今度は陣内に屯田を敷き持久戦の構えを取る。

余談だが、戦地で兵士に農業をさせる屯田制を考案したのは曹操である。曹操軍が強かった秘密はそのような持久力の高さにあったともいえる。

しかし孔明は焦っていた。焦って司馬懿に女物の服を送って挑発などをしたが、司馬懿は孫氏の兵法書よろしく山のように動かなかった。

孔明は自分の死期を知っていたように思う。

直接的な会戦を行わないまま、蜀は撤退していった。

司馬懿もまた孔明の死期を知っていたのだろう。孔明からの使者に様子を聞くと「孔明は朝早くから夜遅くまで仕事をし、食事は少々、刑罰は自分で全て行います」と言った。単純に過労である。

余談だが過労よりも人の死期を早める要因はない。手塚治虫や藤子不二雄も早死にであった。

とはいえ前回の失策を踏まえて司馬懿は深追いはしなかった。孔明が何か策を残しているに違いないと考えたからだ。

「死せる孔明生ける仲達を走らす」

三国演義では孔明が自分の像を作らせておき、それを見た司馬懿が慌てて逃げ出すシーンがある。

実際にはそのようなことはなかったが、蜀が引き上げた後の陣の様子を見て、司馬懿は「天下の奇才である」と孔明のことを評した。

抜群の才能を持った孔明であったが、敵に司馬懿のような傑物がいたのは運が悪かったとしか言いようがない。

遼東征伐

後に日露戦争の原因となった遼東地方だが、この頃は公孫氏が支配する地域であった。公孫氏はこの頃の中国北東部から朝鮮半島までに勢力をもった一族で、魏に恭順を示していたが、237年、呉と共謀して遼東の地で反乱を起こした。

蜀と戦った五丈原と遼東はいわば当時の中国の西の果てと東の果てだが、この頃には陳羣も亡くなっており、司馬懿は三公の一つである軍事責任者太尉になっており、もはや他に人材もいなかったのであろう、司馬懿が行くことになった。

実は最初は毌丘倹(かんきゅうけん)という人物が征伐に向かったのだが河の氾濫などもあり失敗、公孫氏の公孫淵は自ら燕王を名乗り独自の王朝を築き始めたのだ。

当然のごとく公孫淵は司馬懿の敵ではなかった。

わずか一年という短期間でこの反乱を鎮め、公孫氏は皆殺し、その本拠地である襄平にいた15歳以上の男性を皆殺しにしその死体で山を築いたという。そこには慈悲などはなく、ただ冷徹な職務の遂行だけがあった。

それにしても後の世の煬帝や李世民ですら朝鮮遠征に失敗しているのに、わずか一年で制圧してしまうあたり司馬懿の軍才には恐るべきものがある。あるいは孔明との戦いの中で飛躍的に力が伸びたのかも知れない。

曹叡の死と二通の詔書

 

公孫氏の反乱を鎮圧した司馬懿のもとに、二通の詔が届いた

一通はそのまま長安に直行するように書いてある。もう一通は洛陽に直ちに来るように書いてある。司馬懿は急ぎ洛陽に行くと曹叡が今にも死にそうになっていた。

実はこの時曹叡の後継者を誰にするのかという後継者争いが起っており、一通目と二通目はそれぞれの派閥の主が司馬懿に宛てた手紙なのであった。

司馬懿が洛陽に着いた頃には後継者争いはひと段落しており、曹叡の後はわずか8歳の曹芳が、その補佐は大将軍に任じられた曹爽(曹真の子)が行うこととなった。

そしてその死の床において曹叡は「曹爽と共にこの子を頼む」と言い、司馬懿は「陛下は先帝が陛下のことを私にお頼みになったのをご覧になられたではありませんか」と言い、曹叡を安心させた。

しかし結果は皆さんのご存知の通りである。

司馬懿のクーデター

司馬懿がどの時点で帝位の乗っ取りを考えていたかは定かではない。少なくとも曹叡が存命中はそのようなことは考えていなかったのではないかと思う。

二通の詔が示すように、司馬懿がいない間に新体制が築かれようとしていたのは確かであり、そういう意味で自らの身が危ないということを司馬懿はよく分かっていた。

また、曹芳は曹叡の子供ではないと言われている。曹一族の誰かの子であることは確かなのだが、誰の子供か分かっていない。当時から分かっていなかったのか、それとも散逸したか、あるいは司馬一族によって闇に葬られたか。

司馬懿とて曹丕とその子供曹叡には愛情をもっていたのだろう。

しかし曹芳に同じ思いを抱いていたかどうかは別である。

司馬懿は曹叡が亡くなると名誉職である太傅と言われる地位についた。これは最高職ではあるものの実権の内職で、大将軍曹爽の差し金であったと言われる。

それでも軍事的な力を持つ司馬懿は呉に向けて進軍し、それに対抗しようと思ったのか、あるいは父曹真の志を継ごうと思ったのか、曹爽は蜀に向けて大軍を率いて遠征に向かい、そして散々に打ち破られて被害をだした。

そこに何を感じたのか、司馬懿は247年以降は病気を理由に家に引きこもるようになる。

曹操の時同様曹爽は人をやって司馬懿を見に行かせるのだが、司馬懿は本当に病気だった。なにせ既に71歳。司馬懿はボケてしまい、お粥を食べようとしてもダラダラとこぼしてしまう始末。

安心した曹爽は司馬懿に対する警戒を解いた。

249年、司馬懿は一瞬のすきをついて留守の隙を狙って曹爽の専横を弾劾する上奏文を曹叡の皇后である郭太后に提出、洛陽を占領してしまう。そして曹爽のもとには使者を派遣し免官だけで許すので帰還するように説得。

曹爽が洛陽に戻ると曹爽一派を残らず逮捕し、その3族までも全員死刑にしてしまった。

このクーデターより二年後の251年、司馬懿は73歳でこの世を去った。

司馬懿の後は息子の司馬師や司馬昭が継ぎ、その孫の司馬炎の時代に呉を滅ぼし中華は再び一つになった。

しかし因果応報ともいうべきか、司馬炎の建てた晋の国も一族同士の争いである八王の乱や匈奴族の起こした永嘉の乱を経て数十年で崩壊、江南に逃げおおせた司馬一族が東晋を建てるも5世紀には劉裕の建国した劉宋にとって代わられ、司馬懿一族の王朝は影も形もなくなってしまうのであった。

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個人的な司馬懿仲達の評価

互いにライバル同士とも言える諸葛亮孔明と司馬懿仲達の生き方は、まるで作り話なんじゃないかと思うぐらいに対照的である。

最後まで主家の劉氏を裏切らなかった孔明と最後の最期に裏切った司馬懿。天下を取ることの出来なかった孔明と実質的に天下を取った司馬懿。

誰からも愛された孔明と人々から忌み嫌われた司馬懿。

司馬懿をはじめ、司馬一族の簒奪劇はあまりにも陰惨であった。

東晋の二代目皇帝である明帝が、司馬懿の簒奪の話を聞いた瞬間に「あぁ、どうして我が国が永らえることがあろうか」と嘆いた話が伝わっている。明帝は晋王朝を通じて唯一と言っても良い名君であったが、それゆえに苦悩も一入だったことであろう。

三国志ファンはもちろん後代の歴史家の評判はすこぶる悪く、吉田松陰は曹操と司馬懿を並べて「姦雄」としており、罪であり恥であるとしている。

ちなみに、司馬懿自体は軍師としてのイメージが強いが、実際に自分で軍を率いており、さらには宰相の地位に就いた事は一度もない。

荀彧や荀攸は軍隊を率いないし、諸葛亮は軍を率いたが丞相という宰相職についている。司馬懿に関しては太尉の地位が表しているように文官ではなく武官とした方がよく、つまり関羽や周瑜などと同じ括りになるかと思われる。

それでも曹操の生存中は軍師らしく進言もしているので、司馬懿はあらゆる意味で特質的だと言えるかも知れない。

さて、そんな司馬懿であるが、そういったことが器用にできるほどの優秀な能力の持ち主であったと言ってよいだろう。

軍師としては荀彧に匹敵し、将軍としては関羽よりも優秀だと言える。

クーデターの際に見られるように、好機が到来するまでひたすら待つことが出来、チャンスが来たら一気にことを行う。孫氏の兵法書における風林火山を体現したような戦法であり、殊戦闘に関しては見事と言う他ない。

その能力は中国の歴史の中でもトップクラスであるが、それでも司馬懿にはある種最も重要な要素が抜けていた。

それは「徳」である。

儒教社会であるにせよないにせよ、どの世界でもおおよそ簒奪や裏切りは嫌われる。海外だってカエサルを暗殺したブルータスやイエスを売ったユダは嫌われているように、信義を全うできなければ人の信頼は勝ちえない。

勝てば官軍なのかどうか。歴史の裁きをどう考えるか。

歴史は司馬懿を評価しない。如何に司馬懿が優秀であっても、簒奪者という歴史の評価からは逃れられないのだ。

しかし人間とは不思議なもので、死後の評判さえ気にして生きていく生き物である。司馬懿は果たして自分が死んだ後のことは考えたのであろうか?

クーデターは自分の欲だったのか子孫の繁栄を願って行ったことだったのか?様々な点で興味の尽きない人物である。